*
生まれ育った村で騒動が起こっていることを何も知らない羽月は、毎日龍神のお世話をして過ごしていた。龍神とこの屋敷で暮らす日々はとても穏やかだ。あやかしとの日々も素晴らしかったが、羽月はどうやら自分がいつの間にか龍神に恋心を抱いていることに気づいてしまった。
龍神が今まで見て来た人間と比べものにならないほど美しいから、というわけではない。龍神は見た目だけでなく心も美しく清らかだった。羽月に対して優しく接してくれるし、何かしてもお礼をいうことを忘れない。神様だと言うのに、まるで人間の優しい旦那様と暮らしているような気分だった。
その内、羽月は鏡をのぞくのが怖くなってきた。鏡を見て、自分の銀色の髪に黒い髪が混ざっていたらどうしよう、そうしたら龍神と別れなくてはいけない秒読みが始まってしまう。しかし、幸いなのかどうなのか羽月の髪の色はなかなか銀色から変わらなかった。
龍神は仕事をしているというが、毎日庭にある大きな池を覗き込んで何かをしているのが仕事らしい。羽月は龍神が池を覗き込んでいる様子を見るのが好きだった。太陽の光が反射して龍神の瞳や銀色の髪がきらきら輝く。このままずっとこうやって龍神を見ていられたいいのに、と羽月は思っていた。
「――何をそんなに眺めているのだ?」
羽月が屋敷の掃除の合間に庭にいる龍神を眺めていると、龍神がいきなり話しかけてきた。羽月は思わず「はい!」と言って赤い顔をしながら龍神の近くへ行った。
「申し訳ございません、龍神様。実は龍神様があまりにも美しくて……」
羽月は思わず正直に言ってしまった。羽月はますます顔を赤くする。龍神はそんな羽月を目を細めて見下ろしていた。
「私がこの池を眺めているのが気になるのか?」
「はい、気になります」
確かに龍神がずっと池に向かって何をしているのかは気になる。羽月に言われると、龍神は池のふちにある小石を拾い上げると、池にそっと落とした。
「わあ……」
羽月は声を上げた。小石が落ちたところから池に波紋ができたが、その波紋はどんどん何かの風景に見えてきた。やがて波紋が落ち着くと、それは羽月が少し前までいたあやかしの屋敷だった。
「――ああ、花嫁様だ!」
どういう仕組みになっているのかわからないが、あやかしからもこちらの様子が見えるらしい。
「まあ!」
羽月は懐かしくなり、手を振りながら池の方へと近づいたが、足を滑らせて池に落ちそうになってしまった。
「危ない!」
龍神が羽月の腕を掴んだ。龍神の手は水を司る神様にしては温かく、柔らかい。龍神はそのまま羽月を引き寄せた。
(――近い)
龍神は羽月を池に落とさないように無意識にやったのかもしれないが、はたから見るとまるで龍神にいきなり抱きしめられたような形になってしまった。羽月は自分の胸が高鳴るのを感じた。
「――龍神様と花嫁様、仲がよろしいことで」
「――本当に龍神様と花嫁様はお似合いですわね」
証拠に池の中に見えるあやかしたちが龍神と羽月の様子を見て、うっとりとした表情をしながら口々に言う。やがて池に写るあやかしたちの姿は薄れてきて、再び龍神と羽月を水面に写した。
羽月はしばらく龍神の腕の中でぼんやりとしていたが、ふと我に返って龍神から身体を離した。
「申し訳ございません! それとありがとうございました!」
羽月は赤くなったが龍神はそんな羽月を見て優しそうな表情で目を細めた。
「大丈夫だったか? この池は幽世と現世を繋いでいる存在だ。この池の水面に写っている現世に行けるようになっている」
「では、さっきもしも私があのまま池の中に落ちていたら……」
「そうだな、あやかしたちの頭上に落ちていただろう」
「申し訳ございません、十分に気を付けます」
「大丈夫だ、何かあれば私が助けるから」
そういってまた微笑んだ龍神は相変わらず美しい。羽月は龍神の顔を見上げながら「ありがとうございます」と言った。
「そうだ、いいものを見せてやろう」
龍神はそう言ってしゃがみこむと、そっと池に美しい白い手のひらを向けた。池の水面が少し震えたと思うと、また何かを映し出した。
「まあ! ここは……」
