学校の昼休みは孤独に耐える時間である。何故なら、俺には友達がいないからだ。

 教室の喧騒は聞こえないフリをして、購買で買った焼きそばパンを鞄から取り出した。人気商品なので入手困難だが、幸運にも今日は購入できた。最後に食べたのは四月の上旬だったと思う。

 いざ、一カ月ぶりの焼きそばパン、実食――。

「うおっ!?」

 突然、背中にガンッと強い衝撃を受ける。

 誰だよ、ぶつかってきたヤツ。危うくパンを落とすところだったじゃないか。

 振り返ると、そこには体格のいい金髪の男がいた。

「おっと。わりぃな、三崎」

 たいして悪びれる様子もなく、金髪の男はヘラヘラしている。俺に用事があったわけではなく、たまたまぶつかっただけのようだ。

 こいつの名前は大沢丑男(おおさわうしお)。クラスのカースト上位の陽キャだ。何の因果か大沢もバンドマンらしい。たしか、ボーカルだったと思う。

 俺は大沢のことが嫌いだ。ウザ絡みしてきて、馬鹿にしてくるからである。俺がこいつのことを心の中で「金髪ゴリラ」と呼んでいるのはここだけの秘密だ。

「ああ、そうだ三崎。お前、ベースやってんだろ」
「えっ。なんで知ってるの?」
「だいぶ前、学校に持ってきただろ。ていうか、今日も持ってきてんだろうが」

 クラスで一番目立たない俺の所持品をチェックしているだと? どんだけ俺をいじり倒したいんだよ。もはや愛さえ感じて鳥肌立つわ。

「三崎ぃ。ちょっとベース弾いてみろよ」

 でたよ。「ちょっとベース弾いて」とか言う空気読めないヤツ。ベースの音だけ聞いても何の曲かわからないだろ。ベーシストはな、「何か弾いて!」と言われることに怯えて生活しているんだっての。

 ……大沢もバンドマンなら、ベーシストあるあるくらい知っているはず。さてはこいつ、俺を馬鹿にするために弾かせようとしているな?

「あー。俺、人様に聞かせるほど上手くないんで……」
「つまんねぇこと言ってないでやれよ、三崎。俺様がレッスンしてやる」

 いや頼んでないから。ゴリラ風情が人間様にレッスンとか百年早いわ。

「……大沢もバンドやってるんだよね? ボーカルじゃなかった?」
「だからなんだよ。俺様クラスになると、ベースごとき楽勝なワケ。お前にレクチャーするくらい簡単なことだから。わかる?」
「『ごとき』って……それはベース舐め過ぎっていうか……」
「いいから弾けよ。三崎の下手くそな演奏、笑ってやるからよぉ」

 大沢はニヤニヤしながら俺の肩に手を回してきた。

 ……俺は笑われるためにベースを弾いているわけじゃない。
 好き勝手言いやがって。誰もがお前の言うことを聞くと思うなよ?

 睨みつけると、大沢は不機嫌そうに顔をしかめた。

「あ? 何その反抗的な目。俺様に文句でもあんのかよ?」

 当たり前だ、この金髪ゴリラ!
 ばーか、ばーか!

 ……などと言えず、黙って唇を噛む。

 本音でぶつかり合うのが怖くて、俺は何も言えなくなる。情けない。自分の想いをぶつけることに、こんなにも臆病になってしまうなんて。

「おい。聞こえてんのか? 弾けって言ってんだよ」

 大沢の低い声が耳元で囁かれる。息吹きかけんな、気持ち悪い。

 俺はベースのケースを持ち、ため息をついた。

「はぁ……なあ大沢。やっぱりベース単体の音じゃ――」
「失礼しまーす! 三崎くんいますかー?」

 言いかけたとき、教室の入り口から大声が聞こえてきた。

 視線を向ける。そこに立っていたのは空町陽葵だった。ぴょんぴょん飛び跳ねて、室内を見回している。

 目が合うと、陽葵は嬉しそうに笑った。

「おっ。三崎くん、はっけーん!」

 げっ、こっちに来る!

