練習に明け暮れる日々は、あっという間に過ぎていった。

 今は七月。気温が三十度を超える日が続いている。日差しも強く、メディアは毎日のように熱中症対策を呼びかけている。陰鬱な梅雨は明け、もうすっかり夏だ。

 あれ以降、陽葵の容態も安定している。体が透過することもなく、毎日練習することができた。

 時間が経つにつれて、曲の完成度が上がっていくのがわかる。

 俺たちのバンドなら大沢たちに負けない……いや、どんなバンドにも負けないはず。そんな根拠のない自信であふれていた。きっと陽葵も由依も同じ気持ちだろう。

 そして迎えた、ライブ当日。
 俺たちは控室で出番を待ちながら雑談していた。

「ねえ、三崎くん。みんな大人っぽいね」

 陽葵が他のバンドをキョロキョロ見ながら言った。

 今回のライブは『スリーソウルズ』の他に、三組のバンドが参加している。大沢のバンド、それから大学生のバンドが二組だ。大人っぽく見えるのは、そっちの二組のことだろう。

「音楽に年齢は関係ない。緊張しなくても大丈夫だ」
「三崎くん……そうだね。自分たちのやるべきことをやるだけだよね!」
「ああ。大沢のバンドに勝つぞ」
「もちろん! ぎゃふんと言わせてやるんだから!」

 二人で盛り上がっていると、すぐそばに男が立っていることに遅れて気づく。
 大沢のバンドのドラマーにして、元『ビート・エアライン』の桐谷だった。

「き、桐谷……あの、なんか盛り上がって悪かった」

 怒られると思い、反射的に謝ってしまった。仕方ない。陰キャだもの。
 俺の予想に反して桐谷は苦笑した。

「ははっ、気にしてないさ。でも、大沢に聞かれたら喧嘩になる。頼むからライブ前に揉めないでくれよ?」
「ごめんなさい、桐谷さん。この二人には、あとでよく言って聞かせます」

 そう言って、由依はぺこりと頭を下げた。もはやデキる上司の立ち位置である。
 桐谷は「そんなにかしこまらなくても」と苦笑しつつ、俺と向き合った。

「三崎。今日のライブ、よろしくな」
「ああ。よろしく……なあ桐谷。どうしてバンド対決に乗り気だったんだ? お前は揉め事が嫌いなタイプだったと思うが……」
「言っただろ? お前のやりたかった音楽が聞きたいって」
「聞いたけど……それに何の意味があるんだ?」
「ふっ……音楽を聞くのに理由がいるのか? いいベーシストがいるバンドの曲ならなおさらだろう」

 それだけ言って、桐谷は自分のバンドの輪に戻っていった。

 元々、桐谷は寡黙なほうだ。俺と似て感情を表に出すタイプではない。
 そんなあいつが、今日は妙に浮かれているように見える。それほど俺の演奏が楽しみだっていうのか?

 ……考えても答えはでない。今はライブに集中しよう。

 気分を切り替えようとしたところで、陽葵が俺に話しかけてきた。

「あの桐谷って人、中学時代は同じバンドのメンバーだったんだよね?」
「ああ。正確な演奏をするヤツだった。性格がまんま出てる」
「……やっぱり気まずい?」
「最初はやりにくいと思ったかな。でも、今はその逆かもしれない」
「逆って?」
「音楽で語り合うほうが、俺たちらしいから」

 俺たちリズム隊は、陰キャな俺と口下手な桐谷の物静かなコンビだった。再会しても、馬鹿みたいに盛り上がるわけでもない。
 別々の道を歩み始めたあの日から、お互い何をしてきたのか。新しい仲間を得て、どんな演奏するのか。
 口下手同士が語らうなら、音楽で十分だろう。
 元々、自己主張できない俺がベースを続けていたのも、音楽なら気持ちを伝えられるからだしな。

