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すっかりと日が落ちて、気づけば辺りはオレンジ色の夕焼け空になっていた。
夏は長い時間明るいおかげで、外は未だ活発に蝉の鳴き声が鳴り響いている。
「遅くまで居座っちゃってごめんね」
「ううん。来てくれて、嬉しかった」
私が『玲奈』じゃないと知りながら、こうして『私』に会いに来てくれたことが嬉しかった。
例えそれが玲奈と私についてのことを聞きに来たのだとしても、あの日から謝罪すらできずに縁が切れてしまうことが一番怖かった。
だからこうして、みのりだけにでも本当のことが伝えられてよかったと思っている。
みのりも私も最後はずっと泣きっぱなしで、二人とも目が赤く腫れている。
これで彼女に会えるのは最後になるのだろうか。胸を締め付けられるような寂しさに、ギュッと心臓を掴まれる。
そんな思いを必死でかき消しながら、最後の見送りをしようと近くまで二人並んで歩いていた。
「あ、そうだあのね──」
何かを思い出したかのように、みのりが私のほうを向いて言葉を紡いだそのとき。
「……みのり?」
遠くのほうから聞こえた声。
それは今、私がずっと会いたいと思っていた人で、そして今は一番会いたくない人だった。
「(……和佳っ)」
和佳はみのりの次に私を目で捉えた瞬間、ものすごい剣幕でこちらへやってくる。
「あれ、和佳?」
「みのり、あんた学校サボってなんでコイツと一緒にいんの!?」
みのりの腕を力強く引いて、私から引き離しながら声を荒げた。玲奈じゃない私を見る和佳の目つきは、とても冷たくて怖かった。
けれど、これが本来私に向けられるべきものだった。和佳の親友である玲奈のフリを一年以上してきた私が受けるべき視線そのものだった。
「ちょっと落ち着いてよ和佳!声が大きいよ!なんで和佳がここにいるの?」
「玲奈のこと、まだちゃんと説明されてないから問いただしてやろうと思ったの」
「それなら私がまたちゃん教えるから!今日はもう帰ろうよ、ね!?」
怒りを隠しきれずにこちらへやってくる和佳を止めに入るみのり。
私はその場から動けなくなってしまった。
「みのり、あんたおかしいよ。この女はずっとあたしたちの親友のフリをし続けて一緒にいたんだよ?」
「あのね、和佳。それには事情があるんだよ」
「いったいどんな事情があってそんなことしたっていうわけ!?それを聞きに来たんだよ。それから玲奈はどこなの!?」
「──玲奈は、もうこの世にいないよ!一年前、事故で死んじゃったのは玲奈なんだって!」
「……っ」
「和佳だって薄々気づいてたことでしょ?だからワザと『仁花』ちゃんに林檎を渡して確認しようとしたりしてたんでしょ?もうやめようよ……この話、つらいよ」
みのりの苦しそうに吐き出した言葉が、宙を舞う。
玲奈の真相を知った和佳は、脱力したように体をふらつかせながら、ゆっくりと私と目を合わせた。
「……どういうこと?だって、ニュースにだってちゃんとあんたの名前が載ってたはずよね?あんた、仁花でしょ?玲奈の双子の姉でしょ?」
「……」
「あたしだってネットニュースで読んだし、あのとき『玲奈』だって“姉の仁花が死んだ”って言ってたはず……って、え?待って、じゃあなに?あんたは二年の春からずっと玲奈になりすましてたってこと?」
“なりすましていた”。
最もな言葉のはずなのに、和佳のその言葉がグサリと私の心を刺す。
和佳はもともと大きな瞳をこれでもかというほど見開きながら、一直線に私を見た。まるで、それは違うと否定してほしいと言いたげに。
「なんとか言ったらどうなのよ!なんで!?どうして一年も何も教えてくれなかったの!?」
「和佳!仁花ちゃんにだって事情があったんだってば!」
「うるさい!どんな事情があったって、玲奈の死を伝えるタイミングはいくらでもあったじゃん!」
鋭く尖った言葉とともに、和佳は私の服の袖を掴んで思いきり引き寄せた。
けれど、彼女の怒気とは正反対に、その表情はとても寂しそうで、こぼれ落ちる涙を見た瞬間、これまでに感じてきたすべての罪悪感が私を襲った。
