三十分以上歩き、道が険しくなる。しかし、文乃は動じない。何故なら歩きなれた道だからだ。
スタスタと細い足で上っていくと、一本道が一気に開けた。森林の中に青い泉がある。
しんと静かな辺りには虫の声と鳥の声だけがして、思わず目を閉じて深呼吸をしていた。
ゆっくりと瞼を上げてキラキラと光る水面を見て思わずつぶやく。
「綺麗…」
ここは昔からの“秘密基地”だ。“人”が来ることはほぼないだろう。
…いや、一度だけ…人に会ったことがある。幼いころの記憶が微かに蘇る。
文乃に差しだすその手を握り返した、あの手の感覚を今でも覚えている。
ここには人は来ないのだが、妖はよくあらわれる。
幼少期から家は落ち着く場所ではなかった。だからここを見つけたときは嬉しかった。
文乃は今すぐ着物を脱ぎ捨て泉に飛び込みたくなったが、ぐっと抑えた。
流石にここで全裸になるわけにはいかないからだ。
それに今日は夕方から予定がある。早めに帰らなくてはいけない。
泉の近くまで来るとその場に座り込む。
自然の音を聞きながら目を閉じてバタンとその場に背を預ける。
今日は誰もいないようだ。
暫く目を閉じていると、がさっと誰かの足音が聞こえた。
はっとしてすぐに上半身を起こして身を構える。妖かもしれない、と思った。
ほとんど妖は危害を加えることはない。というよりも、人に影響を与えるほどのあやかしはそういない。
しかし稀に妖力の強い妖がいる。それらが人間に敵意を持っていると、人間に危害を加えることは珍しくない。
―この傷も、そうだ。
心拍数が一気に上昇して、警戒するように辺りを見渡す。すると、奥の茂みから人か妖怪が出てきた。
「わあ!!!」
長身の黒髪の男が何故かこちらに顔を向けながら立っていた。
人間か、と思ったがそれにしては恰好が特徴的だった。軍服のような黒い服装のそれは帝国陸軍のものではないし、警察のものでもないように思う。かといって制服とも違う。
腰に刀をさしている。
じっとこちらを見つめる目は漆黒で、前髪から覗くその目は文乃をしっかりと捉えている。
驚く様子もなく、冷静な瞳を向けるが背筋が凍るほど冷たい目で、それなのにその目があまりにも美しく引き込まれそうになる。加えて、眉目秀麗な顔立ちはまるでこの世に存在しないそれこそ妖か何かなのではないかと思った。ごくり、唾を飲んでいた。
逃げた方がいいのか、しかし相手は腰に刀をさしている。下手に動かない方がいい。
「君は、」
そう言いかけてその男は口を噤んだ。
「……あ、の、…」
何を話せばいいのか、どう行動すればいいのか、全くわからず正解を頭の中で探すが最適解を見つけ出すので精一杯だ。そして文乃はゆっくりと立ち上がる。
「たまにここで休んでいます。…ここが、好きなので。あなたは?」
男は文乃に一歩、更に一歩と近づく。目の前まで来ると文乃は全身に力が入る。緊張感が相手に伝わってしまうのは良くないとは思うが、それでも呼吸すら忘れてしまうほどに全身の筋肉が緊張している。
―美しい
その言葉はこの人のために存在するのでは、と思うほど美青年だった。近くで見ると更にそう思った。
年齢は文乃と変わらないくらいか、少しばかり上だろうか。
見上げるほどの背丈の彼は、逆に文乃を見下ろしている。
よく見ると彼の来ている衣服が所々刃物で切られたように割れている。
益々彼には関わらない方がいいと脳内で警報が鳴る。
「俺もここは思い出の場所だからたまに来る」
「…そうですか」
思い出の場所、という言い方に引っかかる。頭の中でそのワードを諳んじる。
「それでは、失礼します」
スタスタと細い足で上っていくと、一本道が一気に開けた。森林の中に青い泉がある。
しんと静かな辺りには虫の声と鳥の声だけがして、思わず目を閉じて深呼吸をしていた。
ゆっくりと瞼を上げてキラキラと光る水面を見て思わずつぶやく。
「綺麗…」
ここは昔からの“秘密基地”だ。“人”が来ることはほぼないだろう。
…いや、一度だけ…人に会ったことがある。幼いころの記憶が微かに蘇る。
文乃に差しだすその手を握り返した、あの手の感覚を今でも覚えている。
ここには人は来ないのだが、妖はよくあらわれる。
幼少期から家は落ち着く場所ではなかった。だからここを見つけたときは嬉しかった。
文乃は今すぐ着物を脱ぎ捨て泉に飛び込みたくなったが、ぐっと抑えた。
流石にここで全裸になるわけにはいかないからだ。
それに今日は夕方から予定がある。早めに帰らなくてはいけない。
泉の近くまで来るとその場に座り込む。
自然の音を聞きながら目を閉じてバタンとその場に背を預ける。
今日は誰もいないようだ。
暫く目を閉じていると、がさっと誰かの足音が聞こえた。
はっとしてすぐに上半身を起こして身を構える。妖かもしれない、と思った。
ほとんど妖は危害を加えることはない。というよりも、人に影響を与えるほどのあやかしはそういない。
しかし稀に妖力の強い妖がいる。それらが人間に敵意を持っていると、人間に危害を加えることは珍しくない。
―この傷も、そうだ。
心拍数が一気に上昇して、警戒するように辺りを見渡す。すると、奥の茂みから人か妖怪が出てきた。
「わあ!!!」
長身の黒髪の男が何故かこちらに顔を向けながら立っていた。
人間か、と思ったがそれにしては恰好が特徴的だった。軍服のような黒い服装のそれは帝国陸軍のものではないし、警察のものでもないように思う。かといって制服とも違う。
腰に刀をさしている。
じっとこちらを見つめる目は漆黒で、前髪から覗くその目は文乃をしっかりと捉えている。
驚く様子もなく、冷静な瞳を向けるが背筋が凍るほど冷たい目で、それなのにその目があまりにも美しく引き込まれそうになる。加えて、眉目秀麗な顔立ちはまるでこの世に存在しないそれこそ妖か何かなのではないかと思った。ごくり、唾を飲んでいた。
逃げた方がいいのか、しかし相手は腰に刀をさしている。下手に動かない方がいい。
「君は、」
そう言いかけてその男は口を噤んだ。
「……あ、の、…」
何を話せばいいのか、どう行動すればいいのか、全くわからず正解を頭の中で探すが最適解を見つけ出すので精一杯だ。そして文乃はゆっくりと立ち上がる。
「たまにここで休んでいます。…ここが、好きなので。あなたは?」
男は文乃に一歩、更に一歩と近づく。目の前まで来ると文乃は全身に力が入る。緊張感が相手に伝わってしまうのは良くないとは思うが、それでも呼吸すら忘れてしまうほどに全身の筋肉が緊張している。
―美しい
その言葉はこの人のために存在するのでは、と思うほど美青年だった。近くで見ると更にそう思った。
年齢は文乃と変わらないくらいか、少しばかり上だろうか。
見上げるほどの背丈の彼は、逆に文乃を見下ろしている。
よく見ると彼の来ている衣服が所々刃物で切られたように割れている。
益々彼には関わらない方がいいと脳内で警報が鳴る。
「俺もここは思い出の場所だからたまに来る」
「…そうですか」
思い出の場所、という言い方に引っかかる。頭の中でそのワードを諳んじる。
「それでは、失礼します」