*****


 ──ブーッ、ブーッ、ブーッ。

 スマホは小刻みにバイブしながら、今日も朝から大量のメッセージを受信していた。

 人気者の玲奈が突然なんの連絡もなく登校日をサボったり、夏休みが明けて本格的に学校がはじまっても三日も休んだりしていることを、たくさんの人たちが心配して連絡を送ってくれている。

 けれど、私はそれらに目を通すことさえできずにいた。


 「『玲奈』ちゃん。今日も学校に行かないの?まだ具合が悪いの?」

 「うん、ごめんなさい」

 「そっか。じゃあお昼ご飯はお母さんと一緒にお素麺食べようね」

 「あ、あのねお母さん……!」

 「なぁに?」

 「……ううん、なんでもない」

 部屋の襖越しに心配そうな声で話しかけてくれたお母さんは、小さなため息を落としながらいつものゆったりとした動きで再び自分の部屋へ戻っていく。

 玲奈はこれまで学校をずる休みしたことなんて一度もないのだろう。微かに聞こえたあのため息が、お母さんの記憶の中にある『玲奈』とは違う行動をしている『仁花()』に対する不満のようにも聞こえた。



 「……っ」

 “でもね、お母さん。
 私、玲奈じゃないんだよ。

 いくら見た目がそっくりでも、心の中まで『玲奈』になることはできなかったんだ。

 努力はしたよ、少しでもお母さんが元気になってくれますようにって願いながら。いつか、お母さんの心に不安定な揺らぎがなくなったら、そのときは私のことを『仁花』として受け入れてくれることを期待したりもしたよ。


 でも、私のほうが先に限界がきちゃったみたい。

 『玲奈』と一番仲が良かった友達二人にも気づかれてしまった。彼女たちには本当のことを言わなくちゃいけないと分かってはいるけど、怖くてまた学校を休んでしまった。

 ごめんね、『玲奈』になりきれなくて。
 ごめんね、となりにいるのが『仁花』で──。”

 口には出せないことを、代わりに心の中で吐き出した。



 楓くんが『仁花は仁花のままでいい』と言ってくれてから、私は少しだけ強くなれた。

 もう『玲奈』のフリはしない。これから時間をかけて、少しずつ私は『仁花』に戻ることを決意した。

 玲奈の人生は私にとって憧れそのもので、彼女の学校生活も、友達関係も、全部が楽しくてたまらなかった。

 でも、それらは決して『私』のものにはならないのだと知った。楽しい学校生活も、はじめて手放したくないと思えた友情も、これまでの思い出も、全部『私』のものじゃなかった。

 こうして『玲奈』としての人生に終わりが見えたとき、『仁花』の手元には何一つ残っていないのだということを、今身に染みて実感している真っ最中だ。

 だから、もう終わりにしなくちゃいけない。
 ずっとこのままではいられないから。



 けれど、どうしてもそれを口に出すことができずにいる。

 まずはお母さんに、そのあと和佳とみのりに、そしてお父さんに、私は『仁花』でいたいと伝えようと決心したはいいけれど、声に出そうとすると、喉の奥が痞えるように苦しくなった。

 そうしてズルズルと時間ばかりが過ぎていって、カーテンを閉めきった薄暗い部屋の中に籠る日々が続いている。


 

 そのとき、スマホの画面に『みのり 着信』の文字が浮かび上がった。無意識に手を伸ばしそうになって、それを止めた。

 今電話を取ったところで、彼女になんと言えばいいのか分からない。『玲奈のフリをしていて、騙してごめんなさい』以外の言葉がまだ見つからない。



 「……ごめんね、みのり」

 グラウンドの倉庫で和佳に正体を見破られたあの日から、みのりだけはこうして何度も連絡をくれている。

 和佳からは一切、音沙汰がなくなってしまった。

 あれだけ活発に動いていた三人のグループメッセージは、もうずっと静まり返っている。最後の会話は一週間も前のまま、みのりのブサかわいいスタンプで終わっていた。

 偽りの関係で、和佳とみのりには何度謝っても許されないことをしてきたと思う。

 それでも私は、二人のことが今もずっと大好きだから。



 「だからこそ、二人には本当のことを言わなくちゃ……っ」

 分かっている。十分すぎるくらい、分かっている。

 だけど、それでも、私が未だに躊躇ってしまうのは……二人と縁が切れることを恐れているから。心の準備がいつまで経っても整わない。

 『玲奈』の仮面を外した私は、とんでもない臆病者だ。

 ベッドの上で丸まりながら、いつまで経っても次の行動に移せない自分に嫌気がさした。

 そのとき、アパートのインターフォンが鳴り響いた。



 「……楓くんかな?」

 いいや、彼ももう学校がはじまっているはずだ。

 五年ぶりにカナダから帰国してきた楓くんは、帰国子女の編入生として家の近くにある男子校に通っている。カナダと日本の文化の違いに戸惑ったり、こちらの宿題の多さに驚いたりしていた楓くんの姿を思い出しながら、玄関の扉を開けた。