和佳はどんなに家でつらいことがあったときも、体調が悪くて思うような成績を残せなかったときも、私たちに涙を見せることは決してなかった。
そんな和佳が、今、泣いている。
それだけのことを、私はしてきたんだ。
「ごめん、なさい……っ、ごめんなさい」
「だって、一年だよ?あたしは親友の死を弔うことも、お墓に手を合わすことすらできてないんだよ……っ?」
「ごめん、なさい」
「謝ってばかりいないでちゃんと説明しなさいよ!」
頭の中で、『ごめんなさい』以外の言葉を必死で探した。
けれど、どんな言葉を述べたとしても、その全部が和佳を傷つけてしまう。
「和佳!もうやめてよ!」
「──ちょっと、あなた?さっきから何を大きな声で言っているの?」
「……!?」
そのとき、アパートの油の足りていない玄関がギリリッと音を立てて開かれた。
そこにはお母さんが顔をひどく青白くさせながら立っていた。
「お母さん!部屋に戻ってて!」
──まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。
「ねぇ、あなたは……『玲奈』ちゃんのお友達?玲奈ちゃんが死んだって、なぁに?」
「は、はぁ?」
「『玲奈』ちゃんなら、今あなたの目の前にいるじゃない」
「なに、言って……」
「あぁ、勘違いしちゃってるのねぇ。事故でいなくなっちゃったのは、『仁花』のほうよ?」
「……!?」
「お顔がそっくりだから見分けがつかないのでしょ?そこにいるのは、『玲奈』ちゃんよ」
「ちょっと、いくら玲奈のお母さんだからって……」
「だって、玲奈ちゃんが死ぬはずないじゃないの。玲奈ちゃんはお母さんのところにいるの!玲奈ちゃんは、死んでなんかない!」
ダメだ、これ以上この場にお母さんをいさせられない。
またおかしくなってしまう。
お母さんは自分に言い聞かせるように、玲奈の名前を連呼している。
そして何度も何度も、『いなくなったのは仁花のほう』と繰り返した。
「うん。そうだね、いなくなったのは……っ、『仁花』のほうだよね」
「あたしには玲奈ちゃんが必要なのよ。玲奈ちゃんとずっと一緒に生きてきたんだからっ」
「……そう、だね」
この状況を見て呆気に取られている和佳の傍を離れて、私は走ってお母さんの元へ歩み寄った。
力なくその場に崩れていくお母さんを必死で支えながら、大粒の涙をこぼして『仁花は死んだ』と吐き出すその言葉の分だけ、私は『そうだね』と言って頷いた。
「ねぇ、和佳?仁花ちゃんの事情、少しは分かったでしょ?」
「……っ」
「仁花ちゃんは玲奈になりたくて私たちを騙してたんじゃないんだよ?」
「でもっ」
「和佳の許せない気持ちもすごく分かるよ?でも、仁花ちゃんや彼女のお母さんのことを少しは理解してあげてもいいと思う」
お母さんを支えながら、うしろから聞こえた和佳とみのりの会話。
ううん、私のことは許さなくていい。理解もしてもらえなくていい。ただ、『私』と一緒に過ごした一年を、忘れてほしくなかった。そんな図々しいことを、心の片隅で願ってしまう。
「お母さん、一旦部屋に戻って薬飲もう?私、手伝うから」
「ねぇ、どうしてあの子は玲奈ちゃんが死んだなんて言ったの?」
「それは……っ」
「事故で亡くなったのは『仁花』よねぇ?お医者さんもときどき言うの。ここにいるのは、玲奈ちゃんじゃなくて仁花ちゃんですよって」
「……っ」
「みんな、あなたたちがそっくりな双子だから見分けがつかないのよね?」
お母さんは体調がよくないとき、いつも私にそう問いかけてきた。最初はその言葉に何日も傷ついて、一人部屋の隅っこで泣いていた。
でも、慣れとは恐ろしいもので、お母さんのその質問に、いつしか私は平気で相槌を打つことができていた。
たまにうんざりするときもあったけれど、涙を流すことも、悔しい思う気持ちもなくなっていた。
「……」
今だって、いつもと変わらない。
この質問はお母さんが自身の不調を告げる合図に他ならない。
なのに、なんでだろう。
今、ものすごく心が痛い。
後ろでみのりと和佳が聞いているから?
私自身が弱っているから?
