大学の授業が三限で終わり、青要素が薄れてオレンジ色が強まりだしている空の下、重いリュクを背負い歩いていた。
駅から二十分ほど歩くと住宅街に入り、ようやく家が見えてくる。疲れ切った足を何とか動かして、ラストスパート。
「いやー、中間テストやばかった」
「もう、普通に終わった」
「それな。赤点ラインも厳しいしやばいかも」
だが、俺の家の隣家の前で、制服を着た高校生が男女二人ずつで、和気あいあいと話していた。思わず足の速度が落とし音を立てないように通り過ぎようとしてしまう。
「だよねー。私もワンチャン赤点説ある」
その中のミディアムボブの少女をちらりと眺めながら。
玄関前まで来ると、無意識に呼吸を止めていて、息を大きく吐き出す。すると、ほっとした気持ちと自己嫌悪の気持ちが溢れてきた。
「何やってんだろ、俺」
二階の自分の部屋に入って、リュックを入り口付近に置いて、ベッドの上に倒れ込む。目を瞑ると彼女の姿が映し出されて、頭の中で様々なことがぐるぐると氾濫する。
「……」
家の隣には、家族ぐるみで仲の良い桜木家がいる。桜木家は三人家族で、至って平凡な一家だ。
しかし、その家族の性格や見た目のレベルは高い。その中の一人娘、桜木彩夏も例に漏れず、明るく人に好かれる性格と、目鼻立ちが整い可愛らしく可憐。その二つが合わさり最強に見える。
一方、俺は誰にも好かれず認識もされないような人間だ。何も持っておらず、彩夏のような人とも本来なら関わることのない存在だろう。
ただ、偶然互いの両親が仲良くなりそこで何度も関わることがあったため、いまだに繋がりがある。俺の連絡先に親以外の名前があるのは彼女のおかげだ。
連絡はよっぽどの用がなければ自ら行うことはなく、ほとんど向こうから。高校一年生の彼女に大学三年生である俺が頼りきりなのは情けないことこの上ないが、どうしようもないので仕方ない。
彩夏とは、彼女が物心つく前からの付き合いであり、昔は気軽に当たり前のように関わっていた。ただ、最近……と言っても彼女が中学二年生ぐらいの時から、距離感というものを考えるようになり、それがずっと掴めずにいて。
その時の記憶は明瞭に思い起こせる。
「悠斗―」
それは二年前くらいの大学からの帰り道、後ろからコンクリートを叩く足音と彩夏の声がして、振り返る前に背中をぽんと軽く押される。
「なんだよー彩……夏」
「えへへ」
無邪気に笑う彼女だったが、その姿を見たときに女性を感じてしまったのだ。体つきは丸みを帯びていて、制服のワイシャツから出ている胸の膨らみ、黒に青色のチェックの入ったスカートから伸びた絹のような足、顔つきも大人びていて。頻繁に会っていたから気づきにくかったが、とうとうその日に彩夏ではから女性の彩夏になった。
「一緒に帰ろ」
「あ、ああ」
並んで歩いて帰ったが、その日を境に距離の間隔が、人一人分の開くようになった。
しかし、彼女の距離は変わることなく近くて。彼女から逃げるような日々は続いていった。
「ねぇねぇ。漫画読ませてー」
ある日、インターホンが押されると、画面には制服姿で笑顔の花を咲かせている、彩夏の姿があった。
「いいけど、何の漫画?」
「この前の続きのやつ!」
「わかった。持ってくるから、待ってて」
そう言うと、予想通りに不満そうに口を尖らせた。
「えーまた? 部屋で読ませてよ。家に誰もいないし、暇だからさー」
「ごめん。それはできないんだ」
「むむぅ」
きっぱりと断ると彩夏は諦めてくれたようで、安堵するが申し訳なくて心が痛む。部屋に行き目的の漫画を取ると、良いことをしているという気持ちで痛みから逃避。階段を下り玄関を開けて、インターホン前で待っている彩夏の元に。
「これ」
漫画を手渡した。彼女の手に触れないように。
「あ、ありがとう」
「うん」
少し居心地の悪い無言の間が訪れる。彩夏と目が合い、その瞳は悲しげで訴えかけてくるもので。けれど、それは一瞬で、ニコッとした目元にかき消された。
「それじゃ」
「ああ」
彩夏の後ろ姿を最後に、脳内の映像が途切れた。
「ああもう」
間違っていることをしていると思っていが、正しいこととも思えない。体をかきむしりたくなる衝動にかられる。
関わりづらい理由は他にもある。
彩夏の通う高校は近所のため、今日みたいに彩夏は、多くの友達と家の前でわいわい会話をしていたり、家で遊んでいたりしているから、威圧的なコミュニティの壁に阻まれている。
仮に、ニコニコと遊びに行って、知らない人がいたと考えたら恐ろしすぎる。もしそれが彼氏でした、なんてことがあったら修羅場確定でエンド。まぁ、彩夏のことだから、恐れていることは起きないだろうが、俺の心が耐えられない。
「あー、もう止めよ」
これ以上続けると止まりそうになくて、ぱっと目を開ける。少し休もうとしたのに、頭がより疲れてしまった。
「……うん?」
ふと、スマホに通知が来る。悲しいことにそれが誰かが見なくてもだいたい確定している。メッセージには、ちょっとしたら遊びに行くからと書いてあった。
