小夜は緊張していた。

 浴衣の前を何度も合わせ、そわそわとする。なぜなら、今夜が新しい夫、犬神恭一郎との初夜だからだ。

 こういう時、どうやって夫を迎えたらいいのか、わからない。
 畳の上に三つ指でもついて待っていればいいのだろうか。こころもとない行燈の火影の中で小夜は悩む。風呂上がりの小夜の髪は湿り気を帯び、頬は緊張に上気していた。




 小夜が初めて恭一郎と会ったのは、ある春の昼下がり。仲人に連れられて犬神家分家の恭一郎宅へ向かった。

 麹町のとある場所――。
 長い築地塀の先に、立派な兜門がある。この大きさで分家というのだから驚いた。数ある犬神家分家の中でも、一番権力のある家だ。

 だが、その強い分家でさえも本家の命には逆らえないようだ。

 小夜は広い玄関で石本という五十がらみの家令に迎えられ、鯉が泳ぐ大きな池が見える広縁を歩き、広い座敷に案内された。

 緊張しながら、仲人と共に挨拶をして和装姿の恭一郎と向かい合う。

 犬神家は神職華族で陰陽師の家系にあり、代々退魔師を生業としている。退魔師とは中務省に所属して、あやかしや物の怪と呼ばれる妖魔を退治する軍人だ。

 一度は廃止された中務省だが、文明開化が進む連れ、この国の鬼門は大きく開いてしまった。そのため国中に鬼道と呼ばれる異界への道が出没し、妖魔が湧いて出る。
 その妖魔を退治するのが、退魔師である。

 だから、てっきり恭一郎は強面なのかと思っていた。
 だが、小夜の予想に反して、恭一郎はとても綺麗な顔をしていた。

 年は数えで二十四。体は大きく軍人らしく引き締まっている。薄い口元に涼やかな目元、すっと通った鼻筋に短く切った髪、精悍な雰囲気が漂っている。

(ちょっと冷たそうな方。乱暴でなければいいのだけれど)

 彼にそんな第一印象を持った。

 退魔師の結婚相手は、たいてい同じ血筋の者から選ばれる。しかし、今回は出戻りかつ犬神家の傍系ですらない岩原家の小夜が選ばれた。共通点は神職華族ということのみで、家格も犬神家の方がずっと高い。疑問に思うも、小夜に答えをくれるものはなかった。

 父からは「杉本家から離縁されたばかりのお前を貰ってくれるんだ。ありがたく思え」と言われ、腹違いの妹からは、「なぜ、小夜が犬神様の家に嫁げるの? 石女で離縁されたのに! 納得がいかないわ」とやっかまれた。


 ――見合いとも呼べない簡単な顔合わせから、半月もしないうちに二人は、祝言を上げることになった。
 急転直下の出来事であるが、小夜に拒否権はない。


 小夜は初婚ではないし、恭一郎も仕事が忙しいというといことで、祝言は犬神家の主だった親戚が見守る中で簡単にすませた。
 
 犬神本家はどういうわけか出席せず。

 数多くある分家の主だった親戚のみが麹町の恭一郎宅に集った。

 そして、なぜか小夜の親族は誰一人として参加していない。

 犬神家とつながりができると喜んでいた父は、祝言への参加を拒否されたとたいそう腹を立てていた。
 だが、犬神家はお上に仕える家柄である。盾突くことはできなかった。

 儀式の始まりから、不穏な空気が漂っていた。
 
 それもそのはず、恭一郎には分家の犬上敏子という許嫁がいたのだ。そのことを小夜は式の前日に仲人から知らされた。それだけでも気が重い。
 
 三々九度が済んだとたん、紋付きの中年男性が怒りの声を上げる。
 
 「恭一郎さん、どうしてこんな石女(うまずめ)を娶るのか!」
 
 小夜はその男性が誰かわからない。ただその横には小夜と年の変わらない女性が寄り添っている。
 恐らくその女性が恭一郎の元許嫁の敏子で、中年男性はその父だろう。
 
 それを皮切りに大広間に集まった面々からこの結婚に対する不満の声が漏れ始めた。
 
 「なぜ、敏子さんがいるのに、ひどい話」
 同情したように一人の中年の女が敏子の横に座り聞こえよがしに言う。

 「離縁された性悪だ」

  ひそひそとしていた声が、やがてざわめきに変わる。

 「そうよ。本当なら、私が恭一郎さんの妻になるはずだったのに」

 恨めしげに敏子が睨んでくる。無理もない。今年女学校を卒業した彼女が恭一郎と結婚するはずだったのだから。

 さぞ悔しかろうと、小夜は申し訳なく思う。

 そして、この結婚に一番混乱しているのは小夜だ.
 

 図らずも小夜は、敏子から恭一郎を奪った形になってしまった。

 小夜は罵声が浴びせられる中で、そっと目を伏せた。

 泣いてもダメ、怒ってもダメ、傷ついた顔をしてもダメ。なぜなら被害者は小夜ではなく、彼らなのだから。
 
 小夜は嵐が過ぎ去るのを待つ。
 
 こうして縮こまっていると小夜の中にある大切なものが削られ、心が虚ろになっていく気がする。

 きっと恭一郎も不満を飲み込んで、この結婚を承諾したのだろう。ここにいる誰もが彼女を望んでいない。

 実家にすら小夜の居場所はなかった。

 (なぜ、こんなことになってしまったのだろう……)

 その時、小夜の前にふっと影が差す。

 一瞬打たれるのかと思い小夜は固く目を閉じ縮こまる。しかし、痛みは襲ってこない。
 恐る恐る目を開けると、恭一郎が小夜を庇うように前にたっていた。

 「これより、私の妻を貶すものは許さない」

 静かだか、重く強制力を持つ声。広間はしんと静まり返る。

 恭一郎は、小夜を振り返る。

 「小夜、嫌な思いをさせて悪かった。部屋に下がって今日はもう休め」

 まさか夫が庇ってくれるとは思っていなかった。
 
 親戚たちは、いったん口を噤んだものの不満が今にも爆発しそうだ。

 張り詰めた空気のなか、小夜は広間をでた。

 特に敏子の視線は小夜の肌を突き刺すようだ。

 小夜は廊下で待っていた使用人連れられて、しずしずと大広間を出た。

 その後、彼らの間で、どのような会話がされたのかわからない。




 小夜が夜の寝所で恭一郎を待ちながら、昼間の回想にふけっていると、
 
「小夜、入るぞ」

 恭一郎の声が聞こえた。

 がらりと目の前の襖が開かれ、小夜は緊張に体をこわばらせて、思わず三つ指をつき頭を伏せる。

 「小夜。面をあげろ」

 彼の言葉は静かで、怖くはないのに、どこか強制力を持っていた。これが退魔師としての力なのか、小夜にはわからない。

 小夜はゆっくりと顔を上げる。

 すると恭一郎は軍服に一振りの日本刀を手に持っていた。その姿に小夜は恐れおののいた。

 「呼び出しがかかった。俺は仕事に行かねばならない。今夜はこれで失礼する。小夜はゆっくり休め」
 「は、はい」

 ぴしゃりとふすまが閉まると、彼の足音が遠のいていく。

 小夜の心臓は驚きのあまり飛び出しそうになる。

 「優しい方なのかしら……?」

  恭一郎の表情は、揺らぐことなく、にこりとも笑わない。
  
 だが、祝言では小夜を親戚たちから庇ってくれたのは確かなことで。

 そして今は使用人に頼まず、自ら不在を小夜に伝えに来てくれた。

 少し前まで世話になっていた杉本家とはずいぶんと勝手が違う。




 犬神家は退魔師の家系で秘密が多く、この縁談をまとめた仲人自身も内情はよく知らないと言っていた。

 中でも小夜が一番気になっているのは、この家に舅と姑がいないことだ。

 妙なことにこの広い屋敷に恭一郎は一人で住んでいる。

 恭一郎とは顔合わせはしたものの短時間で、家族構成すら明かされていない。

 「ご挨拶とか、どうしたらいいのかしら……」

 この家のしきたりを教えてくれるものが誰もいないのだ。 

 ほどなくして小夜は行燈の火を消し、一人床に就いた。
 
 布団は実家や杉本家とは違い柔らかくて温かい。だが、妙に頭がさえてねむれそうにもなかった。
 鳥の囀で目を覚ます。障子越しに朝の光がさしていた。

 いつの間にか眠ってしまったようだ。隣の床には人の気配はない。恭一郎は戻らなかったのだろうか。

 小夜は手早く身支度をして、台所に向かう。
 この家の勝手はわからないが、少なくとも杉本家では朝餉の支度は小夜の仕事であった。

 廊下を左に曲がりまっすぐ進むと、濃い紫ののれんの向こうに低い板間と土間がちらりと見えた。

 もうすでにご飯が炊けるいい匂いが漂っている。使用人が朝餉の支度をしているのだろう。

 「おはようございます」

 のれんをくぐると中年の女が一人、洗った青菜を籠に入れていた。

 小夜が挨拶をすると驚いたような顔をする。

 「奥様? どうなさったのですか?」
  
 奥様と呼ばれドギマギする。元婚家の杉本家でそう呼ばれたのは数えるほどだ。

 「さ、小夜と申します。今日からお世話になります。朝餉のお支度のお手伝いにきました」
 
  小夜は緊張のあまり自分の名前を噛んでしまう。

 「まあ、奥様がそのようなことをする必要はありませんよ。私の仕事ですから」
  そう言われても困ってしまう。
  
  杉本家では家事をしないと怒られたし、不手際があると食事を抜かれた。それは実家も同じで……。

 「やることがないと落ち着かないんです。どうかお手伝いとさせてください」
 
 板間からぺこりと頭を下げる。

 「あらあら、まあ」 
 
 彼女は八重と名乗り、犬神家では長く食事の支度をしているという。
 小夜のために土間に降りても大丈夫なように、草履を持ってきてくれた。

 余計仕事を増やしてしまったようで小夜は恐縮する。

 「では、八重さん、私に犬神家の味を教えてください」
 小夜はたすき掛けをして土間に降りる。

 「そんな大げさなものはございませんよ。ご当主はなんでも食べてくださいますから、ただその食べる量が多くのでびっくりなさいますよ」
 
 八重はそういってほっこりとした笑みを浮かべる。

 退魔師というのは強い神通力とそれを使いこなす異能を持っていて、力を使うととても腹が減るのだとか。小夜は初めて聞く話に熱心に耳を傾けた。

 そして恭一郎は夜明け前に帰って来たという。

 (帰って来たのなら、どうして旦那様は寝室にいらっしゃらなかったのかしら)