羽月は思わず池の方へ身を乗り出しそうになった。水面に写ったのは一年以上前から帰っていない生まれ故郷の村だった。父親には無視され、義母と陽菜には虐げられて、いい思い出が一つもないのに、そこに映し出された風景はどれも懐かしく感じる。
羽月は思わず涙が溢れそうになり、故郷を見せてくれた龍神の優しさを嬉しく感じた。
「懐かしいか?」
「ええ、とても。ありがとうございます」
「お前が住んでいた村は、この間、川が氾濫したんだ」
「まあ、そうでしたの?」
川の氾濫と聞いて羽月は心配になったが、龍神は微笑んだ。
「あの川の近くに空き家が数軒あったんだ。その空き家を取り壊すため川が氾濫した。空き家をあのままにしていたら、朽ちて崩れて通りかかりの人間や動物に被害が起きていたかもしれないからな」
「そうなんですね、良かったです」
羽月はこの龍神の屋敷にきてから、龍神の仕事の真意を知った。龍神はこの屋敷の池を眺めながら、世の中の秩序を保っていたのだった。今回の川も「必要ない空き家を壊す」という目的を持って龍神が人や動物に被害が出ないように氾濫させていたのだ。
村では龍神を怒らせると水害が起こると恐れていたが、龍神は怒ることもないし、こうやって村人たちや動物が悪い目に遭わないようにしていたのだった。
羽月は改めて氾濫したという川を池越しに、おた。そして、あるものを見つけて「あっ!」と声を上げた。
「どうした?」
「龍神様、猫が……」
川の近くの大きな杉の枝の上で白い猫が助けを呼ぶように泣いている。あの猫は羽月が人間界にいた時に唯一味方だった猫だった。どうやら杉の木に登ったのはいいか、降りられなくなったらしい。
(――でも、どうして天本家の屋敷から離れたこんな場所に?)
あの白猫は羽月と同じように臆病で、屋敷から出ることはほとんどなかったはずだ。
「あの猫、お前の知り合いか?」
「はい、天本家にいた時に可愛がっていた猫です。私の唯一の味方でした」
「どうやら、あの猫、降りられなくて困っているらしいな。――助けに行こう」
「ありがとうございます!」
羽月が嬉しそうに龍神に言うと、龍神は羽月に手を差し伸べた。
「猫が心配なのだろう、一緒に助けに行こう」
「えっ? いいのですか?」
羽月は思わず自分の髪を触った。髪は相変わらず銀色のままだ。この髪のままでは人間界に行けないと思っていた。
「私と一緒だし、少しくらいなら行くのは構わない。――さあ、行こう」
「はい」
羽月は少し恥ずかしそうに龍神の手を取った。龍神は羽月の手を取ったまま、すっと池の中へと入って行った。羽月は池に入る直前に思わず目をつぶった。次の瞬間、羽月の耳元に川の流れる音が聞こえてくる。
恐る恐る目を開けると、龍神と羽月はさっきまで池の外から眺めていた杉の木の枝の上にいた。足元にはあの白猫がいる。猫は最初突然現れた龍神と羽月に驚いていたが、やってきたのが羽月と知ると、足元にすり寄ってきた。
「まあ、お前、私を覚えていてくれていたのね」
羽月は嬉しく思った。天本家を離れてから一年以上経っている。猫も自分を忘れていたかと思っていたが、覚えていてくれたのだ。羽月は猫に手を伸ばそうとしたが、龍神が羽月の身体を抱きしめるように支えた。
「危ない、気を付けろ」
龍神に抱きしめられるような形になった羽月は、胸をどきどきさせて顔を赤くした。
「はい、ありがとうございます」
龍神に支えられて、羽月はバランスを崩すことなく、猫を抱き上げることができた。龍神は羽月が猫をしっかりとつかんだことを確認すると、「そのまま猫をしっかりと抱いていろ」と言い、羽月をもっと強く抱きしめた。
そして、そのまま龍神たちは宙にふわりと浮かぶと、ゆっくりと下へ降り始めた。
(――わあ)
宙に浮いているという不思議な感覚と龍神の腕の力強さを感じながら、羽月はそのまま川原に舞い降りた。
「猫、無事でよかった。龍神様、ありがとうございます!」
羽月が改めて龍神にお礼を言うと、龍神は羽月を抱きしめながら微笑んだ。
「猫にもそんなに心配するとは。お前は本当に優しい娘だな……」