連絡が来る度に心のどこかで安心感を得ると同時に、その裏で不安が陰を伸ばしていた。彼女にとって、俺の存在価値なんてあるのだろうかと。それは彩夏を意識する度に溢れて来る。
*
メッセージ通り、少ししてからピンポンが押される。
インターホンの画面には彩夏の姿があった。紺色のブレザーのなかに見える水色のシャツ。少しは離れた場所にいて、膝丈の黒の中に赤いチェックが入ったスカートからスラッとした足が伸びている。スクールバッグをぎゅっと握って、表情は穏やかな微笑みを浮かべていて、待ちかねるように体を左右に揺らしていた。
そんな彼女を見て体が強ばる。
「はい」
「あっ、悠斗。遊びにきたよ~」
弾んだ返事は、普段よりも一段と明るくて。俺は少し足早に玄関へ行ってドアを開けた。
「……彩夏」
「ふふっ、なんか悠斗の顔久しぶりに見た気がする。引きこもってたら健康に悪いからちゃんと外に出ないと駄目だよー」
彩夏は俺の顔をみるなり、ドアまで一気に距離をつめて、目の前に。アーモンドの形をした大きな瞳と交錯する。
「まぁ、それは気を付けるよ。それより、ええと……なんか、あった?」
それは疑問ではなくて確信めいた発言だった。
「え……うん。その、入っていいかな」
それが伝わったのだろう一瞬だけ目を見開くと、手に持っているバッグの位置が少しさがり、入っている教科書の擦れる音が響く。
「……わかった」
俺は彼女を家に入れる。玄関を上がり、少し真っ直ぐ行けば二階への階段がある。緩やかな傾斜を登ると、左右に伸びた廊下が現れる。左に進むと俺の部屋に続く一番奥のドアへ。
背後に付いてきている彩夏は俯きがちで、足音とバッグの揺れる音だけが静かに鳴っている。
ドアを開けると閉じた空間の空気が逃げだした。広さは四畳半で、奥に小さな窓があり、右側にベッドとタンス、左側に勉強机と本棚が備え付けられている。床はフローリングで、真ん中に小さな正方形のカーペットが敷いてあった。
彩夏はそそくさと俺の横を抜け、カーペットの上にバッグを無造作に置いて、ベッドの上にダイブ。高い弾力で体を弾ませ、スカートもそれに同期してふわりとした。
「お、おい」
「久しぶりだなー悠斗の部屋。最近は、ぜんぜん入れてくれなかったもんね」
昔と変わらない挨拶代わりのベッドダイブを終えると、姿勢を変えて溝に座り直し、不満そうに目を細めた。
「まぁ……色々あるからさ」
「あっ」
そう言うと彼女は何かに気づいたようにすかさず、ベッドの下を覗き込んだ。
「……ちぇ、なんもないか」
「なーにしてんすか」
「悠斗の弱みを握ってやろうと思ってさ。それを通行許可書にしようかと」
子供っぽく悪戯に笑う。それを見て胸の奥から懐かしみがじんわりと染みた。
「なんつーもんを許可書にする気だよ」
「えー? なんつーもんって何かなー? 私は弱みって言っただけだよ?」
「はいはい、そうですか」
適当にあしらいながら、スクールバッグの隣に腰かけた。
「ひどいよー。もうちょっと付き合ってくれてもいいじゃーん。これだから友達がいないんだよなー」
突然斬りかかられ、言葉がつまる。
「そ、それは……あれじゃん。駄目じゃん」
「あれれ? 図星ですかぁゼロの悠斗さん。あ、ちなみに私と家族以外の連絡先の数、教えてもらっていいっすか」
すると、隙ありと追撃が襲いかかる。しかし、この戦いは幾度も行われてきた。
「ふっ、彩夏。これ以上俺の心を傷つけるなら、相応の覚悟をしてもらう。そう、お前は俺の部屋に永久追放処分となる」
「むぅ……仕方ないなー。今日はここまでにしてあげるよ」
そんな悪の下っ端みたいな捨て台詞を吐いて、煽りあいの第一ラウンドは終了。
この感じは久しぶりで少し楽しいなと思ってしまう。彼女も楽しそうに足をバタつかせていた。
「そんで、今日はどうしたわけ。なんか様子が違った気がしたんだけど」
一段落ついたことを見計り本題を訪ねると、バタついていた足がゆっくりと止まってく。
「あはは……。いつもの感じにしたんだけどな」
眉をハの字にして苦笑する。彩夏は一度大きく息を吐いて言葉をとつとつと紡いでいく。
「あのさ、えっと、なんかさ、何のために生きてんだろーって思ったりとかしてさ」
すっと目を細めて天井の明かりを見つめる。その姿は迷子になって泣きそうな子供の用で。
「……」
思わず胸がつまった。そんな言葉を耳にするなんて思いもよらなくて。
「……どうして、生きてるんだろ」
小さくしかし大きな思いを吐き出すと、顔をうつむかせてスカートの裾をぎゅっと握った。ここからだとはっきりその表情が見えて、悲痛な横顔が目に焼きついた。
「……」
どうして生きてるのか、俺の声で嫌というほど聞いたその言葉を、彩夏の声で聞くと、脳が揺さぶれる衝撃に見舞われた。
ふと、彩夏と視線が交錯した。
「あ、いや、なーんて考えちゃってさー。困ってんだよー……ええと」
