「エリカ先生ー!今日も可愛いねー!」
 名も知らぬ男子生徒が、軽薄さ丸出しで口笛を吹いた。
「えーそんなことないよぉ」
 本当に教師か?と疑いたくなるほどの嬌態で“エリカ先生”は舌っ足らずな口調で返す。
「うわぁ…流石、娼婦エリカって感じ」
 私の右側を歩く少女の一人が不愉快そうに言い、私は自分のポーカーフェイスが崩れていないか不安になる。
「あんな女、よく教師になれたよね。いくら非常勤とはいえ」
 今度は、私の左側を歩く少女も、軽蔑したように言う。
「校長か理事長に色目使って採用されたんじゃない?」
「ありそー!っていうか、それしかないよね!」
 二人は、そう言ってケタケタ笑うけれど、私はちっとも笑えなかった。
「リツコもそう思わない?」
 右側の子に同意を求められ、私は動揺を隠しながら、
「それは…ノーコメントかな」
 曖昧な笑みでそう答えるしか出来なかった。
「偉いよね、リツコは。流石、新入生総代の優等生」
 褒められているのか、皮肉なのかわからないようなことを言われ、ますます戸惑いを感じる。
 私だって、ああいう女は嫌いだ。
 しかし、私には、嫌いだけでは済まされない事情がある。

「ただいま」
 家に帰ると、母がおかえりと答えたあと、
「学校には慣れた?」
 事務的に尋ねてくる。
「慣れたことは慣れたけど…」
 そこは、言葉を濁しておいた。
「エリカちゃんの様子はどう?」
 せっかく言葉を濁したのに、いきなり核心を突いてくる母も意地が悪い。
「うん…まぁ、あのまんまだよ」
「やっぱりね。あの子は本当に母親似で、一族の恥なんだから。兄さんの見る目がなかったと言えばそれまでだけど…あら、おやつ食べないの?」
「いい、お腹空いてないし」
 そう言うだけ言って、私はさっさと自分の部屋に向かった。

 制服から部屋着に着替える時、私は姿見に映った自分を見て、すぐに目をそらした。
 ニキビの出来やすい浅黒い肌、チリチリの髪はきつくひっつめてあり、こけしのような顔立ち。
 さっき、学校で見かけたエリカと血縁があるとはとても思えない。
 エリカはというと、童顔でアヒル口だが整った顔、身長は私とさほど変わらないが、グラビアアイドルのようなボディ、ずっと年上なのに白く透明感のある肌。
 学校内でも、いつもお尻をフリフリさせながら歩き、典型的なぶりっこといった態度をやめる気配などまるでない。

 私は、物心ついた頃からずっと、優等生として生きてきた。
 それは、容姿に恵まれない女の子の処世術だっただけのような気もするが、もう一つの理由は、母だけでなく、母方の親戚一同、エリカのことを“一族の恥”と陰口を叩いていることを幼い頃から知っていたから。
 エリカは、中学時代から彼氏を切らすことがなく、それだけでも厳格な一族からは嫌悪された。
 そんな彼女が、本格的に一族の恥呼ばわりされ始めたのは、高校時代に男とホテルから出てきて補導されたこと。
 停学処分になったにも関わらず、懲りずに同じことを繰り返し、結局は退学。
 今の時代、中卒ではどうにもならないからと、フリースクールに通い、その後は誰でも受かると言われている大学へ進学し、どうにか家庭科の教員免許は取得できたとのこと。
 高校を中退してから教員免許の取得という流れだけなら、彼女なりに努力したのだと感じられるが、その大学を卒業するのに、なんと8年もかかっているのだ。
 教員免許がなかなか取れず、ギリギリまで留年し続けたようだが、そんなに時間がかかった理由というのも、結局のところは、親元を離れて一人暮らしをしていたことによって、ますます男にだらしない日々を送ったせいだという。
「エリカちゃんみたいにだけはなるんじゃないわよ」
 わざわざ母に言われるまでもなく、ああはなるまいと思ったものだ。

