あのあと、陽葵の容態は回復した。

 ……と言っていいのか不明だが、ひとまず体調は良くなったらしい。半透明になっていた手は元に戻っていたし、胸の痛みも治まったようだった。

 念のため、俺と由依は陽葵を保健室に連れていった。保健の先生には「音楽室で練習していたら体調を崩した」としか伝えていない。さすがに「手が透けた」なんて言っても信じてもらえないと思ったのだ。

 今は放課後。陽葵は保健室で休んだ後、そのまま帰宅したと由依から聞いている。

 ……いったいなんなんだ、あの透過現象は。

 陽葵は幽霊だと言っていたが、はたしてそんな嘘みたいな話があるのだろうか。一瞬、ドッキリかと疑ったが、俺は実際にこの目で見ている。あれはトリックの類じゃなかった。

 ……考えてもわからない。

 きっと由依なら事情を知っているだろう。

「……聞きに行かないと」

 席を立ち、おしゃべりしているクラスメイトの横を通り抜けて教室を出る。
 廊下には、鞄を持った由依が一人ぽつんと立っていた。目が合うと、彼女は小走りで駆け寄ってくる。

「三崎くん。今日、予定あるかしら?」
「ないよ。もしよかったら、このあと……」
「ええ。ファミレスでいい?」
「……説明してくれるんだな? 例の透過現象のこと」
「うん。陽葵のこと、君には知っておいてほしいから」

 行きましょう、と言って由依は歩き出す。俺も彼女の隣に並んで歩いた。

 学校を出て駅前に向かう。
 その間、あまり言葉は交わさなかった。世間話なんてする気分じゃない。俺たちは街の喧騒の中を静かに歩いた。

 しばらくして、ファミレスに到着した。
 席に着き、ドリンクとフライドポテトを注文する。俺はメロンソーダで、由依はオレンジジュースだ。

 注文したものがテーブルに揃うと、由依は話を切り出した。

「三崎くん。今日は驚かせてごめんなさい。いずれ説明するつもりだったんだけど、初合わせでこんなことになるなんて……」
「謝るようなことじゃないさ。それより、あの透過現象はなんなんだ? あんなの見たことも聞いたこともない」
「……あの子、難病を抱えているの」
「難病? 元気そうに見えるけど……」
「見た目はね。ああ見えて、病弱なのよ」
「……いったいどんな病気なんだ?」
「『幽霊病』っていうんだ」

 からん、と氷の音が鳴った。炭酸の泡がしゅわしゅわと音を立てながら水面で弾けている。

「幽霊……陽葵も同じことを言っていたな」
「ごめんなさい。こんな話、信じられないわよね。でも、本当のことなの」
「……信じるよ。実際にこの目で見たことだし。それに、二人が俺を騙すなんて思えないから」
「三崎くん……ありがとう」

 由依は一呼吸おいて話を続ける。

「幽霊病はその名のとおり、体が幽霊みたいに透けてしまう難病なの」
「……やっぱり聞いたことがないな」
「普通の人は知らないはずだわ。昔から存在する奇病みたいだけど、滅多にかからないから」
「陽葵は運悪く罹患したってこと?」
「ええ……過去の症例も少なすぎて、研究が進まず、現代でも治療方法が見つかってないんだって。あの子、小さい頃から患っていて、ずっと苦しんでいるの。今でも保健室に登校する日が多いし、今日みたいに早退しちゃう日もあるから」
「保健室登校……どうりで同級生の陽葵を見かけた記憶がないわけだ」

 そういえば、入退院を繰り返していて友達ができなかったと言っていたっけ。病院生活が長いのは、幽霊病のせいだったのか。

「幽霊病の詳しい説明をする前に聞いておきたいんだけど……三崎くん、物理は得意?」
「普通かな。どうして?」
「少しだけ関係があるから……ねえ。人間の体って何で構成されているかわかる?」
「水とかタンパク質……他にもあるだろうけど、俺の知っているのはそれくらいだ」
「間違ってないわ。そして、それらを構成しているのは分子……原子が結び付いたものね」
「はあ。話が全然見えないんだが……」
「人間の体を構成する原子が透明化する……これが幽霊病の正体だと言われているわ。もっとも、透明化の詳しい原因は解明されていないし、他にも未知の性質があるみたいだけど」

 話が突飛すぎて説明を理解するのがやっとだ。俺は集中して由依の説明に耳を傾ける。

「この透明化した原子を『ゴーストリノ原子』と呼ぶわ。幽霊は英語でゴースト……そして素粒子であるニュートリノの性質に類似点があるから、この名がついたみたい」
「待ってくれ。ニュートリノってなんだ?」
「簡単に言うと、ものすごく小さい粒子のこと。原子さえもすり抜けられるわ」
「すり抜け……そういうことか」