無理に取り繕って明るい調子にする。明るく振る舞おうとするのは彼女の悪い癖だ。その性格を褒められて認められて好かれたから、そうでなくてはならないと思ってしまっているからだろう。
「別に無理しなくていいよ、それは良くないしバレバレ。それに、頑張って会話するほどの価値は俺にはないから」
「あ……う、うん。けど、悠斗こそ自分を卑下するのは悪い癖だよ」
あれ、慰めている側なのに慰められている気がする。いや、気のせいだ。
「そ、そんなことよりだな、なんか学校とかであった? それか、えーと、彼氏に振られた……とか」
もしかしたら、さっきの集まりの後に二人っきりになって、別れ話をされた可能性はなくはないはず。
彩夏の様子を伺うと目を丸くしている。どうやら的はずれだったようだ。
「いやいや、違うし、彼氏とかもいないし」
両手を大きく振って否定してくる。そこまで否定されると怪しく感じてしまうが、それを聞いてどこか安堵した自分がいた。
しかしその意味は深掘りすることはなく、気にしないようにする。
「えっと、大きなイベントが起きたわけじゃないの。ただ日常的に苦しいなって思ってて。何とか表には出ないようにはしていたんだけど、限界で」
「日常的って……。誰かに相談したりとかは、友達とか親とか」
「いや、できるわけないじゃん。そんなことを友達に相談するとか。重いしキャラじゃないし。それに、親に自分でもはっきりとはわかんない気持ちを言っても、暗くさせるだけだしさ」
少し声を張り上げて無理だと言って、理由を告げている声は徐々にか細い声量に。
「……」
彩夏には、朗らかな月明かりの表情はなく、曇り空に覆われてしまったかのよう。
「……苦しかった。こんな気持ちなのに明るく振る舞わなといけなくてさ。誰に強制されてるわけじゃなくて自分がやってることだけど、それでも止めるなんて、できなくて。ずっとそんな状態だとさ、もう外と内の自分が離れてっちゃって、自分って何なんだろって。そこから、何のために生きてるのかなって……」
溜まっていた血を絞り出すみたいに、苦しみを吐き出す。思い出すだけでも痛いのだろう、全身が苦痛に耐えるように力を込めていた。
そんな様子を見ていると、過去の自分の姿と重なってしまう。
「彩夏」
言葉だけじゃ足りなくて、何か直接安心させなくてはならないとも思う。けれど、本当にそんなことをしても良いのだろうか。逆影響になってしまうのではないか。それは親なり彼氏なりがすることなのでは。
行動したい衝動と抑制する理性がひしめき合う。考えても答えは出ない。彼女を見る。頭を振って、思考を止めた。まずは、相談してくれた想いにしっかりと応えなくては。
「そうだよな、ごめん。変なこと聞いて。一人でずっと悩んでたんだな。辛かったよな、誰にも話せなくて」
慎重に言葉を選んで脳内で反応をシミュレーションし、言葉を紡がないといく。何を言うべきで何を言ってはならないのか、言葉の取捨選択をしっかりと。
「……うん」
「あれだよな、弱さを見せても良いんだよって、それは無理だよな。実際、見せられないから悩んでるわけだし」
今言ったことを簡単に言ってしまえるほど、俺は人に相談できる人間ではなかった。
「そう。ネットでいくら調べてもそんなことばっかで」
もしかしたら、実績さえあれば彼女を安心させられたかもしれない。仮に出来ていたとしても、相手も出来るわけでもないし、どっちが良いのかわからない。
ただ、今は俺が自信を持って言えることだけを言おう。
そう軸を決めて話そうとすると先に彩夏が口を開いた。
「……悠斗はこんな時友達に……あ、ごめん何でもない」
「いや待って! なんかこの状況でそうされると、ちょっと怖いから! 全然、いつも以上に遠慮なしに言って言いから! でも、友達いることを確定して遠慮するの止めて!」
思わずそんな調子で返すと、彼女の口元が緩んだ。
俺も少し気持ちが弛緩して心に余裕が生まれた。
「まぁ、それは置いといてだな。さっきの質問? に応えると、俺は逃げた」
咳払いを挟んでから気を取り直して、彩夏に話を戻す。
「……逃げた?」
「一時期悩んだ時期があるんだよ、大学一年の頃だったかな。本当の自分って何だろうって」
それは誰にも話したことのないちょっとした心の傷。
「何で悩んだかって言うと、苦しくて生きることも嫌になったから」
「私と……同じ」
「まぁ、彩夏は友達がいる上で話せない。俺は友達がいなくて話せないだけどさ」
「まーた、そんな事」
悩みに悩んで苦しんでいるはずなのに、そんな中でもジト目に眺める彼女は変わらなくて。
「そんでどうしようもないわけだ。話したくても話せないから」
「……」
私がいたぞと訴えかけてくるけど、それから逃れるように続けた。
「そうすれば選択肢は一つだけになるわけ。考えることを止めて、他のことに夢中になった」
嫌なことは忘れるに限る。現実逃避して悩みから背を向けた。それは、向き合って苦しんで死にたくなるくらいなら、逃げた方がましという、秤にかけた結果。
