夏休みの終わり、母は約束通り病気を治した。

 (みのり)も母の言いつけ通り、ときを止めずに毎日朝を迎えた。3年生になり、中学生になり、高校生になった。母はいつも笑顔で傍に居てくれた。

 高校を卒業する時分に、母は他界した。突然であっけのないものだった。しかし稔にとってはそうであっても、叔父の評価は違った。手術が成功したのもそれから約10年生きられたのも奇跡のようなものだと言っていた。
 そのときはさすがに時間を止められるなどとは考えていなかったが、それでも小学生のときの自分の行いを思い出さずにはいられなかった。もしも時間を止められていたのなら、などと夢想せずには。しかしそれでもきっと、結局は時間を止めず朝を迎えることになっただろう。なぜならあのときの母の苦しみを取り除くにはやはり手術をするしかなかったし、母がいつも笑顔でいられたのは稔が成長していったからに違いないからだ。学校でのあれこれ。テストのことや成績のこと、部活のことや友達のこと。それらを聞いて笑う母はきっと幸せだったに違いない。

「だからときを止めないで」

 母の言葉通り、稔は歩みを止めなかった。


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 トーストにマーガリンを塗り、(かじ)る。コーヒーを(すす)る。
 ワイシャツの袖をずらして、腕時計の針を確認する。家を出るまであと30分。いつもならあと30分遅く出るのだが、今日は大事なプレゼンの日だ。少し早く出社して資料にもう一度目を通しておきたい。稔はため息を吐いた。

「嫌だなあ。緊張するなあ」

 思考の癖で、稔はこういうとき大概「時間が止まれなばあ」と思う。そして同時に幼き日に母からもらった言葉を思い出す。滔々(とうとう)と語られた『時間の(ことわり)』。

『これからもし同じように時間を止めたくなるときが来たら、今日のことを思い出してね。立ち止まって苦しい思いをずっとそこで抱えるんじゃなくて、違うところへ行くために歩き出してね。勇気がいるかも知れないし、歩き出せないかも知れない。だけど、そんなミノくんが歩き出しやすいように、時間は頑張って進んでるんだよ。ミノくんが振り返ってしまってもいいように、その分時間は巻き戻らないんだよ。ミノくんがどれだけ頑張って走ってもいいように、時間はすぐに追い付いて来てくれるんだよ。そしてどれだけ寒い日が来てもミノくんが(こご)えないように、時間は凍らないんだよ』

 思考が暗がりに落ちて行きそうなとき、稔は時計を(なが)める。腕時計の針は毎秒正しく進んでいる。あのとき止まらなかった時間は、今もこうして傍に居てくれている。自分のために。歩き出すために、振り返るために、頑張るために、凍えないために。そう思うと、時間の正体はもしかしたら母なのかも知れない。そんな愉快な妄想をしてしまって、笑いそうになって、いつの間にか歩き出している。
 出発まであと5分。ネクタイを締めて、スーツを着る。革靴を履いて玄関を開けた。

 今日も正しく、朝を迎えた。