 「──久しぶり、だね」

 「……みのりっ」

 けれど、そこにいたのはみのりだった。

 彼女の姿を捉えた途端、一気に頭の中はたくさんの言葉で埋め尽くされる。

 なんで彼女がここへ?どうして私の家を訪ねてきたの?もしかして糾弾される?私のことを聞きにきたの?それとも玲奈のこと?

 どうして、なんで──。




 「えっと、『仁花』ちゃん……だよね?」

 「え?」

 「玲奈からよく話は聞いてたから」

 「……っ」

 「よかったら、ちょっとだけ二人で話さない?」


 いつものみのりの笑顔だった。だけどそこに、和佳はいない。

 私は戸惑いながらも、みのりを家に招いた。

 何を言われるんだろう、何を言えばいいのだろう。

 頭の中はそんな不安ですぐにいっぱいになった。





 「……あら、お友達?」

 そんな悶々とした思いを募らせながらみのりを部屋へ連れて行こうとしたとき、自分の部屋から顔をのぞかせたお母さん。

 いつもは誰がインターフォンを押しても出てくることなんてなかったのに、私の話し声が聞こえたからだろうか、それとも『玲奈』の友達を見たかったのだろうか。


 私は今まで一度も和佳やみのりをこの家に招待したことはなかった。常に家にいるお母さんにストレスを与えたくなかったのと、それからもう一つ。




 「あ、お邪魔します!私、みのりって言います!」

 「どうぞいらっしゃい、お茶とお菓子を用意するわね。あとで取りにきてくれる?──……『玲奈』ちゃん」

 「え?」

 この違和感を、誰にも知られたくなかったから。

 私のことを虚ろな目で見ながら『玲奈』と呼ぶお母さんのことを、見られたくなかった。



 「えっと……、え?」

 そういって台所へ向かうお母さんを見ながら、みのりは大きく目を見開いて驚いていた。

 無理もない。私が本当は『玲奈』じゃないと知っている今、先ほどのお母さんのやりとりは、みのりにとっては違和感でしかないと思う。



 「ごめん、えっと、確認なんだけど、あなたは仁花ちゃん……なんだよね?」

 「……はい」

 「なのに、なんで仁花ちゃんのお母さんは──……仁花ちゃんのことを『玲奈』って呼んでいるの?」

 「……」

 「それに、どうして仁花ちゃんも何も言わないの?」

 全く理解ができていないと言いたげなみのりの表情に、いつもの笑顔はなくなっていた。

 ただ混乱している様子で、私とお母さんの姿を何度も目で追っている。



 もう、隠せない。ここが潮時なのかもしれない。

 自分の母親が、『私』のことを亡くなった『玲奈』として見ていることも、それを受け入れているバカな『私』のことも、できることなら一生隠し通して、いつか葬り去ってやりたい事実だ。

 だけど、もう私一人では抱えきれない。
 これ以上、逃げるのは無しだ。



 「全部話すから、ひとまず部屋にいてくれる?」

 私は覚悟を決めて、改めてみのりを部屋に招き入れた。






*****


 一年前のあの日のことから、今日に至るまでの全てをみのりに打ち明けた。

 あれだけお喋りが好きな彼女も、このときばかりは何も言葉が出てこないようで、ただ茫然としていた。

 本当は和佳にもここにいてほしかったけれど、きっと和佳はもう私には会いたくないだろう。私が和佳の立場だったとしても、きっとそう思うだろうから。




 「そんなことが、あったんだね」

 「……」

 「ごめん、えっと、なんていうか、予想よりも何倍も斜め上をきたっていうか」

 「予想、してたの?」

 「あー、うん。和佳はどうか知らないけど、私はなんとなく気づいてたから」


 気づいていた?いったいいつから?みのりはどの時期から私が『玲奈』じゃないことを知っていたというの?

