「お義姉様、あなたは明臣(あきおみ)様と離婚していただくことが決まりましたわ。今すぐ準備してくださる? これから挨拶に行きますから」

 春惜しむある日の夕刻、内薗(うちぞの)菖蒲(あやめ)が和室の畳を箒で掃いていたとき、背後から不躾な声が彼女の身体を貫いた。
 その声を聞いただけで、寿命が縮むようだ。
 菖蒲は不気味に跳ねる心臓の鼓動を感じながら、ゆっくりと振り返る。
 襖の前に、目を引くほど華やかな少女が立つ。
 常に肩ほどの長さで切り揃えた黒曜石のように美しく輝く黒髪、触るのも躊躇うほどの白皙の肌、薔薇をモチーフに流行りのアール・デコ調を取り入れた煌びやかな着物と袴。
 何より、猫を思わせるほど丸く大きな黒目が、彼女の美貌を世の中に知らしめた。

 ――内薗皐月(さつき)、十四歳。

 菖蒲の二歳下の義妹だ。
 皐月が前置きもなく唐突な話を始めるのはいつものことだが、菖蒲はとても聞き返さずにはいられなかった。

「り、離婚とは……どういうこと……?」
「どういうことって、そのままの意味でしかないでしょう。お義姉様と明臣様の婚姻関係は、消滅するという意味ですわ」

 その言葉を待っていたかのように、皐月の後ろから二人の男女が現れる。
 菖蒲はさらなる嫌な予感を感じ、おずおずと挨拶をする。

「お父様、お義母様……こんにちは」
「おい、声が小さいぞ。貴重な時間を使ってお前と話してやってるんだ。もっと敬意を払わんか」
「まだこんなに埃が積もっているじゃないの。あんたは本当にどんくさいね。一からやり直しなさい」

 菖蒲の実父である安次郎(やすじろう)と、義母である伊織(いおり)
 菖蒲は(からす)のように黒い……と普段から形容される己の長い黒髪を垂らし、力なく俯く。
 心の内に土足で無遠慮に立ち入るような彼らの声音に、菖蒲は身を震わすばかりだった。
 逆らえるはずもない。
 菖蒲の日常は、もはや彼らの支配下にあった。

 元号が明治から大正に移り変わってから、およそ数年後。
 大日本帝国の帝都東京の一角、そこに内薗家はあった。
 御維新による革命の名残や、お国の進める富国強兵政策などにより、帝都東京に限らず国中に活気があふれる。
 街にはレンガ造りの家々が建造され、鮮やかな色彩模様の着物に革ブーツというハイカラな少女が闊歩した。
 しかし、いずれの活気も、菖蒲とはかけ離れた場所にある。
 菖蒲が身に纏うは、擦り切れた地味な着物と古びた袴。
 明治はおろか、江戸に取り残されたような風体だ。

 内園家は戦国の世から続く名家で、伯爵を賜った華族だった。
 安次郎は菖蒲と彼女の実母――瑞樹を嫌っていたが、菖蒲は瑞樹から愛を注がれ豊かに育つ。
 質素倹約を念頭に置いた瑞樹の金銭管理もあり、内薗家は幸せな暮らしを送っていた。

 流れが変わったのは、瑞樹の病死だ。
 後妻として分家から嫁いできた伊織と、彼女の娘である皐月は安次郎をおだて、湯水のように金を使う。
 瑞樹が菖蒲名義として残してくれた資産も根こそぎ……。
 菖蒲に抵抗する力などなく、内薗家は皐月と伊織に乗っ取られてしまった。
 そういえば、皐月の着物もまだ菖蒲が見たことのない柄だ。
 おそらく、帝都東京の百貨店で購入したのだろう。
 あの着物一枚でどれだけの金が支払われたのか、菖蒲は考えたくもなかった。

「明臣様はこの件について、どのような見解なのでしょうか……」

 菖蒲は腹の底から絞り出すようにして尋ねる。
 伊織と皐月が内薗家に来てから、余計な質問をすると叩かれた。
 だが、暴力の恐怖に耐えて尋ねざるを得ない。
 菖蒲の婚約相手は皐月たちより恐ろしいのだから。

 ――九条(くじょう)明臣(あきおみ)

 超常的な現象を引き起こす特別な力――“異能”を持ち、妖界と呼ばれる異界から訪れ人を襲う存在、“妖”。
 それを打ち祓う“祓魔局(ふつまきょく)”の局長を務める男である。
 お国は西洋列強との競争に勝利することを至上命題としているが、それ以上に国内の安定も求めている。
 大日本帝国の繁栄において重要な妖退治を一手に担うのが、明臣率いる祓魔局だった。
 局員は全て異能を持ち、今この瞬間も平穏のため妖と戦う。
 だが……明臣もまた妖である。