 小夜はそんな不安を振り払って、洗い立ての青菜を手に取る。

 「では、早速お手伝いしますね。これは汁物につかうのですか?」

 二人がかりで食事の支度をした。
 食材も多く、鍋も重いので老女には重労働ではと思えるのに、八重は手際よくこなしている。
 
 箱膳には、ご飯とみそ汁の他に肉、焼き魚、煮物、漬物が添えられた。その量が朝食とは思えないくらい多い。

 八重が小夜の分の膳も用意してくれた。人に朝餉の準備をしてもらったのはここ数年ない事だった。

 小夜は八重に礼を言うと、彼女は面食らったような顔をした。

 八重は小夜の事情を知らないようだ。

 家柄の良い嫁だと勘違いしているのだろう。いや、家柄は悪くないが、小夜は石女の出戻りだ。

 恭一郎の部屋を聞いて箱膳を運ぶ。驚くほど重い。後ろでは先ほど掃除していた使用人がお櫃を運んでくれる。そのお櫃も見たことがないほど大きい。

 襖越しに声をかけると、恭一郎が「入れ」という。

 小夜の姿を見てかすかに彼の表情が驚いた。

 「こんなに早く起きていたのか?」

 「はい」
 
  小夜は恭一郎の前に箱膳を置く。お櫃を置いて、使用人が去っていた。

 「小夜、お前の分の膳はどうした?」
 「八重さんが作ってくれました」
  小夜は嬉しそうに頬染めて答える。この後朝餉を食べるのが楽しみだ。

 「一緒に食べないのか?」
  不思議そうに恭一郎が聞いてくる。

 「申し訳ありません。この家のしきたりがわからなくて」
  小夜は戸惑い、頭を下げる。こんなことを言われたのは初めだ。

 「いちいち謝ることではない。この家にはしきたりというものは特にない」

  今のところ恭一郎の機嫌を損ねていないようで、小夜はほっとした。

  恭一郎は八重が言った通り本当によく食べる。あっという間にお櫃のご飯もなくなってしまった。

 「お代わりをお持ちしましょうか?」
 
小夜が席を立とうとする。

 「もういい。お前も朝餉をとれ。俺は朝が早く時間も不規則だ。気兼ねせずに、朝昼晩と好きな時間に食事をするといい」

 「え? 旦那様を待っていなくてもよいのですか?」

 「仕事で何日も帰らぬこともあるし、いつ帰るかもわからない。俺に合わせていたらお前が餓死してしまうぞ」

  恭一郎はさらりというが、それほどたいへんな仕事なのだろう。

 「ありがとうございます」 
 小夜は深く頭を下げる。
 杉本家では帰ってこない夫を待ち続け、一日食にありつけない日もあったので、本当にありがたい言葉だった。

 「ところで、お前はどこで食事をするつもりだ」
 
 「もちろん、土間でございます」
 
 当然のように彼女が答えると、恭一郎がかすかに眉根を寄せる。

 「それは、お前が以前いた。杉本家のしきたりか?」
  何かまずいことを言ってしまったかと、小夜はどきどきした。

 「いえ、実家もそうでした。だから、そういうものだと思っておりました」
 小夜は部屋で食事をとることなどなかった。

 「小夜の実家は岩原家。神職華族であろう? なぜそのような生活をしていたのだ。まるで女中のようではないか」
 
 恭一郎は小夜について何も知らないのだろうかと不安になる。

 普通は仲人に聞かされるものだと思うが、それとも石女の自分に恭一郎自身が、興味を持てなかったのか。

 小夜は逡巡しつつも口を開いた。

 「あの……私の母は父を残して失踪してしまいました。後妻に入ったのが、現在の義母でして」
 
 話し出したものの言葉に詰まる。

 「複雑な家庭に育ったのだな。だが、母親が失踪したのはお前のせいではないだろう」

 恭一郎は進んだ考え方の持ち主のようで小夜は驚いた。
 少なからずそのことで小夜は「あの女の娘」とさげすまれてきた。しかし、誤解があってはならないので、先を続ける。

 「実は母は出自がわからない者なのです。狐の妖ではと言われております」
 
 恭一郎が呆れたような顔をした。

 「くだらん。もう下がっていいぞ。お前も朝餉をとるといい」

  退魔師の恭一郎が妖と聞いて、そんなふうに答えるとは思ってもみなかった。

 小夜は「はい」と一度は恭一郎の言葉に頷いた。

 だが、小夜にはどうしても確かめなければならないことがあった。

 言うのは憚れるが、黙ってもいられない。

 「あの、なぜ、私のような石女を娶って下さのでしょう」

 「本家の意向だ。分家は本家にさからない」
 
 恭一郎はそう言って口を引き結ぶ。それ以上は話す気がないようだ。

  小夜は勇気を振り絞る。
 
「それは私との間に子を設けないということですよね」
 
 恭一郎は眉間にしわを寄せる。いつ怒り出すかと小夜はひやひやした。実際、父も前の夫もとても気が短かった。

 「だからどうだというのだ?」

  彼は柳眉を軽く寄せ、じっと小夜を見る。

 「あの、少し長い話になりますが……」

 「小夜。俺はこれからまた仕事に出なければならない。次の機会にしてくれ」

 ぴしゃりと話を打ち切られてしまった。

 「は、はい」

 「しばらくは夜勤が続いて忙しい。俺は当分夫婦の寝所の行くことはないから、お前は部屋で好きに過ごせ。使用人の手は足りている。お前が手伝わずともよい」

 「はい、かしこまりました」

 しかし、小夜はこれには従うつもりはない。しっかり手伝う予定だ。もしかしたら、この離縁されても屋敷においてもらえるかもしれない。そんな思いもあった。  

 「それから、お前はなぜそのような着物を着ている?」
 「え?」

 恭一郎に言われて己の着物を見る。実家から持ってきたものだ。小夜はこの義母のお古の着物しか持っていない。

 「箪笥に着物が入っていただろう?」
 「人様の家のものですから、勝手に開けてはいません」
 小夜が慌てて首を振ると、恭一郎が呆れたような顔をする。

 「では、今すぐお前の部屋の箪笥を開けて、好きな着物を選んで着が換えろ。お前の部屋にあるものはすべてお前のものだ」
 小夜は恭一郎の言葉に目を見開いた。

 「え……? あ、ありがとうございます」
 驚きに声を震わせて、頭を下げる。

 「お前はいちいち大げさだ。これでは使用人のようではないか。卑屈すぎる。それから、その着物に思い入れがないのならば捨てろ。この家にはいつ客人が来るかもわからん。身だしなみは整えてくれ。さあ、もう用はない。部屋から出ていけ」
 まるで犬を追い払うような言い方だが、別に怒ってはいないのだろう。終始淡々とした口調だった。

 小夜は慌てて箱膳をさげ、台所に運ぶ。
 八重に片づけは手伝うと言いおいて、足早に自室に向かった。

 着替えている時間はないので、実家から持ってきた行李を開け、そこから火打石を持ちだし、玄関に向かう。夫をお見送りしなくてはならない。

 恭一郎はすでに長靴を履いていた。

 「旦那様」

 小夜は思わず声をかけた。恭一郎は小夜の手に握られている火打石を見て、片眉を上げる。

 「ほう、切り火か」
 「はい」

 小夜は上がり框からおり突っ掛けを掃くと、背伸びをして恭一郎の後ろの右肩に、カツンカツンと石を打つ。
 すると不思議そうな顔をして、小夜を振り向いた。

 「お前は……」
 「ご不快でしたか?」
 不安になって尋ねると、恭一郎は首を横に振る。

 「いや、なんでもない」
 彼は何かを言いかけてやめた。

 「小夜、俺の帰りは待たなくていい。では行ってくる」
 「行ってらっしゃいませ」

 玄関先に立ったまま恭一郎が門の向こうに消えるまで見送った。



 その後すぐに八重の元に向かうと、ほとんど洗い物は済んでいた。

 「奥様、洗い物などしなくていいですよ。手が荒れてしまします。それより朝餉がさめてしまいましたね」
 「すみません」

 せっかく八重が小夜のために整えてくれたのに申し訳なく思う。

 「私に謝らないでください」
 そんなやりとりの後、小夜は「いただきます」と手を合わせると、まず汁物をいただいた。冷めていても出汁がしっかりときいている。

 「今度お出汁の取り方を教えてください」
 「私が、奥様にお教えするのですか?」

 八重が驚いたように目を丸くする。

 「とても美味しいです」

 「でしたら、私のことは八重をお呼びください。でないと私が旦那様に叱られてしまいます」
 小夜は普段から使用人とは同僚のような付き合いをしてきた。実家でも杉本の家でも、女中のような扱いを受けてきたからだ。

