「ただいま」
深夜0時15分。
いつもの時間、いつもの帰宅ルートで、いつもの僕の住むマンションに到着した。
真っ暗な部屋から返事がかかることはない。以前「犬か猫でも飼おう」と提案してくれたっけ。白根 有希は動物が好きだったから、もし尻尾を振って出迎えてくれるペットを飼っていたら、それはそれは喜んだだろう。
仕事柄、朝早く家を出て、日付が変わる頃に帰宅する。休日も客の電話が鳴れば応じる。
必然的に有希とのすれ違いは起こり、彼女の抱えていた寂しさやストレスに気づいてやれなかった。喧嘩が増えるたび、より有希のことが見えなくなっていった。彼女の心が僕から離れていったのも、気付いたのはだいぶ後になってからのことだ。
僕が間違っていた。
仕事なんて適度にサボれば良かった。
客の電話なんて無視すれば良かった。
犬でも猫でも、飼ってやれば良かったんだ。
今は違う。あの頃の馬鹿な自分はもういない。
鞄を置き、くたびれたオーダースーツを掛け、先にシャワーを済ませる。
夕食ーー既に夜食の時間だがーーは簡単なレトルト食品で済ませる。
用意していたとっておきの物をスウェットのポケットにしまい、深夜1時丁度、僕はいつものルーティーンとして、箱を開けた。
「ただいま」
箱の中には、有希がいた。
白くて長い睫毛が縁取る目は、穏やかに伏せられている。
頬に触れてもぴくりとも反応しない。眠ってるようだ。当然か。この時間だもんな。
「一人にさせてごめんな。相変わらず仕事が忙しくて。……有希、あのさ」
緊張で、体の芯が冷える。手が震える。
僕はスウェットのポケットから、ベルベットの小箱を取り出した。
そっと開き、中に納められたものを、有希に見えるように差し出した。
「誕生日おめでとう。そして、有希。僕と結婚してください」
それは指輪だった。
肌馴染みの良いピンクゴールドのリングに、一粒の大きなダイヤをあしらった。有希が欲しがっていたブランドのエンゲージリングだ。給料も残業代も注ぎ込んでやっとの思いで買えた指輪。それを今、こうして有希に渡すことが叶う。
ラウンドブリリアントカットのダイヤは、微かな光を受けただけでも、ダイヤモンドダストのように煌めきを放つ。
もし目覚めた時、この指輪を目にしたら有希はどんな顔をするだろう。嬉しさのあまり泣いてしまうかもしれないな。見たいな……。
有希の左手を取り、その細い薬指に指輪を通していく。サイズは以前眠っている間にこっそり測ったから、間違いはないはずだ。
「あれ」
しかし、指輪は指の節をなかなか通らない。
少し力を込めて押してもびくともしない。
変だな。有希、浮腫んでるのかな。
しばらく指輪を嵌めようと格闘していると、とうとうあの音が、無慈悲にも鳴り響いた。
《ピー ピー ピー》
ああ、時間切れか。くそ。
仕方ない、また次の機会にしよう。
指輪を嵌めるのは一旦諦め、僕は元のように、有希が収まる箱の扉を閉めた。
「有希、おやすみ。また明日」
明日もう一度有希に結婚を申し込む。その時は、彼女にこう伝えるつもりだ。
僕の愛する大切な有希。
病める時も、健やかなる時も、笑い合っても喧嘩しても、決して離れず、決して愛を失わず、いつまでも、変わることなく、永遠に一緒にいよう。
《ピー ピー ピー》
あの音はまだ鳴り止まない。
見れば、扉が完全に閉まり切っていなかったようだ。隙間からのぞく美しい彼女の横顔が、涙を流しているように微かに濡れて見えた。
大変だ。この箱が壊れてしまったら、有希がよく眠れない。
僕は彼女を挟まないよう注意しながら、ゆっくりゆっくり、扉を閉めていく。
《ピー ピー ピー》
有希との束の間の別れを惜しむその間も、あの音は延々と鳴り続けていた。
《冷凍庫のドアが 開いています》