 エリカとは歳も離れているし、もともと特に親しかったわけではない。
 しかし、まさかの事態が起こってしまった。
 その“まさかの事態”というのは、勉強しか取り柄のない私が高校受験に失敗し、滑り止めの私立高校に通わざるを得なくなったことと、よりによって、同じタイミングで、エリカがその学校の非常勤講師として働くことになったのだ。
 最悪事態だと感じた。
「リッちゃん。同じ高校だし、よろしくねぇ」
 舌っ足らずの口調で言われ、
「周りには決して、従姉妹同士だってことは知られないようにしてくださいよ」
 冷たく突き放すような言い方をしてしまった。
 しかし、流石に酷すぎたかと思い、
「あ…知られると、周りも気を遣うし、何かと気まずいでしょう?」
 強引に、そう付け加えておいた。

 私たちは、苗字が違うだけでなく、あまりにも似ていないので、これまでに誰かに気づかれたことは一度もない。
 最初のうちこそヒヤヒヤしたが、幸い、私のクラスの家庭科の担当は別の教師だった。
 しかし、ただでさえ若い女教師が少ない上に、エリカの華やかな容姿と露骨なぶりっこは、あまりにも浮いており、エリカは学校中の有名人だ。
 男子生徒ウケはいいものの、女子生徒からは露骨に嫌われている。
 生徒からここまで嫌われているのだから、恐らく女教師からも好かれてはいないだろう。


 エリカが“一族の恥”呼ばわりされているのは、本人のやらかしたことも大きいが、エリカの母親というのがまた、一族からは大顰蹙だった。
 エリカの母親は、元ホステス。
 伯父のほうがのめり込み、周りの反対を無視して結婚したものの、結局は妻の不倫が原因で離婚。
 果たして、エリカが自分の母親をどう思っているかは知らないが、エリカは子供の頃から父親に育てられた。
 ゆえに、家庭科だけは得意になったという話も聞いたことはあるが、男好きなのは母親似なのか、母親のいない淋しさから男に走ったのかは知らない。


「ねえ、あの噂、聞いた?」
 同じクラスの女子が騒いでいる。
「タカハシ先生がエリカに告白したんだって。なんか幻滅だよねー!」
「マジで?結局、タカハシ先生も女見る目ないんだね」
 タカハシ先生というのは、まだ若くて人気のある男性教師。
「リツコは知ってた?」
 急に話を振られ、
「え?知らないよ」
 本当に知らなかったので、そう答えるしかなかった。
「付き合うことになったのかねー?」
「付き合ったとしても、どうせ続かないって」
「そうだよね、あんな節操ない女、愛想を尽かされて当然だよね」
 女子たちは、あることないこと嬉しそうに話している。
 私だって、エリカのことは嫌いだし、別に従姉だからといって擁護したい気持ちなど微塵もない。
 しかし、いくらエリカが女に嫌われる女だとしても、こんな風に根も葉もない噂をして楽しそうな彼女たちの笑顔は、あまりに醜い。
 私は、さり気なく輪から外れた。


 あっという間に1年が過ぎ、エリカは契約更新したようで、今年も同じ学校に勤務している。
 運良く、私のクラスの家庭科の担当は、今年も違う先生だった。
 クラスが変わったところで、新しいクラスの女子らも、エリカの陰口を叩いている子が多い。
 私は、もうその光景に慣れたとはいえ、何となく周りと距離をおくようになってしまった。

 ある日の放課後、私の自宅近くの公園で、エリカが一人ポツンとブランコに座っていた。
 ここが私の帰宅ルートであることを知っているようで、私を見ると、小さく手を振った。
「リッちゃん、ちょっといいかなぁ…?」
 そう言われ、私は、少し周りを気にしつつも、この近くに同じ高校の生徒は居ないはずなので、エリカに近寄った。
「どうしたの?」
 近づいてみて、初めて気付いた。
 エリカは、ひとりで泣いていたのだ。
「ごめんね…でも、何も聞かないで、ちょっとだけ一緒に居てほしいの」
 何が何だかわからないが、こんなエリカは初めて見たので、私は動揺を隠しながらも、言われた通りにした。
 大人のエリカが、子供の私の手を握りしめながら、一頻り泣く。
「叔母さんにも、生徒や先生にも、言わないでね…?こんなこと」
 本当に意味がわからなかったが、私は、
「言わないよ」
 とだけ返すと、ただその手を握り返した。

