その日の夜、羽月はこの屋敷の奥にある一番大きい部屋で龍神の登場を待っていた。あやかしたちが用意してくれた美しい着物は羽月の銀色になった髪にとても似合っていたが、羽月の表情は暗かった。

 義妹の陽菜は「龍神は猿や野犬のように野蛮」と言っていた。あやかしたちの話を聞いてみると、少なくとも野蛮ではなさそうだ。しかし、相手は神様。自分を偽の花嫁だと見破ることは簡単だろう。
 さっき死ぬ覚悟を決めたというのに、その時が来るといろいろと今までを考えて泣きそうになってしまう。羽月は何とか涙を流さないように奥歯をきつく噛んだ。

 その時、部屋のふすまが開く音がした。とうとう龍神が来たのだ。羽月は慌てて頭を下げて龍神を出迎えた。自分の心臓の音がうるさいくらい耳に響いてくる。龍神と思われる足音は段々と近づいてきて、羽月の目の前で止まった。

「龍神様、お初にお目にかかります」
 羽月が震える声で名乗る。羽月が頭を下げ続けていると、頭の上から声が聞こえてきた。
「いつまで頭を下げているのだ? 顔を上げてみろ」
 聞こえてきた声は余りにも美しく凛とした声だった。男性の声なのに、まるで鈴を振ったかのように耳に心地よく響き、身体の中にすっと溶け込んでくるようだ。羽月は声に誘われるかのように顔を上げた。

 声も美しかったが、自分の目の前に立っている人物はもっと美しかった。髪は今の羽月と同じ銀色をしている。目の色は黒っぽいがどことなく青みを帯びているようにも見えた。肌は白く、男性にしては繊細な顔立ちをしているが、男性らしい力強さも感じる。

 羽月は昔、生まれ育った村の神社で見た掛け軸の絵を思い出した。掛け軸に描かれている神様はとても美しかったが、目の前にいる龍神はその神に似ていて、それよりも遥かに美しかった。

「失礼いたしました」
「いや、いい。一年も待たせて申し訳なかった。――その銀の髪、とても似合っているぞ」
「――」
 羽月は思わず顔を赤くしてしまった。龍神は少し顔をほころばせた。その表情は少し子供っぽくなり、可愛らしささえ感じさせる。

 龍神は羽月の前に座ると、羽月をまじまじと見始めた。そして、小さく「あっ」と声を上げた。羽月の胸がまるで何かに掴まれたかのように痛みを感じる。この龍神の表情、もしかすると偽の花嫁だと気づいてしまったのだろうか。
「お前は、誰だ?」

「申し訳ございません……!」
 羽月は再び頭を深々と下げた。「本当に申し訳ございません。私は偽の花嫁です。本当の花嫁はまだあの村にいます」
「どういうことだ?」
「申し訳ございません、龍神様、私は確かに偽の花嫁です。――どうぞ私と離婚してください。そして、私を殺してください」

 羽月は畳に額を押し付けて、初めて会った結婚相手に頭を下げた。身体が震えているのは寒いからではない、これからの自分の行く末を恐れてのことだ。嫁いだ一年前からこうなることはわかっていたのに、殺される覚悟はしていたのに、実際に殺されそうな状況になると、恐怖で身体が震えるのが自分でも滑稽だった。

「とにかく顔を上げろ」
「はっ、はい!」
 羽月は恐る恐る顔を上げる。目の前には何とも美しい男性――龍神が座っている。いつ殺されるかわからない状況だと言うのに、羽月は龍神の美しさにはっとさせられてしまう。

 龍神は醜い姿をしていると聞いていたが、噂とは違う。しかし、龍神が美しいか醜いかは関係ない。どちらにしても、自分はこれから殺されるのだ。龍神が羽月に近づいてくる。羽月は覚悟を決めて固く目を閉じた。

「安心しろ、殺しはしない」
「えっ?」
 羽月は思わず瞼を開けた。あの美しい龍神の顔が近くにある。
「怖がるな。何もしないから安心しろ。選ばれた花嫁でなく別の娘を寄こすなんて、村人たちに何か事情があったのではないか? お前、どうして偽の花嫁としてここに来ることになったのか話してくれないか? 正直に話したからと言って、私は何もしないから安心しろ」

「本当ですか?」
「ああ、信じていい。あやかしたちはみんなお前のことを『優しく気立ての良い娘』と言っていた。そんな娘が嘘を言うなんて、よっぽどの理由があるのだろう。とりあえず、全てを話してみろ」
 龍神は目を細めた。その眼差しは今まで接してきたあやかしたちと同じように優しそうだった。
「――はい」

 羽月は龍神にぽつりぽつりと今までのことを語った。自分は村の華族の家の出身であること、生まれてすぐに母親を亡くし、占い師に「二十歳までに死ぬ薄命の運命」と言われてしまったこと。父親と再婚した義母とその娘の陽菜に散々虐げられてきたこと。陽菜が龍神の花嫁に選ばれたがいやがり、自分が代わりに花嫁として輿入れしたこと。

 龍神は優しい眼差しでずっと話を聞いてくれた。羽月は話しながら何度も目頭を押さえた。
「そうか、辛かったな」
 羽月がすべてを話し終えると、龍神はあの鈴のような声を絞り出すように言った。羽月はその言葉を聞いた途端、涙が再びあふれ出るのを感じた。

(――龍神様が私に同情してくれている)
 ここにいる人たちは何て優しいのだろう、と羽月は思った。あやかしは良くしてくれ、龍神は自分の話を聞いてくれた。あやかしも龍神も人でないものだと言うのに、なぜこんなに人間の自分に良くしてくれるのだろうか。

「私のようなものの話を聞いて下さり、ありがとうございます。無理やりとはいえ、私は龍神様やあやかしのみなさまを騙してしまいました。本当に申し訳なく思います。私は偽の花嫁です、どうぞ、私と離婚してください」
「お前がそんなに言うなら、離婚はしてもいい。ただ、お前、ここを出て行ってどうするのだ?」
「はい?」
「生まれ育った村にはもう帰れないだろう。それにその髪……」
「あっ……」
 羽月は思わず自分のすっかり銀色になった髪に触れた。この色の髪ではどこへ行っても好奇の目で見られてしまうだろう。

「お前、とりあえず、しばらくここで住んでみないか?」
「えっ? こちらにいてもよろしいのでしょうか?」
「ああ、ここのものはお前をとても好いている。それにあやかしたちにとってお前は私の花嫁に違いない。私と離婚すれば、また一年かけて髪も元の色に戻る。そうしたら、お前を人間の正解に戻して、その時は好きなところへいけばいい。それまでは私の身の回りの世話をしてもらえるとありがたい」
「あっ、ありがとうございます! 私、心を込めて龍神様のお世話をいたします」
「ああ、頼むぞ」
 羽月はまた龍神に向かって頭を下げた。一年かければ髪の色は元に戻るし、人間の世界にまで送ってもらえる。それまでは心を込めて龍神の世話をしよう、羽月はそう心に誓った。