この丘では、夏になると、不思議な花が咲くらしい。
その名も一日花といい、読んで字のごとく、一日で咲いて、その日の内に散ってしまう花だという。またある言い伝えでは、一日花には、亡くなった人の魂が宿るともいわれていた。
蝉の声がわんさかと降る茂みを抜けたその先に、一人の男の子が倒れていた。
あまりにも非日常的な光景に、私は目を見張ったまま、硬直した。
ぱっと見、小学校中学年くらいだろうか。
ふと彼のかたわらに視線を走らせると、一輪の花が咲いている。
白いほのかな光をまとったその花は、まるでこの世のものとは思えないほど、神秘的だった。
すると、突然、男の子の体がぴくりと動いた。
「会いに、行かなきゃ……」
小声でなにかつぶやいているのがうっすらと聞こえて、耳を傾けようとしたその次の瞬間だった。
ハッと、男の子は息を吹き返したように立ち上がった。
「ぼく、おばあちゃんに会いに行かなくちゃ!! 一日花が散っちゃうまでに!」
それから男の子は、あの摩訶不思議な花を指差して叫んだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
わけがわからず、私は男の子に説明を求める。
「ぼくね、本当はもう一年前に死んじゃってて」
すると、はたまた彼の口から、とんでもない発言が次々と出てきて、私はことさら困惑した。
「でも、どうしても最後に、おばあちゃんと会って話したくて。それで神様にお願いしたら、今日一日だけ、あの一日花が散るまでだったらいいよって言われたの」
本当になにを言っているんだ、この子は。
一日花って確か、この丘の言い伝えの? でも、あんなのただの迷信じゃ。
いくらなんでも信じがたかった。けれど、男の子の様子を見るに、嘘をついているようにも思えない。
彼の言う一日花に目を向けたその時、まるで、さざ波のような風が吹き抜けて、花びらが一枚、青空へひらりと舞った。
とたん、男の子の表情がこわばる。
「早く行かないと!」
「待って!」
思わず、私は彼の腕をつかんだ。
「行くって、どこに?」
私が尋ねると、男の子が答えた。
「――そんなに遠くまで? 歩きで?」
「ぼく、お金もなにも持ってないから」
「なら、一緒に行こうか?」
がっくりと肩を落とした彼に、私はおのずとそう言っていた。なんとなく、このまま放っておくのも、どうかと思ったのだ。
「で、でも、おねえちゃん、制服着てるし、これから学校なんじゃないの?」
「私のことは気にしなくていいよ」
言うと、彼は小首を傾げた。
「おねえちゃん、もしかして学校嫌い?
鋭いところを突かれた。ひょっとしたら、顔に出てしまっていたのかもしれない。
「まぁ、そんなところかな」
私はなんとか言葉を濁した。
それから私は男の子を連れて、電車に乗った。
となりに座り、窓の外をじっとながめていた彼が、やがて話しかけてくる。
「ねぇ、おねえちゃん。名前、なんていうの?」
「みのり」
「どういう字?」
「そのままひらがな」
「そっか、じゃあ、みのりおねえちゃんだね! ぼくは晴翔。晴れるって漢字に、飛翔の翔って書くんだ」
「いい名前だね」
「でしょでしょ!? 実はこの名前、おばあちゃんがつけてくれたんだ!」
「晴翔はよっぽど、おばあちゃんのことが好きなんだね」
なんとはなしにそう言ってみただけだった。しかし、とたん晴翔は物憂げに顔をうつむける。
「晴翔?」
すると晴翔は突然、自分が生きていた頃のことを話し始めた。
晴翔には、小さい時からずっと両親がいなかったらしい。代わりにいつも、晴翔のおばあさんが彼の世話をしてくれていたという。
「ぼくのおばあちゃんはすごいんだ。なんでもできて、いつも優しくて。でも」
か細い声で言いかけた晴翔の横顔に、またも悲しみの色がにじむ。
「ぼくにお母さんとお父さんはいないんだって、クラスの子に話したら、そんなのおかしいって言われて。それから、ぼくはいじめられた……」
いじめ。その言葉に、胸をぎゅっとわしづかみにされたような気がした。
とたん、嫌な推測が脳裏をよぎる。