生まれ育った村で騒動が起こっていることを何も知らない羽月は、毎日龍神のお世話をして過ごしていた。龍神とこの屋敷で暮らす日々はとても穏やかだ。あやかしとの日々も素晴らしかったが、羽月はどうやら自分がいつの間にか龍神に恋心を抱いていることに気づいてしまった。
龍神が今まで見て来た人間と比べものにならないほど美しいから、というわけではない。龍神は見た目だけでなく心も美しく清らかだった。羽月に対して優しく接してくれるし、何かしてもお礼をいうことを忘れない。神様だと言うのに、まるで人間の優しい旦那様と暮らしているような気分だった。
その内、羽月は鏡をのぞくのが怖くなってきた。鏡を見て、自分の銀色の髪に黒い髪が混ざっていたらどうしよう、そうしたら龍神と別れなくてはいけない秒読みが始まってしまう。しかし、幸いなのかどうなのか羽月の髪の色はなかなか銀色から変わらなかった。
龍神は仕事をしているというが、毎日庭にある大きな池を覗き込んで何かをしているのが仕事らしい。羽月は龍神が池を覗き込んでいる様子を見るのが好きだった。太陽の光が反射して龍神の瞳や銀色の髪がきらきら輝く。このままずっとこうやって龍神を見ていられたいいのに、と羽月は思っていた。
「――何をそんなに眺めているのだ?」
羽月が屋敷の掃除の合間に庭にいる龍神を眺めていると、龍神がいきなり話しかけてきた。羽月は思わず「はい!」と言って赤い顔をしながら龍神の近くへ行った。
「申し訳ございません、龍神様。実は龍神様があまりにも美しくて……」
羽月は思わず正直に言ってしまった。羽月はますます顔を赤くする。龍神はそんな羽月を目を細めて見下ろしていた。
「私がこの池を眺めているのが気になるのか?」
「はい、気になります」
確かに龍神がずっと池に向かって何をしているのかは気になる。羽月に言われると、龍神は池のふちにある小石を拾い上げると、池にそっと落とした。
「わあ……」
羽月は声を上げた。小石が落ちたところから池に波紋ができたが、その波紋はどんどん何かの風景に見えてきた。やがて波紋が落ち着くと、それは羽月が少し前までいたあやかしの屋敷だった。
「――ああ、花嫁様だ!」
どういう仕組みになっているのかわからないが、あやかしからもこちらの様子が見えるらしい。
「まあ!」
羽月は懐かしくなり、手を振りながら池の方へと近づいたが、足を滑らせて池に落ちそうになってしまった。
「危ない!」
龍神が羽月の腕を掴んだ。龍神の手は水を司る神様にしては温かく、柔らかい。龍神はそのまま羽月を引き寄せた。
(――近い)
龍神は羽月を池に落とさないように無意識にやったのかもしれないが、はたから見るとまるで龍神にいきなり抱きしめられたような形になってしまった。羽月は自分の胸が高鳴るのを感じた。
「――龍神様と花嫁様、仲がよろしいことで」
「――本当に龍神様と花嫁様はお似合いですわね」
証拠に池の中に見えるあやかしたちが龍神と羽月の様子を見て、うっとりとした表情をしながら口々に言う。やがて池に写るあやかしたちの姿は薄れてきて、再び龍神と羽月を水面に写した。
羽月はしばらく龍神の腕の中でぼんやりとしていたが、ふと我に返って龍神から身体を離した。
「申し訳ございません! それとありがとうございました!」
羽月は赤くなったが龍神はそんな羽月を見て優しそうな表情で目を細めた。
「大丈夫だったか? この池は幽世と現世を繋いでいる存在だ。この池の水面に写っている現世に行けるようになっている」
「では、さっきもしも私があのまま池の中に落ちていたら……」
「そうだな、あやかしたちの頭上に落ちていただろう」
「申し訳ございません、十分に気を付けます」
「大丈夫だ、何かあれば私が助けるから」
そういってまた微笑んだ龍神は相変わらず美しい。羽月は龍神の顔を見上げながら「ありがとうございます」と言った。
「そうだ、いいものを見せてやろう」
龍神はそう言ってしゃがみこむと、そっと池に美しい白い手のひらを向けた。池の水面が少し震えたと思うと、また何かを映し出した。
「まあ! ここは……」
