離婚の話がしたいと一花が言うと八重は怯んだが、すぐに首を振った。
「その前に宴会に出席してほしい」
「え?」
 首を傾げると、使用人の片割れ、莉桃と名乗った桃色の着物の少女が言った。
「実は一花様が来ると聞きつけた他の神様が宴会をしようと張り切ってしまわれて」
「八重様も浮かれて止めませんでしたので、宴会には参加していただきたいのです。八重様の顔を立てると思って」
 お願いしますと頭を下げたのは、青い着物の菜々葉だ。
 宴会も気になったが、それよりも気になった『他の神様』という単語に思い切って質問する。
「あの、八重様は一体何者なのでしょうか。それに他の神様ってどういうことですか?」
 一花の言葉に莉桃と菜々葉は目を大きく見開き、八重を見た。
「説明していないのですか?」
「お手紙のやりとりをしていたんですよね?」
 詰め寄られた八重が言い辛そうに顔を歪める。
「うっ、手紙のやりとりはしていたけど、そんな話はしていないよ」
「じゃあ一体何の話をしたいたんですか?」
「手紙では元気にしている? とか他愛もない日常を綴っていたよ。今日も桜が綺麗だよとか」
「素性の説明はしていないんですか? そんな隠居したお爺さんの日記みたいじゃないですか」
 中々酷い言い方である。莉桃も菜々葉も八重を慕っているのは分かるが、そのやりとりには遠慮がない。主従関係というより家族のようだ。
 いいな、と一花は思った。一花には母と父、それから遠くに住んでいる祖父母がいるが、父親は離婚して家を出てから一度も会っていないし、祖父母にも最近会えていない。母はあまり家に帰って来ない上に、そもそも気軽に口を利ける関係性ではない。
 三人のやりとりは羨ましく、眩しく映った。
「一花様、宴会の前に八重様や他の神様の事を説明しますね」
 説明を買って出てくれたのは、莉桃だ。
「この世界には四季を管理している神様憑きと呼ばれる家が存在しています。気温や天候を操り、草花を芽吹かせ、季節を変える。八重様は春を担当しているのです。冬の神様から受け継ぎ、春の風を吹かせ、桜を咲かせ時には雨を降らせる。そして夏の神様へと引き継ぐ。人間である一花様には非現実的な話かもしれませんが、事実なのです」
 非現実的なのは確だが、魔法みたいな出来事を自身が体験しているのだ。疑う余地はない。
 しかし、何故そんな高貴な人が一花などと結婚したのだろうかと違う疑問は浮かぶ。
「今回、八重様のお嫁さんがやっと来るからと宴会に参加してくださっているのが、夏、秋、冬の神様です。皆さん癖が強いですが心優しい方ですよ」
 四季の神様達は懐が深いといえど一花が宴会の参加を断れば、八重の顔に泥を塗るのは間違いない。
 折角参加している神様をがっかりさせるわけにはいかないと一花も宴会に参加することになった。
「でも、私、あまり作法など詳しくありません」
「作法何てないよ。皆で大きなテーブル囲ってどんちゃん騒ぎするだけ」
 ふたりに詰め寄られて落ち込んでいた八重も宴会の様子を思い浮かべたのか楽し気に説明に加わった。
「皆が美味しいご飯作ってくれているから遠慮せずたくさん食べてね」
「あ、は、はい」
「さあ、じゃあ早速行こうか。あんまり肩に力を入れないでね。どうせ僕らが離婚するって言っても関係なしに騒ぎ始めるから何にも気にしないでいいよ。でも一花は僕の傍から離れちゃ駄目だよ」
 手を取られ、長い廊下を進む。
 高校で男友達もいたが意識することはなかったし、夫になる予定のあの男に触られた時には気持ち悪さすら感じたのに八重に触られると緊張してそわそわした。距離が近いせいか、八重から花のような匂いが漂ってきて落ち着かなくなる。
 離婚するのに、と理性が止める。しかし手を離そうとは思わなった。

 八重の言う通り一花と離婚する話をしても宴会の開催は中止されなかった。