どうしよう、分からない。それでも、これまでどうにか保ってきた『私』という形が、足元からガタガタと激しい音を立てて崩れていくような感覚に陥っていく。
息を吸っているのか、吐いているのか分からなくなった。
指先が冷たくなって、感覚がなくなった。
グッと視界が暗くなって、体が傾いていく。
あぁ、もう、今日はダメな日だ。
この名前のつけられない不安定に、抗うことをやめた。
視界が真っ暗になるまで、あと───。
「仁花」
そのとき、耳に馴染む低音が私の元へ届いた。覚えのある匂いが鼻をかすめて、背中いっぱいにふわりとあたたかみを感じた。
あぁ、私、この声、この匂い、このあたたかさを知っている。
──楓くんだ。
「仁花、落ち着いて息吸って」
「かえ、で……くん」
「大丈夫、もう大丈夫だから」
「私っ、ごめんなさい……っ」
「大丈夫だよ、仁花。大丈夫、もう謝らなくていいから」
楓くんがくれるたくさんの『大丈夫』の言葉が、一つずつ私の心の中へ浸透していく。
思えば楓くんは再会してからずっと、私の味方で居続けてくれていた。
いつだって『仁花』に優しい言葉を与え続けてくれていた。誰もが私のことを『玲奈』だと思い込んでいたときに、たった一人だけ、騙されてはくれなかった人。
「一旦家に入ろう、仁花。それから少し、話がしたい」
楓くんはそう言って、私を抱えながらアパートの中へと入っていく。
楓くんがここにいてくれてよかった。
心の中で、何度も彼に感謝した。
*****
「お母さんの調子はどう?」
「薬が効いてきたみたいで、やっと眠ったよ」
「そっか、よかった」
「目が覚めたら病院に連れて行かなくちゃ」
それから楓くんは、私のお母さんのことまで一緒に面倒をみてくれた。
楓くんがカナダへ行く中学一年のときまで、玲奈と私の三人でよく一緒に遊んでいたから、お母さんと顔見知りだったことが功を成したのか、薬を飲むことを嫌がるお母さんを宥めてくれて、雑談をしながら眠りにつくまでそばにいてくれた。
「仁花はどうなの?もう平気?」
「うん、ありがとう楓くん」
「外にいるあの二人は、仁花の友達?」
「……ううん、『玲奈』の友達」
「仁花とも友達じゃないの?」
「なれるわけないよ。私は和佳とみのりの『親友』のフリをした最低な人間なんだから」
少し前の、和佳の口から放たれた言葉が何度も頭の中で再生されていく。
“あたしは親友の死を弔うことも、お墓に手を合わすことすらできてないんだよ……っ?”
“どんな事情があったって、玲奈の死を伝えるタイミングはいくらでもあったじゃん!”
そのとおりだと思った。本当に、和佳の言うとおりだった。
二人に真実を伝えられずにいたのは、あのとき私自身が『玲奈』でいることを望んでいたからだ。『仁花』に戻ってしまえば、和佳とみのりとの関係が途切れてしまうと恐れていたから。
『玲奈』として生きてきた中で手に入れたものを、失いたくなかった。玲奈の学校生活も、友達も、文化祭も、全部……もっともっと味わっていたい思った私のせい。
「仁花はさ、『玲奈』として過ごした一年はどうだったの?」
「え?どうって……」
「つらいことばっかりだった?」
そう聞かれて、初めに思ったことは『つらい』ことなんかじゃなかった。
確かにずっとこんな生活から逃げ出したいと思っていたし、玲奈として生きることに不安を抱かなかった日は一日もない。
だけど、それ以上に……たくさんの感情を知ることができた。勉強と絵を描くことしかしてこなかった『仁花』では、絶対に味わえない経験をたくさんさせてもらったように思う。
「そんなこと、ないっ」
その中でも、やっぱり和佳とみのりに出会えたことが何よりも私の宝物になった。本当の友達ではないけれど、それでも本来『友情』というものがどういうことなのかを教えてもらうことができた。
たくさん笑いあって、くだらないことで言い合いをして、ずっと三人で一緒にいた。
「つらかったし、毎日正体がバレるんじゃないかって怖かったけど……でも、楽しいこともあった」
「……」
「玲奈の人生は、すっごく楽しかったっ」
「うん」
これほどまでに濃い一年を過ごしたことは一度もなかった。
友達と一緒に学校行事を楽しんで、共に笑って、たくさんの思い出を作った。
仁花だった頃は一日が終わるのがとても遅いと思っていたけれど、『玲奈』として生きてきた一年は自分でも驚くほどあっという間だった。
「俺ね、思うんだけど。それって、きっと玲奈からのプレゼントなんだよ」
「……へ?」
「仁花がこれから先、もっともっと人生を豊かに生きられますようにっていう、玲奈からのプレゼント」
楓くんの予想もしていなかったその発想に、お母さんを病院へつれていくために準備していたお薬手帳を床に落とした。
『玲奈』として生きてきた時間が、あの子からのプレゼント?