 しかし、ここでは違う。

 「わかりました。えっと、八重……これからもよろしくお願います」
 小夜の言葉に、八重は嬉しそうに笑った。

 小夜は部屋に戻り、桐箪笥の引き出しを開ける。すると銘仙の着物が入っていた。薄桃色で華やかな色合いで着るのがもったいないくらいだった。

 そしてその奥はさらに値段が張りそうな着物がいくつも。

 大きな箪笥は部屋に二竿あり、引き出しをあけていくと着物、新しい襦袢から浴衣、帯に帯締めまですべて新品で整えられていた。

 引き出しのついた漆塗りの小箱には鏡におしろい、紅、つげの櫛、かんざし、椿油などが入っている。 

 小夜の嫁入り道具は母の形見である行李一つだ。

 「どうして?」

 嬉しさより、戸惑いがまさる。

 しかし、考えても答えは出ないので、小夜は一番上にあった。薄桃色の春らしい着物に着替えた。

 この着物で炊事をするのは気が引けるが、小夜は腰ひもでたすき掛けをして、今度は昼餉の準備を手伝うために台所に向かう。

 ちょうど八重は白湯を飲んで一服していたところらしく、小夜の姿を見て驚いていた。

 「奥様、どうなさったのです。とてもお着物はお似合いですが、まさかまた炊事をなさるおつもりで?」
 「はい、もちろん、お手伝いいたします。それに教えていただきたいこともありますし、旦那様はいつお帰りになるかわからないのですよね。いつも昼餉や夕餉の準備をしてお待ちになっているのですか?」

 「いいえ、そのようなことはございません。旦那様のお帰りは伝令が知らせてくるので。奥様、どうか、お部屋でお楽なさってくださいませ。昨日祝言を上げたばかりでお疲れでしょうに」

 八重にそう言われては仕方がない。小夜はがっかりしていると「お疲れではないときに、朝餉の時だけよろしくお願いいたします」と八重が慰めるように言葉をかけてくれた。

  部屋に戻り小夜が意気消沈していると、ほどなくして八重が茶と落雁を持ってやってきた。

 使用人からそんなことをされたのは初めてで驚いた。
 「ありがとうございます」

 小夜がうわずった声で礼を言うと、八重は困ったような顔をする。

 「奥様はどうしても家事をやりたいのですか?」
 「はい、お邪魔でなかったら」

 「とんでもございません。奥様が邪魔だなんて。今、家令と話してまいります。少しお待ちくださいませ」

 家令の石本はすでに紹介されている。なんともいえない威厳があり、少し怖い感じがする。純和風の家屋にそぐわない洋装姿で眼鏡をかけているのが特徴的だ。

 そんな石本が、小夜の部屋を訪ねてきた。

 しかし彼は襖を開けた先の廊下にいて、小夜の部屋に一歩たりとも入ってこない。なんでも「奥様の部屋」に男性の使用人が入るのはもってのほかだとか……。

 小夜はそれがこの家のしきたりなのかと思った。こうやって手探りでひとつずつ覚えていくしかない。

 「奥様は家事をしたいと八重から聞きました。それでしたら、まずはこの家をご案内しましょう。犬神家は退魔師というお家柄、立ち入り禁止の区域などございます。それも合わせてお知らせできたらと存じます」

 「それはぜひ」
 確かに、知らずに入ってはいけない場所に行ってしまうのは怖い。
 
 板張りの廊下は綺麗で、屋敷の中は掃除が行き届いている。確かにこの家に小夜が家事を手伝う隙はなさそうだ。

 廊下を行きかう使用人は多そうには見えないのに、綺麗に屋敷を磨き上げている。

 実家でも杉本家でも家事をすることだけが小夜の存在意義だった。それなのに、ここでは何もすることがない。

 (一日何もせず、どのように過ごしたらいいのかしら)

 屋敷の案内が終わると、次は広い庭に出た。

 「奥様、ここでしたら、多少の掃き掃除をしても大丈夫です。今、庭師を呼んできます」

 そこで庭師の大山という胡麻塩頭のガタイの良い中年男性を紹介された。小夜は丁寧に挨拶をする。

 すると「奥様、石本、大山とお呼びください。さん付けはなしで」とはっきり断られてしまった。

 小夜はこの時になって初めて、自分の生活環境が百八十度変わってしまったことに気が付いた。

 ここでは本当に小夜を「奥様」として扱ってくれている。
 三日後の夕刻に、恭一郎は帰って来た。

 その日、恭一郎が一緒に夕餉をとりたいと言っていると知らせを受けた。

 配膳の手伝いをしようとすると、使用人たちから止められ、小夜はとぼとぼと恭一郎の部屋へと手ぶらで向かった。
  

 上げ膳据え膳で至れり尽くせりの犬神の家が、居心地が良いかといえば答えに詰まる。小夜は今までこのように大切にされたことがないから、なんとなく落ち着かないのだ。

 三食おいしい食事が食べられるのはとても喜ばしいことだが、働かない人間が食べていいのかと妙な罪悪感を抱いてしまう。
 
 恭一郎の部屋へ行くと、和装に着替えた彼が座っていた。軍服姿も和装姿もきりりとしていて美しい。この結婚は釣り合わないことばかりだ。

 「旦那様、お帰りなさいませ」

 玄関で恭一郎を迎えられなくて残念だ。三つ指をついて挨拶をする。

 「床は冷たかろう。さっさと部屋に入れ」
 「はい」

 下座に座ると、使用人が小夜のためにふかふかの座布団を運んできた。

 小夜は恐縮しながら座る。

 「どうだ。家にはなれたか?」

 「いろいろとよくしていただき、ありがとうございます」

 小夜が頭を下げ、着物やそのほか道具、屋敷で大切にされていることなどつらつらと礼を述べていると「もういい。当然のことだ」と呆れたように恭一郎に遮られた。

 それを合図に、部屋に膳が運ばれてきた。

 料理は相変わらず綺麗に盛り付けられている。お出汁のよい香りが漂ってきた。

 八重はとても料理が上手い。煮魚に茶わん蒸し、山菜の天ぷらが添えられている。小鉢は切り干し大根だ。八重の作る切り干し大根は、歯触りがよいのに味がしっかり染みていて美味しい。朝餉の手伝いで八重に料理を教わっているが、小夜はまだこの域に達していなかった。

 恭一郎が黒塗りの箸をとったのをみはからってから、小夜は「いただきます」と手を合わせた。
 静かな中で食事は進んでいく。

 食後のお茶は小夜が淹れた。

 小夜は今まではご飯茶碗に白湯や薄い玄米茶を注いでいたが、この家では必ず湯飲みに煎茶やほうじ茶を注ぐ。
 今日はほうじ茶の茶筒が用意されていた。とてもいい茶葉を使っているので、急須に湯を注いだ途端、馥郁としたいい香りが広がる。

 小夜はこの優しい味が好きだ。

 「小夜、お前はこの家で家事をやりたいそうだな」

 「はい、ぜひやらせていただきたいです」

 「それはなぜだ?」

 「何もしないのに、ただでおいしいご飯をいただくわけにはまいりません」

 小夜はきっぱりと答えた。

 「それは本気で言っているのか?」

 少し驚いたように恭一郎が言う。

 「もちろん本気でございます。八重さん、いえ、八重……のようにうまく料理はできませんが、頑張りたいと思います。それにお掃除も出来ればさせていただきたいのです」

 「掃除は式神にやらせている」

 「え?」

 小夜は意味が分からなくてきょとんした。

 「神職の娘なのに、式神も知らないのか?」

 「いえ、存じております。ただ普通の人間にしか見えなくて……」

 家の掃除をするために式を使うなど聞いたことがない。

 「この家で人あるのは石本と八重と庭師の大山だけだ。後は皆、式だ」

 言われてみれば、確かに八重や石本のように強い存在感を放っていなかった。そう、それらの存在が薄くて、名前を尋ねようとすら思わなかった。

 「すごい……です」

 小夜は驚き過ぎてそれ以外の言葉見つからなかった。式神がいるということは使役している者がいるということで。つまり、目の前の恭一郎がやっていることのだろうか。だとしたら、とんでもない術者である。

 「それから、この家は古いから付喪神もいる」

 付喪神と聞いて驚いた。小夜もあまりお目にかかったことがない。途端にそわそわしだす。

 「付喪神って……、何かお供え物とかしなくてもよろしいのでしょうか?」
 たいていの神は、大切にしないと祟り神になる。

 「それは当主の仕事だ。問題ない。それより問題なのはお前だ」
 「私が何か?」
 小夜はどきりとした。

 「そんな不安そうな顔をするな。どうも普通の人間より、勘が鋭いようだ。普通は式神の存在に気づかない。ましてや人の姿だと認識するとは。仲人から何も報告は受けていないが、何か特別な修行でもしていたのか?」

 小夜は実母の言葉を思い出し、反射的に首を横にふる。

 「いいえ、私は何も……」

 消え入りそうな声で答えると、目を伏せた。

 「まあ、いい。庭の掃き掃除や八重の手伝いくらいならしてもいいだろう。それから先日、朝餉の時お前がいいかけていたことだが、なんだ?」

 話は聞いてもらえるようでよかった。小夜は慌てて背筋をのばす。

 「は、はい、私は許嫁である杉本家の直之様の元に嫁ぎましたが、直之様にはすでに恋人がいらっしゃいました」

 「別に珍しい話ではないな。だが、俺に前夫の話をしてどうする?」

 困惑をにじませた表情で小夜を見る。

 「その続きがありまして、直之様の恋人がお峰さんというのですが、たいそうやきもち焼きで、直之様は祝言直後から、お峰様のところでお過ごしでした」

 拙い小夜の話に恭一郎がため息をつく。

 「だが、杉本が子もうけて結婚したのは、森川家の絹子といわなかったか」

 恭一郎は、いちおう小夜の事情は知っているようで安心した。

 「は、はい、お峰さんと付き合いながら、絹子様とも付き合っていたそうです」
 慌てて付け加える。

 「小夜。俺は何を聞かされているのだ? 杉本の乱れた女関係などどうでもよいのだが」
 恭一郎は訝しげな視線を小夜に向けると、茶をすする。

 彼が小夜に結論を求めていることは明らかだ。

 「その、つまり私は一度も直之様と床を共にしておりません」
 小夜が覚悟を決めてそう言った瞬間、恭一郎は茶をむせた。

 「どうして、そのようなことになるのだ?」
 さすがに驚いたようだ。恭一郎の鉄面皮が初めて崩れる。

 「あ、あの、直之様は恋というものに、誠実でありたいとおっしゃっておりました。それに直之様のお相手もやきもち焼きが強かったので」

 あたふたとして小夜が言い訳をする。とどのつまり小夜に女としての魅力がまるでなかったのだろう。小夜が口を噤むと再び沈黙がおちる。

 やがて、恭一郎がため息をついた。

 「つまりお前は、杉本の手がついていないのに、石女として離縁されたのか? 石女というのは杉本が絹子を嫁にもらいたいがための方便か?」

 「はい、そうなります」

 恭一郎は理解が早いようで助かる。

 「お前の実家はなんと言っている」

 「実家へは言わないようにと、口止めをされています。それに実家に帰るとひどく叱られ、誰も私の話を聞いてはくれませんでした。この縁談が決まるまで、私は土蔵に閉じ込められておりました。」