 室内の大半を占める長い大きなテーブルには所狭しと料理が並べられている。
 八重が住んでいるここは春屋敷と呼ばれ、宴会に参加するのは他の神様三名とその従者、それから春屋敷の使用人達だ。使用人も宴会に参加するのは新鮮な気がする。
「使用人と言っても家族のようなものだからね、一緒にお祝いしてほしいんだ」と八重が言った。
 家族に祝われたいと話す八重の顔はどこか切ない。一花が離婚など言い出さなければこの笑顔が陰ることもなかったのだろう。そう思うと申し訳なさで視線が下がる。
「暗い顔をしないで、そんな顔をしてほしいわけじゃないんだ」
「そうだぞ、八重が一年も会いに行かなかったのが悪いんだからな。一花ちゃんが気にすることなんかないって」
 八重の言葉に陽気な声が割り込んできた。
 短髪の爽やかな男性は、夏の神様だと紹介された立夏だ。夏の神様だけあって太陽の日差しが良く似合うひだまりのような男だ。
「そうですよ。振った男と食事何て気まずいかもしれないですけど、ご飯に罪はありませんからねえ」
「たくさん食べて元気になりなさいね」
 次に茶々を入れたのが、秋の神様、理知的な雰囲気の紅葉という男性だ。ゆるいパーマのかかった髪を後ろで括っている。そしてしっとりとした笑みを浮かべているのが冬の神様の時雨、唯一の女性の神様ではらりと髪にかかる姿が儚く美しい。
 神様は三者とも離婚の話を聞いても一花を責めなかった。それどころか会いに行かなかった八重を責めるしまつだ。気の置けない仲なのが雰囲気から伝わって来る。神様達と話す八重はリラックスしていて、少し子供っぽい。
 手紙を読んている時には落ち着いている大人の男性というイメージだったのに、実際の八重はころころと表情が変わり賑やかだ。
 神様達と話をする八重の横顔をじっと見ていると、視線に気づいた八重が「どうしたの」と聞いて来た。
「あ、いえ、八重様ってお手紙のイメージと違うなと思って」
 一花の一言に八重の表情がびしりと固まる。
 何か変なことを言っただろうか。一花の疑問に答えたのは、ぶはっと噴き出した紅葉だ。
「八重はね、一花さんにに落ち着いた大人な男だと思って欲しいからと猫を被っていたんですよ。会った途端化けの皮が剥がれたみたいですね」
 八重は笑う紅葉を睨んだ後、一花には困ったように眉を下げた。弁明はない。本当のことらしい。
 ごほんと八重が咳ばらいをした。そしてがしっと目の前に置いてあったコップを掴んで持ち上げた。
「もう僕の話はいいから! 宴会を始めます! 乾杯!」
 投げやりな言い方に皆笑いながらコップを持ち上げるので、一花も慌てて近くにあったコップを持って掲げた。
 乾杯、と皆が口々に言いながらコップを合わせ、宴会が始まった。
 神様も使用人も垣根が無く食事を楽しんでいる。皆驚く程よく食べた。テーブルにあった食事は直ぐに無くなり、その度に新しい食事は運ばれて来る。良い食べっぷりに驚く。
 一般的な食事量の一花があまり食べていないと思ったらしい八重が、一花の皿のどんどん食べ物を盛っていくので、お礼を言いつつ途中で止めてゆっくりと食事を楽しんだ。
 酒が入ると宴は陽気さを増し、儚い印象だった時雨が大口を開けて笑い、一花の隣に座った。
「一花ちゃんの好きになった人ってどんな人? 写真ないの?」
 好きな人、と言われても誰の事を言っているのか一瞬分からなかった。
 しかし、すぐに一花の事を五千万で買った男だと気が付く。
 好きな人だと誤解されたままだったことを思い出して反射的に顔を歪めてしまう一花に気付いた時雨が顔を寄せて来た。
「なあに、もしかして訳アリ? お姉さんに話してみなさい」
 話すべきかどうか悩んだが、宴会の雰囲気に流されて事情を口にしていた。
 八重から貰った金が尽きていること、新しい男を母が連れてきて結婚するように迫ったこと。そして、一花が五千万で男に売られたこと。
