その日の夜、どこかへ出かけて帰ってきた父親の表情は暗かった。愛情などほぼかけられたことがなかった羽月だが、それでもあまりにも父親の表情が暗かったため心配になった。

 迷惑かもしれないけど声をかけようか。そう迷った羽月よりも先に陽菜がわざとらしく眉を(ひそ)めながら父親に話しかけた。

「まあ、お父様、どうなさったの? 顔色がとても悪いわ。具合でも良くなくて?」
 最愛の娘に声を掛けられた父親だが、その表情はなぜかもっと暗くなった。羽月には今にでも泣き出しそうな顔にも見えた。
「ああ、陽菜。それが……。お前にとても大切な話があるんだ。お母さんと一緒にすぐに客間に来なさい」
「まあ、何があったの? ――お姉様、客間にお茶を持ってきて」
「はい、承知しました」
 父親は羽月にとっても一応は父親だ。父親の表情の暗さは気になる。お茶を持っていけば父親の顔色の理由が聞けるかもしれない。
 羽月は台所でお茶の用意をすると、すぐに客間へ行った。

 客間の前で「失礼いたします」と言ってから羽月がふすまを開けると、陽菜の「いやあ!」という悲鳴にも似た声が聞こえてきた。顔を上げると父親だけでなく陽菜や陽菜の母親である義母まで顔色を悪くしている。まるで死神でも迎えに来たかのような表情だ。
「どうしてなのです? どうして陽菜が龍神の花嫁に選ばれたのですか?」
 陽菜の母親が悲鳴に似た声を上げる。「龍神の花嫁」と聞いて、羽月は思わず声を上げそうになった。

 天本家の住んでいる村の山の上には昔から龍神が住んでいる。龍神は遥か昔から山とこの村の守り神と言われており恐れられている存在だ。龍神は50年に一度代替わりをし、その時に村の若い娘を花嫁として龍神に差し出すのが決まりだった。
 その花嫁を与えることによって、龍神は村を守り、村に悪さをしないという約束になっているらしい。そして今年はその50年に一度。どうやら龍神の花嫁に陽菜が選ばれたようだった。

「いやです! 私は龍神の花嫁なんかになりたくありません!」
「陽菜、龍神の花嫁になるのは名誉なことなのだよ。だから……」
「いやです! 噂によると龍神は猿か野犬のように卑しい存在だと聞きます。証拠に50年ごとに龍神へ嫁いだ娘たちは一度も戻ってきたことがないではないですか。私、お父様やお母様のところから離れることなんてしたくありません。――そうだわ!」

 陽菜は修羅場の席にお茶を持って行っていいのかどうか戸惑っている羽月の傍に行くと、なれなれしく羽月の腕を掴んだ。
「お姉様が龍神の花嫁になるのはどうかしら? 卑しい龍神には私よりもお姉様の方がお似合いだわ」
 あまりにも意外な展開に、羽月はただ「いっ、いやです……」首を横に振った。
「陽菜、羽月はだめだ。羽月は呪われている薄命の娘だ。そんな娘を龍神の花嫁にするなんて……」
「でも、私はいやなんです! お姉様が呪われているなら、そんな運命の娘、むしろ龍神の花嫁に相応しいではありませんか。私はあんな山の上でこれから先ずっと暮らすなんて耐えられません! 絶対にいやです」
 陽菜がいうと、義母も大きく頷く。
「あなた、陽菜の言う通りです。陽菜が龍神の花嫁になるなんて、そんな可愛そうなことは私もしたくありません」
「うっ、うん……」
 父親はただただ気まずそうな表情をしていた。