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 陽菜があやかしたちと小競り合いする少し前、龍神と羽月はあの池の淵で水面を眺めていた。
「何だ? あれは?」
 池を覗いていた龍神が美しい眉を顰める。羽月は龍神が見ているであろう風景を見て「あっ」と声を上げる。
 池には花嫁衣裳を着た義妹の陽菜とあやかしが何やら言い合いをしている様子が映し出されていた。
陽菜とあやかしたちの話を聞いていると、陽菜は「私が本当の花嫁、龍神に会わせて!」と言っているようだ。

(――どうしよう)
 どういう経緯かはわからないが、龍神の本物の花嫁である陽菜が輿入れしに来たらしい。
(――私、このまま出て行かなくてはいけないの?)
 いずれかは龍神の元から出ていくとは分かっていたが、ここまで突然別れの日が来るとは……。
羽月が戸惑っていると、ふと羽月は手に温かさを感じた。何と龍神が自分の手を握ってきたのだ。
「まあ、龍神様……」
 羽月はこんな状況だというのに、龍神に手を握られて恥ずかしさと嬉しさで顔を赤くして戸惑った。

「羽月、心配するな。あの娘が来たからといって、お前を追い出すことはしない」
「えっ?」
「とりあえず、一緒に行こう。まずはあの小競り合いを終わらせなくては」
 龍神はそういうと戸惑っている羽月の手を握ったまま、池へと入って行った。


*
「――まあ!何て大きくて立派なお屋敷なの? ここが龍神様のお屋敷?」
 あやかしたちに連れられてあやかしの屋敷に来た陽菜は、屋敷を見て大きな声を上げた。羽月は久しぶりに聞いた陽菜の声を聞いて、あの村で陽菜や義母や実父にされた仕打ちを思い出し、思わず顔を俯かせてしまった。
「ここは龍神様のお屋敷ではありません。花嫁様が花嫁修業をされるあやかしの屋敷です」
 あやかしの一人がぶっきらぼうに言う。
「じゃあ、龍神様のお屋敷はさぞもっと立派なのでしょうね」
 陽菜はなぜか興奮していて、とても嬉しそうに見えた。そんな陽菜を止めるように「そこの娘」と龍神が声を掛けた。

「あら、龍神様、私は陽菜と申します。どうぞ名前か『花嫁』とお呼びください」
「お前は花嫁ではない」
 龍神が無表情ではっきりと言う。羽月は思わず隣の龍神を見上げた。
「いえ、龍神様、龍神様は騙されているんです! その隣にいる女は偽の花嫁です。だって私、一年前に花嫁に選ばれたんです。私のお父様がはっきりと『お前が花嫁に選ばれた』と言ったのを聞きました」
「なるほど、ではなぜ一年前にお前は輿入れせず、ここにいる娘が輿入れしてきたのだ?」
「その女が無理矢理龍神様へ輿入れしたんです! 私は龍神様に嫁ぎたかったのに、その女が私を騙して輿入れしたんです。本当に卑しい女だわ」

「いえ! 違います!」
 羽月が普段とは違う大きな声を出した。普段大人しい羽月がここまで大きな声を出すのは珍しい。龍神やあやかしだけでなく、陽菜も驚いた表情をした。
「私は確かに本当の花嫁ではありません! でも騙されたのは私の方です! 一年前、龍神様の花嫁に選ばれたのに『花嫁になりたくない』と言った陽菜さんが私を無理矢理花嫁にしたんです。あやかしのみなさん、ごめんなさい! 龍神様は私が偽の花嫁だと知っていたんです。でも私のことを気遣って『しばらくここにいろ』と言ってくださったんです!」
 羽月は大きな声で言ってしまうと、手に平で顔を覆ってその場にしゃがみこんでしまった。

 龍神もあやかしも誰も声を発しなかったが、やがて陽菜が高笑いした。
「ほうら、私の言う通りではありませんか! この女は偽物の花嫁なんです。龍神様、どうぞその女を追い出して、早く本物の花嫁の私を娶ってくださいませ。さあ、あやかしたち、この女を早く追い出して!」
「待て!」
 泣いている羽月と戸惑っているあやかしを止めるように龍神が言う。
「まあ、何でしょうか? 龍神様」
「待てと言っている。まずお前は本当に自分を本物の花嫁だと思っているのか?」
「えっ? ええ、それはもちろんです。私が花嫁だと、確かに父親から聞きました」
「なるほど、では誰がお前を花嫁だと言ったのだ?」
「それは、神社の長です。父親は神社の長から『陽菜が龍神の花嫁に選ばれた』と言われたと言っていました。だから私が本物の花嫁です!」
「それは神社の長が決めたこと。まあ、長は名目上は「龍神のお告げ」みたいに言ってはいるが、私は誰を花嫁にしろとは指示していない」
「えっ?」
 陽菜だけでなく、羽月も驚きの声を上げる。

