羽月は中年の女性と一緒に翼の生えた馬に乗った。馬はふわりと宙に浮くと、二人を乗せたまま空を飛び始めた。
「わあ……」
思わず羽月の口から声が出る。自分や村人があんなに難儀して昇ったり下ったりしていた山が遥か下に見える。空から見下ろす村の風景は素晴らしかった。あんなに嫌な思い出ばかりの村なのに、その風景には感嘆の声が上がる。そして、馬の乗り心地が素晴らしい。空を飛んでいるというのに体制を崩すこともなく、まるで高級な柔らかい椅子に座っているようだった。
空を飛んでいる間に、さっきの中年女性はこれからのことを簡単に話してくれた。
「花嫁様、先ほども言った通り龍神様が花嫁様をお迎えにいらっしゃるのは一年後です。花嫁様は人間の世界でずっと暮らしていたので、龍神様の花嫁になるために花嫁修業をしなくてはならないのです」
「花嫁修業……?」
羽月は思わず身構えた。修業とはどんな辛いことをしなくてはならないのだろうか。今までいた屋敷の使用人が嫁姑問題について話しているのを何度も聞いたことがあるが、花嫁修業はとても辛く大変らしい。
姑にいびられ、家事の全てをこなさなくてはならず、それは妊娠や出産しても変わらないと。やはり龍神の花嫁になるのは一筋縄にはいかないのだ。
顔色を変えた羽月を見て、女性はにこりと微笑んだ。
「まあ、花嫁様、そんな表情をなさらないでください。花嫁修業とは言っても、花嫁様があやかしの生活に慣れるために準備みたいなものです。花嫁様は何も心配なさらないでください。花嫁様は龍神様の身の回りのお世話をするのがお仕事。身の回りのことがご自身でできるようになる、それが花嫁修業になります。ただ花嫁様のお世話は私たちあやかしもいたしますので。――さあ、着きましたよ」
翼の生えた馬が動きを止め、そのままふわりと木々の間を降りていく。まったく衝撃がないまま地面に馬が着地すると、目の前に立派なお屋敷が見えた。
(――まあ、何て大きなお屋敷なの?)
山の中にこんな屋敷があったなんて、と羽月は驚いた。今まで住んでいた天本家の屋敷もかなり大きく立派だったが、目の前にある屋敷は天本家のものとは比べられないほど素晴らしかった。まるで天下人が住むような豪邸だ。
「ここが今日から花嫁様がお住まいになる屋敷です。さあ、お入りください」
「あっ、はい!」
羽月は先に馬から降りていた女性の手を取った。気づくと屋敷まで続く道には両側に人がずらりと一列に並び、みな頭を下げている。
「龍神様の花嫁様、ようこそいらっしゃいました!」
「まあ、何て美しい花嫁様かしら!」
ここにいるのは普通の人間に見えるが、すべてあやかしなのだろう。みな花嫁として来た自分を歓迎しているようだ。羽月は戸惑いつつも、歓迎の声に思わず口元に笑みを浮かべた。
「まあ、花嫁様。初めて笑われましたね。やはり素敵な笑顔ですわ」
女性が言う。今まで自分の笑顔を見てこんなに嬉しそうに接してくれる人はいなかった。いや、羽月は物心ついた頃から「笑う」ということを忘れていたようだった。
(――もしかして、ここはいいところなのだろうか?)