 翌日、私が登校すると、エリカは相変わらず、いつものぶりっこで、女子たちの顰蹙を買っていた。
 安堵したものの、何かがおかしい気がした。
 その“何か”を、私には見抜くことが出来ないまま、翌週から、何故かエリカの姿を全く見ることがなくなった。
 女子たちは、
「そう言えば、エリカ居なくなったよね」
「何かやらかしたんじゃない?」
「あ、生徒に手を出したとか!」
「やりかねない!キモーい」
 聞きたくなくても、そんな声が聞こえてくる。

 帰宅すると、
「ねぇ。エリカちゃんって、何かあったの?学校で見なくなったんだけど」
 私が母に問うと、
「ああ、それね。兄さんから聞いたけど、あなたにも色々準備してもらわなきゃいけないだろうから」
 淡々と母が言う。
「何の話?」
「あの子、もう助かる見込みがないんですって」

 気づくと、私は、必死で自転車を走らせていた。
 エリカは今、実家で伯父と同居しているという。
 伯父の家に着くと、何度もブザーを鳴らした。
「ああ…リッちゃん、来てくれたのか」
 しばらく会わない内に、すっかり老け込んだ伯父が力なく笑った。
「エリカちゃんは!?」
「そこの部屋に…」
 私が部屋に入ると、ベッドサイドに居た人が、
「御親戚のかた?私、訪問看護師のナカダです」
 訪問看護師だというナカダさんに会釈すると、私はベッドのエリカに近付いた。
 エリカは、生気のない瞳でぼんやりと天井を見上げている。
「エリカちゃん、私だよ。リツコ」
 すると、ゆっくり私に視線を移すエリカ。
「エリカさんは、痛み止めの麻薬で意識が朦朧としてるんです」
 看護師のナカダさんが言う。
「どうして…?ガンって、こんな急にどうかなるものではないですよね?」
「彼女の場合、幸か不幸か、つい最近まで自覚症状が全く出なかったんです。突然の痛みで救急搬送されたときには、もう…」
 エリカの顔を見ると、麻薬で朦朧としながらも、穏やかに微笑んでいた。
「エリカちゃん、痛くない…?」
 そう尋ねると、ほんの少しだけ首が動いた。
「ごめん。いいよ、無理に動かなくて」
 私は、前に公園でエリカが望んだように、そっと手を握った。
「放課後と週末、毎日必ず会いに来るからね」
 そう言うと、エリカの瞳から涙が溢れた。
 約束通り、私は、学校が終わると家にも寄らずエリカのところへ直行し、週末にも必ず訪ねた。
 しかし、このように毎日来ていても、訪問看護師やドクターや介護職員以外の誰か…見舞客と会うことが全くないのだ。
 そのことを不思議に思い、伯父に尋ねてみたところ、
「エリカには、友達も恋人も居ないみたいなんだ。悪いとは思ったけど、誰か会いたい人が居るんじゃないかと思って、アドレス帳も見たんだけど、真っ白で。恥ずかしい話が、学生の頃のエリカには常に誰かしら男が居たのに、社会人になってからは全くそんな話も聞かなくなった」
 伯父の話によると、エリカの母親は、娘に全く愛情を持つことが出来なかったようだ。
 出産はしたものの、心は人の母にはなれず、常に男に追われていたい女のまま。
 そして、離婚したきり、一度もエリカに会おうとせず、今も、娘が余命幾ばくもないという連絡をうけたところで、やはり見舞いに来たことはないという。
 かつて、可能性として少しだけ過ったことのある、エリカは母親の愛を得られなかった淋しさから男に走ったという線が、かなり濃厚になってきた。
 毎日、痛み止めの麻薬を打っている為、エリカが私の言動に反応を示したのは最初のうちだけだ。
 あとはもう、その瞳には何も映っていないようで…。
 私は、人間のこんな瞳を見たのは初めてだった。
「耳は最期まで聞こえていますから、話しかけてあげたり、エリカさんの好きな音楽を聴かせてあげてください」
 そう言われたが、私はエリカの好きな音楽を知らない。
 音楽どころか、思えば、私はエリカの何も知らなかったのだ。
 典型的な、女が嫌う女で居た彼女を一方的に嫌悪し、その胸の奥の孤独を知ろうともしなかった。
 ひたすら陰口を叩いていたクラスメイトや、彼女を一族の恥扱いした親族の大人たちと、私は何も変わらない。
「エリカちゃん、ごめんね…」
 必死で涙をこらえて言い、部屋を出てからこっそり泣いた。
 それからは、学校の様子や、卒業後の進路に迷っていること、季節の移ろい…他愛ないことを、一方的に語り続けた。
 いくらビー玉のような瞳をしていても、きっと伝わっていると信じながら。