 話している内に宴会の雰囲気が凍り付いていた。しかし話すことに夢中な花は気付かないまま口を動かし続けた。
 いつになく饒舌に喋ってしまった。はしたなかったかも、と口を押さえて漸く静まり返った宴会場に戸惑いの視線を向けた。
「あの……?」
「今の話、本当?」
 ずいっと顔を寄せて来た時雨に目を頷く。
 すると、全員が詰めていた息を一気に吐き出し、視線を八重に向けた。
 事態が把握できていない一花もつられて八重を見ると、驚いたことに八重の顔には怒りの色が滲み、皺ひとつできなさそうな綺麗な眉間が歪んでいる。
「お金で娘を売ったの?」
 八重の吐き出す声が低く、固いものになる。八重に剣呑さが増すと外からごろごろと不穏な音が聞え始め、一花が恐る恐る頷くと外が光り、ぴしゃんと落雷が落ちた。
 話さなければ良かったかもしれないと冷や汗が背名を伝う。
「なんだそれ。五千万ごときで一花を売るの? ありえない。金が足りないのなら言えばいいんだ」
 八重の言葉にその場にいた全員が同意する。
「ありえないな、そんな男がいるのか」
「母親の元になんて帰らない方がいいですよ」
 立夏と紅葉が怒りの言葉を吐き出し、時雨は一花に向かって手を出して来た。
「スマホある? 連絡とか来てないの?」
 八重と共に春屋敷に来てから一度もスマホを確認していない。恐らく悍ましいほどの連絡が来ているだろう。画面を見るのが怖くて出したくない一花に時雨は「私が確認してあげるから」と言ってスマホを出す様に言った。
 画面を見ずに時雨に差し出す。ミュートにしているスマホはずっと沈黙していた。時雨は無表情でスマホを操作して行く。
 あまりにも表情が変わらないので、もしかしたら連絡など入っていないのかもと思い始めていた時。
 時雨が盛大に舌を打った。美しい顔に似つかわしくない音に幻聴を疑う。
「なにこれ、どういう神経していたらこんなクソみたいな文章打てるわけ?」
 妖艶な唇から紡がれる言葉はどんどん激しさを増していき、一花が聞いたこともない暴言を吐き始めた所で立夏が止めた。
「ちょっと時雨、一花ちゃん引いているから」
「そんなこと関係ないわ。あのね、一花ちゃん。こんな物みたいに扱われて悔しくないの?」
 時雨の華奢な手が一花の肩を掴む。
「悔しいと思わないと駄目よ。それと母親だからって何でも言うこときいては駄目。絶対にね。良い? 貴方はもう自由の身なんだから母親の主張なんて無視しなさい」
「で、でもお母さんは家族だから……」
 家族は大切にするものでしょ、というのが母の口癖だった。
「でもじゃない。貴方は八重と結婚したんでしょ? だったら八重だって貴方の家族よ。八重のことも大切にしなさい」
 はっとした。
 確かにそうだ。
 一花は一年前に八重と結婚したのだ。家族になったのに一花にその認識が薄かった。
「家族が出来るって楽しみにしていたのよ。お母さんとだけじゃなくて、八重とも向き合ってあげて」
 時雨の言葉に一花は唇を噛みしめて頷いた。

 宴会はお開きになり、片づけが行われている部屋を一花と八重は一足先に後にした。
 少しだけ歩こうと月明かりに照らされた桜の下を歩く。はらはらと舞う桜の美しさに感動している心の余裕はない。
「ごめんなさい」
 一花は足を止めて、謝罪を口にした。
「どうして一花が謝るの?」
 八重は不思議そうに首を傾げる。
「お母さんが怖いからって八重様に酷いことを言いました。笑顔が溢れる家族になりたいって言ったのは私なのに八重様の事を大切にできていませんでいた。ごめんなさい」
 一花の懺悔に八重は首を横に振った。
「俺だって大切にできていなかったよ。結婚してから一年間も会いにいけなかったし、一花が苦しんでいる時に傍にいてあげられなかった」
「それは、何か事情があったからじゃ……」
「そうだね。事情があった。でもそれは一花だって同じだよ。お母さんっていう事情を抱えていたんだから自分の事を責めないで」