 小夜がそこまで一気にしゃべると口を噤んだ。本当に父の怒りはすさまじくこの縁談がなければ、小夜は吉原に売られるところだった。

 部屋にはしんと沈黙が落ちる。

 「なぜ、そんな扱いを受ける。杉本家にも実家にも。お前はずっと虐げられていたのか?」

 「その……実家では粗相が多くてよく叱られました。日に一度は食事をいただけましたので、別に虐げられると言うほどでもありません。それに母がいた頃はかわいがってもらいました」

 「通りで痩せている。杉本家では食事はもらえたのか?」
 恭一郎は、淡々と質問を続ける。

 「あ、あの、残り物をいただきました」

 自分の卑しい生い立ちが恭一郎にバレてしまった。犬神家は名家、本家とどんなやり取りがあるのか知らないが、いったいどういう経緯で小夜はこの家にもらわれたのかわからない。この場で離縁されるかもしれないと緊張に身を固くする。

 小夜が不安でいると、とつぜん、恭一郎がふふふと笑い出した。

 「な、なにがおかしいのでしょう?」

 「犬神の本家はお前が石女でないと困るのだ」

 やはりと小夜は思った。どいうわけか小夜というより、恭一郎は跡目をのぞまれていないらしい。きっと祝言の時親戚もそのことで怒っていたのだろう。

 「理由をお伺いしても?」

 「お前には関係のない話だ」

 そう言って、恭一郎は口を引き結ぶ。

 もうそれ以上は小夜の質問には答えてはくれる気はないのだろう。

 小夜はしょんぼりと肩を落とす。

 「面倒な奴だ。まだ言いたいことがあるのか?」

  恭一郎がため息をつく。

 「あの、それで私は石女では……ないかもしれないので、離縁されるのでしょうか?」

 小夜の言葉に恭一郎は合点がいったといようすで片眉をあげる。

 「なるほど、お前はそれが不安だったわけか。別にばかではないようで、良かった。今のところお前と離縁する気はない」

 「今のところ……」
 引っ掛かりのある言い方である。やはり離縁前提なのだろうか。

 「小夜。言いたいことがあるのなら、はっきりと手短にいえ」

 「はい、では恐れながら、旦那様、小夜には下心があります」

 「は?」

 「離縁されてしまうと私は実家で厄介者。もう帰ってくるなと言われております。二度目の離縁となりますと、もらってくださる方もいません。そうなると小夜は身を売って生きていくしかありませんが、それは嫌なのです。
 だから、旦那様が私を離縁なさった後、使用人として屋敷で雇っていただきたいのです。この家の家事はしっかりと覚えます。どうかお願いいたします! そしてできれば、八重さん……いえ、八重の作るおいしい料理を覚えたいのです」

 小夜は一気にそこまで喋ると頭を下げた。再び沈黙が落ちた後、くつくつと笑い声が聞こえてきた。

 小夜が驚いて顔を上げると、恭一郎が笑っている。そんな顔は初めて見た。

 「あの……。旦那様?」

 「小夜は、面白いな」

 恭一郎は実に楽しそうに声を上げて笑うと、約束してくれた。もしも離縁するようなことがあれば、屋敷でつかってくれると。

 小夜はほっとして、涙が零れた。

 「ありがとうございます。小夜は、このご恩を一生忘れません」

 「まったく、いちいち大げさな奴だ。まあ、離縁することはないがな」

 最後にぼそりと付け加えられた恭一郎の言葉は小さくて、小夜には聞き取れなかった。

 「はい? いまなんと?」

 「話が済んだのなら、部屋に戻れ。俺は疲れたから休みたい」
 また、犬のように恭一郎の部屋から追い払われてしまった。
 
 だが、ようやく将来が定まったことで、小夜はようやくぐっすりと安心して眠りにつくことができた。



 翌朝、小夜は張り切って、八重の元へ朝餉の手伝いに行った。

 「奥様、おはようございます」

 「八重さん、聞いてください!」

 小夜は目を輝かせて子犬のように八重の元へ走り寄る。

 「奥様、八重でございます」

 八重は優しい笑みを浮かべながらも、きっぱりとことわりを入れる。

 「あ、はい、……八重。その私、旦那様と離縁したら、ここの使用人として働くことになりました」
 「はあ?」

 八重がびっくりしてのけぞった。

 「八重さん、これからもよろしくお願いします」
 小夜はぺこりと頭を下げる。

 「なっ! ご当主はなんてことを!」
 驚愕する八重をよそに、小夜は張り切って仕事を始めた。

 「八重さん! 今日は私がかまどの火をおこしますね」
 「奥様、ちょっとお待ちを! 八重がやりますので! ああ、煤だらけになってしまいますよ」

  小夜はいつのように朝餉の支度の手伝いをする。
 
 今日の味噌汁は初めて出汁とりから、小夜が作った。八重に味見を頼む。

 「どうですか? 八重さん、犬神家の味になっていますか」

 「奥様、どうか八重とおよびください。お出汁が優しくて、とてもおいしいです」

 「ありがとうございます。でも八重にはまだまだかないません」
 
 小夜は恭一郎の箱膳を運び、式たちが小夜の箱膳とお櫃を運ぶ。

 恭一郎の許可をもらい部屋に入ると、今日の彼は珍しく和装姿だ。

 「旦那様、今日はお仕事がお休みなのですか?」

 「そうだ。新婚なのだから、休暇をとれと言われた」

 「そういうものなのですね」

 小夜が嫁いだ杉本家は呉服屋を経営しいて、実家も神社だったので、お役所勤めというものが今一わからない。

 いつものように恭一郎が箸をとったのを見計らって、小夜は「いただきます」と手を合わせる。

 しかし今日はいつもと違い、恭一郎が味噌汁の碗を手に取る様子をとどきどきと見守っていた。

 「ん?」

 一口飲んでかすかに首を傾げる。

 「どうかしましたか?」

 小夜は食い気味に聞く。

 「いや、いつも出汁の味が違うと思ってな」

 「申し訳ありません。今朝は私が出汁をとりました。以後犬神家の味を再現できるよう精進いたします」

 慌てて小夜が謝ると恭一郎は呆れたような顔をする。

「謝ることはない。これはこれでうまい。それに犬神家の味など別にない。作る者によって、出汁に違いが出て当然だろう」

 恭一郎のこだわりのなさに驚いた。それに小夜の料理をうまいと言ってくれたのは、恭一郎が初めてだ。小夜は、そのことに感動する。

 「ありがとうございます」

 今日は味噌汁のほかにだし巻き卵も小夜が作った。見た目は綺麗にできているが、味が心配だ。

 小夜は固唾をのんで見守っていると、恭一郎はだし巻き卵に手を付ける。

 「このだし巻きも、小夜が作ったのか。うまいから大丈夫だ。そんな食い入るよう見るな」

 「はい、申し訳ありません」

 「いちいち謝るな」

 「はい、申しわけ……」

 小夜もだし巻き卵に手を付けた。やはり八重には遠く及ばないと思うが、今まで小夜が作ってきた中で一番おいしく感じた。

 八重はよい師匠だと思う。このまま料理が上手くなれば、この屋敷を首になったとしてもほかの屋敷や料理屋で働けるような気がしてきた。

 あらかた食事がすんだころ、恭一郎が口を開く。

 「小夜。今日は出かけるぞ」

 「承知いたしました。何時ごろお戻りでしょう」

 「お前も一緒だ」

 「え? 私もですか? あの、どちらへ」

 犬神の親戚の家だとしたら、少々気が重い。

 「銀座など、どうだろう。それとも上野がいいか?」

 「え……?」

 突然のことに小夜は首を傾げた。

 「新婚というのは、二人でどこかに出かけるそうだ。ちょうど神社や川べりの桜も満開だ」

 小夜は今まで誰かとどこかに出かけたことなどない。お使いで家を出ることはあっても、花見を楽しむ余裕もなかった。

 「はい、ぜひお供いたします」

 ここへ嫁いでそろそろ半月が過ぎる。小夜はまだ一度も屋敷から出たことがなかった。
 

 玄関で待ち合わせて二人はさっそく出かけた。

 顔合わせの時もここへ嫁ぐ時も、小夜には風景を見る余裕がなかった。長い築地塀ばかりが目に入り、そとの景色を楽しみむどころではなかったのだ。

 恭一郎の後ろについて少し歩くと、ほどなくして大通りに出た。

 通りの両側には小間問屋や甘味処、金物屋など商店が立ち並んでいる。人の往来も多く人力車が行きかっていた。久しぶりに感じる街の喧騒。

 ここは小夜が育った場所よりずっと開けている。にぎやかで華やかで、さすがは東京の中心地だ。小夜はひたすら小走りで、恭一郎の後をついて行く。

 「小夜、御堀端までいってみないか」

 そう言って振り返った恭一郎が、小夜を見て驚愕している。

 「は、はい、ぜひ……」

 息も絶え絶えに小夜は何とか返事をする。

 「すまぬ、小夜」

 立ち止まり、小夜の背中をさすってくる。

 「いえ、小夜は鍛え方が足りないのです」

 小夜はぜえぜえと息をする。恭一郎の足が速くて途中からは緩やかな上り坂を走っていた。

 「鍛えてどうする。俺の配慮が足らなかった。茶屋で休むか?」

 「旦那様、小夜は大丈夫でございます。しかし、驚きました。旦那様は、健脚なのですね」

 直之もこれほど足は速くなかった。それに直之と恭一郎とでは上背と足の長さが全然違う。
 恭一郎の方が体を鍛えているのにすらりとしていて、町で目立つほど背が高いのだ。
 
