母屋のある部屋の前で足を止めた梶は、中へ向かって声をかけた。

「奥様をお連れいたしました」
「入れ」

低めで、襖越しでもよく通る声には、どこか覚えがあるような気がした。
だが、心当たりについて思い出すより前に、梶の手によって襖が開かれる。

そこで待っていた人物の姿を見て、李瀬は固まった。

(昨日の……!? そんな、まさか)

目を見開いて硬直する李瀬を見て、男は口端を上げて薄く笑う。

「やはりか」

結婚五年目にして初めて会うはずだった夫は、昨日山中で行き倒れていた謎の男だった。

李瀬の内心は驚きと困惑で埋め尽くされているが、面白がるようにこちらを見ている男──もとい夫にそれを悟られるのはなんだか癪に障るので、精一杯平常心を装って、室内に足を踏み入れる。

用意されていた座布団に腰を下ろした李瀬は、夫の目をしっかりと見てから切り出した。

「はじめまして、旦那様。五年前に妻となりました、旧姓花崎の李瀬と申します。梶殿にお伝えしたので既にご存知かと思いますが、大変ご多忙な旦那様を不躾にもこうしてお呼び立てしたのは、それ相応の大事なお話があったからでございます。……どうぞ、離縁してくださいませ」

話したいことも、話すべきことも決まっていたので、淀みなく言葉を紡げた。

少しだけ嫌味が混じった言い方になったのは、どうにも面白がるような気配だけでなく、彼の方は昨日の時点で李瀬の正体に気づいていただろうことが少し気に入らなかったせいだ。
しかし、李瀬の言葉を聞いた司はさらに面白そうに口角を上げるので、失敗だったかもしれない。

さて反応はいかに、とじっと見つめていると、彼の方からも強い眼差しを向けられる。

「なぜ?」
「なぜと言われましても……」

元々は、あっさり承諾されるものだろうという想定のもと離縁の話を持ち出したのだが、いろいろと想定から外れてきてしまっている。

「私たちの結婚は、当時の当主同士が決めたもの。純粋な打算によるものでした」
「そうだな」
「一条家の事情も耳にしておりましたし、私はいろいろと覚悟して嫁いできたのです。しかし、旦那様は私を子を成すための使い捨ての道具として使うことなく、離れに住まわせて安穏とした生活をくださいました」

このことに関して、李瀬は本当に感謝している。
八重を除く侍女たちの些細な嫌がらせはあるが、生活には特に困っていないし、実家にいた頃よりよほど平和で満ち足りた暮らしだ。

しかし、司は李瀬を離れに置いていたことを少し後ろめたく思っているのか、なんとも言えない表情を浮かべる。一旦それには触れないことにして、李瀬は話を続けた。

「貴方は今や祓魔師界随一の御仁。相応しき、想う方と添い遂げる道もございましょう。私がその邪魔をするわけにはまいりません」
「……なるほど。君が離縁を望むのであれば応じ、生活の支援もするつもりだった」
(だった?)

途中までは想定通りどころか、温情に満ちた言葉だったが、過去形というのがどうにも気になる。
李瀬が探るような視線を向けると、司は案の定「しかし……」と続ける。

「これまで顔を合わせもしなかったことを、今は後悔している」
「……後悔?」

予想外の言葉が出てきて、李瀬は目を瞬く。

「力が弱く、業突張りな親のもとに生まれたばかりに贄のように差し出された哀れな娘だと思っていた。だが、それはとんでもない侮りだった」
「そのようなことは……。私は妖魔もろくに見えぬほど力が弱く、祓魔師としてはまごうことなき出来損ないです」
「祓魔師としてはそうかもしれないが……梶」
「はっ」

何やら含みがありそうな司の呼びかけに応じて、梶がどこかへと消える。

戻ってきた時、彼の後ろには三人の侍女が続いていた。この屋敷で働く四人の侍女のうち、八重を除いた三人だ。
すなわち、李瀬を軽んじてろくに働かないどころか、嫌がらせに勤しんでいる者たちである。まともに顔を見るのは数年ぶりだ。

「座りなさい」

冷え冷えとした梶の声で、三人はぎこちない動きで廊下に正座をする。皆表情がこわばっており、顔色も悪い。