「ねぇ、ひょっとして晴翔は」
ふっと晴翔は寂しげに笑ってうなずいた。
「ある日ね、学校の屋上に行ったら、空がすごくキレイで。そしたらぼく、なんかもう全部、どうでもよく、なっちゃって……」
晴翔の小さな肩は震え、目には涙がたまっている。
「取り返しがつかなくなっちゃってから、おばあちゃんがすごく悲しんでるのを見たんだ。でも、もうその時にはぼくは」
そこで、晴翔は苦しげに歯を食いしばって、話すのをやめた。
「そっか……話してくれて、ありがとう」
弱々しげなその背中に、そっと手を触れる。
辛かったね、苦しかったね、なんていう言葉をかける資格は私にはきっとない。
けれど、せめて、今日一日だけは、彼のそばで寄りそうことをどうか許してほしい。
「――ちゃん! みのりおねえちゃんっ!」
「あっ、ごめん」
晴翔の声に呼ばれ目を覚ますと、車内に流れてきたアナウンスが、目的地である終点を告げていた。
どうやら、ついうたた寝してしまったらしい。
行こうかと立ち上がりかけた私を、晴翔が制した。
「みのりおねえちゃん、どこか痛いところあったりする?」
「えっ、別に平気だよ。なんで、急にそんなこと」
「さっき、すごいうなされてたから」
一瞬、私は言葉に詰まった。
「大丈夫だよ、ちょっと乗り物酔いしちゃっただけだから」
即座に思いついた嘘でごまかすと、晴翔は、そうなの? と、少し安心したような顔色を浮かべた。
駅を出て、私は晴翔に案内されるがまま、見慣れない土地を歩いた。
「ここだよ、前にぼくが住んでたおうち」
やがて、晴翔が足を止めた。
そこは周りを石の塀で囲まれた、昭和時代なんかによくありそうな一軒の平屋だった。
「あれがぼくのおばあちゃんだよ」
そっと覗きみると、軒下の縁側に、一人の小さなおばあさんが、ぽつんと腰を下ろしていた。
晴翔の言っていたように、すごく温厚そうな人だと思った。けれど、その背中はなんだか寂しそうにも見える。
「ねぇ、晴翔」
「なに?」
「私のことは、おばあちゃんには秘密ね」
私は言って、人差し指を口の前に当てた。
それから晴翔は、わかったと素直に返事をして、おばあさんのもとへと駆けていく。
「――おばあちゃんっ!!」
晴翔が叫ぶ。
すると、おばあさんは驚いたようにしきりに目を見開いた。
「晴翔っ!」
そして、走ってきた勢いのまま飛びついた晴翔を、おばあさんはぎゅっと大切そうに抱きしめた。
「おばあちゃん、ごめんなさい!! ぼく自分がただ苦しくて、おばあちゃんのこと考えないで、勝手にっ!」
「わしのほうこそ、すまなかったねぇ、晴翔……。ずっとずっと一人で辛抱しとったんやんなぁ」
心の底から慈しむようなまなざしで、おばあさんは泣きじゃくる晴翔の頭をそってなでた。
「本当に、もうよかったの?」
帰りの電車で、私は聞いた。
「うん。あんまり長くいても、お別れが寂しくなっちゃうから」
「そっか」
大人びた返事に、本来、年上であるはずの私の方が、なにも言えなくなってしまう。
「ねぇ、みのりおねえちゃん。今日はありがとう」
「ど、どういたしまして」
あどけない笑顔を向けられ、不本意ながらまごついてしまった。
「ぼくね、みのりおねえちゃんとたくさん話せて楽しかったよ。友達ができたみたいで、すごく嬉しかった」
友達、か。
きっと晴翔には、なんの他意もないのだろう。ただただ純粋に、そう思ってくれただけ。
けれど、その言葉は私の胸に重たくのしかかった。
戻ってきた頃には、空はすっかり夜の色に沈みきっていた。
「花びら、もう後、一枚しか残ってないや」
ぽつりと切なげに、晴翔はつぶやく。彼の目線の先には、あの一日花があった。
かろうじて一枚だけ、花びらをつなぎとめたその姿は、すごく心もとない。
ああ、世界はなんて残酷なんだろう。理不尽な偏見は、差別は、目の前のこんなにも小さな命すらもを奪ってしまう。
そんなふうに俯瞰しておきながら、その実、なにもできない自分がまた嫌になった。
と、その時だった。
「みのりおねえちゃん、見て!」
ヒュー、ドカン!!
