今日は、なにかとドタバタした一日だった。
 中野先生に提出物があったので、私は昼休みに職員室へ行った。
 いつもは給食だが、今日は弁当の日。
 先生達も、各々が弁当を持って出勤していた。

「失礼しまーす」

 ノックをして職員室に入り、中野先生の席に向かった。

「先生、プリントまとめてきました」
「ありがとう、夏希さん」

 まとめると言っても三枚だけど、端を揃えて中野先生に手渡した。

「では、失礼しま……」
「いただきま~す!」

 職員室から出ようとしたら、川村先生の大きな声が聞こえた。
 どうやら、カップラーメンを食べようとしていたようだ。
 どんなラーメンか気になって、こっそりと近づいて覗き込んだ。
 しかし、蓋がもう剥がされていて、何のラーメンか分からない。

「混ぜて混ぜてー。胡椒をかけてー」

 川村先生は、よく分からない歌を口ずさみながら、ラーメンを箸でぐるぐるかき混ぜていた。

「ふーっ、ふーっ……ずずずっ……ん? んんっ!?」

 麺をすすった川村先生が、妙な声を出した。

「かってぇー! なんだ、これ!」

 顔をしかめた川村先生が、慌ててゴミ箱からラーメンの蓋を拾った。

「うわー、これ、三分じゃなくて五分じゃん!」

 どうやら、お湯を入れてから待つ時間を間違えたようだ。
 この様子だと、作り方の説明をよく読んでいなかったんだろう。
 お気の毒さま……。

 そんなことを思いながら、ふと窓の外を見た。
 そのとき、職員用の駐車場で何かが動いているのを見つけた。
 よく見ると、大きなカモシカが、川村先生の車のサイドミラーを美味しそうにペロペロと舐めている!
 私は言葉を失い、その光景を呆然と眺めていた。
 すると、中野先生が私を見て声をかけてきた。

「夏希さん、どうしたの?」
「あの……川村先生の車をカモシカが舐めてます」
「えっ……?」

 中野先生はびっくりして、窓の外を見た。

「えっとー……シカ?」
「そうですね。あれはカモシカですね」
「初めて見たわ! あれがカモシカなのね。よく見ると可愛いわね」

 中野先生は都会出身だから、動物を見慣れていないようだ。

「でも、あれ成獣ですねー。基本、おとなしいですけど、驚かさないように温かく見守りましょう」
「あっ、そうなのね。夏希さんは驚かないのね」
「ええ、見慣れてますから。うちの庭にも出ますし、子どものカモシカと遊んだこともあります」

 中野先生は、目を丸くして私を見つめた。

「すごいわね! たくましいのねえ」

 私はふと我に返り、川村先生に声をかけた。

「あのー、お食事中失礼します」
「どうした、なっちゃんー」

 川村先生は、不味そうにラーメンをすすりながら答えた。

「あのー、大変申し上げにくいんですが……。先生の車なんですけど……カモシカにサイドミラー舐められてますよ」
「ははは、そんなわけ……」

 川村先生はそう言いながら、自分の車を見た。

「うわあぁぁぁ! 何じゃありゃぁぁ!」

 大声をあげた川村先生は、ラーメンを放置して外に出ようとしていた。
 慌てて私は川村先生を止めた。

「下手に手を出すと驚いてしまって、先生の車がどうなってしまうか分かりませんよ!」
「じゃあ、どうしろっていうんだ!? 俺の愛車がー! 洗車したばっかりなのに!」
「更にきれいになって良かったじゃないですかー。まぁ、そのうちいなくなりますよ。温かく見守ってましょう」
「温かくって、お前……」

 そんな私と川村先生のやり取りをよそに、内藤先生はニヤニヤしながら、カモシカが川村先生の車を舐める様子を携帯で撮影していた。

「内藤先生! そんなことしている場合じゃないよ! なに写真撮ってんだよ!」
「……あっ」
「えっ……?」

 内藤先生の視線の先を追うと、カモシカが舐めていたサイドミラーが見当たらない。
 そして、カモシカもいなくなっていた。

「川村先生、サイドミラーひとつ無いですよ?」

 私が呟くと、川村先生は「なにぃ!」と言って、自分の車に走っていった。
 職員室の窓を開けて、私は「先生、大丈夫ですかー」と叫んだ。
 すると、川村先生が何かを拾って、こっちにやってきた。