 この人は、どこまで優しいのだろうか。
 なんでも受けとめてしまいそうな八重に何の言えなくなってしまう。
 無言でただ見つめることしかできない一花に微笑んみながら八重が言う。
「中学で婚約するのは、とても不安です。でも家族になるのなら笑顔が溢れる穏やかな家庭にしたいです」
 その一言に目を見開く。
 それは、一花が一番最初に八重に送った手紙の内容だった。
「お、覚えているんですか?」
「そりゃあそうだよ。あれがきっかけで一花に興味が沸いたんだから」
 八重は懐かしむように目を細めた。
「僕の家はさ、凄く特殊だから後を継ぐ子供が絶対に必要なんだって。だから結婚できる年齢になったら相手を募集するの。表向きはただの金持ちの家だからたくさん応募があったよ。でも、僕の両親は仲が良くなかったから結婚に夢なんてなかったし、正直どうでも良かった。だからね……ごめん、怒らないで欲しいんだけど、実は結婚相手はくじ引きで決めたんだ」
「えっ」
「ごめん。最初は本当にどうでも良かったんだ。でも、一花の手紙を読んで気が変わった。両親が離婚してても結婚に夢を持っていて、僕に家族になろうって言ってくれた。どんな子なんだろうって思って返信を書いたんだ。そしたら、ふふ、楽しかったな。一花は落ち着いてそうなのに突拍子もないことをするよね。借り物競争の時に坊主っていうお題で頭がぴかぴかの教頭先生を連れて行って怒られた話が好きだったな」
 高校一年生の体育祭の思い出だ。
 初めての体育祭で、人の視線を集めながら走ることに慣れておら、ずっと狼狽えていた。お題の『坊主』を見た時に頭に浮んだのはお寺の住職だった。そして住職に似ている教頭先生を連れて行ってしまった。きっとお題を書いた人は野球部とかを想定していたはずだ。
 教頭先生には怒られなかったが、担任の先生に少しだけ怒られた話を手紙に書いた。それを覚えてくれていた。
「他にも色々覚えているよ。全部大切に保管してある。高校で出会った人にとられるの嫌だって思ったから十八歳になった途端婚姻届け送ってごめん。会いに行かなかったのは、会っちゃったら離れられなくなりそうだったのと、一花の体に僕のせいで不調が出るのが嫌だったんだ。僕は、少し特種な体質だから」
 雨を降らしたり、風を吹かせたりすることを言っていると分かった。
 もし八重の降らせた雨が原因で一花が体調を崩して高校を休んだりしたら優しい八重は気にしてしまうだろう。
 だから会う決心がつかなかったと、八重は眉をハの字にした。
「だけど、今回の一花の話を聞いてさっさと会っておけば良かったと思った。そしたら変な男が寄り付くこともなかっただろうし」
 八重は一花の手を取った。
「本当は、一花が本当に好きな人がいて僕のことなんて嫌いでたまらないなら、嫌だけど、絶対に嫌だけど帰してあげようと思ってた。一花が選んだのならそっちの方に行くべきだ」
 春を彷彿とさせる淡い桃色や薄い青の混じった不思議な色の瞳から目が離せなくなる。
「でもね、一花が辛いのなら離婚なんてしないし、そんな男にやりたくない。ここにいて」
 一花はこれまでの人生は母親の采配で決まっていた。中学で結婚し、高校は金がかからない近場を選び、結婚するから大学には行かなくていいねと大学進学は断たれた。
 母には一花の意識など必要なかったのかもしれない。言うことを聞いてくれればそれでよかったのだろう。
 だから、選択肢を迫られることなんてなかった。
 時雨は一花は自由だと言った。そうかもしれない。
 選択する権利をやっともらって気がした。
「家族に、なってくれますか?」
 冷え切った家族ではなく、春屋敷のような笑顔溢れる家族が良い。
 一花の言葉に八重の顔がぱっと明るくなる。
「もちろん。絶対に幸せになろう」
 繋いだ手の心地よさに一花は満面の笑みを浮かべた。