 ……面倒くさいことになりそうだ。他人のフリをしよう。

「人違いです! ボク、弟の四崎(よんさき)です!」
「三崎くん、なんで他人のフリをするの? というか、兄弟で苗字が違うの、不自然なんですけど?」
「あ……よ、四崎は名前です! 弟です!」
「はいはい。三崎四崎くんね。エキセントリックな名前の君に、ちょっと話があるの」

 くだらないやり取りをしている間に、陽葵は俺の目の前までやってきた。

「つーかまえーた!」

 陽葵は俺の手を取った。まだ何もされていないのに怖くて不安になる。エイリアンに捕獲される地球人も、きっとこういう気持ちなのだろう。たぶん。

「というわけで、三崎くん。音楽室いこっか」
「どういうわけで音楽室に行くことになったんだ?」
「かたいこと言いっこなし! 君と私の仲でしょ?」
「知り合って二日目の仲なんですけど……」
「おい。ちょっと待て」

 大沢が陽葵に声をかけた。額には、うっすらと筋が立っている。無視されたから怒っているのだ。やれやれ。寂しがり屋のゴリラだウホね。

「あんた誰だ? 俺が先に三崎と話してたんだが?」
「はじめまして。空町陽葵です。君は三崎くんのお友達かな? ごめん。ちょっと彼借りるね」
「あ? 俺のこと、なめてんのか――」
「いこ、三崎くん! ベースは持ったまま来てね!」
「えっ? あ、ちょ!? 焼きそばパンまだ食べてないって!」
「私が食べさせてあげる。はい、あーん」
「な、なんでそんな恋人みたいなこと……ぐほっ!」

 口の中に焼きそばパンをねじこまれた。「あーん」って、もっと甘いヤツじゃないのかよ。怒りと中農ソースの味しかしないんだけど。

 陽葵は俺の手を引っ張り、駆け出した。

「ほら、行くよ!」
「おい! テメェ何組だこらぁ!」

 大沢の怒声を背に受けながら、俺たちは教室を出た。もぐもぐ。やっぱり焼きそばパンは美味い。もっと味わって食べたかったぜ……。

 しばらく廊下を走ると、陽葵は繋いだ手を離した。
 口の中の焼きそばパンを咀嚼し、すべて呑み込む。ごちそうさまでした。

「ふぅー。三崎くんって、おっかない友達とつるんでるんだね」
「あんなヤツ友達じゃない。絡まれていただけだ」
「そうなの? じゃあ、私が助けてあげたってことじゃん!」
「はたしてそうでしょうか……」

 教室に戻ったら、きっと大沢に陽葵の件で絡まれる。事態が悪化したとしか言いようがない。

「それで、昼休みから俺に何の用?」
「三崎くんにもう一人のバンドメンバーを紹介したくてさ。ドラマーの女の子で、私の親友なんだ」
「放課後でよくね?」
「駄目だよ。早く紹介したくて、うずうずしてるんだから」

 完全に陽葵の都合だった。放課後までうずうずしておいてくれ、頼むから。

 ……昨日も思ったけど、本当に自由奔放な子だよな。

 明るくてポジティブ。そして、誰が相手でも臆せず自分の主張を貫き通す強さ……人によっては、ワガママなだけだと言うかもしれない。だが少なくとも、俺は素直にすごいと思った。

