それから数日後。

 羽月は白い婚礼用の打掛を着て、自室に座っていた。華やかな衣装を着ているというのに、羽月の表情は暗い。
 陽菜が龍神の花嫁に選ばれたその日、陽菜と義母はかたくなに「龍神の花嫁なんていやだ」と言い続けた。そして勝手に羽月を龍神の花嫁として差し出すことを決めたのだった。

「でも、お前たち、龍神に知られたらどうするんだ? 花嫁が違うと言われたら……」
「いやだわ、お父様、龍神は昔から猿や野犬のように卑しいと言われているではないですか。猿や野犬に初めて会った人の区別なんてわかるわけありませんわ」
 陽菜が言うと、義母は大きく頷いた。
「そうよ、あなた。相手は龍神とは言え、どうせ相手が男か女かぐらいの違いしかわからないでしょうよ。大体、陽菜はどうして龍神に花嫁に選ばれたのですか? どうせ、陽菜が美しいからだとは思いますが」
 確かに陽菜は華やかな雰囲気の美人だった。この村で一番美人と言っても言い過ぎではない。
「それは私にもわからない。神社の長から『陽菜が龍神の花嫁に選ばれた』と言われただけだ」
「まあ、では龍神が選んだのではなくて、あの神社の長が陽菜を選んだというの?」
「いや、長は龍神のお告げだと言っていた」
「どちらにしても、誰も龍神が陽菜を選んだという確かな証拠はないということですわよね? あら、ではちょうどよいではありませんか。やはり陽菜ではなく、あの薄命の娘を龍神に嫁がせるべきよ。まあ陽菜に比べればかなり見劣りしますけど、綿帽子を被せれば猿か犬かわからないような龍神に知られることはないでしょう」

 そう言いながら、義母と陽菜は大きく笑った。父親は妻と陽菜に何も言わなくなった。そして羽月も抵抗を止めた。

 羽月は龍神への婚礼の準備をしながら、今までの人生を振り返った。そしてこれからの人生を考えた。今までの人生は最悪だった。誰もが羨むような華族の家柄に生まれたというのに、生まれた直後に母親を亡くし、占い師には「この娘は呪われていて二十歳まで生きられない」と予言される。血の繋がった父親には愛された記憶がない。父親と再婚した義母と義妹は自分を愛するどころか憎く思っていやがらせをしてくる。そして義妹の代わりに得体の知れぬ龍神の花嫁にされようとしているのだ。

(――これからの人生だって、良いことは何も起こらない)
 羽月は義母と陽菜のいやがらせのせいでとっくに枯れたと思っていた涙を流しながら思った。

 もしかするとこれからの人生、良くなることはおろかもっと嫌なことが起こるかもしれない。第一、龍神が自分を偽の花嫁だと知ったらどうなるのだろうか。陽菜の言う通り龍神が猿や野犬のように野蛮なものだったら、激高してその場で殺されてしまうかもしれない。

 しかし、羽月はむしろその場で殺された方が良いのかもしれないと思った。どうせ二十歳で亡くなってしまう薄命の定めだ。もし龍神が自分を偽の花嫁だと気づいたら、その場で「どうぞ離婚してください、そして殺してください」と申し出よう。

 死ぬのが少し早くなるだけだ。もしかすると、来世ではもっと幸せに満ちた人生が待っているかもしれない。

 婚礼用の打掛を着た羽月は今まで見たこともないような豪華な駕籠(かご)に乗せられて家を出た。
 家を出る前に義母と陽菜には言われた。
「お姉様、偽の花嫁だと知られても、ここには戻ってこないで頂戴ね」
「そうですよ、例え龍神に離婚されて追い出されても、ここには居場所がありませんからね」
「お姉様がここに戻ってきたら、私が本当の花嫁だとわかってしまうじゃない。絶対に戻ってこないで頂戴ね」

 羽月は暗い表情をしながら思わず父を見た。父は羽月が視線を向けた途端目を反らす。羽月はため息をつくと「わかりました」と返事をした。


 羽月が屋敷を出る時、誰も羽月がいなくなるのを惜しまなかった。むしろ義母と陽菜は「清々した!」という表情で笑っている。

 ただ玄関先でふわふわとした毛並みの白猫だけがずっと鳴いていた。

 あの猫はこの屋敷にいつの間にか住み着いた野良猫だ。羽月の唯一の味方だった。羽月は自分のわずかな食事を猫に与え、可愛がっていた。義母や陽菜にひどいことをされた時はよく猫を抱きしめて泣いた。猫はただ黙って羽月に抱きしめられたまま喉を鳴らしていた。

 羽月はせめて最後に猫にお別れを言いたいと思ったが、すでに駕籠は出発してしまった。やがて猫の泣き声が聞こえなくなると、羽月はあきらめて涙を流した。