 「小夜。それは誰と比べている」
 
 恭一郎の眉間にしわを寄せ、ちょっと機嫌の悪そうな顔をする。
 
 「あ、いえ、あの、一般的な男性と比べて」
 
 「もうよい」
 
 そう言ったきり、恭一郎はむっつり黙りこんでしまったが、歩調は小夜に合わせ、とてもゆっくりと歩いてくれる。
 
 (やっぱり、優しい旦那様です。離縁後も、きっと良い雇い主になってくれるでしょう)
 
 小夜の口元がほころぶ。
 
 結婚してから半月たつが、一度も手を挙げられたことはない。それどころか怒鳴りつけられたこともない。そのことに小夜は安堵を覚える。
 

 緩やかだが長い坂を上り下りして、のんびり歩いていると、やがて御堀端の枝垂れ桜が見えてきた。
 
 「旦那様、すごく綺麗です。まるで薄桃色に景色が霞んでいるように見えます」
 
 桜の花びらが舞っている景色に、小夜はいたく感動した。
 
 「俺は、通勤や警邏の途中で見るが、なるほど休みの日に見るとまた違うな」
 
 ふわりと風が吹き抜けて、桜の花びらが小夜の元まで運ばれてくる。

 「まるで桜のトンネルのようです」

 小夜は花びらを掴もうとして両手を広げた。

 「桜のトンネル?」

 「はい、本物のトンネルは見たことはありませんが」

 恭一郎が小夜の言葉にふと笑みを浮かべる。

 「トンネルは、このように美しいものではない。それどころか窓を開ければ途端に煤だらけになる。そうだな、長期休暇が取れたら一緒に汽車に乗ろう」

 小夜は汽車に乗ったことがない。

 「本当ですか。楽しみです!」

 祝言の日はどうしようかと不安だったのに、嘘のように気持ちが晴れている。小夜はいつもここを追い出されたら、どうしようという恐怖の中で生きてきた。

 ところが犬神家ではそれがない。

 八重はとても親切で優しいし、石本も丁寧で声を荒げることもなく、いつも紳士的だ。

 犬神家に来てから、誰にも叱られていないことに気が付いた。

 ふと「卑屈だ」といった恭一郎の言葉よみがえる。このまま犬神家においてもらえれば、小夜は自分が変われるような気がしてきた。

 小一時間ほど、桜を見ながらのんびりと歩くと、恭一郎が茶店に寄らないかという。小夜は喜んで頷いた。彼女は茶店に入るのは始めてだ。恭一郎はみたらし団子を小夜はみつ豆を食べた。

 「とてもおいしいです。この甘いおもちのようなものはなんですか?」

 あまりのおいしさに頬が緩んでしまう。

 「それは求肥だ。食べたことがないのか?」

 「はい、初めてです。とてもおいしいものなのですね。女学生が夢中になるのがわかります」

 小夜は腹違いの妹のように女学校に通っていない。娘らしい華やかな柄の着物にはかま姿で女学校に通う彼女がうらやましかった。彼女からは羽二重餅やくずもちや、みつ豆、それにかふぇの話を聞いた。

 まさか自分が食べられるようになるとは思ってもみなかった。

 「それほど幸せそうな顔で、みつ豆を食べる奴は初めて見たぞ」

 あきれているのか、恭一郎がぼそりと呟く。

 「びっくりするほどおいしくて涙が出そうです。甘いものって食べるととても幸せな気分になれるものなんですね」
 「おい、小夜、本当に泣くな」

 困ったような声で恭一郎がいうので、小夜は慌てて袂で涙をぬぐって微笑んだ。

 その時、すぐそばで、だしぬけに声をかけられた。

 「あれ、隊長じゃないですか?」

 小夜はびっくりしてみつ豆の入った碗を落としそうになった。すんでのところで恭一郎が支えてくれる。

 「なんだ、行平か。何の用だ」

 不機嫌な声で恭一郎が応じる。目の前には感じのいい笑みを浮かべた二十代半ばの洋装姿の男性が立っていた。

 「あ、もしかして、奥さんですか?」

 にっこりと小夜に微笑みかける。小夜が口を開きかけるが、それを制するように恭一郎が言う。

 「妻の小夜だ。小夜、こいつは同僚の藤田行平という。軟派な男だから気を付けろ」

 まるでこいつとは口を聞くなというような表情だ。

 「ひどいな、隊長」

 行平と呼ばれた男性は、気にしたふうもなく能天気に笑っている。

 「こんなところにいていいのか? こっちをにらんでいる洋装の娘はお前の連れではないか?」

 「あっ、そうだ。こっちも連れがいるし、よかったら一緒にこれから飯でも食いに行きませんか? 牛鍋なんてどうです?」

 行平は明るく人懐こい人物のようだ。しかし、小夜は人見知りしてしまう。そのうえ、行平の連れと思われる女性はなぜか不機嫌な様子で小夜をにらんでいる。

 「断る」

 「わかりました。新婚の邪魔はしませんよ。奥さん、それではまた今度」

 ひらひらと手を振って洋装の娘の元へ去っていった。

 「断ってしまってよかったんですか?」

 「いいんだ。あいつは腕のいい退魔師だが、女癖が悪い」

 「まあ、それはいけませんね」

 小夜の実父にしろ、杉本にしろ、女癖が悪かった。しかし、二人とも非常に外面はよかったことを思い出す。
 
 二人は茶店をでると街をそぞろ歩いた。
 
 「そうだ、小夜。呉服屋へ行かないか? 着物を作ってやろう」
 
 「いえ、たくさんありますので、いりません」
 
 小夜はびっくりしてかぶりを振る。
 
 「なぜだ? その着物が気に入っているのだろう。石本から、小夜は毎日同じ着物を着ていると聞いた。お前は桜が好きなようだし。薄桃色の反物で着物をつくるといい。それ一枚では不便だろう」
 
 なぜか、恭一郎が着物を買ってくれようとする。
 
 「いえ、結構です。お着物はたくさんありますから、これ以上いりません」
 
 確かにこの着物は気に入っているが、引き出しの一番上に入っていたからきているだけだ。
 
 離縁するかもしれないのに、すべての着物に手を通すのは気が引ける。
 
 どう断ろうかと思ったその時、一羽の大きな烏が恭一郎の元へ飛んできた。
 
 『伝令、銀座方面に妖魔出現。犬神大尉出動されたし』
 
 小夜は烏がしゃべったのでびっくりしたが、ただの烏ではなく、式か人に使われている妖の類だろうと気づいた。
 
 「旦那様、小夜は大丈夫でございます。一人で家に戻れますので、どうかお仕事へ」
 
 「え? 小夜、お前、今の烏の言葉が」
 
 恭一郎が途中まで言いかけた時、「隊長!」と叫ぶ声が遮った。
 
 行平がこちらへ向かって走ってくる。さっきほどとは打って変わって、引き締まった顔つきをしていた。
 
 「小夜、少し待て、今式をつけよう」
 
 恭一郎がポンと手を打つと突然目の前に屈強な男が現れて、小夜は腰が抜けるほど驚いた。
 
 「だ、旦那様、こちらの方は」
 
 「式だ。いい加減になれろ。途中で車でも拾え、この式はお前を無事に家に届けたら消える。さあ、いけ」
 
  そう言って、小夜の手に幾銭か握らせると、恭一郎は行平と共にあっという間に去っていった。

  不思議なことに突然屈強な男が突然現れたのに、街を行きかう人々は誰もきづいていない。式を扱えない小夜は理解に苦しむ。

 (いったい、どうなっているの?) 

 その後、小夜は式と共に屋敷返った。式は屋敷に小夜を送るとふっと消えた。




 翌日、小夜は八重に「旦那様」とのお出かけが、とても楽しかったと話した。特にみつ豆のおいしさに感動したと話をすると、八重がくずもちを買ってくれた。

 その日のお三時にはくずもちにきな粉と黒蜜をかけていただいた。

 まだまだ世の中には小夜の知らないおいしいものがたくさんあるのだと知った。

 
――結局、恭一郎はその後一週間もお勤めで帰ってこなかった。
  


 恭一郎と結婚して、ひと月が過ぎた。

 この家に嫁いできて、小夜は母がいなくなって以来、始めて穏やかな生活を送っている。しかし、恭一郎が寝所を訪れないのはそのままで……。

 (やはり、離縁も時間の問題かしら)

 しかし、恭一郎が優しいことはわかっている。きっとここの使用人として雇ってくれることだろう。心の準備だけはしておくことにした。


 桜の季節が終わり、犬神家の庭にはつつじが咲き始めた。あれ以来恭一郎とは一度も街へ出ていない。彼は仕事でほとんど家にいないことが多いのだ。非番の時も呼びだされることもままある。