「そんな簡単に忘れられたの?」
「いや、何度も俺の目の前に現れるから、その度に逃げるコマンドを連打よ。まぁ、それを繰り返してれば、時が解決してくれたんだよ。だから、その、その苦しみは永遠のものじゃないんだよ」
「そっ……か」
経験からはっきりと俺が言える言葉をかけた。彩夏は逡巡しているのか、目をあちこちに泳がす。その様子は、納得感を得られてはいなさそうで。
確かに、ゴールがあることはわかっても、どこにあるかは見えなければ希望にはなり得ないのだろう。わかりやすく、すぐそこの休憩所が必要かもしれない。
「でも、短期的には苦しいわけだから、楽になれるのがいるよな。俺にはそれが漫画だった。彩夏は何かある?」
「色々あるけど、そんなに熱中とか出来なくて。私は、誰かと、お話したりするのが一番好きだから……でも、最近はそれも負担になってて」
一番のストレス解消はそこにあるのに手が届かないというのは、一層苦しくなってしまうだろう。
「……」
正直、単純で多分解決に繋がるアイデアは頭に浮かんでいた。けれど、それは俺が悩んでいたことと真っ正面に向き合うことになる。口にだそうとするけど、背後から制止させようとする圧力のせいで出ない。
彩夏との関わり方。彩夏にとって俺はどう思われているのか。そんな不安と対峙しなくてはならない。
「……悠斗?」
彼女をよく見てみれば、目元に隈があって明らかな疲れがあって。そんなことにも気づかなかった。
「……ふぅ」
彼女の苦しみに比べれば大したことなんてない。
それに、大切な幼馴染で俺は年上なんだ。たった言葉にするだけのこと、しなくてどうする。
「あ、あのさ。他の友達に言いにくいならさ。俺……とか今日みたいにさ、話したり相談したりとかしないか」
「……っ」
少しでも言葉を詰まらせてしまえば、もう先が出ない気がして、無我夢中に言葉を足していった。
「相談をしてくれてるし、気のせいじゃなければ、さっきまでは楽しそうだったし。心の休憩所的な感じで」
「その、俺も久しぶりに楽しかったってのもあるけど。どう?」
彩夏の顔は見ることはできなかった。どっちが相談してるのかわからない感じで、提案してしまう。
床を眺める時間は短くも長く感じた。引き伸ばされた時間は、彼女の吐いた息と続く泣きそうな震え声によって動かされる。
「彩夏……?」
「……あ、あれ? おかしいな。泣きたくないのに……ぐす。涙が……あはは」
「お、おい大丈夫か? も、もしかして泣くほど嫌だったとか」
泣かれるほど嫌悪されていたなんてことあったら、もう立ち直れないんだが。
「ち、違うよ! そんなわけ……ないし。私はずっと今日みたいにしたかった。でも、悠斗はなんか離れてっちゃって……寂しかったんだよ。もう昔みたいに戻れないのかなって」
「彩夏」
同じだった。彼女は俺と一緒の思いだったんだ。なのに、俺は違うことを恐れて、彼女をこんな顔させてしまった。しっかりと償わないといけない。
「ごめん。怖かったんだ、彩夏に嫌われることがさ。いままで通りに関わったら、良くないんじゃないかって」
「嫌うわけない……じゃん。というか、私こそ悠斗に嫌われたかと思ってたんだよ。それに今まで通りじゃだめなのかなって、だからっ――」
心のダムが決壊して、体を小さくして嗚咽まじりに涙を溢す。
必死に押さえつけようとしている彼女に、俺は思わず体が動いて、彼女の頭を優しく撫でた。
「ゆ、悠斗ぉ……」
彩夏は塞き止めていた涙と声を解放し、溜め込んだ感情を吐き出す。俺の胸に飛び込んで積年の想いをぶつけてくる。
俺は不器用にただ泣き止むまで撫で続けた。
*
「悠斗ありがと」
「……どういたしまして」
彼女の目尻には涙の後がはっきりと浮かんでいる。けれど、表情はとても晴れやかで、それは雨上がりの虹のような笑顔だった。
「良かったぁ。今日悠斗に話せて。勇気を持って話せた私えらい!」
そう言って勝ち誇ったように胸を叩いて誇る。
「そうだな。俺からは無理だった」
「ちょっとーそこは年上からじゃないんですかー」
コツンコツンと肩に軽くパンチを喰らわしてくる。
「こういうのは役割があると思うんですよ。だから仕方ない」
「ふーん? しょーがない悠斗ですねー。でもさ、今日からは大丈夫でしょ?」
「ああ。もう問題ないよ」
俺を縛り付けていた鎖は彼女によって解かれた。それによってどこか清々しい思いと心許なさが残っている。
「そうだよね。じゃあ明日も行くからね。あーでも、友達と遊んだ後とかになっちゃうから時間が足りないなー」
口許に手を当てて首をこくりと傾げる。すると、名案だと言わんばかりに手を叩く。
「ねぇ悠斗」
「なんすか」
少しねっとりとした呼びかけに嫌な予感がした。
「ちょっとレベル上げてさ、明日家でお友達と遊んでるからそこに入ってきてよ悠斗! うん今の覚醒悠斗なら余裕! そうでしょ!」