 2ヶ月の間、試験期間だろうと、成績が下がろうと関係なく、毎日彼女に会いに行ったが、やはり、一度も見舞客というものを見ることはなかった。
 そして、20代最後の夏、エリカは永遠の眠りについた。

 たった29年で死んでしまったエリカだが、相変わらず、親族の反応は酷いものだった。
 私の母にしても、
「本当は、あの子と親戚だなんて、学校側には知られたくなかったのに。我が家の恥は、あなたにとって人生の汚点になるからね。でも、嫌でも先生方には知られてしまうでしょ。知られてから言うのもみっともないから、あなたのほうから先に、先生方に言いなさいよ」
 私は、握りしめた拳に爪が激しく食い込んだ。
「みっともないのはどっちよ…?」
 私はそう言ったが、結局のところ、自分だって大人の言うことを真に受けて、エリカのことを軽蔑していた一人なのだ。
 だから、それ以上は何も言えなかった。

 想定していたことではあるが、担任にエリカとの血縁関係を告げると、信じられないと言わんばかりに驚かれ、全校集会で、生徒代表としてお別れの手紙を読むように言われた。
 すると、母からは、
「わかってると思うけど、一族が恥をかくようなことは書かない頂戴。あくまで格調高い文章にするのよ」
 また、そんなふざけたことを言われた。

 エリカの葬儀は、違う意味であまりに哀しいものだった。
 参列者の誰もが皆、義務、義理だと言わんばかりなのだ。
 エリカは、果たしてそんなに悪いことをしただろうか?
 確かに、過去の素行は褒められたことではなく、女に嫌われる女というタイプではあったものの、誰かに意地の悪い言動をすることはなかった。
 若くして死んでもなお、周りからそういう仕打ちを受けないといけないほとのことなどしていないはずだ。
 棺の中のエリカは、まるで少女のようで、こんなに綺麗だっただろうか?とさえ思えた。
 しかし、葬儀はあくまで事務的に行われ、この美しい女性が焼かれることを惜しむ者は、私と伯父ぐらいしか居なかったようだ。

 学校でも、エリカの死は話題になったものの、
「なんかさぁ、急な話だよね」
「殺されたとか?」
「まさかー!でも、殺されても死ななさそうだったのにね」
「あ、性病で死んだんじゃない?」
「それだー!絶対そう!」
 ギャハハという下卑た笑い声が響き渡る。
 不謹慎以前に、彼女らはどういう神経でそんなことを言って笑うのだろうか。
 気づけば、私は彼女らのほうを目掛けて、机を蹴飛ばしていた。
 彼女らは、何が起こったのかわからないという表情だ。
 真面目で退屈で無害なはずの私が、いきなりそんなことをしたら、それもそのはずだろう。
「失礼」
 その一言しか言えなかった。
 どんなに腹が立とうと、私に彼女らを責められるはずもないのだ。
 彼女らよりもずっと長い期間、エリカを誤解し続け、軽蔑してきた私には、そんな資格がない…。

 そして、全校集会では、校長やら理事長やらが、形式的な挨拶をしたあと、私が生徒代表の手紙を読む番になると、以前、私が抜けたグループの女子たちがヒソヒソと言う。
「なんでリツコが生徒代表?」
「2年生なのにね」
「しかも、受け持たれたことすらなくない?」