羽月は人々の歓迎の声の中を歩きながら、また笑みを浮かべた。
それから羽月はその立派な屋敷で過ごした。あやかしはみな、羽月を歓迎してくれたが「もしかすると、この歓迎は最初だけでは?」と身構えていた。しかし、いつまで経ってもあやかしたちは羽月に優しく丁寧に接してくれる。羽月は段々この屋敷とここに住んでいるあやかしたちのことが大好きになってきた。
羽月は前の屋敷にいた時のように身の回りのことは自分でした。それだけでなく、食事の支度や屋敷の掃除などもやろうとした。あやかしたちは「まあ! 花嫁様はとても器用でいらっしゃるのですね」と感心してくれるのだった。
「花嫁様は今までの花嫁様よりも気立てが良くて、本当にお優しいのですね」
主に羽月の身の回りの世話をしてくれるあの中年の女性のあやかしが本当に感心したような表情で言う。
「今までの花嫁より、ですか?」
そう言えば、龍神には花嫁を50年ごとに差し出すことになっている。自分の前にも花嫁がいたはずだ。
「ええ、今までの花嫁様もお美しかったですが、今の花嫁様のように率先して働こうなんて方はいらっしゃらなかったです。私たちはとても嬉しいですが、花嫁様はそこまでなさらなくても大丈夫ですよ。龍神様とご自身の身の回りのことをするだけで結構ですから」
あやかしがいう「花嫁修業」とは、この屋敷で過ごしながら龍神と自分の身の回りのことができるようになることと、あやかしの霊気に慣れることなのだそうだ。人間の世界にいた人間がすぐに龍神の元へ行くと、あやかしの霊気に充てられてしまうらしい。だから一年の修業が必要なのだそうだ。
羽月はあやかしたちの言う通り、自分の身の回りのことはして、あとはあやかしたちに任せて、余った時間は庭を散歩したり本を読んだりしてすごした。羽月は今までの家事で荒れ放題だった手がきれいになり、顔のつやも良くなった。毎朝身支度で顔を見るたびに、まるで別人のように幸せそうな表情をした自分が写るようになった。
「本当にありがとうございます。よくしていただいて。私、ここへ来ることができて本当に幸せです」
ある日、羽月はあやかしに頭を下げた。下げた途端にほろほろと涙がこぼれてきた。あやかしは「まあまあ!」と慌てて羽月の手を取った。
「私たちは50年に一度、龍神様の花嫁様が来るのをとても待ち望んでいるんです。私たちが花嫁様に尽くすのは当たり前のことですよ。そして、末永く龍神様とお幸せになられてくださいね」
「はい……」
羽月は頷いたが、心の中は複雑だった。自分は陽菜の身代わりで来た偽りの花嫁なのだ。そのことが知られたら、このあやかしたちや龍神はどう思うのだろうか。しかも自分は二十歳に亡くなってしまう薄命の娘。例えこのまま偽物だと知られなくても、自分が二十歳になって亡くなってしまえば、その後の龍神の身の回りの世話をするものがいなくなってしまう。
(――偽物だと知られた時はどうすればいいんだろう)
その時は素直に謝ろう。そして龍神に離婚を申し入れて、罰として自分を殺してくれ、と懇願しよう。その時まではこのあやかしたちの世話になろう。束の間の幸せをかみしめよう、羽月はそう心に思った。
「わあ……」
思わず羽月の口から声が出る。自分や村人があんなに難儀して昇ったり下ったりしていた山が遥か下に見える。空から見下ろす村の風景は素晴らしかった。あんなに嫌な思い出ばかりの村なのに、その風景には感嘆の声が上がる。そして、馬の乗り心地が素晴らしい。空を飛んでいるというのに体制を崩すこともなく、まるで高級な柔らかい椅子に座っているようだった。
空を飛んでいる間に、さっきの中年女性はこれからのことを簡単に話してくれた。
「花嫁様、先ほども言った通り龍神様が花嫁様をお迎えにいらっしゃるのは一年後です。花嫁様は人間の世界でずっと暮らしていたので、龍神様の花嫁になるために花嫁修業をしなくてはならないのです」
「花嫁修業……?」
羽月は思わず身構えた。修業とはどんな辛いことをしなくてはならないのだろうか。今までいた屋敷の使用人が嫁姑問題について話しているのを何度も聞いたことがあるが、花嫁修業はとても辛く大変らしい。
姑にいびられ、家事の全てをこなさなくてはならず、それは妊娠や出産しても変わらないと。やはり龍神の花嫁になるのは一筋縄にはいかないのだ。
顔色を変えた羽月を見て、女性はにこりと微笑んだ。
「まあ、花嫁様、そんな表情をなさらないでください。花嫁修業とは言っても、花嫁様があやかしの生活に慣れるために準備みたいなものです。花嫁様は何も心配なさらないでください。花嫁様は龍神様の身の回りのお世話をするのがお仕事。身の回りのことがご自身でできるようになる、それが花嫁修業になります。ただ花嫁様のお世話は私たちあやかしもいたしますので。――さあ、着きましたよ」
翼の生えた馬が動きを止め、そのままふわりと木々の間を降りていく。まったく衝撃がないまま地面に馬が着地すると、目の前に立派なお屋敷が見えた。
(――まあ、何て大きなお屋敷なの?)