 ゴーストリノ原子は透明化し、他の原子をすり抜ける性質を持っている。
 だから、俺は陽葵の透けた手に触れられなかったんだ。

「幽霊病の仕組みはなんとなくわかったよ。で、他にはどんな症状が起こるんだ?」
「透けるだけよ。でも、それはとても恐ろしいことなの」
「……どう恐ろしいんだ?」
「三崎くんも体験したでしょ? 触れられなくなるのよ……この世に存在していないみたいに」

 この世に存在しない……それはまさしく幽霊そのものだ。

「過去の文献によれば、手だけじゃないの。例えば、足が透けてしまった人もいる。陽葵もそうなってしまう可能性は十分にあるみたい」
「おいおい。その場合って……」

 足が透ける。
 それは、足がこの世に存在しないのと同じこと。
 つまり――。

「そうね。歩けなくなるわ」
「なっ……!」

 幽霊病は、ただ手が透けるだけじゃない。体の至るところが透けてしまう奇病だったのだ。

 ……待てよ?
 体の至るところが透けるだって?

 幽霊病の性質を知った今、俺はこの病気の恐ろしさに気づいてしまった。

 透けた部位は存在しないのと一緒。だから、手が透過したら物に触れられないし、足が透過したら歩けなくなる。

 では、症状がさらに悪化したら?
 例えば……全身が透過したらどうなる?

「由依。この先、陽葵の体がどんどん透過していったら……」
「うん……たぶん、三崎くんが考えているとおりだと思う」

 嘘だ。信じたくない。
 胸の奥がキリキリと痛む。心臓が、やすりがけでもされているみたいだ。
 俺は自分の太ももを殴った。この胸の苦しみを忘れるには、より強い痛みが効果的だと思ったから。

 しかし、由依は忘れさせてくれなかった。

「悲しいことだけど……陽葵はいつかこの世から消えちゃうわ」

 まるで、幽霊みたいに。
 最後に付け足したその声は、か細くて頼りなかった。

「そんな……嘘だよな? だって陽葵のヤツ、めちゃくちゃ元気だぞ?」
「……ねえ、三崎くん。ゴーストリノ原子は他の原子をすり抜けるって話、したわよね?」
「ああ。それがどうかしたのか?」
「人間を構成する水やタンパク質は分子でできている。そして、分子は原子が結合して存在している……その原子がゴーストリノ原子に変化したら?」
「それは……」

 水素の原子と酸素の原子がくっついて水ができるように、人間も多くの原子が結合して存在しているはず。

 しかし、ゴーストリノ原子は他の原子とぶつかってもすり抜けてしまう。おそらく、結合することはない。

 ということは――。

「分子が結合崩壊を起こしてしまい、人間は存在できなくなって、透明な原子だけが残る……つまり、死んでしまうのよ」

 背筋に感じたことのない寒気が走る。

 存在が消えて死ぬ。
 それは普通に死んでしまうよりも、ずっと怖いことのように思えた。

「で、でも! 普段は全然透けてないよな? それに透けても手だけだ。全身が透過するなんて考えにくいよな?」

 突きつけられた現実を否定したくて、由依に質問をぶつける。

 しかし、彼女は険しい表情で首を横に振った。

「さっきも言ったけど、それはわからない。症例が少なすぎるから何とも言えないの。ただ、残存している文献によれば、幽霊病患者は例外なくこの世から消えてしまうみたい」
「なんで……陽葵の手、消えても戻ったじゃないか。仮に分子の結合が崩壊したなら、元通りにならないはずだ。矛盾してるって」
「あくまで可能性の話だけど……透明化が先に発生した後、緩やかに結合が弱まっていく性質なのかもしれない。何度も言うけど、解明されていない奇病だから謎が多すぎるのよ」
「嘘だろ……」

 希望を否定された俺に、もう反論する言葉は残っていなかった。

「……今後、陽葵はどうなっちゃうんだよ」
「正確なことはわからないわ。でも、お医者さんいわく、発作の頻度が高くなっていることから、病状は悪化しているんじゃないかって」
「そんな……悪化している原因もわからないのか?」
「これもお医者さんの話だけど、心臓の鼓動が速まると、ゴーストリノ原子が活発になるみたい。緊張状態や興奮状態はもちろん、激しい運動……ライブなんかも含まれるわ」
「じゃあ、バンドやってる場合じゃないだろ! 安静にしてないと!」

 こんな理不尽な話があってたまるか。俺はおもわず声を荒げてしまう。

 怒る俺とは対照的に、由依は冷静だった。

「……私も三崎くんと同じことを考えたわ。でも、陽葵がこう言ったの」


『私、このまま死ぬまで病院生活するなんて嫌だ。どうせ死ぬなら青春したい。同年代の子たちと同じように、キラキラした学園生活を送ってから死にたい。それが私の夢。死ぬ間際に後悔しないように、今を必死に生きたいの。だって、人生は一度きりだもん!』