「そっか……なんかエモいね」
「そんなにかっこいいもんじゃないよ。不器用なだけだ」
「中学時代はそうだったかもしれない。でも、今の三崎くんは違うでしょ?」

 陽葵は俺の顔を覗きこみ、にししっと笑った。

「……ああ、そうだな。成長したところを見せてやる。桐谷にも、陽葵にもな」
「三崎くん……うん! みんなで頑張ろう!」

 陽葵は「うおー、楽しみ!」と一人で盛り上がっている。まったく。緊張したり騒いだり忙しいヤツめ。

 呆れていると、控室のドアが開く。

「トップバッターの『スリーソウルズ』さん。準備お願いしまーす」

 女性スタッフの高い声が控室に響く。

 ライブの出演順は主催者の采配によって決まるが、通常、トップバッターは経験の少ないバンドに任せるところが多い。客入りが少ない最序盤は、集客がさほど見込めないバンドにやらせたいからだ。

 つまり、俺たちは一番期待されていないバンドだということ。

 だけど、そんなの関係ない。
 俺たち三人の音楽で、評価なんて覆してやる。

「出番だ。オーナーと観客をビビらせてやろうぜ」

 俺がそう言うと、陽葵と由依は力強くうなずいた。

 控室を出て、ステージに向かう。その間、俺たちの間に会話はない。今まで幾重にも音を重ねてきたから、言葉なんていらなかった。あとは会場で練習の成果を見せるのみ。

 ステージに上がり、準備をしながらライブハウスを見回す。

 観客は数十人いるが、半数以上はこちらを見ていない。つまらなそうに手元のスマホを操作したり、ツレと話をしている。俺たち目当ての客なんて、ほとんどいないのだろう。

 数分後、みんなが俺たちに釘付けになる……そう思うと、笑えてくる。

 さしずめ気分は革命前夜。

 いいぜ。上等だよ。
 エゲつない音楽で、頭をぶん殴られたような衝撃をくれてやる。

 桐谷。お前も特等席で聞いていてくれ。

『はじめまして! 私たち「スリーソウルズ」って言います!』

 陽葵の声が静かなライブハウスに響く。
 まばらな拍手に負けじと、陽葵はMCを続ける。

『私たちは結成して間もない、できたてほやほやのバンドです! 今が旬! 食べ頃です!』

 ライブハウスは水を打ったように静かだ。これには俺と由依も苦笑いしかない。控えめに言って、今のは面白くなさすぎだ。

『はい! というわけでね! 早速、一曲目にいきたいと思います!』

 どういうわけか知らないが、それでも曲は始まる。

 さあ。反撃の狼煙をあげようか。

『聞いてください――「クロハル」』

 背後で鳴る、ドラムの四つ打ち。由依の奏でる音に合わせてベースの弦を鳴らす。中学時代の黒い青春を思い出しながら。

 低音がメインのパートに差しかかった。弦を爪弾く。すぐさまミュートし、音にならない音を鳴らす。馬鹿の一つ覚えのようにゴーストノート。今日はオーディションのときよりも手数マシマシ、気合い多めだ。

 会場を見回す。先ほどまでスマホをいじっていた客。友人とおしゃべりしていた客。見定めるように俺たちを見ていた客。全員から熱い視線を感じる。

 どいつもこいつも遅いんだよ。
 ようやく見えたのか?
 ステージ上で暴れる、幽霊(ゴースト)の姿が。

「――――」

 サビに入った。陽葵の切ない裏声(ファルセット)が鼓膜を揺さぶり、感情を殴りつける。もっとだ。もっと響け。陰キャぼっちの『クロハル』を、真夏の青で塗り潰すように。

 なあ、桐谷。
 俺、高校でも陰キャでぼっちなんだ。クラスに友達はいないし、バンド仲間以外、会話する相手さえいない。相変わらず、根暗なベーシストやってるよ。

 でもさ。
 少しだけ、変われたんだ。
 自分の思っていること、怖がらずに伝えられるようになった。臆病な俺にしては上出来だろ?