 そんな声を無視して、私は体育館の演台で手紙を開いた。
「先生」
 その一言から読み始めたものの、そこで止まってしまった。
 自分で書いた文章なのに、母にチェックを入れられることが前提だったので、どこまでも白々しい文章でしかないのだ。
 私は、こんな手紙など決してエリカに送りたくはない。
 手紙をビリビリに破ると、今度はよく知らない生徒たちまでもざわつく。
「先生。…エリカちゃん」
 その言葉だけでも、あいつ何だよ?勉強のしすぎで頭おかしくなったんじゃね?などという声が聞こえてくる。
「謝って済むことじゃないのはわかってる。それでも謝らせて。ごめんね…誰が何を言っても、ちゃんと自分の目で見たもの、聞いたこと以外は信じるべきじゃなかった。エリカちゃんのことを悪く言う奴らのこと…生徒だけじゃなくて、親や親戚、みんなみんな…今なら張り倒してやりたいと思うけど、私には出来ない。だってそうじゃない?何も知らない子供の頃からずっと、エリカちゃんに、酷い偏見を持ってた張本人だからね」
 あの子何言ってんの?意味わかんないよね、子供の頃って何の話?やっぱり頭おかしくなったんだろ、ガリ勉、ブス、そんな罵詈雑言が体育館中から聞こえる。
 教師らが、静かに!と叱り、その一方で、他の教師らは、私を見て、一体何を言い出すのかと青ざめている。
「私ね…優等生でも何でもないんだよね、本当は。わかってる。エリカちゃんとは似ても似つかない不細工だから、必死で勉強して、品行方正なふりでもしてないと、周りにナメられる、バカにされる、って思ってただけ。単にナメられたくないだなんて、本質はズベ公でしかないよね。エリカちゃんは、本当に可愛らしい人だっただけ。誰か一人でも、寂しさに気付いてたら…せめて、私だけでも気付いてたらね…。だけど、何を言っても、今更遅いね…ごめんね、本当にごめんね…」
 生徒たちのブーイングは、ますます激しくなる。
「もう、苦しまなくて済むよね。本当は生きて幸せになってほしかったけど…哀しみとか、苦しみとか、そこにはないんでしょう?これからはずっと幸せだよね…?ごめんね…それって、私がそう思いたいだけだよね。ごめんね…」

 ついに、何人もの上靴まで飛んでくるという、ブーイングの嵐の中、私は壇上から降りると、そのまま体育館を出ていった。
 怒ったり慌てたりの教師らが追ってきたので、私は全力で走り出すと、そのまま校舎を飛び出した。
 運良く、目の前の道路の向こうから、空車のタクシーがやってきたので、必死で止めて乗り込み、
「すぐに出してください!」
 バックミラー越しの教師らが小さくなった頃、私は幼い子供のように慟哭した…。


 エリカの死から1年。
 去年、高校2年生だった私だが、今の私は高校3年生ではない。
 あの騒動のあと、親や親戚、教師、あらゆる大人たちから、なんてことをしてくれたんだ!学校の恥、一族の恥だと罵倒され、もう優等生の仮面を投げ捨てた。
 罵倒された分だけ罵倒し返し、これまで言えなかったことを全てぶちまけると、勢いだけで家を出て、それきり一度も戻っていない。
 大人だけでなく、一時は互いに友達のような顔をしていた生徒たちも、エリカ亡き後は、飽きるまで私の陰口を叩いていたことだろう。
 こんな薄汚い世界で生きていることが嫌になり、公共交通を乗り継ぎ、そのあとは歩けるところまで歩いたら、そこで野垂れ死んだらいい…本気でそう思った。

 真夏日の炎天下、歩き続けて意識が遠のいた私は、これで死ぬのだろうと思い、その先のことは覚えていない。
 ただ、あの舌っ足らずの甘い声が、
「まだこっちに来たりしちゃダメ!」
 そう叱るのが聞こえた気がする…否、確かに聞こえた。

 目覚めたのは、知らない病院だった。
 頭上のネームプレートを見ても、名前が書かれていない。
 その後、看護師や医師に名前や住所を尋ねられても、知らない、覚えていないと、記憶障害を装った。
 また、あの町、あの家に帰されることだけは避けたかったのだ。
 そのあと、私を助けてくれたという70代ぐらいの老夫婦と面会したのだが、その二人は親切にも、私を引き取ると言ってくれた。

