そこには取り残された『今』があった。
シャッターを切りながらそんなことを思った。
※ ※ ※ ※
その骨董品店にはふんわりとしたドレスを纏った人形があって。冷たそうなフクロウの置物があって。なめらかな表面に電燈を映す壺があって。生まれた時代も場所も違う品々が、店の大きな窓からこちらを見ていた。どれも目を引くものばかりで、それぞれと目が合っているような気がした。しかしなによりも目を引いたのは、店の外に置いてある自転車。鉄が錆びたような色合いをしていたから、壊れた自転車が放置されているのかと思ったけれど、それにしては妙にきれいだった。スポークなんてつやつやしている。加えてこれは普通の自転車ではなかった。タイヤがゴムではない。リムがそのままタイヤになったような形で、とても乗りにくそうだ。まだゴムもなかった時代に作られたものだろうか。
「あら。お気に召したの。でもごめんなさいね。それは売り物じゃあないの」
店の中から健康的な老婆のフランス語が聞こえた。
わたしはたどたどしいフランス語で聞き返す。
「では、これは、なんですか?」
「それはね。このお店の看板なの」
言われてみれば、このお店には看板らしきものがない。店の外観と大窓から見える品々で、骨董品店であることはなんとなくわかったけれど、決め手になるはずの看板はなかった。この自転車が看板だなんて、言われなければ気付かないだろうな。
いや。
寧ろ逆に、わたしはこの自転車があったからここを骨董品店だと思えたのかもしれない。
店を取り囲む煉瓦の壁や石畳の道路、そこに旧時代の自転車。この風景には、この店を骨董品店と思わせる説得力みたいなものが宿っているように思えた。
「木でできているのよ。すべて」
鉄が錆びたわけじゃあなかった。このスポークのつやつやは、木を磨いたことで出るものだったようだ。
「写真を撮ってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
そう言ってにっこり笑ってピースサイン。ごめん、お母さん、あなたじゃないんです。心の中で謝って、レンズを自転車に向けた。
※ ※ ※ ※
ホテルに帰るまでの間に、お土産コーナーを見て回った。帰国はまだ数日先になるけれど、お土産を買うならここと決めていた。
ブルージュは、ベルギーの観光地として名高い。中世の街並みを残した古都は、その美しさゆえに『屋根のない美術館』とまで言われている。人気の理由はそれだけじゃあない。運河に沿うようにして作られたこの街は足元に海を感じることができ、海流の影響で夏は涼しく冬は暖かい快適な気候に恵まれている。その上、首都のブリュッセルからのアクセスも容易で、特急列車で1時間と掛からないのだ。まあ、ブリュッセルの駅がものすごく混んでいて、発券してもらうまでに結構時間が掛かったんだけどね。旅雑誌にはアクセスが簡単としか書いてなかったからあれは予想外だったな。予想外と言えば、雑誌にはブルージュの公用語はオランダ語とあったのに、実際に来てみればフランス語ばかりで驚いた。せっかくオランダ語を覚えてから来たと言うのに。もうあの旅雑誌の情報は信じないようにしよう。でも、雑誌が紹介していた観光スポットはどこも当たりだったなあ。メムリンク美術館やブルージュ聖母教会も、日本にはない雰囲気を持っていてとても気分が高揚した。けれど、さっきのなんの変哲もないあの骨董品店の風景が、わたしのこのブルージュの思い出の中でもっとも大きな居場所を作っている。どうしてだろう。わからない。でも、あの風景、やっぱりいいよね。
「えっ!?」
思わず声を出してしまった。さっき写真に撮った風景を思い浮かべながら歩いていたら、それとまったく同じ風景が目の前に突然現れたからだ。絵葉書になって。