 だって、陽葵の気ままな振る舞いこそ、俺の理想なのだから。

「三崎くん。どうかした?」
「あ、いや。なんでもない」
「そお? じゃあ、音楽室に行くよ。もういるはずだから」

 拳を掲げ、「ごーごー!」と嬉しそうに歩く陽葵。まるでマーチだ。デパートではしゃぐ子どもかよ。

 陽葵の後ろを歩きながら考える。

 もう一人のメンバーか……いったいどんな人なんだろう。

 陽葵の話によると、親友の女子ドラマーらしいけど……一緒にバンドを組むほど気が合う仲ってことか。なら、性格も陽葵と似ているかもしれない。

 ……いやそれ結構ヤバくね? また振り回されそうな気がしてならないんだが。

 嫌な予感がしたところで、音楽室に到着した。

「たのもー!」

 陽葵が勢いよくドアを開け、中に入っていった。普通にドアを開けられないのかと呆れつつ、彼女に続く。

 いったいどんな子がドラマーなのだろう。ドキドキしつつ、室内を見回す。

「あっ……いた」

 窓際の席に女の子が座っていた。

 窓から風が舞い込む。白いカーテンと一緒に、彼女の長い茶系の髪がはらりと揺れた。温和で優しそうな笑みを浮かべ、陽葵を見守っている。

 俺と陽葵は彼女に近づいた。

由依(ゆい)。この人が話していた三崎くん。早速、来てもらっちゃった」
「あら。陽葵が夢中だっていう、あの三崎くん?」
「ちょ、変なこと言わないでよ! 誤解されるじゃん!」
「ふふっ。すぐムキになるんだから」

 由依と呼ばれた少女は、ぷんすか怒る陽葵を優しくなだめた。

「はじめまして、三崎くん。私は宮凪由依(みやながゆい)。ドラムと陽葵の保護者をやってるわ」
「保護者じゃないし! し・ん・ゆ・う・ねっ!」

 がるる、と唸る陽葵。
 すごい。あの陽葵を弄ぶとは……このドラマー、おそるべし。

「ええっと……はじめまして。俺の名前は三崎健です。よろしくお願いします」
「同い年だし、敬語はやめましょう? 由依って呼んでね」

 また下の名前か……この子も距離感を詰めるのが早いタイプだ。さては陽キャだな?

「……わかった。よろしくね、由依」
「よろしく。陽葵に振り回されて疲れたでしょ。とりあえず、座って?」
「あ、うん。お気遣いどうも」

 俺と陽葵は近くにあった椅子を持って、由依のそばに座った。

 ……自由奔放な陽葵を見守る、優しいお姉さんって感じの人だな。陽葵と同類だったらどうしようか不安だったけど、常識人で安心した。

 ほっとしていると、由依が俺に話しかけてきた。

「陽葵から聞いているわ。三崎くん、バンドに所属してないのよね? 普段どこで活動しているの?」
「えっと……今はライブでサポートに入るくらいかな」
「へえ、すごいじゃない。中学時代もバンドやってなかったの?」
「やってたよ。解散しちゃったけど」
「あら。どうして?」
「俺のせいで空中分解しちゃったんだ」

 そう。全部、俺のせいだ。

 俺が『余計なこと』を言わなければ、あんな形で解散しなくて済んだはず。こんな捻くれ陰キャ高校生になることもなかっただろう。

「そう……事情はわからないけど、大変だったのね」
「あ、ごめん由依。こんな重たい話、聞きたくないよな。俺はいいから、陽葵と由依の話を聞かせてよ」
「いいよ! たっぷり聞かせてあげる!」

 隣に座る陽葵が笑顔でそう言った。

 ……たぶん、この重たい空気を変えるために明るく振る舞っているのだろう。俺は彼女の明るさに初めて感謝した。

「私と由依はね、小学校からの付き合いなの。二人とも病弱で、入退院を繰り返していてね。学校にもあんまり通えなかったから、友達ができなくてさ。同じ境遇だった私たちは、すぐ意気投合しちゃって。ね、由依?」
「ええ。体が元気になったら何をしたいか、よく夢を語っていたわよね」
「うんうん。『バンドやって青春したい』とかね!」

 思っていた以上にありふれた夢だった。
 でもまぁ、学校に通えなかったからこそ、普通の青春に憧れたのかもしれない。ツッコミを入れるのは無粋だからやめておこう。

 それにしても、病弱だったのか……正直、意外だと思った。二人とも、普通の女子高生にしか見えないから。

「なるほどな……じゃあ、今バンドやっているのは二人の夢ってわけか。昔と違って元気になったから活動できるもんな」
「元気に……ええ。そういうことよ」

 由依は少し困ったように笑った。
 あれ……なんか反応が薄いな。

「由依。俺、なんか変なこと言ったか?」
「ううん、そんなことないわ。私がドラム。三崎くんがベース。そして、陽葵がボーカル&ギター。これで夢に見たバンド活動ができるってわけね」
「えっ? 陽葵、ギターもできるの? マジで?」

