病室の前の長椅子に座っていると、香西の悲痛な叫び声が聞こえた。
 何もしてやれない自分がもどかしい。
 それどころか、俺の存在が香西を苦しめているのかもしれない。
 俺は、ここにいるべきではない。
 そう思うのに、なぜか帰れなかった。

 しばらくすると、担当医である母さんがやってきて、俺を横目でちらりと見てから病室へ入っていった。
 扉を開けた時に、少しでも香西の様子が見えないだろうかと覗いたが、カーテンが閉められていた。
 それから十分は経っただろうか、ようやく母さんが出てきたので立ち上がった。
 
「母さん……」

 香西はどうなんだ、と訊きたかった。
 しかし、やはり十年前と同じで、母さんは目を伏せて首を横に振る。
 
「佑二……。ヒロ君は大丈夫。だけど、大事を取ってしばらく入院することになるから、あなたも早く帰りなさい」
「もう少し……」
「面会時間までよ」
「わかってるよ……」

 母さんは医者として、冷静に振る舞ってその場を後にした。
 ここからでは外の様子はわからないが、もうすっかり暗くなっていてもおかしくない時間だ。
 面会終了時間まで、あと数時間しかない。
 落合さんは、まだ香西と話しているのだろうか?
 しばらく長椅子に座っていると、ようやく落合さんが病室から出てきた。
  
「鳴沢くん、ずっといたの?」
「心配で……」
「あたし、今からヒロの入院準備してくるけど」

 そうか、入院するんだったら、いろいろ必要になるよな。
 大荷物になるかもしれない。
 
「手伝うよ……!」
「……ありがと」

 落合さんは、少し驚いたような顔をしたのち、微笑んでそう言った。




 
 香西の家で必要な荷物をまとめた後、病院へ戻る途中のことだった。
 急に、落合さんが立ち止まってぶつかりそうになった。

「ど、どうした?」
「シッ! 隠れて!」

 そう言って、俺を物影へ押し込むようにする。
 電柱の影から落合さんがそっと顔を出して見つめたのは、花屋の店先だった。
 そこには、花屋の店員さんらしき女性と、迫河先生がいて親しそうに話している。
 こ、これは……ものすごいタイミングで通りかかってしまったのでは?

「落合さん、あの花屋さんは……?」
「あの人は、朝倉篠さん。ヒロから篠さんと迫河先生は知り合いかもしれないって聞いてたけど……。まさかこんな場面に立ち会えるなんて……っ」

 しばらく、邪魔しないように二人を観察していた。
 そもそも、ここを通らないと病院行きのバス停へ行けないのだから仕方がない。
 しかし、心なしか迫河先生の様子がおかしい気がする。
 ……無理もないか。今日一日、バタバタしていたもんなぁ。
 
「どうしたんですか? 元気ないですね?」
「そうですか?」
「何か、あったんですか?」

 朝倉さんが訊ねると、迫河先生はしばらく沈黙していて、やがてゆっくりと話し始めた。
 
「最近、いろんな事がありすぎて……。俺は、どうにもできなくて……。自分の無力さを、感じてしまったんです……」

 迫河先生も、俺と同じ風に感じていたのか。
 先生は、いつも生徒に対して全力で向き合ってくれて……。
 俺達なんかよりもずっと大人で、なんでもヒョイっとこなせる人だと、勝手に思っていた。
 でも、実はすごく苦労してるんだな。
 誰かに愚痴を言いたくなる時もあるんだろう。
 
「って、わかんないですよね、これじゃ……」

 先生が苦笑して頭の後ろに手をやると、朝倉さんは少し先生に近づいて……。
 
「よしよし」

 背のびをして迫河先生の頭を撫でた。
 え、えーー! そういう関係なのか!?
 
「わ、わああぁぁ!」

 迫河先生は、驚いて少し後ずさった。
 どうやら、まだそういう関係というわけではなさそうだ。
 そして、俺の隣でも落合さんが小声で「きゃー! きゃー!」と歓声を上げている。
 
「毎日、お疲れさまです」
「あ、あんまり気軽にそういう事はしない方がいいですよ!?」
「迫河さんだから、です」
「えっ!?」

 二人は、頬を赤くして固まってしまった。
 そろそろ頃合いだろう。バスの時間もあるし、俺と落合さんは偶然を装って花屋に近づく。
 
「あれっ? 迫河先生?」
「お、おまえたち……」

 迫河先生は、慌てて朝倉さんから距離を取った。
 
「るきあちゃん、そんな大荷物持ってどこへ行くの?」
「実は……」

 落合さんが、香西のことを説明する。
 
「えっ? ヒロくんが入院!?」
「香西、入院なのか!?」

 朝倉さんと迫河先生、二人がほぼ同時に驚いた。
 
「どこの病院?」
「鳴沢病院です」
「そう……。また、お見舞いに行くわ」
「落合、香西はどれくらい入院なんだ?」
「大事を取って、二週間くらいみたいです」
「二週間も!? まずいぞ……」
「えっ?」
「このままじゃ、香西は卒業できなくなる……!」

 迫河先生に言われて、落合さんは一瞬考え込んで、「あっ!」と声を上げた。
 香西が卒業できないって?

「どういう事ですか、先生!?」
「ヒロは、あと少しで出席日数が足り無くなるの。今までも、結構サボ……休んだりしてたから」

 落合さんが答えてくれた。
 あいつ、よく休んでいるとは思っていたけど、まさかそんなギリギリだったとは。
 考え込んでいると、迫河先生の表情が変わった。
 
「篠さん」
「は、はい」
「さっきは、ありがとうございました。まだ、やるべきことがありました。やれるだけ、やってみます……!」
「は、はい……。がんばってくださいね」
「鳴沢、落合、また明日、学校で!」

 迫河先生が、慌てるように帰っていったので、俺達も慌てて挨拶した。
 
「さ、さよーなら!」

 そして、朝倉さんにも挨拶して、俺達はその場を後にした。
 

 
 運転手以外、誰もいないバスに乗り込んで、落合さんは一番後ろの奥の席に座った。
 隣に座るのは何か違うような気がして、俺はその前の席に座る。
 
「なんで前に座るのよ?」
「別に……。俺は香西じゃないし」
「なによそれ。まあ、いいけど」

 落合さんは、なんとなく寂しそうな顔をしていた。
 大事な幼馴染が倒れたんだから、無理もないか。
 黙って車窓を眺めていると、また落合さんが話しかけてきた。
 
「鳴沢くんってさ……。まだ、ヒロのことライバル視してるの?」
「どうだろうな。もう、わかんないや」
「ヒロね、ドイツへ行くって」
「……え?」

 振り返ると、落合さんは下を向いて肩を震わせていた。
 
「よかったね。ライバルいなくなるよ」
「いや、それ、卒業後の話だろ?」
「……そっか」

 そしてまた、落合さんは口を閉ざした。
 皮肉を言って、自分に言い聞かせていたのか。
 『よかったね』と無理にでも言わなければ、きっと押しつぶされそうになるんだ。

 そうだ。卒業後の話なんだから。
 ドイツへ行って病気が治るなら、いいことじゃないか。
 なのに、俺の心の中のザワザワしたものも、なくなることはなかった。