「これ……」

 カモシカにへし折られてしまったサイドミラーを手にしている。
 川村先生は言葉を失い、それ以上の台詞が出てこない。
 内藤先生は、

「あー、これはやられましたねー。車屋に電話したほうがいいですよー」

 と、川村先生の肩を叩きながら言う。
 川村先生は、しょんぼりしながら、携帯を取り出して電話をかけようとした。
 私はすかさず声をかける。

「あっ、川村先生。ここ、圏外です。学校の電話使うしかないですよ」
「田舎って、怖いなあ……」

 電話機に手を伸ばした川村先生にお辞儀をして、教室に帰った。
 かわいそうに……と思いながら。


 次の時間は数学だ。
 数学は内藤先生の担当だ。
 いつもどおり、のどかな授業が進む。
 お相撲さん並の体型の内藤先生は、いつもと変わらないパッツンパッツンのジャージ姿だ。
 私達はもう見慣れているので、黙々と授業に集中していた。

「それで、このXにYを移乗して……あっ」

 ポキッと音がして、内藤先生が持っていたチョークが折れた。
 力が強いから、いつもチョークを折ってしまうのだ。

「またやっちゃった……よいしょっと」

 落ちたチョークを拾おうと、内藤先生がしゃがんだ。
 その瞬間……。

 ビリッ……。

 私の耳に、何かが破けたような音が聞こえた。

「ねえ、いま、何か破ける音しなかった?」
「えー? 何も聞こえなかったよ」

 ふーは聞こえなかったらしい。
 それを聞いていた千秋も、分からないというふうに首を横に振っている。

「どうしたのー?」

 私達が喋っているので、内藤先生が尋ねてきた。

「いやー……何かビリッて破ける音が聞こえたので……」
「えー? 何も聞こえなかったけどなー。授業進めるよー」
「すみません。でも、確かに……」

 内藤先生は、再び黒板に向かって、公式を書き始める。
 すると、内藤先生のお尻の部分が、縦にパックリと裂けていた。
 その瞬間、生徒三人は同時に吹き出した。
 笑いを堪えるのが大変だ。
 お尻の裂けたところから、真っ赤なパンツが見えている。