 俺のリアクションが気に入らなかったのか、陽葵は頬をふくらませた。

「あ、何その反応。傷つくなぁ」
「わ、悪い。ボーカルだけかと思ってたから……」
「心配しないで。ボーカルもギターも、だいぶ上達したから。音楽で青春するって決めてから超練習したんだぁ」

 陽葵は「えへへ……音楽を通じてお友達たくさんできちゃうかも。てか、学校の人気者になっちゃったりして?」と妄想を口にしている。

 この子、意外と陰キャっぽいところあったんだな……ちょっとだけ親近感わいたわ。

「というわけで、まずは私たちの目標を発表しちゃいます!」

 そう言って、陽葵は黒板に何か書き始めた。教室でも思ったけど、この子の「というわけで」の使い方は合っているのか?

 書き終えた陽葵は「ででん!」と声を上げ、黒板をバシッと叩いた。
 そこには『ライブ出演!』と書かれている。

「えっと……ライブハウスで演奏するって意味で合ってるよな?」
「そうだよ、三崎くん! 夢あるでしょ!?」
「お、おう……」

 陽葵の目がキラキラ輝いていたので、「俺はライブ経験あるけど」とは言えない。ここは素直にうなずいておこう。

「でも、そうなると手続きがいるんじゃね? オーディションとかあるよな?」
「さすが三崎くん。話が早いね」

 陽葵がニヤリと笑う。まるで何かを企んでいるかのような邪悪な笑みだ。

「オーディション、もう申し込んだから」
「は!? もう!?」
「うん。二週間後ね」
「はぁぁっ!?」

 いやいや! 聞いてないんですけど!?

「陽葵。俺、とりあえず仮参加って言ったよな? オーディション合格したら、それもう正式なバンドメンバーになっちゃうんじゃ……」
「ほう。そこに気づくとは鋭いね」
「鋭いね、じゃなくて! 話が違うだろ!」
「ふっふっふ……我が参謀の作戦じゃい!」
「はーい。参謀でーす」

 由依が嬉しそうに手をあげた。グルかよ、ちくしょう! 常識人かと思ったら、とんだクセ者じゃないか!

「陽葵。俺をハメたな?」
「ごめんね。どうしても、君とバンドがやりたかったから」
「だからって、こんな強引な方法で……」
「あはは……嫌になっちゃった、かな?」

 陽葵は寂しそうに笑った。

 ……ずるい。そんな顔されたら、嫌だなんて言えないじゃないか。

「……べつに、やらないとは言ってないけど」
「ほんと!? 引き受けてくれる!?」
「し、仕方ない。約束だからな」
「ありがとう、三崎くん!」
「だーっ! くっつくな、鬱陶しい!」

 陽葵が席を立ち、俺に抱きついてきた。スキンシップやめろ。女子と触れ合ったら、顔真っ赤になっちゃうだろうが。

 助けを求めて由依を見る。
 彼女は穏やかな笑みを浮かべて、俺たちを見守っていた。「あら、すっかり仲良しね」とでも言いたげである。

「よしっ! そうと決まれば、ちょっと一曲やってみよう!」

 陽葵は俺から離れ、興奮した様子で提案した。

「え、なに急に。いきなり合わすの無理じゃね? てか、準備できてるの?」
「三崎くん。この曲、弾ける?」
「いや聞けよ」

 俺の質問を無視し、陽葵はスマホで音楽を流した。

 この曲……去年大流行したラブソングだな。

「弾ける、けど……」
「けど?」
「……いや。なんでもない」
「うーん。あんまり乗り気じゃなさそうだね。三崎くんはどんな曲が好き?」
「俺は……」

 言いかけて、口をつぐんだ。

 流行りのラブソングを提案してくるくらいだ。陽葵はそういう音楽が好きなのだろう。
 それなのに、俺が真逆な路線の曲が好きだと言ったらどうなる?
 たぶん、せっかくの楽しい雰囲気が台無しだ。