 「なぜ、これほど旦那様は、お忙しいのでしょう」

 玄関先で、いつものように切り火をして恭一郎を送り出した小夜はぽつりとつぶやく。

 「雨が多くなる季節が近づくにつれ、鬼道がひらき妖魔が増えるのですよ」

 石本が答える。 

 「旦那様が、心配です」

 穢れ多く、空気が澱んだ場所に鬼道がひらき、そこから妖魔がわいてくる。

 小夜は忙しい恭一郎が体を壊さないかと心配になるが、石本や八重によると恭一郎はとても頑強でここ数年病気一つしていないのだそうだ。



 その日も小夜は恭一郎と朝餉を共にした。

 向かい合って食事をして、何かを話すわけではないが、彼と同じ空間にいるのは心地よかった。

 忙しいにも関わらず、恭一郎に疲れた様子はなく小夜はほっとした。

「小夜。仕事が落ち着いたら、また一緒に出掛けよう。どこか行きたいところはあるか?」

 食後のほうじ茶を飲みながら、だしぬけに言われ、小夜は言葉に詰まる。

「……特には。あ、先日のお出かけは楽しかったです。特にみつ豆に感動しました」

 恭一郎と出かけて、もっといろいろと楽しかったはずなのに、慌てた小夜の口から出たのはみつ豆の話しだった。
恭一郎が眉根を寄せる。

「……そうか。では今度は、牛鍋屋はどうだろう? 最近、仕事関係でよく行くなじみの店ができたんだ」

 牛鍋屋はとても流行っていると聞く、小夜も一度は行ってみたいと思っていた。

「はい、ぜひ」

 小夜が答えると恭一郎は満足そうな顔をした。

「もう一度聞くが、小夜はいってみたい場所はないのか?」
 小夜は赤くなって下を向く。

「……一銭蒸気に乗ってみたいのです。船というものに乗ったことがなくて」

「わかった。休みが取れたら、行こう」 
 そう言って笑った。 



 しとしとと雨がふり続き、いつの間にか庭の菖蒲は終わり、紫陽花が咲く。

 恭一郎は相変わらず休みはとれない。
 そんな折、半日だけでもと恭一郎は小夜を茶店に連れて行ってくれた。
 
 みたらし団子に、きんつば。おいしい菓子の味をたくさん知った。

 お出かけはのんびりと、でもその後恭一郎は軍服に身を包みあわただしく出勤する。


 小夜は恭一郎のことを、なんて良い方のだろうと思う。

(でもあまり贅沢すると、新しい奥様が来たら辛くならないかしら……)

 犬神本家の意向は絶対で、石女を娶れと命じられて恭一郎はそれに従った。
 小夜はかぶりを振って、慌てて自分の気持ちに蓋をする。

多くを望んではいけないのだ。

今が小夜にとって一番幸せな時なのだから。やがて終わりが来ることはわかっていたとしても。

恭一郎とは床を共にしたこともないし、一緒に食事をするのは朝餉のみ。 

よく考えてみれば夫婦とは呼べない間柄なのかもしれない。

 最近の小夜は変だ。とても幸せなはずなのに、妙に気持ちが揺れ動く。以前はこんなことはなかった。
 なぜなら、小夜の心はずっと深海に沈んだままだったから。


 その晩、小夜は布団に入ると妙な胸騒ぎがして目が覚めた。どこかでことりと物音を聞いた気がする。

 嫌な予感がして浴衣姿で起き上がると、廊下に出た。玄関に誰かの気配を感じる。気になって廊下を進むと、洋燈にてらされた先に恭一郎と石本が立っていた。

「旦那様、こんな遅くにお出かけですか」

 そばに寄れば、恭一郎は軍服姿に日本刀を持っていた。

「小夜か、こんな夜更けにどうした」

「なんとなく目覚めてしまって」

 小夜は上がり框から降り草履を履くと、いつものように恭一郎の右肩に切り火をした。

「小夜。そのような不安そうな顔をするな。夜半の出動などよくあることだ。風邪をひく早く寝るといい」

 恭一郎はいつも変わらない様子で、淡々と告げる。

「旦那様、こちらをお持ちください」

 小夜が、朱色のお守り袋を差し出した。

「これはお前が作ったのか?」

「実家の神社ではご利益があると評判でした。気休めですが……」

 どうにも嫌な予感がするのだ。

「いや、もらっていこう。小夜、ありがとう」

 恭一郎は束の間、嬉しそうな笑みを浮かべると、再び表情を引き締めて踵を返し玄関から出ていった。

 深夜の庭は妙にしけっぽく、今にも雨が降り出しそうな予感した。

「さあ、奥様、お部屋の方へ」

 石本に促されるように小夜は部屋戻った。

 いったんは床についたものの、胸のざわめきが鎮まることはなかった。

(母様が消えた時も、こんな感じだった)

 小夜は部屋に戻ると母の行李を開ける。

 中にはお札と……。

『小夜、絶対に誰にも知られてはだめ。とても危険だから、父様にも言ってはいけないよ』

『それならば、どうして母様と私にはこんな力があるの?』

 小夜は悲しくなって母に問う。

『それは……。いつか小夜の大切な人のために使いなさい』

ずっと誰にも知られずに、いようと思っていた。母との約束。いつか大切な人のためにと言った母は、小夜に術を継承した。



 小夜は着物に着替えると、髪を梳き短い和紙一本にまとめ、水引で結ぶ。

 母の形見を手に取り、恭一郎の元へ行く決心をした。

 玄関は通らず。土間から草履をはいて庭に出る。栞戸を開けた先に、石本が立っていた。

「奥様、こんなお時間にどちらにおいでです?」

「お願い、石本さん、旦那様のお役に立ちたいのです。行かせてください」

「失礼ですが、奥様はご当主がどちらにいかれたかご存じですか?」

「四谷です! 強い妖魔の気配がしてきます」

 石本は頷く。

「やはり奥様は神通力をお持ちなのですね。では、私がお供しましょう」

「え? でも石本さんは」

「石本です。式に車をひかせます。では参りましょう」

「ありがとうございます」

 夜半に小夜は、四谷へと向かう。

 場所は小夜が指示を出した。はっきりとどこにいるかわかるほど強力な妖魔の群れである。
 
やがてあたりの空気の穢れがましてくる。四谷に近付くにつれ、獣臭が漂ってきた。

「奥様、お顔の色がすぐれませんが大丈夫ですか」

 山犬の遠吠えが聞こえてきた。

一時は絶滅したと思われていた山犬も、文明開化で鬼門が開くとともに異形の妖魔として舞い戻ってきた。

「はい、問題ありません。そういえば、家の式を操っていたのは旦那様ではなく、石本さ……、石本だったのですね」

「左様でございます。奥様、そろそろ現場近くかと存じます」

「車を止めていただけますか? あの、それから今夜のことはどうか旦那様にはご内密に」

 小夜は高台に立つ。下は切り立った崖で、濃い穢れの中で軍服を着た退魔師たちが戦っているのが見えた。最前列には錫杖、棒術、日本刀を持った者たちが、妖魔を打ち据え、切り捨てている。

 後列には札を使う者たちがいて、穢れを祓っていたが、全く追いついていない様子だ。

 退魔師といってもそれぞれ流派があるのだろう。中でも恭一郎はすぐにわかる。青白く淡い光を放つ日本刀。彼が一番強いのだろう。
 小夜は、母の形見である梓弓を構えた。矢はつがえられていない。

 弦を引き絞ると、まるで矢を飛ばしたように弾いた。

 びいんと音が響き渡る。ゆらりと穢れが揺れ、晴れていく。小夜はひたすら弦を引き、弓を鳴らした。



 ―ーその頃、谷底で恭一郎たちは、苦戦を強いられていた。

「隊長、今日の妖魔はしつこいな。次々に湧いてくる」

 いつもひょうひょうとしている行平が、珍しく弱音を吐く。

「これ以上鬼道が広がるとまずいな」

 恭一郎を目がけて牙をむき跳躍する山犬の首を一瞬で切り落とす。。

 厄介なことに、切り伏せるごとに穢れを放つ。それがまた妖魔を呼ぶ。年に数回、穢れが凝り固まってこのように、大量に妖魔が押し寄せ来ることがあるのだ。

 ぐにゃぐにゃと影しか持たない妖魔もいれば、山犬や猩々のように形を持ったものもいる、はっきりと形を持ち牙や角を持つものは強い。

 それは退魔師としての力が強い恭一郎や行平の担当になる。

だが、その強い妖魔が今日は雑魚のごとく湧いて出た。あちらこちらでうめき声上がり、負傷が増えていく。

 そんな中にあって、びいんと弓を弾く音が響いた。その瞬間穢れの中を清涼な風が突風のように吹き抜ける。

「何だ」

恭一郎が目を上げた先、穢れて黒い靄が出ているが、はっきりと浮かび上がるように彼女の姿が見えた。

「なぜ、小夜が・・・」

月のような冴え冴えとした白い光をはなち、凛とした姿で弓を構えて立っていた。

弓は小ぶりで、恐らく巫女が使う梓弓だろう。

彼女はやはり修行を積んだ巫女だったのだ。切り火の時に強い加護を感じたので、もしやと思っていた。

再び彼女が弓を弾く。

弦が鳴るたびに穢れが晴れ、視界は良好になっていく。徐々に鬼道が妖魔を吸い込み閉じ始める。

最前列にいる隊員からざわめきが漏れる。

「誰だ?」

「まさか、巫女か?」

巫女は江戸の時代が終わり、新政府になってから神職から外された。だから退魔師の中に巫女は存在しない。

しかし、小夜の存在が知られるのは危険だ。あまりにも強い神通力を持っている。

彼女が政府に利用されてしまうかもしれない。もちろん恭一郎はそんなことをさせるつもりはないが、犬神本家が横やりを入れ来るのは必然だ。

内心の動揺を隠しながら、恭一郎は部隊に激を飛ばす。

「全員、目の前の敵に意識を集中しろ!」



 
 その頃、高台にいる小夜は――。

「奥様、穢れもだいぶ晴れました。やがて鬼道も閉じるでしょう。退魔師の部隊は優勢です。旦那様はお強いので大丈夫ですから、そ
ろそろ帰りましょう」

「そうですね。旦那様に見つかったら大変です」

 小夜は弓を下げると、ふらりと体がかしいだ。

「奥様!」

「だ、大丈夫です。ちょっと疲れただけで、さあ、帰りましょう」

 石本に支えられながら人力車に乗り、家路につく。

 玄関には明かりがついていて、驚いたことに八重が待っていた。

「まあ、奥様、手にひどい怪我を」

 ひたすら弦を弾き続けていたので、小夜の手が切れて血が滴っていた。

 疲れ切った小夜は、うわごとのように八重に礼を言ってそのまま意識を失った。

 翌朝小夜が目を覚ますと、日は高く昇っていた。

(寝坊をしてしまったわ!)