「いや! 無理だわ!」
そんな心からの絶叫が部屋中に響いた。
駅から二十分ほど歩くと住宅街に入り、ようやく家が見えてくる。疲れ切った足を何とか動かして、ラストスパート。
「いやー、中間テストやばかった」
「もう、普通に終わった」
「それな。赤点ラインも厳しいしやばいかも」
だが、俺の家の隣家の前で、制服を着た高校生が男女二人ずつで、和気あいあいと話していた。思わず足の速度が落とし音を立てないように通り過ぎようとしてしまう。
「だよねー。私もワンチャン赤点説ある」
その中のミディアムボブの少女をちらりと眺めながら。
玄関前まで来ると、無意識に呼吸を止めていて、息を大きく吐き出す。すると、ほっとした気持ちと自己嫌悪の気持ちが溢れてきた。
「何やってんだろ、俺」
二階の自分の部屋に入って、リュックを入り口付近に置いて、ベッドの上に倒れ込む。目を瞑ると彼女の姿が映し出されて、頭の中で様々なことがぐるぐると氾濫する。
「……」
家の隣には、家族ぐるみで仲の良い桜木家がいる。桜木家は三人家族で、至って平凡な一家だ。
しかし、その家族の性格や見た目のレベルは高い。その中の一人娘、桜木彩夏も例に漏れず、明るく人に好かれる性格と、目鼻立ちが整い可愛らしく可憐。その二つが合わさり最強に見える。
一方、俺は誰にも好かれず認識もされないような人間だ。何も持っておらず、彩夏のような人とも本来なら関わることのない存在だろう。
ただ、偶然互いの両親が仲良くなりそこで何度も関わることがあったため、いまだに繋がりがある。俺の連絡先に親以外の名前があるのは彼女のおかげだ。
連絡はよっぽどの用がなければ自ら行うことはなく、ほとんど向こうから。高校一年生の彼女に大学三年生である俺が頼りきりなのは情けないことこの上ないが、どうしようもないので仕方ない。
彩夏とは、彼女が物心つく前からの付き合いであり、昔は気軽に当たり前のように関わっていた。ただ、最近……と言っても彼女が中学二年生ぐらいの時から、距離感というものを考えるようになり、それがずっと掴めずにいて。
その時の記憶は明瞭に思い起こせる。
「悠斗―」
それは二年前くらいの大学からの帰り道、後ろからコンクリートを叩く足音と彩夏の声がして、振り返る前に背中をぽんと軽く押される。
「なんだよー彩……夏」
「えへへ」
無邪気に笑う彼女だったが、その姿を見たときに女性を感じてしまったのだ。体つきは丸みを帯びていて、制服のワイシャツから出ている胸の膨らみ、黒に青色のチェックの入ったスカートから伸びた絹のような足、顔つきも大人びていて。頻繁に会っていたから気づきにくかったが、とうとうその日に彩夏ではから女性の彩夏になった。
「一緒に帰ろ」
「あ、ああ」
並んで歩いて帰ったが、その日を境に距離の間隔が、人一人分の開くようになった。
しかし、彼女の距離は変わることなく近くて。彼女から逃げるような日々は続いていった。
「ねぇねぇ。漫画読ませてー」
ある日、インターホンが押されると、画面には制服姿で笑顔の花を咲かせている、彩夏の姿があった。
「いいけど、何の漫画?」
「この前の続きのやつ!」
「わかった。持ってくるから、待ってて」
そう言うと、予想通りに不満そうに口を尖らせた。
「えーまた? 部屋で読ませてよ。家に誰もいないし、暇だからさー」
「ごめん。それはできないんだ」
「むむぅ」
きっぱりと断ると彩夏は諦めてくれたようで、安堵するが申し訳なくて心が痛む。部屋に行き目的の漫画を取ると、良いことをしているという気持ちで痛みから逃避。階段を下り玄関を開けて、インターホン前で待っている彩夏の元に。
「これ」
漫画を手渡した。彼女の手に触れないように。
「あ、ありがとう」
「うん」
少し居心地の悪い無言の間が訪れる。彩夏と目が合い、その瞳は悲しげで訴えかけてくるもので。けれど、それは一瞬で、ニコッとした目元にかき消された。
「それじゃ」
「ああ」
彩夏の後ろ姿を最後に、脳内の映像が途切れた。
「ああもう」
間違っていることをしていると思っていが、正しいこととも思えない。体をかきむしりたくなる衝動にかられる。
関わりづらい理由は他にもある。
彩夏の通う高校は近所のため、今日みたいに彩夏は、多くの友達と家の前でわいわい会話をしていたり、家で遊んでいたりしているから、威圧的なコミュニティの壁に阻まれている。
仮に、ニコニコと遊びに行って、知らない人がいたと考えたら恐ろしすぎる。もしそれが彼氏でした、なんてことがあったら修羅場確定でエンド。まぁ、彩夏のことだから、恐れていることは起きないだろうが、俺の心が耐えられない。
「あー、もう止めよ」
これ以上続けると止まりそうになくて、ぱっと目を開ける。少し休もうとしたのに、頭がより疲れてしまった。
「……うん?」
ふと、スマホに通知が来る。悲しいことにそれが誰かが見なくてもだいたい確定している。メッセージには、ちょっとしたら遊びに行くからと書いてあった。