 ……サポートで好きでもない曲を散々演奏してきたんだ。今さら我慢できないわけでもない。自分の意見を二人に伝えるのはよそう。

 考えていると、陽葵はふっと微笑んだ。

「三崎くん。無理にとは言わないけど、言いたいことはビシッと言ったほうがいいよ?」
「言いたいこと……?」
「そ。後悔しないで生きるならね。人生は一度きりなんだから」

 そう言って、陽葵はスマホをいじって曲を止めた。

 ……後悔しないで生きる、か。

 そんな真っ直ぐな言葉を投げかけられるとは思わなかった。陽葵も能天気なように見えて、ちゃんと考えて生きているんだな。

 でも、臆病な俺にはできそうもない生き方だ。

 常に自分らしくいられたら、どれほど楽だろうか。陽葵の生き方が心底羨ましいよ、ほんとに。

 感心していると、陽葵のスマホから再び音楽が流れた。中学生の頃に流行った青春ソングだ。好きな人に彼女ができてしまい、想いを伝えられなかったことを後悔した女性の心情が歌詞になっている。うん。この曲は嫌いじゃない。

「三崎くん。この曲はどう?」
「大丈夫。弾けるよ」
「お。こっちは乗り気だね」
「悲しげなメロディが好きなんだよ。ギターの繊細な音色が、悲しみに暮れる女性の心を表しているようで……体験したことのないはずの情景が鮮明に浮かんでくる」
「急にポエマーになるじゃん。やっぱりベーシストって変人なんだね」
「ベーシストあるあるみたいに言うな」

 たしかに、根暗な職人肌タイプの偏屈ベーシストは多いと思う。変わり者も少なくない。だが、ベーシストに偏見を持たれるのは心外だ。

「あと『ベースやってる』って言うと『あ、ベースっぽい』ってせせら笑うのもやめろ。暗に『君なんか地味な顔してるもんね』って言われている気がして腹立つ」
「それは言ってないから。過去にいろいろ言われたことは察するけど……」
「お前らギタリストは、ベーシストのことを『ギターに挫折してベースに転向した』って思ってるんだろ? 言っておくが、俺は最初からベース一筋だからな?」
「いや思ってないし……いいから早く準備しよ?」

 陽葵は可哀そうな人を見る目をしている。くっ、なんか納得いかないな……。

 ぶつぶつと文句を言いながら、演奏の準備をした。

「陽葵。由依。こっちはオッケーだ。いつでもいいよ」
「わかった。由依、よろしくー」
「はーい」

 間の抜けた返事とともに、由依がスティックを掲げた。

 瞬間、空気が変わる。

 軽く合わせてみるだけなのに、陽葵も由依も真剣な顔つきだ。この一曲に全力を尽くす、という熱い意志が伝わってくる。
 ピリピリしたこの雰囲気……ただ楽しくバンド活動がしたいわけではなさそうだ。ライブが目標っていうのはマジらしい。

「――いくわよ」

 由依の一言で、自然とネックを持つ手に力がこもる。

 チッ、チッ、チッ、チッ。

 小気味のいいカウント――演奏開始の合図である。

 この楽曲のイントロは繊細だ。ベースから生まれる物悲しい低音。雨音のように、ぽつぽつと鳴らされるスネア。そこにギターの優しい音が滑り込む。長く引き伸ばされたベースの音に寄り添い合い、背後でシンバルが弾け、音楽になる。単なる音の連なりじゃない。共鳴する音が融け合い、空間に広がっていく。