「三人とも、笑っちゃって、どうしたの?」

 内藤先生は全く気づいていなくて、不思議そうに聞いてきた。

「いや、あの、えーっと」

 千秋は、どう言っていいか分からずに、口ごもっている。
 ふーは、お腹を押さえて笑っていて、テーブルに伏せていた。

「先生、今日は赤色のパンツ穿いていますか?」

 私が直球で言うと、千秋とふーが慌てて止めようとした。

「ちょっと、なっつ! あんたには配慮ってもんがないの!?」
「そうだよ! そんなストレートに言っちゃダメだよ!」
「え、なにが?」

 私がきょとんとしていると、内藤先生が慌ててお尻を押さえた。

「うわっ! ズボンが裂けている! どうしよう……。まず、みんなは自習してて!」

 内藤先生は、お尻を押さえながら走って教室を出ていった。
 まるで、トイレを我慢しているみたいだ。
 教室には、残された私達の笑い声が盛大に響いていた。


 今日最後の授業は、中野先生が担当する国語だ。

「きりーつ、れいー、ちゃくせーき」

 私が号令をかけ、席につく。
 中野先生も教壇で椅子に座り、授業が始まるかに思えた。

「はぁ……」

 中野先生は、座った瞬間、大きな溜め息をついた。
 心なしか、元気がないように見える。

「先生、どうしたんですか? 溜め息なんてついて」

 千秋が聞くと、中野先生は重い口を開いた。

「それがねー。最近、体重が全然減らなくて……」

 何かと思えば……また始まったか。
 私達は心の中で、盛大にズッコケた。
 中野先生は、こういう無駄話で授業をつぶしてしまうことが多々ある。

「先生、この間の運動器具はどうなったんですか?」
 
 ふーが手を挙げて聞くと、中野先生は溜め息交じりに言う。

「あー、あれね……。三日も持たなかったわ……。足が疲れちゃってね」

 この間の授業で、中野先生は通販で買ったという、足踏みする器具のことを自慢気に話していたのだ。
 色々買っているみたいだけど、だいたい三日坊主で終わる。

「どうしたらいいのかしらねえ。みんなはどう思う?」

 どう思うも何も、思春期の私達に聞かれても困る。
 呆れている私と千秋をよそに、ふーだけはノリノリで質問を繰り返していた。

「他にどんなダイエットしてるんですか? 参考までに聞かせてください」

 ふーは、ダイエットに興味があるらしい。

「あとはねー。食事を減らしたり、ヘルシーなものを食べたりしてるわね。今日もゼリーしか食べてないの。だから、さっきお菓子食べちゃった」

 だから減らないのじゃないかと、私は思った。
 時計の針を見ると、開始から十五分が過ぎていた。
 私達は、授業が始まる気配は無いなと思い、広げていた教科書とノートを閉じて、中野先生の話に耳を傾けた。

「食事だけですか? 運動はしないんですか?」
「えーっと、あとは休みの日にジムへ通ったり、インターネットで痩せるダンスを見つけてやってみたりしているのよ」

 ダンスをしている中野先生……。
 あの美貌を保つのも大変なんだなあ。
 中野先生はアラフォーの美人で、スタイルも抜群だ。
 ダイエットなんて、する必要がないように思える。

「あなた達もアラフォーになれば分かるのよ。減らそうと思っても、そのときには既に遅いのよねー」

 中野先生は、延々とダイエットの苦労話を続けていく。
 ふと時計を見ると、授業が終わる五分前になっていた。
 私達は教科書とノートをしまい、帰る準備を始めた。
 その間も、中野先生は淡々とダイエットについて喋っていた。

 キーン……コーン……カーン……コーン……。

 チャイムが鳴り、中野先生はハッとしたように顔を上げた。

「あら、もうこんな時間! 時間が経つのは早いわねえ。今日はこれで授業を終わりにしまーす。日直さん、号令お願いします」

 号令をかけるも、私は授業なんてやってたっけと思った。
 中野先生はスッキリしたのか、上機嫌で職員室へ戻っていった。

「さっきの授業、何だったけ?」

 私が呟くと、千秋が、

「国語でしょ?」

 と、冷静に答えた。

「そうだっけ? ダイエットの授業じゃないの?」

 ふーは真顔で言っていた。
 ダイエットの授業って何だよ。
 私は呆れながら、掃除に向かった。


 放課後の掃除は、分担して行う。
 自分の持ち場が終わると、私は職員室に報告しに行く。

「失礼します。中野先生、音楽室の掃除終わりました」
「はい、お疲れ様」

 すると、校庭からパーン、パーンと運動会のスターターのような音が聞こえた。

「この音、なんですか?」
「あー、これね。なんか、有線放送が流れて、この周辺に熊が出たらしいのよ。それで、校長先生が追い払うためにスターターを使っているの」
「えー、怖い。どうしよう」

 そこに、隣の小学校の校長先生がやってきた。

「お疲れさまですー。あ、なっちゃん、今日も頑張ってるねえ」
「お疲れ様でーす」
「ところで、スターターの音が聞こえたんですけど、どうされましたか?」

 中野先生が、事情を説明する。

「あー、あの有線の件ですか。あれは、ここじゃなくて、隣の学区ですよ」
「そうなんですか! 校長先生ー! 小学校の校長がお見えですー!」

 中野先生は、窓を開けて校庭に向かって叫んだ。
 校長先生が気づいて、周りを警戒しながら戻ってきた。

「あー、お疲れさまですー。どうされましたか?」
「校長先生、熊はここじゃないそうです。隣の学区だそうですよ」
「ええっ、そうなんですか! 私はてっきりここだと思って……ご迷惑をおかけしました」

 校長先生は、ほっとしたようにスターターを片付けにいった。
 こうして、生徒達の安全は守られたのであった。

「中野先生、校長先生は一人で行ったんですよね。怖かったでしょうね」

 私が言うと、中野先生はくすくす笑った。

「それがね。放送を聞いてすぐに、スターターを持ってパンパン鳴らし始めたの。私、行ってきます、とか言ってね。すごく勇敢で頼もしかったのよ」
「そうなんですか。さすが校長先生ですね」

 いつも草刈り、草取り、花壇の掃除と、のんびりしている印象だったけれども、やるときにはやるんだなと、私は感心した。
 姫乃森中学校は、こんな愉快な先生達に守られている。
 だから、生徒達は楽しく一日を過ごせるのだ。