連絡が来る度に心のどこかで安心感を得ると同時に、その裏で不安が陰を伸ばしていた。彼女にとって、俺の存在価値なんてあるのだろうかと。それは彩夏を意識する度に溢れて来る。
*
メッセージ通り、少ししてからピンポンが押される。
インターホンの画面には彩夏の姿があった。紺色のブレザーのなかに見える水色のシャツ。少しは離れた場所にいて、膝丈の黒の中に赤いチェックが入ったスカートからスラッとした足が伸びている。スクールバッグをぎゅっと握って、表情は穏やかな微笑みを浮かべていて、待ちかねるように体を左右に揺らしていた。
そんな彼女を見て体が強ばる。
「はい」
「あっ、悠斗。遊びにきたよ~」
弾んだ返事は、普段よりも一段と明るくて。俺は少し足早に玄関へ行ってドアを開けた。
「……彩夏」
「ふふっ、なんか悠斗の顔久しぶりに見た気がする。引きこもってたら健康に悪いからちゃんと外に出ないと駄目だよー」
彩夏は俺の顔をみるなり、ドアまで一気に距離をつめて、目の前に。アーモンドの形をした大きな瞳と交錯する。
「まぁ、それは気を付けるよ。それより、ええと……なんか、あった?」
それは疑問ではなくて確信めいた発言だった。
「え……うん。その、入っていいかな」
それが伝わったのだろう一瞬だけ目を見開くと、手に持っているバッグの位置が少しさがり、入っている教科書の擦れる音が響く。
「……わかった」
俺は彼女を家に入れる。玄関を上がり、少し真っ直ぐ行けば二階への階段がある。緩やかな傾斜を登ると、左右に伸びた廊下が現れる。左に進むと俺の部屋に続く一番奥のドアへ。
背後に付いてきている彩夏は俯きがちで、足音とバッグの揺れる音だけが静かに鳴っている。
ドアを開けると閉じた空間の空気が逃げだした。広さは四畳半で、奥に小さな窓があり、右側にベッドとタンス、左側に勉強机と本棚が備え付けられている。床はフローリングで、真ん中に小さな正方形のカーペットが敷いてあった。
彩夏はそそくさと俺の横を抜け、カーペットの上にバッグを無造作に置いて、ベッドの上にダイブ。高い弾力で体を弾ませ、スカートもそれに同期してふわりとした。
「お、おい」
「久しぶりだなー悠斗の部屋。最近は、ぜんぜん入れてくれなかったもんね」
昔と変わらない挨拶代わりのベッドダイブを終えると、姿勢を変えて溝に座り直し、不満そうに目を細めた。
「まぁ……色々あるからさ」
「あっ」
そう言うと彼女は何かに気づいたようにすかさず、ベッドの下を覗き込んだ。
「……ちぇ、なんもないか」
「なーにしてんすか」
「悠斗の弱みを握ってやろうと思ってさ。それを通行許可書にしようかと」
子供っぽく悪戯に笑う。それを見て胸の奥から懐かしみがじんわりと染みた。
「なんつーもんを許可書にする気だよ」
「えー? なんつーもんって何かなー? 私は弱みって言っただけだよ?」
「はいはい、そうですか」
適当にあしらいながら、スクールバッグの隣に腰かけた。
「ひどいよー。もうちょっと付き合ってくれてもいいじゃーん。これだから友達がいないんだよなー」
突然斬りかかられ、言葉がつまる。
「そ、それは……あれじゃん。駄目じゃん」
「あれれ? 図星ですかぁゼロの悠斗さん。あ、ちなみに私と家族以外の連絡先の数、教えてもらっていいっすか」
すると、隙ありと追撃が襲いかかる。しかし、この戦いは幾度も行われてきた。
「ふっ、彩夏。これ以上俺の心を傷つけるなら、相応の覚悟をしてもらう。そう、お前は俺の部屋に永久追放処分となる」
「むぅ……仕方ないなー。今日はここまでにしてあげるよ」
そんな悪の下っ端みたいな捨て台詞を吐いて、煽りあいの第一ラウンドは終了。
この感じは久しぶりで少し楽しいなと思ってしまう。彼女も楽しそうに足をバタつかせていた。
「そんで、今日はどうしたわけ。なんか様子が違った気がしたんだけど」
一段落ついたことを見計り本題を訪ねると、バタついていた足がゆっくりと止まってく。
「あはは……。いつもの感じにしたんだけどな」
眉をハの字にして苦笑する。彩夏は一度大きく息を吐いて言葉をとつとつと紡いでいく。
「あのさ、えっと、なんかさ、何のために生きてんだろーって思ったりとかしてさ」
すっと目を細めて天井の明かりを見つめる。その姿は迷子になって泣きそうな子供の用で。
「……」
思わず胸がつまった。そんな言葉を耳にするなんて思いもよらなくて。
「……どうして、生きてるんだろ」
小さくしかし大きな思いを吐き出すと、顔をうつむかせてスカートの裾をぎゅっと握った。ここからだとはっきりその表情が見えて、悲痛な横顔が目に焼きついた。
「……」
どうして生きてるのか、俺の声で嫌というほど聞いたその言葉を、彩夏の声で聞くと、脳が揺さぶれる衝撃に見舞われた。
ふと、彩夏と視線が交錯した。
「あ、いや、なーんて考えちゃってさー。困ってんだよー……ええと」