耳をつんざくような轟音が、辺り一帯の静寂を切り裂く。
「花火だ!」
晴翔の声に、私は思わず、空を見上げた。
その瞬間、いくつもの鮮やかな光が、一斉にして目に飛びこんでくる。
「あそこ! あの学校から上がってる! ねぇ、あれってひょっとして、みのりおねえちゃんの学校じゃない?」
「あっ、うん。そうだよ」
目をキラキラさせた晴翔が、こっちを振り向く。けれど、その笑顔は一瞬にして消え失せた。
「みのりおねえちゃん……? どうして、泣いてるの?」
「えっ?」
思わず、自分の頬に触れると、一筋の涙が目からあふれ出していた。
次から次へと打ち上がる花火の色がぼやけて、ごちゃまぜになる。
「みのりおねえちゃんっ!」
まるで、タガが外れたように膝から崩れ落ちた私を見て、晴翔が慌てて駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫っ?」
あたふたとする晴翔に、私は力なくうなずいた。
「ごめんね、晴翔。実は今日ね、高校の文化祭の日だったんだ」
「そうだったの? じゃあ、ぼくのせいでっ」
「ううん、それは違うよ。そもそも最初から、行くつもりなかったから」
どうしてと、晴翔が眉をひそめる。
眼下の端に、ちらりと校舎が見えた。
「学校にいたくないから」
私はとうとう、晴翔にすべてを話す決意をした。
ずっとずっと仲のよかった幼なじみがいた。けれど、高校に入ったとたん、突然、その子がいじめられた。それから私は、その子を無視するようになった。ただ自分が、いじめの標的にされるのが怖くて。
ある日、いじめっ子達に命令されて、私はいじめに加担してしまった。歯向かうことなんてできなかった。
「そしたらね、その子、学校に来なくなっちゃったんだ……」
本当に、私は最低な人間だと、自分で自分を自嘲した。
話している最中も、晴翔の方を見ることはできなかった。悲しんでいるだろうか、怒っているだろうか。私はいたたまれない気持ちになった。
「それでも、ぼくはみのりおねえちゃんが悪い人だとは思わないよ。だって、みのりおねえちゃんはすごく優しいから」
私の予想に反して、彼の声は穏やかだった。
「怖いんだよね。わかるよ、その気持ち。ぼくだっていじめのこと、だれにも話せなかった。でも」
晴翔は言いかけて、その白い小さな手で私の手をぎゅっと握る。
「みのりおねえちゃんには、ぼくみたいな後悔してほしくない。だから、ぼくが、みのりおねえちゃんに勇気をあげる!」
「晴翔……」
幼い瞳が、私をじっと見つめる。
晴翔の実直な想いは、その優しい温もりは、塞ぎこんでいた私の心にまで届いた。
「がんばって、みのりおねえちゃん。ぼく、ちゃんと空の上から見てるから!」
子供らしい、無邪気な笑顔が弾けたその次の瞬間だった。
木々の葉を揺らす風の足音が聞こえてきて、一日花の最期の花びらが、ふわりと宙に舞った。
「晴翔っ!」
私が叫んだ時には、すでに晴翔の姿は消えていた。
光一面の空を見上げながら、私は一人っきり、ぽつりとつぶやく。
「ありがとう」
その時、私の胸の中には、小さな勇気の花が咲いていた。
その名も一日花といい、読んで字のごとく、一日で咲いて、その日の内に散ってしまう花だという。またある言い伝えでは、一日花には、亡くなった人の魂が宿るともいわれていた。
蝉の声がわんさかと降る茂みを抜けたその先に、一人の男の子が倒れていた。
あまりにも非日常的な光景に、私は目を見張ったまま、硬直した。
ぱっと見、小学校中学年くらいだろうか。
ふと彼のかたわらに視線を走らせると、一輪の花が咲いている。
白いほのかな光をまとったその花は、まるでこの世のものとは思えないほど、神秘的だった。