 俺が変われたの、バンドメンバーのおかげなんだ。
 今はこいつらと一緒に楽しくやっているよ。

 この感情的な音を聞けば、わかるだろ?
 全身全霊で想いをぶちまけられる、仲間がいるってことがさ。

「――――」

 サビが終わり、メロディが収束する。息をする音が聞こえるくらい静かになった。
 そんな中、陽葵の声がライブハウスに響く。

『ありがとうございました!』

 瞬間、演奏前よりも大きな拍手がわいた。観客がトップバッターの俺たちに興味を示したのだろう。

 でも、まだ足りない。
 満足なんてしてやるものか。
『クロハル』で客の興味を引けた。
 次の新曲で、俺たちの音楽を心に突き刺してやる。

『私のMCの評判があまりよくないようなので、ちゃっちゃと次の曲に行きたいと思いまーす!』

 陽葵が自虐ボケを挟むと、客のくすくすという笑い声が聞こえてきた。演奏前は無反応だったのに……客もノッてきている証拠だろう。

 陽葵が俺と由依に目で合図を送ってきた。
 とっくに準備はできている。俺たちは力強く頷いた。

 いよいよだ――陽葵を想って作った応援歌。

『この日のために作った新曲です。聞いてください――「(ケガ)レタ夜ニ咲ケ」』

 チッ、チッ、チッ、チッ。

 演奏開始の四分打ちカウントが鳴った。

 一気に腕を振り下ろし、汗ばんだ指を弦に叩きつける。会心の一撃だった。剛速球をキャッチャーミットで完璧に受け止めたような、抜群の手応えに震える。

 いきなり走るギターに言い聞かせるように、俺と由依は正確なリズムを主張した。落ち着け、陽葵。まだ曲は始まったばかりなんだから。

 軽快なサウンドとは裏腹に、言の葉は暗く重たい。

 陽葵は言った。死にたくないって。前を向いて明るく振舞うのも、笑顔も、すべては弱い自分を奮い立たせる魔法だって。

 俺は陽葵のことを強い人だと思っていたけど、それは大きな間違いだった。君は俺と同じで、臆病で弱虫な幽霊……泣きながら、そう語ってくれたんだ。

 だけどさ……君が俺に教えてくれたこと、自分で忘れるなって。

 言いたいこと言えよ。人生は一度きりなんだから。死にたくないって……なんで私ばかりこんなに辛いのって、声にしていいんだ。それで涙があふれてもいいじゃないか。全部、俺たちが受け止めるからさ。

 サビ前のパート。ここにも幽霊の音符がある。音にならない音。届かない音。まるで、ゴンドラで陽葵に言葉をかけられなかった俺みたいだ。

『――――』

 そして、サビに入った。

 力強い裏声(ファルセット)が、陽葵の想いを乗せて響く。胸を締めつけるような、切ない声だ。「生きたい」って叫んでいるみたいに聞こえる。

 体が熱い。制御不能だ。音も鼓動も鳴り止まない。
 醜い本音が指先からあふれ出し、弦を通して声になる。

 綺麗なものが憎いんだ。流行りのラブソングなんて滅んでしまえ。『亡くなった恋人に捧げる歌』なんて、美化された歌は聞きたくもない。人の命で儲けようとする曲に価値なんてないから。必死に命に食らいつき、最後まで病気と闘う……俺は、そんな泥臭い人を支える曲が好きなんだ。

 なあ、陽葵。ライブするって夢は叶ったぞ。次は何をやろうか。限りある青春よ、汚れた夜に咲け。心配しなくていい。このまま君の人生を悲しみで終わらせたりしないから。青春したいって夢は、人生を幸せで終わらせるためにあるんだろ? 大丈夫、俺がそばにいて支えるよ。頼りないかもしれないけど、応援させてくれ。

 この幽霊音符とともに、エールよ届け。
 他の誰でもない、必死に生きる君へ。

 弦を押さえると、音の嵐が止んだ。

 演奏が終わった。

 目の前には、目を大きく見開いた観客たちがいる。
 誰かが拍手した。それにつられて、また誰かが拍手する。よく見ると、泣いている人もいた。俺たちの音楽が届いた気がして、俺も無性に泣きたくなる。

 陽葵が大声で何か言っているが、頭の中に入ってこない。「ありがとう!」とか、たぶんそんな感じの定型句だろう。

 その後、どうやって控室に戻ったのか。他のバンドがどんな演奏をしていたのか。仲間とどんな言葉を交わし、喜びを分かち合ったのか。うわの空で、よく覚えていない。

 俺の歌詞、陽葵に届いたかな。

 ……全力を出し切ったんだ。尋ねるまでもないか。

 胸を満たす充足感が、問いの答えでいい。そう思った。