無理に取り繕って明るい調子にする。明るく振る舞おうとするのは彼女の悪い癖だ。その性格を褒められて認められて好かれたから、そうでなくてはならないと思ってしまっているからだろう。
「別に無理しなくていいよ、それは良くないしバレバレ。それに、頑張って会話するほどの価値は俺にはないから」
「あ……う、うん。けど、悠斗こそ自分を卑下するのは悪い癖だよ」
あれ、慰めている側なのに慰められている気がする。いや、気のせいだ。
「そ、そんなことよりだな、なんか学校とかであった? それか、えーと、彼氏に振られた……とか」
もしかしたら、さっきの集まりの後に二人っきりになって、別れ話をされた可能性はなくはないはず。
彩夏の様子を伺うと目を丸くしている。どうやら的はずれだったようだ。
「いやいや、違うし、彼氏とかもいないし」
両手を大きく振って否定してくる。そこまで否定されると怪しく感じてしまうが、それを聞いてどこか安堵した自分がいた。
しかしその意味は深掘りすることはなく、気にしないようにする。
「えっと、大きなイベントが起きたわけじゃないの。ただ日常的に苦しいなって思ってて。何とか表には出ないようにはしていたんだけど、限界で」
「日常的って……。誰かに相談したりとかは、友達とか親とか」
「いや、できるわけないじゃん。そんなことを友達に相談するとか。重いしキャラじゃないし。それに、親に自分でもはっきりとはわかんない気持ちを言っても、暗くさせるだけだしさ」
少し声を張り上げて無理だと言って、理由を告げている声は徐々にか細い声量に。
「……」
彩夏には、朗らかな月明かりの表情はなく、曇り空に覆われてしまったかのよう。
「……苦しかった。こんな気持ちなのに明るく振る舞わなといけなくてさ。誰に強制されてるわけじゃなくて自分がやってることだけど、それでも止めるなんて、できなくて。ずっとそんな状態だとさ、もう外と内の自分が離れてっちゃって、自分って何なんだろって。そこから、何のために生きてるのかなって……」
溜まっていた血を絞り出すみたいに、苦しみを吐き出す。思い出すだけでも痛いのだろう、全身が苦痛に耐えるように力を込めていた。
そんな様子を見ていると、過去の自分の姿と重なってしまう。
「彩夏」
言葉だけじゃ足りなくて、何か直接安心させなくてはならないとも思う。けれど、本当にそんなことをしても良いのだろうか。逆影響になってしまうのではないか。それは親なり彼氏なりがすることなのでは。
行動したい衝動と抑制する理性がひしめき合う。考えても答えは出ない。彼女を見る。頭を振って、思考を止めた。まずは、相談してくれた想いにしっかりと応えなくては。
「そうだよな、ごめん。変なこと聞いて。一人でずっと悩んでたんだな。辛かったよな、誰にも話せなくて」
慎重に言葉を選んで脳内で反応をシミュレーションし、言葉を紡がないといく。何を言うべきで何を言ってはならないのか、言葉の取捨選択をしっかりと。
「……うん」
「あれだよな、弱さを見せても良いんだよって、それは無理だよな。実際、見せられないから悩んでるわけだし」
今言ったことを簡単に言ってしまえるほど、俺は人に相談できる人間ではなかった。
「そう。ネットでいくら調べてもそんなことばっかで」
もしかしたら、実績さえあれば彼女を安心させられたかもしれない。仮に出来ていたとしても、相手も出来るわけでもないし、どっちが良いのかわからない。
ただ、今は俺が自信を持って言えることだけを言おう。
そう軸を決めて話そうとすると先に彩夏が口を開いた。
「……悠斗はこんな時友達に……あ、ごめん何でもない」
「いや待って! なんかこの状況でそうされると、ちょっと怖いから! 全然、いつも以上に遠慮なしに言って言いから! でも、友達いることを確定して遠慮するの止めて!」
思わずそんな調子で返すと、彼女の口元が緩んだ。
俺も少し気持ちが弛緩して心に余裕が生まれた。
「まぁ、それは置いといてだな。さっきの質問? に応えると、俺は逃げた」
咳払いを挟んでから気を取り直して、彩夏に話を戻す。
「……逃げた?」
「一時期悩んだ時期があるんだよ、大学一年の頃だったかな。本当の自分って何だろうって」
それは誰にも話したことのないちょっとした心の傷。
「何で悩んだかって言うと、苦しくて生きることも嫌になったから」
「私と……同じ」
「まぁ、彩夏は友達がいる上で話せない。俺は友達がいなくて話せないだけどさ」
「まーた、そんな事」
悩みに悩んで苦しんでいるはずなのに、そんな中でもジト目に眺める彼女は変わらなくて。
「そんでどうしようもないわけだ。話したくても話せないから」
「……」
私がいたぞと訴えかけてくるけど、それから逃れるように続けた。
「そうすれば選択肢は一つだけになるわけ。考えることを止めて、他のことに夢中になった」
嫌なことは忘れるに限る。現実逃避して悩みから背を向けた。それは、向き合って苦しんで死にたくなるくらいなら、逃げた方がましという、秤にかけた結果。