すると、突然、男の子の体がぴくりと動いた。
「会いに、行かなきゃ……」
小声でなにかつぶやいているのがうっすらと聞こえて、耳を傾けようとしたその次の瞬間だった。
ハッと、男の子は息を吹き返したように立ち上がった。
「ぼく、おばあちゃんに会いに行かなくちゃ!! 一日花が散っちゃうまでに!」
それから男の子は、あの摩訶不思議な花を指差して叫んだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
わけがわからず、私は男の子に説明を求める。
「ぼくね、本当はもう一年前に死んじゃってて」
すると、はたまた彼の口から、とんでもない発言が次々と出てきて、私はことさら困惑した。
「でも、どうしても最後に、おばあちゃんと会って話したくて。それで神様にお願いしたら、今日一日だけ、あの一日花が散るまでだったらいいよって言われたの」
本当になにを言っているんだ、この子は。
一日花って確か、この丘の言い伝えの? でも、あんなのただの迷信じゃ。
いくらなんでも信じがたかった。けれど、男の子の様子を見るに、嘘をついているようにも思えない。
彼の言う一日花に目を向けたその時、まるで、さざ波のような風が吹き抜けて、花びらが一枚、青空へひらりと舞った。
とたん、男の子の表情がこわばる。
「早く行かないと!」
「待って!」
思わず、私は彼の腕をつかんだ。
「行くって、どこに?」
私が尋ねると、男の子が答えた。
「――そんなに遠くまで? 歩きで?」
「ぼく、お金もなにも持ってないから」
「なら、一緒に行こうか?」
がっくりと肩を落とした彼に、私はおのずとそう言っていた。なんとなく、このまま放っておくのも、どうかと思ったのだ。
「で、でも、おねえちゃん、制服着てるし、これから学校なんじゃないの?」
「私のことは気にしなくていいよ」
言うと、彼は小首を傾げた。
「おねえちゃん、もしかして学校嫌い?
鋭いところを突かれた。ひょっとしたら、顔に出てしまっていたのかもしれない。
「まぁ、そんなところかな」
私はなんとか言葉を濁した。
それから私は男の子を連れて、電車に乗った。
となりに座り、窓の外をじっとながめていた彼が、やがて話しかけてくる。
「ねぇ、おねえちゃん。名前、なんていうの?」
「みのり」
「どういう字?」
「そのままひらがな」
「そっか、じゃあ、みのりおねえちゃんだね! ぼくは晴翔。晴れるって漢字に、飛翔の翔って書くんだ」
「いい名前だね」
「でしょでしょ!? 実はこの名前、おばあちゃんがつけてくれたんだ!」
「晴翔はよっぽど、おばあちゃんのことが好きなんだね」
なんとはなしにそう言ってみただけだった。しかし、とたん晴翔は物憂げに顔をうつむける。
「晴翔?」
すると晴翔は突然、自分が生きていた頃のことを話し始めた。
晴翔には、小さい時からずっと両親がいなかったらしい。代わりにいつも、晴翔のおばあさんが彼の世話をしてくれていたという。
「ぼくのおばあちゃんはすごいんだ。なんでもできて、いつも優しくて。でも」
か細い声で言いかけた晴翔の横顔に、またも悲しみの色がにじむ。
「ぼくにお母さんとお父さんはいないんだって、クラスの子に話したら、そんなのおかしいって言われて。それから、ぼくはいじめられた……」
いじめ。その言葉に、胸をぎゅっとわしづかみにされたような気がした。
とたん、嫌な推測が脳裏をよぎる。
「ねぇ、ひょっとして晴翔は」
ふっと晴翔は寂しげに笑ってうなずいた。
「ある日ね、学校の屋上に行ったら、空がすごくキレイで。そしたらぼく、なんかもう全部、どうでもよく、なっちゃって……」
晴翔の小さな肩は震え、目には涙がたまっている。