「龍神様、それはどういうことですか?」
 羽月が立ち上がって龍神に聞く。龍神と初めて会った時、龍神は確かに「お前は、誰だ?」
と言ってきた。
「黙っていて済まない。もう少しお前が落ち着いたらすべてを話すつもりだった。だがあの娘が来たことで、突然話すことになって本当に済まない。龍神の花嫁は元々、あの村の神社の長が決めて差し出すことになっている。長がどのような基準で決めるのかはわからないが、村ではなぜか『龍神が花嫁を選ぶ』ような話になっているのだ」
 そう言えば、確かに誰も龍神が花嫁を選ぶのを見たことはない。長はきっと龍神への花嫁ということで、村の中でも美しい陽菜を差し出すことにしたのだろう。

「そう、だったのですね」
 では自分は偽の花嫁でも本物の花嫁ではないのだ。村から差し出された娘が龍神の花嫁になるのであれば、自分が花嫁でもいいのだ。羽月が胸をなでおろしていると、陽菜が「待ってよ!」と言う。
「でも、龍神様、その娘は村では『薄命の娘』と言われているのですよ! その娘は生まれた時に二十歳で死ぬ運命だと予言されているんです。そんなすぐに死んでしまうような女、龍神の花嫁にはふさわしくありません」
 陽菜の言葉に羽月は肩を落とした。確かに自分は薄命の娘と言われ、二十歳で死ぬ運命にある。龍神の花嫁として末永く添い遂げなくてはいけない立場なのに、自分は相応しくない。

「龍神様、確かに陽菜さんの言う通りです。私は二十歳で亡くなってしまう運命です。龍神様のお世話も二十歳までしかすることができません。どうぞ、私と離婚したまま、私を元の人間の世界へと戻してください」
 羽月が龍神に向かって頭を下げる。陽菜は「やっぱり、龍神様の花嫁に相応しいのは私ですわ!」と勝ち誇ったような表情をしている。しばらく沈黙が続いたが、その沈黙を破ったのはあやかしたちだった。

「――違う」
「えっ?」
 陽菜が聞き返すと、あやかしたちは口々に陽菜に向かって言葉を投げつけた
「違う! 龍神様の花嫁に相応しいのはあなたではない!」
「そうよ! 本当に何て意地の悪い娘なのかしら? いきなり輿入れしてきて人を貶めるような言葉を言い始めて……」
「花嫁様はたった一人だけだ。花嫁様は心の美しい娘なのに、お前は何て意地汚いんだ!」
 あやかしは口々に陽菜を非難する言葉を言った。さすがの陽菜もひるんだが、「私には龍神様がいる!」とばかりに龍神へすがるような目線を送る。しかし、龍神も陽菜に対して冷ややかな視線を送っていた。

「おかしいな」
「龍神様、何がおかしいのですか? それよりもこの生意気なあやかしたちを静かにさせてくださいな!」
「いや、おかしいのだ。私は人の死なら近いものを見ることができるが、ここにいる羽月が近いうちに亡くなるなんて印はどこにもついていない」
「えっ? それはどういう……」
 今度は羽月が驚きの声を上げる。陽菜は龍神の言葉を聞いて、悔しそうに舌打ちをした。
「もう! せっかくお母様が前妻の娘を貶めるために仕組んだことなのに、龍神様にはすべてがお見通しと言うことなの?」
「陽菜さん、それはどういう意味ですか?」
 羽月の問いに陽菜は仕方なさそうに続けた。

「どういう意味もそのままの意味よ! 天本家を私が継ぐためにお姉様は不必要だったの。お母様はずっと天本家に嫁ぎたかったのに、お姉様の実のお母様が嫁いでしまったから……。お母様はお姉様をいずれは追い出すために『二十歳で死ぬ運命の呪われた娘』と偽の占い師に言わせて、周りの人から孤立させたのよ」
「そんな、では……」
 自分は呪われていない普通の娘だったのだ。羽月は思わず龍神を見た。龍神は羽月を見下ろすと、優しそうな眼差しで小さく頷いた。

「そうだ、お前は呪われていない。そして、私のたった一人の花嫁だ。――あやかしたち」
 龍神は顔を上げると、陽菜を真っすぐ指さした。「あの娘は私の花嫁ではない。本物の花嫁は今私の隣にいるこの羽月だけだ。あの娘は人間の世界に送り返してやれ!」
「もちろんです! 龍神様」
 あやかしたちは陽菜を取り囲み、嫌がる陽菜を引きずるようにその場から連れ去った。陽菜は抵抗していた。ずっと「龍神様! 助けてください」「あやかしたちをどうにかして!」「私が本当の花嫁よ!」と叫ぶように言っていた。
 陽菜が暴れて何度も転んでしまったため、陽菜の着ていた真っ白な打掛はどんどん土と泥に汚れて行ってしまった。