「そんな簡単に忘れられたの?」
「いや、何度も俺の目の前に現れるから、その度に逃げるコマンドを連打よ。まぁ、それを繰り返してれば、時が解決してくれたんだよ。だから、その、その苦しみは永遠のものじゃないんだよ」
「そっ……か」
経験からはっきりと俺が言える言葉をかけた。彩夏は逡巡しているのか、目をあちこちに泳がす。その様子は、納得感を得られてはいなさそうで。
確かに、ゴールがあることはわかっても、どこにあるかは見えなければ希望にはなり得ないのだろう。わかりやすく、すぐそこの休憩所が必要かもしれない。
「でも、短期的には苦しいわけだから、楽になれるのがいるよな。俺にはそれが漫画だった。彩夏は何かある?」
「色々あるけど、そんなに熱中とか出来なくて。私は、誰かと、お話したりするのが一番好きだから……でも、最近はそれも負担になってて」
一番のストレス解消はそこにあるのに手が届かないというのは、一層苦しくなってしまうだろう。
「……」
正直、単純で多分解決に繋がるアイデアは頭に浮かんでいた。けれど、それは俺が悩んでいたことと真っ正面に向き合うことになる。口にだそうとするけど、背後から制止させようとする圧力のせいで出ない。
彩夏との関わり方。彩夏にとって俺はどう思われているのか。そんな不安と対峙しなくてはならない。
「……悠斗?」
彼女をよく見てみれば、目元に隈があって明らかな疲れがあって。そんなことにも気づかなかった。
「……ふぅ」
彼女の苦しみに比べれば大したことなんてない。
それに、大切な幼馴染で俺は年上なんだ。たった言葉にするだけのこと、しなくてどうする。
「あ、あのさ。他の友達に言いにくいならさ。俺……とか今日みたいにさ、話したり相談したりとかしないか」
「……っ」
少しでも言葉を詰まらせてしまえば、もう先が出ない気がして、無我夢中に言葉を足していった。
「相談をしてくれてるし、気のせいじゃなければ、さっきまでは楽しそうだったし。心の休憩所的な感じで」
「その、俺も久しぶりに楽しかったってのもあるけど。どう?」
彩夏の顔は見ることはできなかった。どっちが相談してるのかわからない感じで、提案してしまう。
床を眺める時間は短くも長く感じた。引き伸ばされた時間は、彼女の吐いた息と続く泣きそうな震え声によって動かされる。
「彩夏……?」
「……あ、あれ? おかしいな。泣きたくないのに……ぐす。涙が……あはは」
「お、おい大丈夫か? も、もしかして泣くほど嫌だったとか」
泣かれるほど嫌悪されていたなんてことあったら、もう立ち直れないんだが。
「ち、違うよ! そんなわけ……ないし。私はずっと今日みたいにしたかった。でも、悠斗はなんか離れてっちゃって……寂しかったんだよ。もう昔みたいに戻れないのかなって」
「彩夏」
同じだった。彼女は俺と一緒の思いだったんだ。なのに、俺は違うことを恐れて、彼女をこんな顔させてしまった。しっかりと償わないといけない。
「ごめん。怖かったんだ、彩夏に嫌われることがさ。いままで通りに関わったら、良くないんじゃないかって」
「嫌うわけない……じゃん。というか、私こそ悠斗に嫌われたかと思ってたんだよ。それに今まで通りじゃだめなのかなって、だからっ――」
心のダムが決壊して、体を小さくして嗚咽まじりに涙を溢す。
必死に押さえつけようとしている彼女に、俺は思わず体が動いて、彼女の頭を優しく撫でた。
「ゆ、悠斗ぉ……」
彩夏は塞き止めていた涙と声を解放し、溜め込んだ感情を吐き出す。俺の胸に飛び込んで積年の想いをぶつけてくる。
俺は不器用にただ泣き止むまで撫で続けた。
*
「悠斗ありがと」
「……どういたしまして」
彼女の目尻には涙の後がはっきりと浮かんでいる。けれど、表情はとても晴れやかで、それは雨上がりの虹のような笑顔だった。
「良かったぁ。今日悠斗に話せて。勇気を持って話せた私えらい!」
そう言って勝ち誇ったように胸を叩いて誇る。
「そうだな。俺からは無理だった」
「ちょっとーそこは年上からじゃないんですかー」
コツンコツンと肩に軽くパンチを喰らわしてくる。
「こういうのは役割があると思うんですよ。だから仕方ない」
「ふーん? しょーがない悠斗ですねー。でもさ、今日からは大丈夫でしょ?」
「ああ。もう問題ないよ」
俺を縛り付けていた鎖は彼女によって解かれた。それによってどこか清々しい思いと心許なさが残っている。
「そうだよね。じゃあ明日も行くからね。あーでも、友達と遊んだ後とかになっちゃうから時間が足りないなー」
口許に手を当てて首をこくりと傾げる。すると、名案だと言わんばかりに手を叩く。
「ねぇ悠斗」
「なんすか」
少しねっとりとした呼びかけに嫌な予感がした。
「ちょっとレベル上げてさ、明日家でお友達と遊んでるからそこに入ってきてよ悠斗! うん今の覚醒悠斗なら余裕! そうでしょ!」
「いや! 無理だわ!」
そんな心からの絶叫が部屋中に響いた。