「……っ」
そんなはず、ないよ。
玲奈は私のことを怒っているに違いないとさえ思っているくらいだ。
“あたしの真似なんてしないでよ”
“あたしの親友をとらないで”
そう言うに違いない。
一年前の春、入れ替わりの日があの日じゃなかったら、玲奈は今も生きていて、こんな楽しい人生の続きを謳歌しているはずだった。それを横取りしている私を見て、いくら優しい玲奈でも怒るに決まっている。
「玲奈は私のこと、怒ってるんだよ。もしかしたら恨んでるかもしれない。こんなふうに真似して、玲奈として生きてることをよく思うはずがないんだから」
「あっはは!あの仁花大好き人間の玲奈が、仁花のことを恨むわけがないでしょ」
「でもっ!」
「玲奈、言ってたよ。仁花はちょっとだけ不器用な子だから、あたしがずっと守っていくんだって」
「……え?」
「双子っていうのは、友達や恋人、血のつながった両親ともまた違った特別な絆があるんだってずっと自慢してた。だから例え俺が仁花と恋人になったとしても、あたしのほうが仁花との絆は深いんだって常に言われてたんだから、俺」
──また私の知らない玲奈の話だ。
どうして玲奈は、そこまで私のことを思ってくれていたんだろう。
私は何一つとして、玲奈にしてあげられなかったのに。
「だからね、仁花。これからは仁花自身が幸せになる番だよ」
「うぅっ、玲奈に会いたいっ」
「仁花がしなくちゃいけないことは、玲奈やその周りに謝り続けることなんかじゃない。玲奈として生きてきた時間も、全部『仁花』のものにして、仁花が玲奈の分まで幸せに生きることなんだよ」
楓くんのその言葉は、私がずっと探し求めてきた『答え』だと思った。
こんなにも心が軽くなったのは、はじめてのことだった。
「私っ、ちゃんと『仁花』に戻らなくちゃいけないんだね」
「うん、そうだね」
「みんなにも……っ、自分の口から言わなくちゃ」
一年以上、ずっと誰にも言えなかったこと。
どんなことをしてでも隠し通してきたこと。
やっと、この日が来たんだ──。
「二人に話してくるから、楓くんも一緒に聞いていてくれる?」
「もちろん」
私はアパートの玄関を勢いよく開いた。相変わらず油の足りていない嫌な音を立てて開かれた先には、木陰で涼んでいる和佳とみのりがそこにいた。
私は走って二人の元へ駆けつけた。
「あ、仁花ちゃん!お母さんはもう大丈……」
「二人とも、今までずっと黙っていてごめんなさい」
「……」
「……」
「私は──……玲奈じゃないです」
「……」
「うん」
「私は……玲奈の姉の『仁花』、です」
地に足がついていないんじゃないかと思うくらい、体がふわふわしている。これまでずっと言えなかったことを、今、大切な人に向かって伝えられているからだろうか。
「今までっ、ずっと黙っていて……本当にごめんなさいっ」
和佳とみのりの正面に立って、深く頭を下げた。
楓くんはそんな私を後ろから黙って見守ってくれていた。
みのりは『もう大丈夫だから、謝らないで?』と優しく声をかけてくれた。和佳は何も言わずにその場を去っていく。
──それが二人出した答えだった。
二人がこの場からいなくなっても、当分の間私はその場から動くことができなかった。
これで和佳とみのりとの縁が切れたことへの寂しさや、玲奈としての人生にピリオドを打つことができたことへのなんとも言えない複雑な気持ちが、止め処なく流れ込んでくる。
「よく言えたね、仁花」
「……楓、くん」
「帰ろう、仁花。お母さんが目を覚ましたみたいだよ」
その日、私は決意した。
今日から『仁花』として生きること。
玲奈が通っていた学校を辞めること。
そして──……お母さんにもすべてを打ち明けることを。
「──もしもし、お父さん?」
《どうしたんだ?何かあったか?》
「あのね、まずはお母さんのことなんだけど。今、ものすごく不安定な状態になっちゃって、このまま入院することになったよ」
《そうか、明日お父さんも病院に言って話を聞くよ》
「それからね?私、もう『玲奈』として生きることはやめた。私は『仁花』として生きていきたい」
《……あぁ、もちろんだ》
「あと、もう一つ──……」