また笑ってほしい、会話がしたい、あの泉に来てくれないだろうか。幼いころに会ったあの少年はあなたではないか、聞きたいことは山ほどあった。
文乃は家の人に内緒で家を抜け出し、あの泉に向かった。
向かう途中、回覧板の前に人だかりが見える。

「神隠し…?」

 幼い子供や女性が突然いなくなっているという事件が発生しているようだ。警察局が事件として追っているというのだ。怖いな、と思いながらも文乃は泉へと足を進めた。

(そういえば数か月前には辻斬りが出たとか…騒がしかったけれどあれも解決したのかしら)

 いつの間にか何事もなく日常が戻っている。犯人が捕まったなどの続報はないものの、警察の見回りなどは無くなっていたように思う。

…―…


 泉に到着するが文乃のほかには誰もいなかった。普段であればそれは都合のいいことであるのに、今日はあからさまに落胆していた。
あぁ、これが恋なのだと改めて思っていた。しかし自分は結婚している身だ。
 このような感情を抱くことすら責められるべきことなのだ。
だから文乃は離縁しようと思っていた。文乃から動かなくとも時期に離縁状が届くのだろうが、今日送った手紙にも正直に離縁したい理由を綴っていた。

…気になる相手がいることを、正直に綴った。

 詳細はもちろん控えたが、恋心を抱く相手がいることだけは伝えた。
あの男性を待っていたが結局現れなかった。
日が暮れる前に泉を離れる。

 来た道に沿って歩みを進めるがその足はどこか重かった。こんなにも会いたいと思える相手に出会ったことはなかったから。
帰路の途中、文乃はぼうっと歩いていたからか石ころに足をぶつけ
前のめりになって砂利道に手をついて転んでいた。

「いった…」

 顔を歪め、ジンジンと痛む膝を確認する。着物が擦れていたが大けがをしているわけではなかった。
膝を抱えるようにして立ち上がろうとすると、目の前に手が差し出されていることに気付く。
あ、と声を出して顔を上げるとそこには長髪の男性が立っていた。目元にホクロのある、どこか妖艶な雰囲気を漂わせる男性は長髪を一本に束ねていた。髪型も相俟って一瞬女性かと思ったが、長身かつ着物を着ていてもわかるほどがっちりとした体躯を見て男性だと思った。

「大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

差し出された手に自分のそれを重ね、お礼を言う。ぐっと引き寄せられ、立ち上がる。

「もうじき暗くなりますから、足元には気を付けてください」
そう言ってその男性は軽く会釈してから文乃の脇を通りすぎていく。
親切な人だな、と文乃は思った。