了
深夜0時15分。
いつもの時間、いつもの帰宅ルートで、いつもの僕の住むマンションに到着した。
真っ暗な部屋から返事がかかることはない。以前「犬か猫でも飼おう」と提案してくれたっけ。白根 有希は動物が好きだったから、もし尻尾を振って出迎えてくれるペットを飼っていたら、それはそれは喜んだだろう。
仕事柄、朝早く家を出て、日付が変わる頃に帰宅する。休日も客の電話が鳴れば応じる。
必然的に有希とのすれ違いは起こり、彼女の抱えていた寂しさやストレスに気づいてやれなかった。喧嘩が増えるたび、より有希のことが見えなくなっていった。彼女の心が僕から離れていったのも、気付いたのはだいぶ後になってからのことだ。
僕が間違っていた。
仕事なんて適度にサボれば良かった。
客の電話なんて無視すれば良かった。
犬でも猫でも、飼ってやれば良かったんだ。
今は違う。あの頃の馬鹿な自分はもういない。
鞄を置き、くたびれたオーダースーツを掛け、先にシャワーを済ませる。
夕食ーー既に夜食の時間だがーーは簡単なレトルト食品で済ませる。
用意していたとっておきの物をスウェットのポケットにしまい、深夜1時丁度、僕はいつものルーティーンとして、箱を開けた。
「ただいま」
箱の中には、有希がいた。
白くて長い睫毛が縁取る目は、穏やかに伏せられている。
頬に触れてもぴくりとも反応しない。眠ってるようだ。当然か。この時間だもんな。
「一人にさせてごめんな。相変わらず仕事が忙しくて。……有希、あのさ」
緊張で、体の芯が冷える。手が震える。
僕はスウェットのポケットから、ベルベットの小箱を取り出した。
そっと開き、中に納められたものを、有希に見えるように差し出した。
「誕生日おめでとう。そして、有希。僕と結婚してください」
それは指輪だった。
肌馴染みの良いピンクゴールドのリングに、一粒の大きなダイヤをあしらった。有希が欲しがっていたブランドのエンゲージリングだ。給料も残業代も注ぎ込んでやっとの思いで買えた指輪。それを今、こうして有希に渡すことが叶う。
ラウンドブリリアントカットのダイヤは、微かな光を受けただけでも、ダイヤモンドダストのように煌めきを放つ。
もし目覚めた時、この指輪を目にしたら有希はどんな顔をするだろう。嬉しさのあまり泣いてしまうかもしれないな。見たいな……。
有希の左手を取り、その細い薬指に指輪を通していく。サイズは以前眠っている間にこっそり測ったから、間違いはないはずだ。
「あれ」
しかし、指輪は指の節をなかなか通らない。
少し力を込めて押してもびくともしない。
変だな。有希、浮腫んでるのかな。
しばらく指輪を嵌めようと格闘していると、とうとうあの音が、無慈悲にも鳴り響いた。
《ピー ピー ピー》
ああ、時間切れか。くそ。
仕方ない、また次の機会にしよう。
指輪を嵌めるのは一旦諦め、僕は元のように、有希が収まる箱の扉を閉めた。
「有希、おやすみ。また明日」
明日もう一度有希に結婚を申し込む。その時は、彼女にこう伝えるつもりだ。
僕の愛する大切な有希。
病める時も、健やかなる時も、笑い合っても喧嘩しても、決して離れず、決して愛を失わず、いつまでも、変わることなく、永遠に一緒にいよう。
《ピー ピー ピー》
あの音はまだ鳴り止まない。
見れば、扉が完全に閉まり切っていなかったようだ。隙間からのぞく美しい彼女の横顔が、涙を流しているように微かに濡れて見えた。
大変だ。この箱が壊れてしまったら、有希がよく眠れない。
僕は彼女を挟まないよう注意しながら、ゆっくりゆっくり、扉を閉めていく。
《ピー ピー ピー》
有希との束の間の別れを惜しむその間も、あの音は延々と鳴り続けていた。
《冷凍庫のドアが 開いています》
了