 この家に嫁いできて初めてのことだ。こんな調子では離縁しても雇ってもらえないかもしれない。

 小夜が布団から身を起こそうとすると目が回る。

「小夜、まだ、起きるのは無理だ。まったく、こんな無茶をして」

「旦那様……?」

 小夜の枕元に、和装姿の恭一郎が座っていた。

「お前、熱を出しているぞ」

「あ、あの……」

「小夜、深夜の外出は禁止だ」

 恭一郎がきりりと眉を吊り上げる。

「ひっ」

 小夜は情けない悲鳴を上げる。恭一郎にバレてしまった。

「言っておくが石本から聞いたわけではない。あのような高台から弓を打てば、お前の姿がはっきり見えるに決まっているだろう。最も行平は小夜だと気づいていなかったようだが、バレたら大ごとだ」

「は、はい」

 起き上がれない小夜は布団に横たわるしかない。恭一郎が、桶で手ぬぐいをしぼり、小夜の額を拭ってくれる。
 小夜は頬を赤く染める。

「旦那様が介抱してくださっていたのですか?」

「いや、俺は途中からだ。明け方まで八重がお前の面倒をみていた」

「とんだ、ご迷惑を」

 固い決意のもとに恭一郎を助けに言ったつもりが、かえって迷惑をかけてしまった。

「迷惑などかけられていない。お前が来なければ、俺の部隊にも犠牲者が出ていただろう。小夜の手柄だが、褒める気はない。そんなことをすれば、またお前は来るだろ?」

「はい、旦那様は大切な方ですから」

 恭一郎が目を見開いた。二人の視線が合った瞬間、彼が目をそらし、小夜は自分の大胆な言葉に気づき真っ赤になった。

「まったく、だからといって、このような無茶を。神通力は使い過ぎると命にかかわるのをしらないのか?」

「知っております。母から大切な時にしかつかわないようにと、人に知られないようにとずっと言われて育ちました」

「それで、俺と石本の他に誰が知っている」

「誰も知りません」

「お前の実父もか」

「はい、母様から、父様にも言ってはいけないと教えられました」

「なるほど。岩原家はいろいろと事情を抱えていそうだな。お前の実父は小夜がそのような強い力を持っていることも知らずに、杉本のような屑に嫁がせたのか」

 呆れたように恭一郎が言う。

「それで、あの旦那様。離縁したあと、ここで雇ってくださるというお話はまだ有効ですか?」

「は?」

 珍しく恭一郎がきょとんした表情をする。

「そんな、お忘れですか? 離縁した後、小夜をここで雇って下るとおっしゃったではありませんか」

 小夜はきゅっと胸が締め付けられるような不安を覚えた。

「おい、何を言っているんだ? まず、なぜ俺がお前と離縁するのだ?」

 驚いたように恭一郎は言う。

「え……、だからそれは、私は石女ではなかも、しれないから」

「いや、はっきりとお前に言わなかった俺も悪かった。あれは冗談のつもりだった」
 恭一郎がため息をつく。

「旦那様も冗談を言うのですか! では私はここで雇って」
「そうではない。雇うも何も離縁しないといっているだろ」

 恭一郎が小夜の言葉を遮った。

「……ご本家の方は?」

「本家の肝いりで決まった結婚だ。離縁などありえない」

 恭一郎の言葉が小夜の心にじわりと染み渡る。ぽろぽろ涙があふれてきた。

「よかった。ずっと旦那様のおそばに置いていただけるのですね」

 小夜はひとしきり泣いた。

「ここへ嫁いできた日から、小夜はずっとそれを気にしていたのか」

「はい、私は一度、婚家からおいだされていますから」

「杉本のやり方は悪質だな」

「それに旦那様が一度も寝所を訪れないので、てっきりほかに恋人がいるのかと」

「なにを言っている。俺には断じて恋人などいない。小夜だけだ」

 小夜はじっと恭一郎を見つめる。恭一郎はほんのりと顔を赤くして困ったように笑う。

「小夜が、俺を恐れているようにみえた。それにお前はすぐに謝るし、怯える。だから、まとうと思っただけだ。小夜が、俺を恐れないようになるまで」

「旦那様……」

 小夜の目から再び大粒の涙があふれ、恭一郎のため息がふってきた。

「だが、もう一つ懸念事項が増えた」
「え?」

「お前には強い神通力があるし、巫女としても優秀だ。それが本家にバレたらひと騒動起こることは間違いない。
そうなると小夜と床を共にしたとして、身ごもったら俺はお前とややこを守らなければない。その際の対策を立てねばならぬから、しばら寝所には行けない。だが離縁は絶対にしない」

 小夜は嬉しさに嗚咽を漏らしながら頷いた。

「俺は、お前を犬神の御家騒動に巻き込んで申し訳なく思っている」 



 結局小夜は五日ほど寝込んだ。

 その間、夫の恭一郎は忙しい仕事の暇を縫うように、小夜を見舞ってくれていた。

 小夜が布団から起き上がれるようになると、みつ豆まで買ってきてくれた。

 床上げが済み、すっかり元気になった小夜は朝餉の支度の手伝いに復活した。

 八重におそわりながら、アサリのすまし汁、焼き魚に、甘辛くに付けた肉を作る。

 八重は揚げ物に、青菜の白あえを準備していた。

 久しぶりの恭一郎との朝餉である。

 箱膳を運び込むと、二人は向かい合った。

「小夜が、元気になってよかった。しかし、無茶はするなよ」

「はい」

 恭一郎は相変わらず、表情があまり動かないが、彼の瞳をまっすぐにみれば、そこに温かい光りがあるのがわかる。

 恭一郎が汁物の碗を手に取ったのをみて、小夜は手を合わせ「いただきます」とつぶやいて、赤い塗り箸をとる。

 いつも通りの静かな朝餉が始まった。

今日の恭一郎は着物を着ているだから、休みなのだとわかった。
 食事が終わり、恭一郎の湯飲みに煎茶を注ぐ時、小夜はずっと疑問に思っていたことをさらりと口にする。

「旦那様、気になっていたのですが、小夜は、お義父様とお義母様にご挨拶に行かなくてもよろしいのでしょうか」

「ああ、その件なら、必要ない」

「もしかて、旦那様のお義父様とお義母様は……」

「ん? 気づいたか?」

「もう、お亡くなりに?」

 恭一郎は苦り切った顔をする。

「いや、ぴんぴんしているぞ。残念ながら、父上は俺の上司だ。偉くなって現場にでなくなり、暇を囲っている」

「そうなのですか。旦那様、小夜はぜひご挨拶に伺いたいです」

「そうか、石本、八重、そこにいるのだろ?」

 ふすまの向こうに恭一郎が声をかける。

「はい、旦那様こちらに」

 本当に襖の向こうにいて二人が揃っていて、小夜は驚いた。

「小夜が父上と母上に、挨拶をしたいそうだ。いい加減、その悪趣味な真似はやまてくれませんか?」
「ほっほっ」
 愉快そうに石本が笑う。

「あらあら、まあ」
 おっとりと八重も笑う。

 八重がパンと手を打った瞬間、二人の姿がぼやけて、品の良い美しい中年男女の姿が現れた。

 小夜はびっくりして、あんぐりと口をあけた。

「……石本さんに、八重さん?」

「正確には石本と八重に化けていた俺の父と母だ。母は妖の血筋でちょっとした変化の力を持っている」

「な、なんてこと」

 小夜はあまりの驚きに後じさりしたが、すぐに正気に戻る。なんと言ってもここは式神が掃除をする家なのだ。それがこの家の常識なのかもしれない。

「お初にお目にかかります。小夜にございます」

 慌てた小夜は畳に額を擦り付けんばかりに、ひれ伏した。

「あなた方の悪趣味に付き合わされた、小夜が可哀そうだ」

 腹を立てたように恭一郎が言う。
 そして、小夜の隣で恭一郎は彼女背中を優しくなでる。

「何を言っている。お前が朴念仁だから、小夜さんが怯えていたのではないか」

「そうよ。可哀そうに小夜ちゃんったら、恭一郎さんが離縁だなんてくだらない冗談を言うから真に受けちゃって、一生懸命家の中でお手伝いしていたのよ。私たちがいなかったらどうなっていたことやら」