 1日に2本しかないというバスに長時間揺られ、その夫婦について行った先は、人里離れた小さな村だった。
 電気さえも通っていない、文明というものを放棄しているように見える村だが、僅かな村人たちは誰もが温かい。
 ほぼ自給自足で、日本にはまだこんな場所があったのかと思うほど、美しい自然に囲まれた村だ。
 私が今まで住んでいたところも、決して都会ではなかったものの、空気も水も特にきれいという訳でもなかった。
「助けて頂いて、おまけに、何も聞かずに引き取ってもらったお礼がしたいんです」
 私が夫婦に言うと、日常に必要なことをしてくれたらいい、ここは限界集落で、若者が居ないから、若い人の力を借りたい時には、助けてくれると嬉しいとだけ言われた。

 最初は、戸惑うこともかなり多かった。
 地方での暮らしをしていたとはいえ、本当の意味での田舎暮らしは初めてだったから当然だ。
 村人は、普段の暮らしで、村の外に出ることは殆どないが、私の倒れたあの日、夫婦には初孫が生まれ、その顔を見るために、たまたま町まで出てきていたとのこと。

「この村の人たちは、どうしてこんなに温かいんですか?」
 私が夫婦に尋ねると、
「誰かを憎んでも、誰も幸せにはならないじゃない。若い人たちは、こんなところは退屈だと言って出ていったきり戻らないけど、私たちはこの村で生まれ、この村で死んでいく。それだけのことだよ」
 驚いたことに、ここの村人は病院に行かないから、健康保険証すら持っていないという。
 澄んだ空気の中、規則正しい暮らし、野菜中心の食生活を子供の頃からずっと続けているから、病気にもなりにくいのかもしれない。
 もし、病気になったとしても、その時が寿命だと思うそうだ。
 限りなく100%近く自給自足の暮らしなので、殆どお金を使うこともなく、国民年金だけで充分だという。
 かなり貯金があっても、お金がない!と、ヒステリックになる大人たちを身近で見ていた私には驚きだった。

 眠れない夜など、ここへ来てからは滅多にない。
 ただ、あまりにも星が綺麗なので、ずっと見ていたくて、遅くまで起きていることは時折あった。
 この村の夜は、風が木々を揺らす音、せせらぎ、虫の声しか聞こえない。
 誰かを憎んで、憎まれて、ということもないのだ。
 ユートピアとかザナドゥのような場所が、まさか本当に存在するとは思わなかった。
 もしかして、私は死んでしまって、ここは天国なのかと思ったこともあるが、そうだとしたら、エリカがここに居ないのはおかしい。

 本気で野垂れ死にしたいと思ったあの日、私は確かにエリカの声を聞いた。
 そして、普段は滅多に村から出ないという夫婦に助けられ、今ここにいる。
 エリカが導いてくれたのだろうか?
 天国に一番近い場所へ。

「エリカちゃん、私が見える?」
 星空に向かって呟いてみた。
 その時、一瞬だけ強い風が私の頬を撫でた。
「もし、子供の頃にこういう場所をエリカちゃんが知ってたら、違う人生があったかもしれないよね…」
 1年経った今も、エリカに関する悔いは消えることがなく、人知れず自分を責めてしまう夜もある。
 しかし、私はこの痛みを忘れずにいたい。
 忘れてしまえば、私はまた愚かな過ちを繰り返してしまうような気がして…。
 今夜はやけに流れ星が見える…そう思っていたが、私はある規則性に気付いた。
「うそでしょ…」
 星の流れ方、そして煌めきが、モールス信号のようなのだ。
 中学時代、アマチュア無線部だった私は、星たちを目を凝らして見た。

「ナ カ ナ イ テ ゛」
 星空にそんなメッセージが見えた。
「うん…もう泣かないよ…」
 そう言ったくせに、私の頬を涙が伝った。
 胸の痛みは死ぬまで忘れない。
 だけど、泣くのはこれで最後にするから。
 あなたが導いてくれた、この素敵な場所で、いつかまた会える時まで生きるからね…。



FIN