 陽葵の歌声がベースラインに馴染んでいく。綺麗な声音。普段はやかましいのに、夏の夜に鳴く風鈴みたいな歌声だ。どうしてだろう。寂しくて泣いているようにも聞こえる。絶望の運命を受け入れる、悲劇のヒロインのようだ。

 サビに入る。
 片想いのまま失恋した女性の吐露だ。

「――――」

 陽葵の裏声(ファルセット)が音楽室にしっとりと響く。孤独、失意、悲哀、忘れられない恋心。それらが透き通った歌声とともに降り注ぐ。別れの切なさも、過去を悔やむ想いも、負の感情すべてが今、力強い音楽に変わる。

 背後でシンバルの音が砕け散った。俺たちはますます曲にのめり込んでいく。ベースラインを切り裂くギターが耳心地いい。陽葵の歌声は感情的で、刹那的で、脆弱だ。だからこそ、儚さと美を有している。

 ぶるっ、と総身が震えた。

 互いの音が惹かれ合い、化学反応が起きている。初めての経験に、俺の体は燃えるように熱くなっていた。

 なあ。やばいって。
 このバンド、最強だぞ。

「――――」

 陽葵の歌声が爆ぜ、鼓膜に残るのはベースの残響。

 曲が終わった。

 俺たち三人は無言のまま、息を荒げて向き合う。何か言葉を探そうと思っても、心の中はものの見事に空っぽだった。
 声も出せず、あきらめて空気を食む。唇はカサカサ。吐く息は熱を帯びている。

 しばらくして、由依が声を発した。

「すごい……三崎くん! 私たちの演奏、無敵だわ!」
「ああ。その……演奏中、めちゃくちゃ熱くなれたよ」
「うんうん! 三崎くんのベース、本当にすごい! 正確無比って感じで!」
「ありがとう。てか、二人とも超上手いな。演奏歴とか聞いてなかったけど、長いの?」
「中学三年生からよ。陽葵に誘われて。ね、陽葵?」

 俺と由依がそろって陽葵に視線を向ける。

 そこでようやく俺は異変に気づいた。

 ……陽葵の様子がおかしい。前後にフラフラしている。立っているのもやっとって感じだ。

 いくら全力で演奏したとはいえ、たった一曲でこれほど消耗するものだろうか?

「おい、大丈夫か……え?」

 陽葵はバランスを崩し、尻もちをついた。

「陽葵っ!?」

 俺たちは慌てて陽葵のもとへ駆け寄り、声をかける。

「陽葵! おい、しっかりしろ!」
「いてて……あはは。三崎くん、心配かけてごめんね?」
「意識はあるみたいだな……怪我はないか? どこか痛むとかは……」
「ううん、平気。でも、胸が少し苦しいかな」

 そう言って、陽葵は胸に右手を当てた。

「……えっ?」

 俺は目の前で起きていることが、まるで理解できなかった。

 陽葵の胸に添えられた右手が半透明になっている。手に隠れて見えないはずの胸元のリボンが、ぼんやりと見えるのだ。

 頭の中が真っ白になる。
 いったい何が起きているんだ?

「あれ? 手が透けてる……」

 陽葵は特に焦る様子もなく、透けた右手をかざした。
 怪奇現象としか言いようがない。
 なんだよ、これ。わけわからないって。

 俺の手は、自然と透けた右手に吸い寄せられていく。

「は……?」

 彼女の右手はそこにあるはずなのに、俺の手は陽葵の右手をすり抜ける。そのまま陽葵の顔に触れてしまいそうになり、慌てて手を引っ込めた。

「透け……な、なんで?」

 驚く俺を見て、陽葵は苦笑した。

「あーあ……発作でちゃったかぁ」
「発作? なに? どういうこと?」
「たまに透明になっちゃうんだ」
「と、透明に……? なんだよそれ! 聞いたことないぞ!」

 矢継ぎ早に質問する俺を見て、陽葵の口角がゆっくり上がった。

 彼女の小さな右手が、風に吹かれた蠟燭の火のように揺らめく。


「私、幽霊なの」


 そんな非現実的なことを、陽葵は笑って言うのだった。