気絶寝した菖蒲に布団を被せ、明臣は寝室を後にする。
窓から差し込む月明かりに照らされながら粛々と歩き、自分の書斎に入った。
扉を閉め鍵をかけ、モダンな西洋椅子に座る。
銀縷と見間違うほどの麗しい髪の上から額を押さえ、漆黒の闇でも煌々と煌めく紅玉より澄んだ瞳を閉じ、思う。
――……距離感を間違えた。
常に強力な妖と戦う明臣にとって、女性――特に人間の――との距離感は不明だった。
妖との戦闘は接近戦が主なので、同じように接近することを意識してしまった。
菖蒲は驚愕したに違いない。
婚約者同士とはいえ、十年も会ったことすらない男が――しかも、鬼――が、いきなり迫ってきては恐怖するに決まっている。
考えれば考えるほど、明臣は事の重大さを認識する。
今夜の一件は、下手したら大事な夫婦生活に致命傷を与えるかもしれない。
いや、すでに与えた可能性がある。
まずは……どうすればいい?
明臣は頭を働かせるも、大した案が浮かばなかった。
……凛を呼ぶか?
いや、おそらく最大の悪手だ。
必死に考えた結果、謝罪の意を伝えるため、朝陽が昇るまで文をしたためることにした。
□□□
「……ぅ」
翌朝、菖蒲は瞳に光を感じて目を覚ました。
障子の向こう側から白い光が薄っすらと滲み、朝の訪れを知らせる。
掛け時計は七時前を指していた。
身体を起こし一息つくと、まだぼんやりする頭に少しずつ就寝前の記憶が蘇る。
――昨夜、明臣様に著しく接近された……ような気がする。
共に夕食を摂っただけなのに、なぜそうなったのかはわからない。
そもそも、現実とも言い切れなかった。
昨日は緊張と疲労が、菖蒲の身体に強い負担をかけていた。
特に、就寝前は激しい緊張と混乱の最中にあった菖蒲は、その辺りの記憶が曖昧だ。
それでも瞳を閉じると明臣の拡大された顔が映し出されるので、やはり接近された……のだと思う。
「奥様、お目覚めでございますか?」
就寝前の記憶を探っていると、凛の声が障子越しに聞こえた。
すかさず、菖蒲は布団の上で正座をして答える。
「は、はい、起きています。おはようございます、凛さん」
「おはようございます。ご朝食の準備ができておりますので、どうぞご用意のほどを……」
ひとまず、記憶の検証は後回しにすることに決めた。
菖蒲は洗顔や歯磨きなどをすませ、凛が用意した上質な着物を着る。
今度は明るい石竹色に蝶文様があしらわれた華やかな着物であった。
(菖蒲は知らなかったが、蝶の柄は夫婦円満を意味する)
凛に続いてリビングに行くと、すでに明臣が待っていた。
「おはよう、菖蒲。よく眠れたかい?」
「おはようございます、明臣様。おかげさまで、大変よく眠ることができました。それこそ、気絶したかのように……」
ぺこりとお辞儀をし、菖蒲も席に座る。
何の気なしに話す明臣を見て、やはり昨夜の一件は幻だったのかと思った。
二人が着席したのを見計らい、凛が朝餉を運ぶ。
蒸し鶏と生姜を卵で綴じた粥だ。
白い湯気がほかほかと立ち上り、菖蒲の食欲をそそる。
「温かいうちに食べようか」
「はい、いただきます」
明臣と菖蒲は共に食事への感謝を述べ、粥を口に運ぶ。
蒸し鶏は芯まで柔らかく、ホロホロと舌の上で崩れ、卵が優しく包み込む。
生姜のピリリとした辛みはレンゲをさらに進ませる。
粥には隅々まで食材の味が染み込んでおり、一口で一杯食したような満足感だった。
菖蒲は未だかつて、これほど美味い粥を食べたことがない。
「……ごちそうさまでした。こんなに美味しいお粥は初めて食べました」
