「で、では、いただこうか」
「は、はい、そうですね」

 互いにたどたどしく食事への感謝を述べ、優雅な夕餉(ゆうげ)をぎこちなく口に運ぶ。
 普段通りできていたことがなぜかうまくできない。
 菖蒲は明臣を、明臣は菖蒲を、以前より何倍も意識してしまうからだ。

 皐月たちの事案から、およそ一週間。
 二人は他者から見てもじれったい日々を送る。
 お互いの気持ちは通じ合っているはずなのに、最後の一歩が踏み出せないでいた。
 リビングの外では、凛を筆頭に使用人たちが菖蒲と明臣の会話をトキメキながら見守る。

「そ、そういえば、奉日本屋から感謝の手紙が来ていたな」
「わ、私のところにも来ていました」

 菖蒲の“大衆面前愛の告白大事件”以来、帝都大桟橋は‟愛の大桟橋”と呼ばれるようになってしまった。
 今宵も、どこぞのアベックが愛を叫んでいるだろう。
 橋の正面に位置する奉日本屋も客足が伸びているそうで、菖蒲は桐ケ谷たちにも深く感謝された。
 告白の勢いそのままに、結婚式の予約や婚約指輪の売れ行きが好調なのだとか。
 明臣もまた愛妻家の一面が周囲の知るところとなり、以前のように過度に恐れられることはなくなった。
 今では“理想の旦那様”と呼ばれるほどに。
 どこか固い所作で食事を終え、それぞれ風呂などを済ます。
 菖蒲が寝室で寝る準備をしていると、控えめに障子が叩かれ一人の男の声が聞こえる。

「菖蒲……開けてもいいかい……?」
「ど、どうぞ、もちろんでございます」

 障子が遠慮がちに開き、明臣が顔を覗かせる。
 菖蒲の近くに来ると、正座して告げた。

「きょ、今日は月明かりが綺麗だね」
「そ、そうですね」

 何の変哲もない会話だが、意識すればするほどぎこちなくなってしまう。
 暫し互いに俯く中、明臣は言う。

「君に渡したい物があるんだ……」

 おずおずと懐から一つのブローチを取り出した。
 月明かりで紫色に光るアヤメのブローチを。
 奉日本屋でこっそり購入した物だった。
 明臣は固く握ると、真摯な面持ちで告げた。

「君はアヤメの花言葉と同じように……私の‟希望”だ。この先もずっと傍にいてほしい」
「明臣様……ありがとうございます……。私、とても嬉しいです」

 菖蒲の髪にそっとブローチが乗る。
 黒は紫を、紫は黒を引き立て、両者を互いに引き立てた。

「菖蒲……あの日の続きをしてもいいかい?」

 明臣は少し距離を取り、菖蒲に告げる。
 わずかな月明かりでも煌めく銀髪と真紅の瞳。
 もう、菖蒲は気絶することはなかった。

「はい……喜んで」

 口づけし合う男女のシルエットが、薄っすらと障子に浮かび上がる。