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 今日は珍しく夢を見た。
夢の中の文乃はあの泉で頬に傷をつけられた頃に戻っていた。
あの日、文乃は“友達”と一緒に泉で遊んでいた。その友達は人間ではなかった。耳をぴょこんと覗かせた文乃と同い年くらいのあやかしだった。
 その妖は文乃にとって大切な友人の一人だった。悪戯をする妖や、危害を加える妖もいることはわかっていたが、文乃は妖が好きだった。泣いていた文乃に声を掛けてくれたのは揃って妖だったからだ。
その妖の名前は“リク”といった。男か女かなんてわからない。人間とは違い、そのあたりは重要ではないようだった。子供だった文乃は家族の目を盗んでは泉に通っていた。
リクと遊んでいると、突然雷が鳴った。一日中晴れていて、太陽が痛いくらいに肌に刺激を与えていたというのに。

『…帰ろう、文乃』
『どうして?』
『“怖い”妖が来る』

 リクの怯えた顔が今でも脳裏に焼き付いている。文乃の手を引いて逃げようとするリクに戸惑いながらも一緒に走りだしていたのだが、それは一瞬だった。
突風が吹き、目を閉じた一瞬のうちに目の前に大きな獣のような妖が牙を剥き出して立ちはだかっていた。見た目はオオカミのようだったが、それはこの森林を一瞬で呑み込んでしまいそうなほど大きい。
目が赤く光っていた。轟轟たる叫び声をあげ、それに伴うように強い風が森林全体を揺らす。
その妖は舌なめずりをしてリクと文乃を交互に見る。

『文乃、逃げて!』
『嫌!』
『僕だけじゃないよ、人間も食べる気だ』

 この時のリクは覚悟を決めているように見えた。
子どもの文乃でもわかっていた。おそらくリクでは太刀打ちできない。リクは時間を稼ごうとしているのだとも思った。その間に文乃を逃がせるように。
 リクが突然左へ動き出した。目配せをしてから素早く文乃から遠ざかる。
でも、文乃には自分だけ逃げるという選択はなかった。がくがく震える膝を思いっきり叩いて文乃は駆けだしていた。リク、と叫びながら。

どうしよう、死ぬかもしれない。どうしよう。

 涙で視界が歪む。その獣の妖がリクに襲いかかる。文乃はやめろ、と叫び妖の前に飛び出した。
妖の大きな手が文乃を吹き飛ばしていた。数メートル先まで飛ばされ意識が薄れる。
その際に鋭い爪が文乃の顔に傷をつけた。全身を強く打ち、立ち上がるのもやっとだった。
だが、リクの元へ行かなければ、と必死に立ち上がる。
リクは地面にたたきつけられ周囲には血が飛び散っていた。

『…たすけて、お願い…誰か、』

 自分もリクも死ぬのだと思った。自分の頬から血がたらたら垂れている。
絞り出すように声を出した。
と、その時。
突然獣の妖がギャーっと聞いたことのない声を出す。
何事か、と文乃は右手の甲で涙を拭い、目を見張る。

 妖の前には文乃とそう年が変わらないほどの子供が立っていた。着物姿の少年は何故か刀を手にしていた。無表情の少年がひょいっと着物を翻して飛び上がる。既によたよたと体勢を崩している妖に向かって刀を振り落とした。どさっと大きな音を立て獣の妖が倒れ込む。
と、同時に妖がすっと消えていった。

 夢でも見ているのではと思った。自分と大して変わらない年齢の少年が何故妖を倒すことが出来たのだろうか。
まだ震える体。先ほどまで恐怖に慄いていたのだからすぐに平常心に戻れるわけもなく、その場に座り込む。だが、リクのことが心配で四つん這いになりながら進む。

 ゆっくりと文乃に近づいてきたのは少年だった。その少年は『見えるの?妖が』と聞く。
眉一つ動かさないその少年に恐怖心すら抱きながら、小刻みに頷いた。
何故妖を討伐できたのか、一体君は何者なのか、聞きたいことは山ほどあった。だが、文乃の頭の中にはリクが生きているのかどうかだけだ。
泣きじゃくりながらリクへ目を向けると、察したのか少年はリクを一瞥していった。

『心配いらない。あの妖は手当しておく』
『本当?』
『本当。でも、ここへはあまり来ない方がいい。君は“見える”のなら危ないから』
『でも…っ、』
『大丈夫、大丈夫だよ。助けるよ』

そう言った少年は文乃の頬に手をやり少し悲しそうに眉尻を下げる。
少年の手には文乃の血が移っていた。

『リクは大切な友だちなの!お願い、治してくれる?』
『うん、約束する』

文乃は泣きながら笑った。安堵の笑みだった。少年が嘘を言っているように思えなかったのと、彼の大丈夫だという声が頼もしかったから。
少年はリクを抱えてその場を去った。それからリクがあの泉に戻ってくることはなかったし、あの少年に会うこともなかった。


「…リク、」

 久しぶりに見た夢があの時の夢だなんて。少し汗ばんだ自分の頬に手をやる。
この傷は妖から妖を守った時についた傷だ。嘘は言いたくなかったから、無言を貫いた。
自分で傷つけたと噂されても言い返すことはなかった。

「そういえば…―あの男性は、」

 文乃ははっとした。あの男性はあの時の少年ではないだろうか。
似ているように思った。あの凛とした冷たいように見える目も、でも、心配そうに眉尻が下がったあの年相応の表情も…あれは先日会った男性ではないか、と。
 何故か子供のころに出会ったあの少年と先日出会った名も知らぬ男が重なった。
幾ら考えても答えは出るわけがないのだが、確かなことは…文乃はまた会いたくなっていた。あの男性に…―。

「久我様はまだ準備が整わないのかしら。文乃、何か聞いていない?」

 夕食後、母親に呼び出され母屋の二階にある一室で正面に座る少しやつれた様子の母親が問う。
もちろん文も届いていない。力なく首を横に振る。

「はぁ、そう。傷があることを知って嫌になったのかもしれないわ」
「私もそうだと思います」
「全く…。夏菜じゃなくてなんで文乃なのかしら。まぁ久我家は良くない噂もあるくらいだからあなたくらいがちょうどいいのかもしれないけれど」

嫌味を言われても澄ました顔で聞き流す。
ごほん、と咳ばらいをして居住まいを正すと母親は言った。

「離縁状が届くかもしれないわね」
「はい、そうだと思っています。その前に手紙を書いてみます」
「手紙?」
「本当は久我家に直接行って本人の口から聞きだしたいのですが…さすがにそれは失礼かと思いますのでまずは手紙を」

 そう、と素っ気なく言うともう下がっていいという目を向ける。
文乃は軽く頭を下げてから退室した。
翌日には文乃は手紙を出していた。内容は“離縁”したいという旨を単刀直入に述べたものだった。
 こんなことが親に知られたら憤慨されるかもしれないが、離縁状は夫側からしか出すことが出来ない。
それを催促する内容だった。両親も離縁状を突きつけられることは予想していることだろう。
文乃は結婚に夢を見てなどいなかった。結婚をしたのも家の為だ。しかし、それは今まで好きになった相手がいなかったからだ。自分は恋などすることはないと思っていた。思っていたのに…―。
 あの日から文乃は何度もあの男性を思い出していた。