 明らかに動揺している私を見て、みのりは『あ、えっとね?』と言葉を続けた。




 「私がなんかちょっとおかしいなって違和感を持ったのは、文化祭の準備がはじまったばかりのころ……かな?」

 「そんなに前から?」

 「うん。そのときはまだ確信は持てなかったんだけど、ほら、私以上に目立ちたがり屋の玲奈がさ?文化祭で演劇すら立候補せずに、準備も裏方に徹していたから、あれって思ってて」

 「……」

 「あと、玲奈は困ってる人を絶対に放っておけないタチだったんだよね。文化祭の役決めをしていたとき、どうしても衣装係と演劇の小物作成の係が決まらずに学級委員の小山内さんが困ってたじゃん?」

 「あぁ、あのとき」

 「昔からなんだけど、玲奈ってあんな場面のときに絶対『私がやる!』って言っちゃうような子だったんだよね。自分はもう大量に仕事を抱えてんのに、それでも引き受けちゃうような子だったから」

 みのりは続けざまに『それでね、いつも和佳に叱られてたんだよね。あんたは他人のことばかりじゃなくて、もう少し自分のことを考えなよ!って』と言いながら笑った。

 その表情はまるで、本物の『玲奈』との思い出を思い浮かべているようだった。


 そんなみのりの様子を、傍で見ているだけで分かった。玲奈とみのり、それから和佳の三人の絆は絶対に途切れることはないのだと。

 私はその絆が本当に眩しくて、羨ましく思った。




 「あぁ、そうだ。頬はもう大丈夫?和佳ってば、いくら怒ってるからとはいえあんなふうにビンタするなんて最低だよね。ごめんね、私があのあとしっかり叱ったから!」

 「……ううん。叩かれて当然、だから」

 「和佳はさ、本当に玲奈のことが大好きだったんだよね。私は中学のときから和佳と友達だったんだけど、玲奈と出会って、本当に和佳は変わったから」


 一年生のとき、受験に失敗して両親との関係も拗れてしまっていた和佳は、今よりももっと刺々しかったところがあって、勉強嫌いで毎日楽しいことだけをしようとする同じクラスの玲奈のことが気に食わなかったそうだ。

 けれど、玲奈はそんな和佳に寄り添い続けて、放課後は勉強するために図書館に引きこもっていた和佳を強引にカフェに連れていったり、ときには映画に行ったり、ひたすら自分の将来の夢について聞かせたりしていると、和佳は次第に勉強がすべてじゃない、親の言いなりになる必要はない、もっと高校生を楽しんでいいんだと思えるようになって、今の三人ができあがったのだと教えてくれた。




 「だからって叩くのはやっぱりダメ!」

 「ううん、平気だから」

 「でも、和佳は口が酸っぱくなるほど言ってた。玲奈のおかげで世界が明るくなったって。死にたいって思わなくなったって」

 「……」

 「他にもね、困ってる人を放っておけない玲奈の性格に助けられた人っていっぱいいると思う」



 みのりの言う『玲奈の性格に助けられた人』の中には、私も入っている。両親が離婚して離れ離れになったとき、玲奈は一時期毎日のようにお父さんと私が住んでいる家まで足を運んでくれていた。

 困ったことはないか、ご飯はちゃんと作れているか、ぐっすり眠れているか。

 それまでお父さんも私もほとんど料理をしてこなかったから、最初は出前ばかり頼んでいたけれど、それを見た玲奈は毎日作り置きのおかずが入ったタッパを持ってきてくれるようになった。


 玲奈とお母さんは今私が住んでいるアパートに引っ越したから、玲奈は新しい中学校に通うことになって、環境も一変していた。

 思えば玲奈のほうが何倍も大変だったはずなのに、それでも私とお父さんのことをずっと心配してくれていた。玲奈はそういう子だった。




 「実はね、玲奈から一日だけ仁花ちゃんと入れ替わって学校に潜入するって話、私聞いてたの」

 「──え?」


 それは、私が知らなかった玲奈のはなし。

 玲奈がどれだけ私のことを想っていてくれたのか、知るはずもなかったはなしだった。




 「玲奈ね、仁花ちゃんが学校であまりうまく行ってないことをどこかで知ったみたい」

 「そ、そんなっ」

 「それで玲奈がね?『仁花の学校に忍び込んで、仁花のことを便利扱いしてる奴らをシメてくる』って言ってたの」



 どうして玲奈は、私の学校のことを知ったのだろう。顔が広い子だったから、どこかで私の噂を聞いたのだろうか。

 私は玲奈に、自分の学校で起こった出来事はほとんど話さなかった。玲奈と会うときはいつも聞き役に徹していた。

 たまに玲奈から問いかけられたとき、無難な言葉を選んで一言二言話すくらいのものだった。だって玲奈とは違って、あんなふうに屈託のない笑みで話せるほどのネタを私は持っていなかったから。