 ――鬼。

 妖の中でも最上位とされる高位の存在。
 彼らは妖でありながら人の世に生き、人の味方を務めた。
 明臣は鬼一族――九条家の現当主でありながら、妖を屠る。
 その功績を讃えられ、帝から公爵の位を賜った。
 実際の年齢は誰にもわからない。
 数百歳という噂もあるし、まだ数十歳という話もある。
 大群の妖を祓う所業は、それこそ地獄に巣食う恐ろしい鬼のよう……実は裏で人を喰っている……睨まれた者は地獄に落ちる……などなど、恐ろしい噂ばかりだ。
 鬼畜を体現したかのような冷徹で怖い鬼とされるが、神のように強い。
 いつしか明臣は、“鬼神様(おにがみさま)”という二つ名で呼ばれた。
 菖蒲が勇気を振り絞って放った問いに、皐月たちは心底嫌そうな顔となる。

「だから、それをこれから聞きに行くのでしょう? 挨拶の日取りしか決まっていないのですから。お義姉様、どうしてそんなこともわからないの」
「昔からお前は本当に鈍いな。もっと頭の回転を早くすることはできないのか」
「あんたは良いところが一つもないね」
「……申し訳ございません」

 菖蒲は深く頭を下げて謝罪する。
 叩かれないように。
 皐月たちの話から、自分の知らないところで手紙でも出したのだろうと菖蒲は想像する。
 東北の地域はお国の鬼門に当たるためか、妖がよく姿を現した。
 最近強大な妖が出現したらしく、ここ数年、祓魔局は総出で退治に向かっている。
 無論、明臣もそうだ。
 ほんの二週間ほど前、数年がかりの退治が終わり、明臣たちは無事に帝都東京へ帰還したと聞く。
 祓魔局の動向は、常に周知されるので菖蒲も知ることができた。
 暗く沈んだ様子の菖蒲を見て、皐月は満足そうに言う。

「それともう一つ、離婚したお義姉様の代わりにあたくしが明臣様と結婚いたします」
「えっ!? な、なぜ、皐月がっ……!?」

 思わず、菖蒲は驚愕の声を上げてしまう。
 菖蒲が六歳を迎えた頃、九条家は華族向けに嫁の募集を出した。
 鬼の事情はよくわかなかったが、跡継ぎを作るためだろう。
 もしくは、より深く人の世に溶け込むためか……。
 いずれにしても、“鬼神様”である明臣を怖がり、誰も娘を嫁がせなかった。
 そんな中、安次郎は多額の結納金目当てに、当時生きていた瑞樹の反対を押し切り菖蒲を嫁に出すことを決めたのだ。
 菖蒲の知らぬうちに九条家とも取り決めが交わされた。
 以来、菖蒲と明臣は一度も会うことなく、十年が過ぎた。

「簡単なことですわ。異能を持たない“不能”のお義姉様より、異能を持つ‟有能‟なあたくしの方が明臣様にとっても有益でしょう」
「っ……」

 皐月の菖蒲を見下した声に同調するように、安次郎たちは下卑た笑い声を上げる。
 現在の内薗家において、皐月が太陽なら菖蒲は道端に転がる石のごとく扱いだった。
 皐月が絶対的な自信を抱くのは、“異能”に恵まれたから。
 人はみな、十歳を迎えると“異能の儀”を受ける。
 その身に妖の力を宿すかどうか、神の名において判別するのだ。
 異能を授かった者は身分の差を覆すほど明るい将来が約束され、授からなかった者は今までの人生が死ぬまで続く。
 儀式の結果、皐月は“焔を操る”という強力な異能を持つことがわかった。
 しかし……と菖蒲は思う。
 なぜ、あの恐ろしいと噂される鬼神様に、皐月は嫁ぎたいのだろうと。
 自分に対する当てつけにしては、少々やり過ぎな気がした。
 そのような菖蒲の疑問に答えるように、皐月たちは話す。

「ご心配なく。あたくしが正式に内薗本家の跡取りとなりますので」
「菖蒲なんて陰気臭い女より、皐月のような華やかな美人の方が明臣様も嬉しいだろう」
「あんたの居場所はなくなっちゃうわねぇ。あら、どうしましょ」

 そういうことか……と、菖蒲は納得した。
 皐月と伊織は、名実ともに内薗本家となりたいのだ。
 そのため、鬼神様である明臣との婚姻に積極的だと判明した。
 安次郎もまた、結納金が手に入ればそれでいいのだろう。

「悔しかったらお義姉様も異能を使ってみては?」
「……できません」

 菖蒲の絞り出すような声に、皐月たちはさらに笑い声をあげる。
 菖蒲も六年前に儀式を受けたが、異能の欠片もないことがわかった。
 一方で、皐月は人の身でありながら強力な異能を操れる。
 両者との間には、超えられない壁があった。

「あたくしのために明臣様を予約してくださってありがとう、お義姉様。使用人としてなら雇ってあげてもいいですわよ?」

 皐月はそれこそ妖のようにケタケタと気味悪く笑う。
 菖蒲は他人に振り回される人生を、もはや諦めていた。
 そういうものなのだと、理解してしまっている。

「早く外に出ろ、菖蒲。辻待ち自動車を待たせてある。時間の無駄だ」
「あんたは着飾ったところで何も変わらないのだから」

 追い打ちをかけうような安次郎と伊織の声が、小刀のごとく菖蒲の胸に突き刺さる。
 髪に櫛を通す暇さえ与えられず、黒塗りの辻待ち自動車に押し込まれた。