「それは良かった。食べたい物があったら教えてくれ。何でも用意する」
「ありがとうございます」
満足気に完食した様子を見て、明臣もまた嬉しく思った。
凛が持ってきた深い緑の玉露を二人で飲む。
「さて、君に渡しておきたい物がある。……これだ」
「はい、謹んでお受け取りいたします」
食事が終わると、明臣が懐から一通の文書を取り出した。
表面には何も書いていない。
「開けてくれ」
「拝見いたします」
明臣に言われ、菖蒲は封を開ける。
中身は便箋が二枚。
一目見た瞬間、菖蒲の心臓はどきりと脈打った。
書道の大家が書いたと言われてもおかしくないほどの美しい字が、つらつらと隙間なく埋める。
いったい何が書いてあるのか……もしかしたら、自分の調理法では……。
菖蒲は明臣に対する忘れかけていた恐怖を思い出すが、読むにつれてその恐怖も徐々に弱まる。
要約すると、〔昨夜は距離感を間違え、結果、著しい接近を致してしまい申し訳なかった〕という旨が書かれていた。
「あの、明臣様。これは……」
「書いてある通りだ。昨夜は驚かせてしまい悪かった。不快な気持ちにさせてしまったな」
「い、いえっ、不快だなんてとんでもありませんっ。私の方こそ気絶して申し訳ございませんでしたっ」
明臣の謝罪と話を聞き、昨夜の一件はやはり現実だったのかと認識する。
緊張と混乱はしたものの、菖蒲は明臣の著しい接近に不思議と不快な思いは感じなかった。
菖蒲の反応を見て、明臣は心の中で安堵する。
「それならよかった。しばらく、身体的な接触はしないよう気をつけよう」
「わ、わかりました。……あの、明臣様、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん構わないよ。一つに限らず、二つでも三つでも聞きなさい」
明臣の穏やかな微笑みを見て安心するも、菖蒲は呼吸を整えた後、意を決して尋ねた。
「私はこのお屋敷で何をすれば良いのでしょうか」
昨日、明臣は護符の恩などを話してくれたが、まさかそれだけで屋敷においてくれるはずがないだろう。
きっと、大変な重労働が待っているのだ。
朝から晩まで護符を書き続けるとか、屋敷中の廊下を鏡のごとく磨き上げるとか、妖との戦闘の前線で局員たちの盾になるとか……考え出せばキリがない。
もちろん、菖蒲の覚悟は決まっている。
すでに昨晩と今朝で、豪華な食事を食べてしまった。
何を言われても受け入れる所存である。
やけに切羽詰まった表情の菖蒲に、明臣は暫しぼぅっとしていたが、やがて微笑みを浮かべて優しく答えた。
「君は何もしなくていいんだ」
窓から差し込む月明かりに照らされながら粛々と歩き、自分の書斎に入った。
扉を閉め鍵をかけ、モダンな西洋椅子に座る。
銀縷と見間違うほどの麗しい髪の上から額を押さえ、漆黒の闇でも煌々と煌めく紅玉より澄んだ瞳を閉じ、思う。
――……距離感を間違えた。
常に強力な妖と戦う明臣にとって、女性――特に人間の――との距離感は不明だった。
妖との戦闘は接近戦が主なので、同じように接近することを意識してしまった。
菖蒲は驚愕したに違いない。
婚約者同士とはいえ、十年も会ったことすらない男が――しかも、鬼――が、いきなり迫ってきては恐怖するに決まっている。
考えれば考えるほど、明臣は事の重大さを認識する。
今夜の一件は、下手したら大事な夫婦生活に致命傷を与えるかもしれない。
いや、すでに与えた可能性がある。
まずは……どうすればいい?
明臣は頭を働かせるも、大した案が浮かばなかった。
……凛を呼ぶか?