「取り返しがつかなくなっちゃってから、おばあちゃんがすごく悲しんでるのを見たんだ。でも、もうその時にはぼくは」
そこで、晴翔は苦しげに歯を食いしばって、話すのをやめた。
「そっか……話してくれて、ありがとう」
弱々しげなその背中に、そっと手を触れる。
辛かったね、苦しかったね、なんていう言葉をかける資格は私にはきっとない。
けれど、せめて、今日一日だけは、彼のそばで寄りそうことをどうか許してほしい。
「――ちゃん! みのりおねえちゃんっ!」
「あっ、ごめん」
晴翔の声に呼ばれ目を覚ますと、車内に流れてきたアナウンスが、目的地である終点を告げていた。
どうやら、ついうたた寝してしまったらしい。
行こうかと立ち上がりかけた私を、晴翔が制した。
「みのりおねえちゃん、どこか痛いところあったりする?」
「えっ、別に平気だよ。なんで、急にそんなこと」
「さっき、すごいうなされてたから」
一瞬、私は言葉に詰まった。
「大丈夫だよ、ちょっと乗り物酔いしちゃっただけだから」
即座に思いついた嘘でごまかすと、晴翔は、そうなの? と、少し安心したような顔色を浮かべた。
駅を出て、私は晴翔に案内されるがまま、見慣れない土地を歩いた。
「ここだよ、前にぼくが住んでたおうち」
やがて、晴翔が足を止めた。
そこは周りを石の塀で囲まれた、昭和時代なんかによくありそうな一軒の平屋だった。
「あれがぼくのおばあちゃんだよ」
そっと覗きみると、軒下の縁側に、一人の小さなおばあさんが、ぽつんと腰を下ろしていた。
晴翔の言っていたように、すごく温厚そうな人だと思った。けれど、その背中はなんだか寂しそうにも見える。
「ねぇ、晴翔」
「なに?」
「私のことは、おばあちゃんには秘密ね」
私は言って、人差し指を口の前に当てた。
それから晴翔は、わかったと素直に返事をして、おばあさんのもとへと駆けていく。
「――おばあちゃんっ!!」
晴翔が叫ぶ。
すると、おばあさんは驚いたようにしきりに目を見開いた。
「晴翔っ!」
そして、走ってきた勢いのまま飛びついた晴翔を、おばあさんはぎゅっと大切そうに抱きしめた。
「おばあちゃん、ごめんなさい!! ぼく自分がただ苦しくて、おばあちゃんのこと考えないで、勝手にっ!」
「わしのほうこそ、すまなかったねぇ、晴翔……。ずっとずっと一人で辛抱しとったんやんなぁ」
心の底から慈しむようなまなざしで、おばあさんは泣きじゃくる晴翔の頭をそってなでた。
「本当に、もうよかったの?」
帰りの電車で、私は聞いた。
「うん。あんまり長くいても、お別れが寂しくなっちゃうから」
「そっか」
大人びた返事に、本来、年上であるはずの私の方が、なにも言えなくなってしまう。
「ねぇ、みのりおねえちゃん。今日はありがとう」
「ど、どういたしまして」
あどけない笑顔を向けられ、不本意ながらまごついてしまった。
「ぼくね、みのりおねえちゃんとたくさん話せて楽しかったよ。友達ができたみたいで、すごく嬉しかった」
友達、か。
きっと晴翔には、なんの他意もないのだろう。ただただ純粋に、そう思ってくれただけ。
けれど、その言葉は私の胸に重たくのしかかった。
戻ってきた頃には、空はすっかり夜の色に沈みきっていた。
「花びら、もう後、一枚しか残ってないや」
ぽつりと切なげに、晴翔はつぶやく。彼の目線の先には、あの一日花があった。
かろうじて一枚だけ、花びらをつなぎとめたその姿は、すごく心もとない。
ああ、世界はなんて残酷なんだろう。理不尽な偏見は、差別は、目の前のこんなにも小さな命すらもを奪ってしまう。
そんなふうに俯瞰しておきながら、その実、なにもできない自分がまた嫌になった。
と、その時だった。
「みのりおねえちゃん、見て!」
ヒュー、ドカン!!