 私は玲奈のように学校生活を楽しいと思ったことなんて一度もない。親友と呼べる人なんていなければ、友達と呼べる相手さえいなかった。

 ただ、宿題を見せてあげればそのときは優しくされた。

 掃除当番を代わってあげればありがとうと感謝された。

 学年で一番良い成績を取ると、先生にだって褒められた。

 友達とは、何かをしてあげた分に見合った『友情』をもらえるのだと本気で思っていた。

 だから喜んでクラスメイトの要求を受け入れていたし、ひとりぼっちになってしまうくらいならそんなお願いは容易いものだった。

 だけど、たまに、ほんのたまにだけ、それがとてつもなく虚しくなるときがあった。自分が影で『便利屋』と呼ばれていることを知ったとき、まさしくピッタリなあだ名だと思った。



 玲奈から楽しそうに聞かされる学校生活とはかけ離れていた自分の日常に、少しずつ、うんざりしはじめていた。だから『玲奈』として三葉学園に通うことになって、みのりと和佳に出会ったばかりのころは驚きの連続だった。

 私が何かをしてあげなくても、みのりと和佳は当たり前のように一緒にいてくれた。

 宿題を見せてあげなくても、優しく接してくれる。

 むしろ体調が良くないときは二人が率先して掃除当番を代わってくれる有様だった。



 「玲奈ってば仁花ちゃんのことばっかり話してたからさ、なんだか私、仁花ちゃんと会うのはじめてじゃない気分なんだよね」

 「……っ」

 「あ、あとね。玲奈って入学してすぐにカフェのバイトを始めたの知ってる?理由はもちろん調理の専門学校にいくための資金でもあったんだけど、それとは別に、卒業したら仁花ちゃんと一緒に住むんだって言ってたんだよ」

 「え?」

 「玲奈はなんでか、自分のお母さんの話だけはあまりしたがらなかったんだけど、そのお母さんの面倒を見るのは高校卒業までだってずっと言ってて、そのあとは仁花ちゃんと一緒に住むんだって。仁花ちゃんのお父さんとお母さん、離婚しちゃったんだよね?親のせいで仁花ちゃんと離れ離れになったことが許せないってよく言ってたの。あ、そういえば学校に家計簿持ってきて、油性ペンで大きく『目標一五〇万円貯める!』って書いてたんだよ!?和佳が無理じゃない?って横槍を入れて喧嘩してたの、懐かしいなぁ」



 玲奈がそんなことを言っていたなんて、全く知らなかった。

 だから玲奈は、カフェ『LinLin』であんなにも一生懸命に働いていたんだ。




 「……玲奈っ」

 私はいつも玲奈を羨ましがって、自分の殻に閉じこもって、現状を変える努力もしないで、勉強しかしてこなかった。

 なのに玲奈は、そんな私のことをここまで考えてくれていたなんて。

 私、一度でも玲奈にありがとうって言ったかな?いつからか、玲奈と会うともっと自分が惨めになるような気がして、何度か会うことを断ったときもあった。



 「……つっ」

 ごめんね、玲奈。いつも無愛想で、素っ気ない返事しかできなくて。

 心が塞がっていたあのときの私は、お母さんからも愛されて、友達にも恵まれて、何不自由ない暮らしをしていた玲奈にずっと嫉妬していたんだ。



 「ごめんっ、玲奈……っ」

 玲奈に会いたい。もう一度会って、これまでのことをちゃんと謝って、そして最後に『ありがとう』って言いたい。

 玲奈がここまで人から愛されるのには、ちゃんと理由があった。

 運や周りの環境だけの力じゃなかった。



 そんなことに今さら気付くなんて、私はやっぱり玲奈には遠く及ばない。

 こんな私のことを、どう思っているかな。




 「玲奈の話ばっかりしちゃうと、なんだか会いたくなっちゃうね」

 みのりは小さく微笑みながら、涙を流していた。

 私もそんなみのりを見て、それまで堪えていた涙を同じように流した。