「え……も、申し訳ございません。何もしなくていい……とはどういうことでございますか?」
「ん? どういうことも何も、そのままの意味だよ。菖蒲はここにいてくれるだけでいいんだ」

 明臣の返答に、菖蒲は甚だしい衝撃を受けてしまった。

 内薗家で使用人以下の暮らしを送ってきた菖蒲にとって、何もしないことは大罪だった。
 掃除をしたり買い出しをしたり料理をしたり、何かしら働く様子を見せなければ、すぐに皐月たちの暴力が彼女を襲った。
 環境が変わっても以前の生活の余韻が残っており、何もせず過ごすなど到底考えられない。
 菖蒲は姿勢を正すと、険しい表情で明臣に言う。

「明臣様、どうか仕事をください」
「し、仕事? 先ほども言ったが、菖蒲は仕事などしなくていいんだ。ここでのんびり暮らしなさい」
「いいえ、何もしないのは落ち着かないですし、何より申し訳ないので……。どうか、お仕事のほどを」

 極めて礼儀正しいお辞儀で懇願する菖蒲に、明臣は戸惑う。
 彼女に労働をさせるつもりなど毛頭ないが、菖蒲の希望はなるべく叶えてあげたい。
 暫し葛藤した後、明臣は一つだけ頼むことにした。

「それならば……」

 渋々と口を開いた明臣を、菖蒲は爛々と輝く瞳で見る。

「中庭に先祖代々受け継ぐ大切な桜が植わるのだが、今にも枯れそうなんだ。樹木医に診察を頼んだが、切るしかないらしい。……撫でてやってくれないか? 菖蒲の優しい手で触れられれば活力が戻るかもしれない」
「わかりましたっ。全力で撫でさせていただきますっ」
「う、うむ」

 屋敷に来て一番元気な声の気がする……と明臣は思いつつ、菖蒲を中庭に連れて行くことに決めた。
 明臣、そして凛と共にリビングを出、テーブルと同じ漆塗りの廊下を滑るように歩くこと数分。
 何匹もの錦鯉が優雅に泳ぐ澄んだ池、一部の乱れもなく切り揃えられた松、上品に苔むした庭石の数々……。
 およそ、格式高い寺と言われてもおかしくない荘厳な庭園が現れた。
 菖蒲は感動のあまり、呟くことしかできない。

「す、すごい……大変に立派な庭園ですね。美しくて言葉もありません」
「君が喜んでくれてよかった。……さあ、桜はこの先だよ」

 明臣は菖蒲の手を取り、そっと中庭に降り立たせた。
 凛な中庭まではついてこず、屋敷から二人を見守る。
 草履に履き替え北側に歩を進めると、一本の大木が現れた。
 中庭は相当に広く、またひっそりと隠れるように生えていたので、屋敷からではよく見えなかったのだ。

「菖蒲、この桜――“鬼桜(きざくら)”がそうだ」
「これが……」

 菖蒲は硬い表情で見上げる。
 今にも朽ち果てそうな、瀕死の桜を……。