山の中にこんな屋敷があったなんて、と羽月は驚いた。今まで住んでいた天本家の屋敷もかなり大きく立派だったが、目の前にある屋敷は天本家のものとは比べられないほど素晴らしかった。まるで天下人が住むような豪邸だ。
「ここが今日から花嫁様がお住まいになる屋敷です。さあ、お入りください」
「あっ、はい!」
羽月は先に馬から降りていた女性の手を取った。気づくと屋敷まで続く道には両側に人がずらりと一列に並び、みな頭を下げている。
「龍神様の花嫁様、ようこそいらっしゃいました!」
「まあ、何て美しい花嫁様かしら!」
ここにいるのは普通の人間に見えるが、すべてあやかしなのだろう。みな花嫁として来た自分を歓迎しているようだ。羽月は戸惑いつつも、歓迎の声に思わず口元に笑みを浮かべた。
「まあ、花嫁様。初めて笑われましたね。やはり素敵な笑顔ですわ」
女性が言う。今まで自分の笑顔を見てこんなに嬉しそうに接してくれる人はいなかった。いや、羽月は物心ついた頃から「笑う」ということを忘れていたようだった。
(――もしかして、ここはいいところなのだろうか?)
羽月は人々の歓迎の声の中を歩きながら、また笑みを浮かべた。
それから羽月はその立派な屋敷で過ごした。あやかしはみな、羽月を歓迎してくれたが「もしかすると、この歓迎は最初だけでは?」と身構えていた。しかし、いつまで経ってもあやかしたちは羽月に優しく丁寧に接してくれる。羽月は段々この屋敷とここに住んでいるあやかしたちのことが大好きになってきた。
羽月は前の屋敷にいた時のように身の回りのことは自分でした。それだけでなく、食事の支度や屋敷の掃除などもやろうとした。あやかしたちは「まあ! 花嫁様はとても器用でいらっしゃるのですね」と感心してくれるのだった。
「花嫁様は今までの花嫁様よりも気立てが良くて、本当にお優しいのですね」
主に羽月の身の回りの世話をしてくれるあの中年の女性のあやかしが本当に感心したような表情で言う。
「今までの花嫁より、ですか?」
そう言えば、龍神には花嫁を50年ごとに差し出すことになっている。自分の前にも花嫁がいたはずだ。
「ええ、今までの花嫁様もお美しかったですが、今の花嫁様のように率先して働こうなんて方はいらっしゃらなかったです。私たちはとても嬉しいですが、花嫁様はそこまでなさらなくても大丈夫ですよ。龍神様とご自身の身の回りのことをするだけで結構ですから」
あやかしがいう「花嫁修業」とは、この屋敷で過ごしながら龍神と自分の身の回りのことができるようになることと、あやかしの霊気に慣れることなのだそうだ。人間の世界にいた人間がすぐに龍神の元へ行くと、あやかしの霊気に充てられてしまうらしい。だから一年の修業が必要なのだそうだ。
羽月はあやかしたちの言う通り、自分の身の回りのことはして、あとはあやかしたちに任せて、余った時間は庭を散歩したり本を読んだりしてすごした。羽月は今までの家事で荒れ放題だった手がきれいになり、顔のつやも良くなった。毎朝身支度で顔を見るたびに、まるで別人のように幸せそうな表情をした自分が写るようになった。
「本当にありがとうございます。よくしていただいて。私、ここへ来ることができて本当に幸せです」
ある日、羽月はあやかしに頭を下げた。下げた途端にほろほろと涙がこぼれてきた。あやかしは「まあまあ!」と慌てて羽月の手を取った。
「私たちは50年に一度、龍神様の花嫁様が来るのをとても待ち望んでいるんです。私たちが花嫁様に尽くすのは当たり前のことですよ。そして、末永く龍神様とお幸せになられてくださいね」
「はい……」
羽月は頷いたが、心の中は複雑だった。自分は陽菜の身代わりで来た偽りの花嫁なのだ。そのことが知られたら、このあやかしたちや龍神はどう思うのだろうか。しかも自分は二十歳に亡くなってしまう薄命の娘。例えこのまま偽物だと知られなくても、自分が二十歳になって亡くなってしまえば、その後の龍神の身の回りの世話をするものがいなくなってしまう。
(――偽物だと知られた時はどうすればいいんだろう)
その時は素直に謝ろう。そして龍神に離婚を申し入れて、罰として自分を殺してくれ、と懇願しよう。その時まではこのあやかしたちの世話になろう。束の間の幸せをかみしめよう、羽月はそう心に思った。