耳をつんざくような轟音が、辺り一帯の静寂を切り裂く。
「花火だ!」
晴翔の声に、私は思わず、空を見上げた。
その瞬間、いくつもの鮮やかな光が、一斉にして目に飛びこんでくる。
「あそこ! あの学校から上がってる! ねぇ、あれってひょっとして、みのりおねえちゃんの学校じゃない?」
「あっ、うん。そうだよ」
目をキラキラさせた晴翔が、こっちを振り向く。けれど、その笑顔は一瞬にして消え失せた。
「みのりおねえちゃん……? どうして、泣いてるの?」
「えっ?」
思わず、自分の頬に触れると、一筋の涙が目からあふれ出していた。
次から次へと打ち上がる花火の色がぼやけて、ごちゃまぜになる。
「みのりおねえちゃんっ!」
まるで、タガが外れたように膝から崩れ落ちた私を見て、晴翔が慌てて駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫っ?」
あたふたとする晴翔に、私は力なくうなずいた。
「ごめんね、晴翔。実は今日ね、高校の文化祭の日だったんだ」
「そうだったの? じゃあ、ぼくのせいでっ」
「ううん、それは違うよ。そもそも最初から、行くつもりなかったから」
どうしてと、晴翔が眉をひそめる。
眼下の端に、ちらりと校舎が見えた。
「学校にいたくないから」
私はとうとう、晴翔にすべてを話す決意をした。
ずっとずっと仲のよかった幼なじみがいた。けれど、高校に入ったとたん、突然、その子がいじめられた。それから私は、その子を無視するようになった。ただ自分が、いじめの標的にされるのが怖くて。
ある日、いじめっ子達に命令されて、私はいじめに加担してしまった。歯向かうことなんてできなかった。
「そしたらね、その子、学校に来なくなっちゃったんだ……」
本当に、私は最低な人間だと、自分で自分を自嘲した。
話している最中も、晴翔の方を見ることはできなかった。悲しんでいるだろうか、怒っているだろうか。私はいたたまれない気持ちになった。
「それでも、ぼくはみのりおねえちゃんが悪い人だとは思わないよ。だって、みのりおねえちゃんはすごく優しいから」
私の予想に反して、彼の声は穏やかだった。
「怖いんだよね。わかるよ、その気持ち。ぼくだっていじめのこと、だれにも話せなかった。でも」
晴翔は言いかけて、その白い小さな手で私の手をぎゅっと握る。
「みのりおねえちゃんには、ぼくみたいな後悔してほしくない。だから、ぼくが、みのりおねえちゃんに勇気をあげる!」
「晴翔……」
幼い瞳が、私をじっと見つめる。
晴翔の実直な想いは、その優しい温もりは、塞ぎこんでいた私の心にまで届いた。
「がんばって、みのりおねえちゃん。ぼく、ちゃんと空の上から見てるから!」
子供らしい、無邪気な笑顔が弾けたその次の瞬間だった。
木々の葉を揺らす風の足音が聞こえてきて、一日花の最期の花びらが、ふわりと宙に舞った。
「晴翔っ!」
私が叫んだ時には、すでに晴翔の姿は消えていた。
光一面の空を見上げながら、私は一人っきり、ぽつりとつぶやく。
「ありがとう」
その時、私の胸の中には、小さな勇気の花が咲いていた。