いや、おそらく最大の悪手だ。
必死に考えた結果、謝罪の意を伝えるため、朝陽が昇るまで文をしたためることにした。
□□□
「……ぅ」
翌朝、菖蒲は瞳に光を感じて目を覚ました。
障子の向こう側から白い光が薄っすらと滲み、朝の訪れを知らせる。
掛け時計は七時前を指していた。
身体を起こし一息つくと、まだぼんやりする頭に少しずつ就寝前の記憶が蘇る。
――昨夜、明臣様に著しく接近された……ような気がする。
共に夕食を摂っただけなのに、なぜそうなったのかはわからない。
そもそも、現実とも言い切れなかった。
昨日は緊張と疲労が、菖蒲の身体に強い負担をかけていた。
特に、就寝前は激しい緊張と混乱の最中にあった菖蒲は、その辺りの記憶が曖昧だ。
それでも瞳を閉じると明臣の拡大された顔が映し出されるので、やはり接近された……のだと思う。
「奥様、お目覚めでございますか?」
就寝前の記憶を探っていると、凛の声が障子越しに聞こえた。
すかさず、菖蒲は布団の上で正座をして答える。
「は、はい、起きています。おはようございます、凛さん」
「おはようございます。ご朝食の準備ができておりますので、どうぞご用意のほどを……」
ひとまず、記憶の検証は後回しにすることに決めた。
菖蒲は洗顔や歯磨きなどをすませ、凛が用意した上質な着物を着る。
今度は明るい石竹色に蝶文様があしらわれた華やかな着物であった。
(菖蒲は知らなかったが、蝶の柄は夫婦円満を意味する)
凛に続いてリビングに行くと、すでに明臣が待っていた。
「おはよう、菖蒲。よく眠れたかい?」
「おはようございます、明臣様。おかげさまで、大変よく眠ることができました。それこそ、気絶したかのように……」
ぺこりとお辞儀をし、菖蒲も席に座る。
何の気なしに話す明臣を見て、やはり昨夜の一件は幻だったのかと思った。
二人が着席したのを見計らい、凛が朝餉を運ぶ。
蒸し鶏と生姜を卵で綴じた粥だ。
白い湯気がほかほかと立ち上り、菖蒲の食欲をそそる。
「温かいうちに食べようか」
「はい、いただきます」
明臣と菖蒲は共に食事への感謝を述べ、粥を口に運ぶ。
蒸し鶏は芯まで柔らかく、ホロホロと舌の上で崩れ、卵が優しく包み込む。
生姜のピリリとした辛みはレンゲをさらに進ませる。
粥には隅々まで食材の味が染み込んでおり、一口で一杯食したような満足感だった。
菖蒲は未だかつて、これほど美味い粥を食べたことがない。
「……ごちそうさまでした。こんなに美味しいお粥は初めて食べました」
「それは良かった。食べたい物があったら教えてくれ。何でも用意する」
「ありがとうございます」
満足気に完食した様子を見て、明臣もまた嬉しく思った。
凛が持ってきた深い緑の玉露を二人で飲む。
「さて、君に渡しておきたい物がある。……これだ」
「はい、謹んでお受け取りいたします」
食事が終わると、明臣が懐から一通の文書を取り出した。
表面には何も書いていない。
「開けてくれ」
「拝見いたします」
明臣に言われ、菖蒲は封を開ける。
中身は便箋が二枚。
一目見た瞬間、菖蒲の心臓はどきりと脈打った。
書道の大家が書いたと言われてもおかしくないほどの美しい字が、つらつらと隙間なく埋める。
いったい何が書いてあるのか……もしかしたら、自分の調理法では……。
菖蒲は明臣に対する忘れかけていた恐怖を思い出すが、読むにつれてその恐怖も徐々に弱まる。
要約すると、〔昨夜は距離感を間違え、結果、著しい接近を致してしまい申し訳なかった〕という旨が書かれていた。
「あの、明臣様。これは……」
「書いてある通りだ。昨夜は驚かせてしまい悪かった。不快な気持ちにさせてしまったな」
「い、いえっ、不快だなんてとんでもありませんっ。私の方こそ気絶して申し訳ございませんでしたっ」
明臣の謝罪と話を聞き、昨夜の一件はやはり現実だったのかと認識する。
緊張と混乱はしたものの、菖蒲は明臣の著しい接近に不思議と不快な思いは感じなかった。
菖蒲の反応を見て、明臣は心の中で安堵する。
「それならよかった。しばらく、身体的な接触はしないよう気をつけよう」
「わ、わかりました。……あの、明臣様、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん構わないよ。一つに限らず、二つでも三つでも聞きなさい」
明臣の穏やかな微笑みを見て安心するも、菖蒲は呼吸を整えた後、意を決して尋ねた。
「私はこのお屋敷で何をすれば良いのでしょうか」
昨日、明臣は護符の恩などを話してくれたが、まさかそれだけで屋敷においてくれるはずがないだろう。
きっと、大変な重労働が待っているのだ。
朝から晩まで護符を書き続けるとか、屋敷中の廊下を鏡のごとく磨き上げるとか、妖との戦闘の前線で局員たちの盾になるとか……考え出せばキリがない。
もちろん、菖蒲の覚悟は決まっている。
すでに昨晩と今朝で、豪華な食事を食べてしまった。
何を言われても受け入れる所存である。
やけに切羽詰まった表情の菖蒲に、明臣は暫しぼぅっとしていたが、やがて微笑みを浮かべて優しく答えた。
「君は何もしなくていいんだ」