『はい、明栖北高等学校です』
「3年B組の、香西ヒロです。迫河──先生、お願いします」
『はい、ちょっとお待ちくださいね』

 スマートフォンのスピーカーの向こうで、クラシック音楽の保留音が流れる。
 自分の気持ちを自覚して、良かった面もある。
 今まで、発作の原因が不明だったので、男性との接触は極力避けてきた。
 だけど、自分自身の気持ちの問題なら、迫河とは安心して電話で話せることがわかった。
 さすがに、担任に電話連絡できないとか不便すぎるからな……。
 
「にゃおん」
「倫太郎、電話中だから、ちょっと待ってな」

 膝の上に乗ってきた倫太郎の頭を撫でると、そのまま膝の上で大人しくなった。
 
『はい、お電話代わりました、迫河です』
「迫河……。ちょっと、相談があるんだけど──」

 オレは、自分の正直な気持ちを伝えた。
 卒業式に出たい。みんなと一緒に卒業したい。
 それすらもわがままだろうか?
 
『それは……俺としても嬉しいし、そうしてやりたい……。だが……学校としては……許可、できない……。責任が取れないからだ』

 迫河は、言葉を選ぶように答えてくれた。
 
「そっか……」

 考えてみたら、当たり前だよな。
 卒業式で倒れられでもしたら、学校も困るだろう。
 迫河は、リモート授業の時も尽力してくれたし、これ以上、迷惑かけるわけにはいかないか……。

『だけどな』

 諦めて通話を切ろうとした時、迫河が言った。
 
『自己責任、取るつもりなんだろう? おまえは』
「それは、もちろん」

 万が一のことがあっても、学校側に責任を問うつもりはない。
 山本先生にも事前に相談するつもりだ。
 
『なら、別に学校じゃなくてもいいわけだ』
「えっ、それって──?」

 *

 三月一日、卒業式当日。
 オレは、母校の卒業式に出られなかった。
 迫河の言ったとおり、万一のことを考えてだ。
 しかし、迫河はこんな提案をしてくれたのだった。
 
 その放課後。
 オレはるきあと一緒に、制服姿で迫河の指定してきた場所にやってきた。
 市営の文化センターだ。
 卒業式の後の打ち上げのような名目で、この会場を借りてくれたというのだ。
 しかし、オレはこのままだと入れない。
 鳴沢に会うと、発作が起こる可能性があるからだ。
 でもオレは、みんなと卒業したい。
 医大に行く夢は遠のいたけれど、ちゃんと卒業したい。
 だからオレは……。
 用意したアイマスクで目隠しをして、るきあに手を引いてもらい中へ入って行った。

 真っ暗で何も見えない。るきあがいなければ会場に辿り着くことすらできないだろう。
 会場の扉を開けると、すでにクラスのみんなは集まっているらしく、ざわざわと喧騒が耳に入ってくる。
 
「おっ! きたきた!」

 そんな中でも、晶の声が目立っていた。
 
「香西のやつ、なんで目隠ししてるんだ……?」
「さあ……?」

 クラスの男子が、ひそひそと話しているのが聞こえた。
 
「香西、よく来てくれた」

 迫河の、低い声が頭の上から聞こえた。
 
「迫河……。ありがとう、こんな場所を用意してくれて。学校じゃできないって、そういう意味だったんだ?」
 
「まあ、俺もおまえに言われるまでは思いつかなかったけどな!」

 明るい声の(のち)、急に真剣な声のトーンになった。
 
「本当に、大丈夫なんだな……?」

 オレの体調を気遣ってくれている。
 本当にありがたい。
 あの時、るきあに言われて仕方なくだったけれど、迫河に話しておいて良かった。
 
「うん、今のところは」

 視界が真っ暗の中、オレは体育館のステージを思い浮かべる。
 ここには階段があって、それを登ると演台があって……。
 オレは演台の前に立って、その向こうに迫河がいる。
 そんな想像をしながら、るきあの誘導する通りに移動して立ち止まると、るきあがスッと手を離した。
 