羽月は思わず池の方へ身を乗り出しそうになった。水面に写ったのは一年以上前から帰っていない生まれ故郷の村だった。父親には無視され、義母と陽菜には虐げられて、いい思い出が一つもないのに、そこに映し出された風景はどれも懐かしく感じる。
羽月は思わず涙が溢れそうになり、故郷を見せてくれた龍神の優しさを嬉しく感じた。
「懐かしいか?」
「ええ、とても。ありがとうございます」
「お前が住んでいた村は、この間、川が氾濫したんだ」
「まあ、そうでしたの?」
川の氾濫と聞いて羽月は心配になったが、龍神は微笑んだ。
「あの川の近くに空き家が数軒あったんだ。その空き家を取り壊すため川が氾濫した。空き家をあのままにしていたら、朽ちて崩れて通りかかりの人間や動物に被害が起きていたかもしれないからな」
「そうなんですね、良かったです」
羽月はこの龍神の屋敷にきてから、龍神の仕事の真意を知った。龍神はこの屋敷の池を眺めながら、世の中の秩序を保っていたのだった。今回の川も「必要ない空き家を壊す」という目的を持って龍神が人や動物に被害が出ないように氾濫させていたのだ。
村では龍神を怒らせると水害が起こると恐れていたが、龍神は怒ることもないし、こうやって村人たちや動物が悪い目に遭わないようにしていたのだった。
羽月は改めて氾濫したという川を池越しに、おた。そして、あるものを見つけて「あっ!」と声を上げた。
「どうした?」
「龍神様、猫が……」
川の近くの大きな杉の枝の上で白い猫が助けを呼ぶように泣いている。あの猫は羽月が人間界にいた時に唯一味方だった猫だった。どうやら杉の木に登ったのはいいか、降りられなくなったらしい。
(――でも、どうして天本家の屋敷から離れたこんな場所に?)
あの白猫は羽月と同じように臆病で、屋敷から出ることはほとんどなかったはずだ。
「あの猫、お前の知り合いか?」
「はい、天本家にいた時に可愛がっていた猫です。私の唯一の味方でした」
「どうやら、あの猫、降りられなくて困っているらしいな。――助けに行こう」
「ありがとうございます!」
羽月が嬉しそうに龍神に言うと、龍神は羽月に手を差し伸べた。
「猫が心配なのだろう、一緒に助けに行こう」
「えっ? いいのですか?」
羽月は思わず自分の髪を触った。髪は相変わらず銀色のままだ。この髪のままでは人間界に行けないと思っていた。
「私と一緒だし、少しくらいなら行くのは構わない。――さあ、行こう」
「はい」
羽月は少し恥ずかしそうに龍神の手を取った。龍神は羽月の手を取ったまま、すっと池の中へと入って行った。羽月は池に入る直前に思わず目をつぶった。次の瞬間、羽月の耳元に川の流れる音が聞こえてくる。
恐る恐る目を開けると、龍神と羽月はさっきまで池の外から眺めていた杉の木の枝の上にいた。足元にはあの白猫がいる。猫は最初突然現れた龍神と羽月に驚いていたが、やってきたのが羽月と知ると、足元にすり寄ってきた。
「まあ、お前、私を覚えていてくれていたのね」
羽月は嬉しく思った。天本家を離れてから一年以上経っている。猫も自分を忘れていたかと思っていたが、覚えていてくれたのだ。羽月は猫に手を伸ばそうとしたが、龍神が羽月の身体を抱きしめるように支えた。
「危ない、気を付けろ」
龍神に抱きしめられるような形になった羽月は、胸をどきどきさせて顔を赤くした。
「はい、ありがとうございます」
龍神に支えられて、羽月はバランスを崩すことなく、猫を抱き上げることができた。龍神は羽月が猫をしっかりとつかんだことを確認すると、「そのまま猫をしっかりと抱いていろ」と言い、羽月をもっと強く抱きしめた。
そして、そのまま龍神たちは宙にふわりと浮かぶと、ゆっくりと下へ降り始めた。
(――わあ)
宙に浮いているという不思議な感覚と龍神の腕の力強さを感じながら、羽月はそのまま川原に舞い降りた。
「猫、無事でよかった。龍神様、ありがとうございます!」
羽月が改めて龍神にお礼を言うと、龍神は羽月を抱きしめながら微笑んだ。
「猫にもそんなに心配するとは。お前は本当に優しい娘だな……」