「何を言っているんですか? あなたたちはただ楽しんでいただけでしょ」

 呆れたような恭一郎の声に、小夜はそろそろ顔を上げる。

「改めまして、小夜ちゃん、これから先も恭一郎さんをよろしくね」

「小夜さん、末永く恭一郎を頼むよ」

 二人はそういって柔らかく笑う。

「は、はい、全力で恭一郎様をお守りします」

「確かに、小夜ちゃんは強いけれど、ほどほどにね。それに小夜ちゃんの力のことは隠しておくから、この家の外では絶対に漏らしてはダメよ」

「そうだよ。小夜さん、本家にその力がばれたら危険だ」

「は、はい、お義父様、お義母様、ありがとうございます」

 小夜は驚き冷めやらぬ状態だが、何とか言葉を絞り出した。

 そこで義父が振り返る。

「石本、八重、小夜さんを頼むよ」

 襖の向こうから、石本と八重が入ってきた。どうやらこちが本物のようだ。さきほど義父母が化けていた姿と区別がつかない。

「はい、ご隠居様」

「お任せを」

 小夜はますます混乱した。

「父上、母上、いいかげんにしてください!」

 恭一郎が叫んだ。




 その日の昼頃、小夜は恭一郎に連れられて、馬車で銀座の煉瓦街へと向かった。

以前約束した牛鍋屋に行くのだ。

店に着くと、小夜と恭一郎は二階にある個室に通された。

「小夜、今日は悪かった。父と母が調子に乗って」

「いえ、お二人ともとてもよくしてくださいましたから。でもあの、正直混乱しています。本物の石本さんと八重さんとは今日が初対面なのでしょうか?」

「いや違う。父も母も暇なとき入れ替わっていただけだ」

 それを聞いて少しほっとする。

「そうだったんですね。全然気づきませんでした」

「私と一緒に、四谷に向かってくださったのは、お義父様と石本さんどちらでしょう?」

「あれは本物の石本だ。父は本部にいた」

 ということは石本も陰陽師ということになる。それも腕のいい陰陽師だ。

「では帰った時に手当てをしてくださったのは」

「母だ。八重は眠りが深くてね、あの時刻は寝ている」

「そうだったんですか」

小夜が頷いたとき、目の前にアツアツの牛鍋が運ばれてきた。ぶつ切りの大きな牛肉が入っている。それを見た小夜は目を丸くした。

「まあ、大きなお肉がこんなにたくさん」

「小夜は、もう少し太ったほういい」

「はい、旦那様、頑張ります」

「頑張らなくて、少しはのんびりしろ。結婚してから働きづめだと聞いたぞ」

「まさか、朝餉の支度をするとやること以外なくて、困りました」

 小夜は首をふる。

「庭掃除をしていたと聞いたぞ」

「あれは掃除というより、散策でした。お庭は気持ちがいいし、季節の花も美しいです。それに鯉に餌をやるのも楽しかったです」

 小夜は嬉しそうな笑みを浮かべる。

「それはよかった。今まで実家や婚家で大変な目に合ってきたんだ。うちではのんびりとするがいい」

「はい、ありがとうございます」

 小夜、アツアツのお肉を一つ口に入れる。八重の作る繊細な味付けとは違うが、しょうゆの味が聞いていて美味だ。

「そういえば、旦那様は、お酒はのまないのですか?」

「俺はどれだけ飲んでも酔わないから、めったにのまない」

 初めて聞く話だ。

「ちょうどいい、犬神の家についてはなそう」
「はい」

 小夜は箸をおいて姿勢を正す。

「小夜、そんな真剣に聞くような箸ではない。鍋でもつつきながら、ゆっくり過ごそう」
「はい」

 微笑む恭一郎の姿に、小夜の頬は緩む。

 夫は端正で凛々しい顔立ちをしているせいかともすると冷たく見える。だが、とても優しい人なのだと小夜は知っている。

「犬神と名乗っているが、うちは別に犬のつきもの筋の家系ではない。陰陽師の家系で、血筋には鬼がいる」

 さらっととんでもないことを言われて小夜は目を見開いた。

「それほど、驚くこともないだろう。お前もその神通力の強さを考えれば、狐か何か妖の血がまじっているはずだ」

 確かに小夜の母は人であったが、狐ではないかと言われていた。

「ちなみに俺の母方は狐だ。犬神家は同じ血筋で結婚する者が多いが、母も違う家から嫁いで来たんだ。父が石本に化けられたのも母の力だ。陰陽師の血筋に妖がいることはよくあることだ。毒を持って毒を制すということなのだろう。小夜も母親が巫女の家系なのだろう」

「はい、母は梓巫女だと言っていました。突然ふっつりと消えしまいましたが」

「いつか、会えるといいな」

 小夜は恭一郎の言葉に頷いた。

 しかし母きっと鬼道にでも飲み込まれたのだろう。ある日を境に彼女の気配がぷっつりと消えてしまったのだ。

「それで、旦那様、ずっと犬神家の本家のことが気になっておりましたが、何か揉めているのですか?」

「ああ、そのことか。大したことではない。本家の跡目が家族を残して失踪したんだ」

 小夜はその話にびっくりした。

「残ったのはまだ幼児。それで分家であるうちが、本家に繰りあがったらどうかという話が出た。それで本家は小夜が石女だと話を聞きつけて、俺にあてがったんだ」

 小夜は、ふと敏子を思う。

 彼女の心には恋心がったのではないかと。祝言の時、敏子から強い恨みを感じだ。
 
 許嫁に対しての恋心には小夜にも覚えがある。実は杉本に淡い恋心を抱いた時期があった。あの辛い実家から連れ出してくれる人。大人の男性である杉本に憧れていた。もちろん結婚して、すぐにそのような気持ちは無残に砕け散った。

 しかし、恭一郎はとても綺麗で頼りになる。
 仕事はかなり危険だけれど、しっかりとした人だ。さぞや敏子は無念だったろう。
 もしかしたら恭一郎の中にも敏子に対する思いが残っているかもしれない。

 だとしても恭一郎は絶対にそれを小夜の前では見せないだろう。

 恭一郎は優しいから、行き場の小夜を憐れんで一緒にいてくれるのかも……。

「小夜。どうした? 箸が進んでいないが、口に合わなかった」

 気遣うような目で小夜を見る。
 
 小夜はかぶりを振り、微笑んだ。

「いえ、とっても美味しいです」

 誰かの犠牲の上にある己の幸せに、小夜の胸はちくりと痛んだ。
 盛夏のさかり、小夜の平穏な生活に小さな波紋のような変化が訪れた。

 「ねえ、小夜さん、西洋の小物を置いて店が近くにできたんですよ。一緒にお買い物に行きませんか?」

 最近犬神家に入った年若い使用人の公江が嬉しそうに誘ってくる。

 彼女は何度も八重は石本から小夜を奥様と呼ぶようにと注意されているが、「小夜さん」とよぶ。

 小夜の方でも、公江と年も近いことから気にしてなかった。

 公江は犬神家の末端の分家の娘だ。結婚が決まっている君江は、半年間だけ行儀見習いもかねて犬神家で預かることになったらしい。

 『適当に相手にするぐらいでいい。小夜が気に入らなければ、追い出すから』

 恭一郎がそんな恐ろしいことを言っていた。

 公江は流行に敏感で小夜に街ではやっているものを教えてくれる。

 小夜は掃除をしたり、炊事をしたりする方がおちつくのだが、公江はそうではないようで、何かというと出かけたがる。

 今日も西洋から入ったリボンが欲しいと言っていたので、小夜は付き合うことにした。

 公江は歩きたがらないので、馬車で店に向かった。

 ガラス張りの洒落た店は、西洋風で草履や靴のまま商品を見ることができた。公江は目を輝かせている。

 白い絹のリボンが気に入ったようだ。

 「わあ、見てください、小夜さん、このリボン可愛いです。私に似合うと思います?」

 「ええ、とってもお似合いですよ」

 「じゃあ、これを買います!」

 会計の段階になって、公江は焦り出す。

 「どうしましょう!持ち合わせがないわ」

 残念そうにため息をつく。

 「会計は私がしましょう」

 「本当ですか! 小夜さんありがとうございます! お礼に私のとっておきの茶店をお教えします。ぜひ、恭一郎さんと行っていただきたいので」

 親戚筋のせいか、ご当主と呼ばす、「恭一郎さん」と呼ぶ。これについても何度も注意を受けている。
 
 公江は天真爛漫な娘で、悪気などないのだろう。

 彼女は楽しげに大通りから狭い路地へと入っていく。

 「女学校に通っている頃によく行った店なんです」

 路地を進むにつれ、人通りが少なりあたりは薄暗くなる。

 「公江さん、道を間違えたのではないですか?」

 公江はクスクスと笑う。

 「敏子さん連れてきましたわよ」

 しゃれた洋装姿に洋傘を持った敏子がふらりと現れた。

 「あなたは…」

 小夜が驚いて公江を振り返ろうとすると、後ろから羽交い絞めにされた。

 公江の方がずっと上背があり、体重もある。小柄な小夜は身動きが出来ない。

 「どういうことなんですか?」

 「恭一郎さんに、こんな貧相な娘をあてがうなんて」

 眉をひそめて敏子が吐き捨てる。

 小夜は嫌な予感がして、公江の拘束を解こうとする。

 「そんなに暴れないで、すぐにすむから。公江から来たのだけれど、あなた月のものがあるって」

 「え?」

 「だから念のために」

 言うや否や、洋傘を小夜の下腹部を目がけて突き出した。

 「やめて!」

 そう叫んだ瞬間。目の前に男が現れた。

 「貴様! どいうつもりだ!」

 仕事に行ったはずの恭一郎が合わられ、敏子から洋傘を奪う。
 「ひっ」

 一声叫ぶと、公江が小夜を突き飛ばして逃げ出したが、その先には石本が待ち構えていた。

 「違うの、恭一郎さん、誤解よ」

 泣いて恭一郎に縋ったが、有無を言わさず。恭一郎は巡査に敏子を引き渡した。

 小夜はそれ呆然としてみる。命を狙われたのは初めてだ。

 「ごめんなさい。私が旦那様を敏子様から奪ってしまったから」

 小夜の目から涙があふれる。

 「馬鹿なことをいうな。俺はもとから敏子が苦手だ」

 「え?」

 「敏子は本家が勝手に決めた許嫁だ。小夜に変わってほっとした」

 恭一郎が怒ったような顔で言う。

 「そ、そうだったんですが」

 「小夜、危険な目に合わせてすまない。必ず俺が守る」
 そう言って、恭一郎は震える小夜をぎゅっと抱きしめた。

 初めての抱擁は力強く、優しく、温かくて小夜の悲しみや苦しみを包み込む。

 どきどきと伝わる恭一郎の胸の鼓動に、小夜は頬を染めて頭を預けた。

 ――小夜は旦那様をお慕いしております。