そこはブルージュの観光スポットの風景を絵葉書にして売っているお土産屋さんだった。わたしは堪らずその絵葉書を大人買いしてしまった。まるで奇跡みたいだったから。観光スポットでもなんでもないその風景をいいと思う人がわたしの他にもいて、さらにはそれを絵にしているだなんて。
ホテルに戻り、さっそく買った絵葉書を取り出す。
「いくらなんでも買いすぎたかな」
友達へのお土産と思っていたけれど、果たしてこのわたし特有の気分の昂りをどうやって伝えればいいのか。ものすごく仲良しな人には言えば伝わるだろうけれど、仲良し度が微妙な人たちには伝えきる自信がない。
ま、いっか。
別のお土産をまた買おう。わたしはこの絵が気に入っているんだから、自分用に持っていたっていいだろう。なんなら試しに書いてみようかな。いっぱいあるし。
一枚の絵葉書を持ったまま部屋を出て、ホテルのカフェへ向かった。
店に入るとそのままテラス席に腰掛けた。運河の見下ろすその場所は、風が気持ち良かった。
頼んだコーヒーが来るまでの間、わたしは絵葉書の裏に、日記を書くようにつらつらと文字を綴った。少し気取って、慣れないフランス語で。
差出人はわたし、受取人は……。
『今、悲しんでいる人』
なんて。書いてみた。思わずにやけてしまう。旅のテンションで少しおかしいようだ。でもこのおかしなテンションごと、旅の思い出だ。どうせ実際出すこともないし、自分で保管することになるだろう。数か月後に見返して、きっと笑うに違いない。
「お待たせしました」
目の前にコーヒーが置かれる。と、同時に突風が吹いた。
「あっ」
わたしの短い声を残して風に舞い上がったのは絵葉書。ちょっと恥ずかしい絵葉書だ。ひらひらと舞い上がり、ふらふらと舞い踊り、テラスから出て運河を越え、建物の奥の方へ行ってしまった。ここからではもう拾いに行くことはない。
諦めよう。うん。まだまだたくさんあるし。それに、もしも元気がない人があれを見たら、喜んでくれるかもしれないから。
妄想と一緒に、昼下がりのコーヒーの香りを飲み込んだ。
シャッターを切りながらそんなことを思った。
※ ※ ※ ※
その骨董品店にはふんわりとしたドレスを纏った人形があって。冷たそうなフクロウの置物があって。なめらかな表面に電燈を映す壺があって。生まれた時代も場所も違う品々が、店の大きな窓からこちらを見ていた。どれも目を引くものばかりで、それぞれと目が合っているような気がした。しかしなによりも目を引いたのは、店の外に置いてある自転車。鉄が錆びたような色合いをしていたから、壊れた自転車が放置されているのかと思ったけれど、それにしては妙にきれいだった。スポークなんてつやつやしている。加えてこれは普通の自転車ではなかった。タイヤがゴムではない。リムがそのままタイヤになったような形で、とても乗りにくそうだ。まだゴムもなかった時代に作られたものだろうか。
「あら。お気に召したの。でもごめんなさいね。それは売り物じゃあないの」
店の中から健康的な老婆のフランス語が聞こえた。
わたしはたどたどしいフランス語で聞き返す。
「では、これは、なんですか?」
「それはね。このお店の看板なの」
言われてみれば、このお店には看板らしきものがない。店の外観と大窓から見える品々で、骨董品店であることはなんとなくわかったけれど、決め手になるはずの看板はなかった。この自転車が看板だなんて、言われなければ気付かないだろうな。
いや。
寧ろ逆に、わたしはこの自転車があったからここを骨董品店だと思えたのかもしれない。
店を取り囲む煉瓦の壁や石畳の道路、そこに旧時代の自転車。この風景には、この店を骨董品店と思わせる説得力みたいなものが宿っているように思えた。
「木でできているのよ。すべて」
鉄が錆びたわけじゃあなかった。このスポークのつやつやは、木を磨いたことで出るものだったようだ。
「写真を撮ってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