 後悔しないように生きる。
 人生は一度きり。
 それは陽葵が俺に言ってくれた言葉だった。

 ふとバンドに誘われたときを思い出す。

 あのとき、陽葵は「時間がない」と言った。あれは「そう長くは生きられない」って意味だったんだ。ゴーストノートに「親近感わく」と言っていたのも、同じ『幽霊』の名を持つ病気を抱えていたからかもしれない。

 ……陽葵は「バンドやって青春したい」と言っていたっけ。あのときは何気なく聞いていたけど、そんな強い意志が込められていたなんて思いもしなかった。

 ……やっぱり眩しすぎる。
 幼い頃から病弱で、入退院を繰り返してきた陽葵。そんな彼女は今、青春を謳歌して、残された時間をめいっぱい生きようとしている。
 臆病者の俺には、そんな太陽みたいな生き方はできない。

「強いんだな、陽葵は」

 おもわず、そんな感想が口から漏れた。

 すると、由依は静かに首を振る。

「ううん。陽葵は強くないわ」
「えっ?」

 はたして、そうだろうか。
 難病を患ってもへこたれず、今を全力で生きる彼女が強くないはずがない。

「ねえ三崎くん。こんな話をした後でズルいかもしれないけど、お願いしてもいいかしら?」
「ああ。俺にできることがあれば言ってくれ」
「難しい話じゃないの。できれば、バンドを続けてくれないかなって」
「……そんなことでいいのか?」
「ええ。三崎くんにしかできないことよ。陽葵はね、音楽を通じてキラキラした青春を謳歌したいって思っているから……三崎くん。あの子の夢、私と一緒に支えてほしい」

 由依の真剣な表情に、おもわず背筋が伸びる。

 陽葵が真剣に音楽と向き合っているのは、セッションしたから知っている。あの力強い裏声(ファルセット)は、本気でボイストレーニングしていないと出ない。ギターもかなりの腕前だった。由依のドラムも上手かったが、それはきっと陽葵のために猛練習したからだ。

 ……ああ、そうか。
 陽葵だけではない。由依もまた、相当な覚悟を持って陽葵の応援をしているんだな。

「……わかった。ぜひバンドを続けさせてくれ」
「本当に!?」
「ああ。陽葵のこと、俺も支えたい。それに俺自身、もっと二人と音楽がやりたいんだ」
「三崎くん……ありがとう。陽葵も喜ぶと思うわ」
「でも、俺でいいのか? 自分で言うのもなんだが、俺は青春ってタイプじゃないぞ? どちらかといえば、青春してない日陰者だし……」
「駄目よ。三崎くんじゃないと、陽葵は納得しないもの」

 由依はくすっと笑った。ファミレスに来てから、初めて彼女の柔らかい表情を見たかもしれない。

「納得しないって……なんでだ?」
「私の口からは言えないわよ。自分で聞いてみたら?」

 無理だよ、恥ずかしい。本人から直接聞けるほど度胸があれば、陰キャやってないっての。

 ……陽葵はどうして俺とバンドを組みたいのだろう。

 それに、由依が「強くない」と言ったのも気になる。

 まだ出会って間もないのに、俺が陽葵に惹かれる理由。それは『彼女みたいに強く生きたい』と憧れたからだ。俺と由依の意見は完全に対立している。

 強くないって、どういう意味だ?

 ……今日一日いろいろなことがあり過ぎて、頭が上手く回らない。考えるのはまた今度にしよう。

「三崎くん。暗い話ばっかりしちゃったけど、あまりナイーブになりすぎないでね? 陽葵もそんなの望んでいないと思うから。それに今のところ、急激に悪化するような予兆は見られないみたいだし」
「ああ、わかった。それを聞いて少しだけ安心したよ」

 でも、症例が少ないから、結局のところ「わからない」んだよな?

 ……いけない。ネガティブな思考はやめよう。今はバンド活動のことだけを考えるんだ。

 陽葵の夢を支えたい――それは紛れもない本心だが、俺自身もバンドを続けたい理由がある。

 空町陽葵。自分の意志と主張を貫ける彼女は、俺が憧れる強さを持っている。その強い生き様をそばで学びたいと思ったのだ。

 それに、やっぱり忘れられないよ。
 三人で音を合わせたときの、あの興奮を。
 俺の真っ黒な青春がようやく動きだした……陽葵と由依に出会って、そんなふうに思えたんだ。
 活動できる時間が限られているのなら、その時間を全力で駆け抜けてやる。

「さて。この話はおしまい。聞いてくれてありがとう、三崎くん」
「お礼を言うのはこっちだよ。病気のこと、よくわかった」

 話がひと段落したところで、メロンソーダを一口すする。気の抜けた炭酸が口の中で控えめに弾けた。

 俺たちは今後の活動方針を話し合いながら、冷めたフライドポテトを食べるのだった。