「卒業証書授与──香西ヒロ殿」

 マイクを通して、迫河の読み上げる声。
 
「あなたは本校で所定の課程を修め、その業を終えたのでこれを証します」

「ありがとうございます」
 
 両手で卒業証書を受け取ると、後ろからみんなの拍手が降って来る。
 オレだけの卒業式。オレのために、ありがとう。

「香西、本当に卒業できて良かった。ドイツへ行っても、頑張ってくれ」
「うん」
「最後に、みんなに何か言う事はあるか?」

 そう言って、迫河はマイクを渡してきた。
 卒業証書を一旦るきあに渡して、マイクを持つ。
 
「最後……」

 そうか……オレがオレ(・・)でいられるのは、もう最後なんだ……。
 最後に……言いたい。

「迫河……先生」

 オレが言うと、周りがどよめいた。
 きっと、迫河もびっくりしていると思う。
 
「迫河じゃなかったらオレ……卒業できなかった。だから、ありがとう……!」

 わざとらしく、大袈裟に言いながら、深く頭を下げた。
 顔を見ながらだったら、きっと恥ずかしくて言えなかったと思う。
 目隠しの効果がこんなところで役に立つとは。

「ばっか……おまえ……最後でこんな……。反則だぞ……。笑って見送ろうと思ってたのに……」

 迫河からの返事は、声が掠れていた。
 るきあが、「先生、泣いてるよ」と、耳打ちしてくれた。
 そして、今度はみんなの方を向く。
 伝えたい。
 今のオレが言える、精一杯の言葉を。
 
「最後にみんな……。3年B組のみんな(・・・)ーー!!」

 マイクに向かって、叫んだ。
 キーン、と一瞬だけ音がハウリングする。
 
「俺は、ドイツへ行って病気を治してくる! 絶対に治してくる!! 今までありがとう!!」

 大きく息を吸い込んで、
 
みんな(・・・)──大好きだーーーー!!」

 力の限り叫んだ。
 この会場のどこかにいる、彼に向かって。
 言い終えると、クラスのみんなからの拍手と歓声が、ワッと上がった。

 緊張の糸が切れて、手足が震える。
 大丈夫、みんなに向けた言葉だから、大丈夫。
 そう自分に言い聞かせていたけれど、息が苦しい。
 軽く目眩がして、るきあに支えてもらった。
 
「ごめん、迫河。……後は頼んだ」
「無理するな」
「うん……」
「ヒロ、行こう」

 るきあに支えてもらいながら、出口に向かう。

「みんな、香西はちょっと疲れたみたいだ。今日は、集まってくれてありがとう。俺も、みんなが大好きだ!」
「うおーん、迫河先生〜」
「ちょっと、瀬戸君、泣きすぎ!」

 会場の扉を閉める時に、そんな会話が聞こえてきた。

 *
 
 外に出ると、暖かい春の日差しに包まれた。
 遠くの方で、車の行き来する音や、小鳥の声なんかも聞こえる。
 目隠しを取ったけれど、目眩はなかなか治らず、るきあに頼りっぱなしだ。
 こんな自分を情けなく思う。だけど……。
 
「ヒロ、大丈夫……?」
「……うん」

 外にあったベンチに並んで座り、るきあの肩にもたれかかる。
 
「るきあ、オレ……言えたよ……」

 まだ足が震えてる。
 いつもなにかの発表などで人前に出ると、始まる前よりも終わった後の方がこうなってしまう。
 
「言えたよぉ……」
 
 だけどこのことだけは、自分を誇りに思いたい。
 聞こえただろうか、聞いてくれただろうか。
 そう思うと、呼吸がヒュッと苦しくなってしまう。
 ああ、だめだ。今はまだ、彼のことを考えることができない。
 泣きそうになってたら、るきあがぎゅっと抱きしめてくれた。
 
「うん……がんばったね……」