そう言ってにっこり笑ってピースサイン。ごめん、お母さん、あなたじゃないんです。心の中で謝って、レンズを自転車に向けた。
※ ※ ※ ※
ホテルに帰るまでの間に、お土産コーナーを見て回った。帰国はまだ数日先になるけれど、お土産を買うならここと決めていた。
ブルージュは、ベルギーの観光地として名高い。中世の街並みを残した古都は、その美しさゆえに『屋根のない美術館』とまで言われている。人気の理由はそれだけじゃあない。運河に沿うようにして作られたこの街は足元に海を感じることができ、海流の影響で夏は涼しく冬は暖かい快適な気候に恵まれている。その上、首都のブリュッセルからのアクセスも容易で、特急列車で1時間と掛からないのだ。まあ、ブリュッセルの駅がものすごく混んでいて、発券してもらうまでに結構時間が掛かったんだけどね。旅雑誌にはアクセスが簡単としか書いてなかったからあれは予想外だったな。予想外と言えば、雑誌にはブルージュの公用語はオランダ語とあったのに、実際に来てみればフランス語ばかりで驚いた。せっかくオランダ語を覚えてから来たと言うのに。もうあの旅雑誌の情報は信じないようにしよう。でも、雑誌が紹介していた観光スポットはどこも当たりだったなあ。メムリンク美術館やブルージュ聖母教会も、日本にはない雰囲気を持っていてとても気分が高揚した。けれど、さっきのなんの変哲もないあの骨董品店の風景が、わたしのこのブルージュの思い出の中でもっとも大きな居場所を作っている。どうしてだろう。わからない。でも、あの風景、やっぱりいいよね。
「えっ!?」
思わず声を出してしまった。さっき写真に撮った風景を思い浮かべながら歩いていたら、それとまったく同じ風景が目の前に突然現れたからだ。絵葉書になって。
そこはブルージュの観光スポットの風景を絵葉書にして売っているお土産屋さんだった。わたしは堪らずその絵葉書を大人買いしてしまった。まるで奇跡みたいだったから。観光スポットでもなんでもないその風景をいいと思う人がわたしの他にもいて、さらにはそれを絵にしているだなんて。
ホテルに戻り、さっそく買った絵葉書を取り出す。
「いくらなんでも買いすぎたかな」
友達へのお土産と思っていたけれど、果たしてこのわたし特有の気分の昂りをどうやって伝えればいいのか。ものすごく仲良しな人には言えば伝わるだろうけれど、仲良し度が微妙な人たちには伝えきる自信がない。
ま、いっか。
別のお土産をまた買おう。わたしはこの絵が気に入っているんだから、自分用に持っていたっていいだろう。なんなら試しに書いてみようかな。いっぱいあるし。
一枚の絵葉書を持ったまま部屋を出て、ホテルのカフェへ向かった。
店に入るとそのままテラス席に腰掛けた。運河の見下ろすその場所は、風が気持ち良かった。
頼んだコーヒーが来るまでの間、わたしは絵葉書の裏に、日記を書くようにつらつらと文字を綴った。少し気取って、慣れないフランス語で。
差出人はわたし、受取人は……。
『今、悲しんでいる人』
なんて。書いてみた。思わずにやけてしまう。旅のテンションで少しおかしいようだ。でもこのおかしなテンションごと、旅の思い出だ。どうせ実際出すこともないし、自分で保管することになるだろう。数か月後に見返して、きっと笑うに違いない。
「お待たせしました」
目の前にコーヒーが置かれる。と、同時に突風が吹いた。
「あっ」
わたしの短い声を残して風に舞い上がったのは絵葉書。ちょっと恥ずかしい絵葉書だ。ひらひらと舞い上がり、ふらふらと舞い踊り、テラスから出て運河を越え、建物の奥の方へ行ってしまった。ここからではもう拾いに行くことはない。
諦めよう。うん。まだまだたくさんあるし。それに、もしも元気がない人があれを見たら、喜んでくれるかもしれないから。
妄想と一緒に、昼下がりのコーヒーの香りを飲み込んだ。