――私が守ってあげなきゃと必死だった。
 親として、私にできることをすべてやってやりたかった。
 危険から遠ざけて、正しい道を歩ませる。
 それがなによりいいことなのだと、信じて疑わなかった。
 あの子の、泣き顔を見るまでは。


 ***


 翌朝、私は珍しく目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
 制服に着替えてリビングに降りると、既にお母さんがキッチンに立っていた。
 私のお弁当を作ってくれているようだ。
 手際よく卵焼き器を手首で揺すって、卵焼きを巻いていく。
 リビングの入口で立ったまま、しばらくその手元を眺めていると、お母さんがふと振り返った。
「あら、起きたの。おはよう」
「……おはよう」
 お母さんは、私が挨拶を返す前にくるりと前を向いて、お弁当作りを再開する。
 いつもどおり、お母さんはにこりともしない。
 お母さんの醸し出すこういう雰囲気が、私はずっと苦手だったけれど。
 ――……なんで今まで気付かなかったんだろう。
 お母さんは、毎日必ずお弁当を手作りしてくれる。ちゃんと野菜も入っているし、お肉もある。冷凍食品なんてひとつもない。
 私の身体のことを考えて、ちゃんと作ってくれている。
「……あのさ、お母さん」
 お母さんは振り向かないまま、「なぁに」と面倒くさそうに返事をする。
「……いつも、お弁当ありがとう」
 お母さんが手を止めて、振り向く。驚いた顔をして私を見ている。
「ちょっと、いきなりなによ。どうしたの?」
 戸惑ったような声音。お母さんは、本当にびっくりしているみたいだ。
「私……お弁当も、きれいにアイロンがけされたシャツも、今までぜんぶ当たり前にあるものだと思ってた」
 そんなわけないのに。
 私は毎朝、起きたら制服に着替えて、朝ごはんを食べて家を出る、それだけ。
 家を出るときには、テーブルの上に置いてあるランチボックスを持って学校へ行くけれど、テーブルの上にそれがないことなんて、これまで一度だってなかった。
 部屋の箪笥の中の衣類や、ハンガーにかけられたシャツも、いつも当たり前に柔軟剤のいい香りがする。私はただ、着たものを脱衣場の籠に入れるだけ。
 気が付いたら箪笥にはいい香りのする衣類が、ハンガーにはパリッとしたシャツがかけられていた。
 私は毎日、当たり前のようにそのシャツに袖を通していた。
 ベッドだってふかふかで、タオルケットはいつだってお日様の匂いがする。
 それらはぜんぶ、当たり前だった。
 ……そんなわけないのに。
 ぜんぶ、私の知らないところでお母さんがやってくれていたことだ。毎日、欠かさずに。
 お母さんは、専業主婦じゃない。
 日中、パートタイマーで働きながら、ずっと私やお姉ちゃんの世話をしてくれていたのだ。
「お母さん、どんなに忙しくても、どんなに朝早くても、ぜったいお弁当休んだりしなかったでしょ。面倒くさいとも言わなかったし」
「娘のお弁当作るのなんて、当たり前でしょう。特にあなたは、ほかの子より身体が強くないんだから」
 食べるものは大切よ、とお母さんはぶっきらぼうに言う。
「……うん。でも、いつもありがとう」
 親に対して面と向かってお礼を言うなんて、いつぶりだろう。
「もう……いいから早く顔洗ってきなさい」
 お母さんはそう言って、くるっと背中を向けた。
 少し鼻にかかったような、湿ったお母さんの声を聞いたとき、気付けてよかったと、私は心からそう思った。

 顔を洗い、再びリビングに戻ると、既に朝食ができていた。
 椅子に座ると、「早く食べちゃいなさい」とお母さんが言う。
 私は一度持った箸を置いて、お母さんの背中に「お母さん」と呼びかけた。
「なぁに」
 返事をしながらも、お母さんの手は止まらない。
「……あのね、私……最近朝早く学校に行くようになったのはね、仲良くなったひとがいるからなんだよ」
 お母さんが手を止め、私を見る。
「最近よく、そのひとと一緒に勉強してるの。家でも、電話しながら分からないとこ教え合ったりして。おかげで勉強が好きになった」
「……そうなの」
「美里と葉乃っていう友達もいるの。美里は明るくて面白い子でね、葉乃とはいろいろあったけど、今はどんなことでも話せる親友同士なんだよ」
 なんだかそわそわする。
 学校でのことや友達との関係を親に話すなんて、いつぶりだろう。
 ときおり喉がつかえそうになるのは、お母さんにこういう話をすること自体、初めてだからかもしれない。
 ……十六年間、毎日顔を合わせていたのに。
 いつから私とお母さんの間に、こんなに大きな溝ができてしまっていたんだろう。
「……私、お母さんには小さい頃からいろいろ心配かけたし、迷惑もかけてきたよね。昔は入院ばかりしてたし」
 お母さんはエプロンで手を拭くと、心配そうな顔をして私のそばへやってきた。
「柚香ったら、どうしたのよいきなり……もしかして、どこか痛いの?」
 私の額に手をかざして、熱を確認しようとするお母さんに、ううん、違うよ、と私は笑顔で首を横に振る。
「昨日、お姉ちゃんと出かけてちょっと昔のこと思い出したんだ。正直、小さい頃の記憶はあんまりないんだけど……唯一思い出したのは、家族のみんなの悲しそうな顔だった。特にお母さんはいつも、私なんかよりずっと苦しそうだった」
 目を開けるたび、家族は私の顔を覗き込んでいた。
 いつも目尻に涙を溜めて、悲しそうな顔をして私を見つめていた。
「今までずっと、心配かけてごめんね」
「……柚香はなにも悪くないわ。お母さんがあなたを丈夫に産んであげられなかったのがいけないんだから」
「え……」
 お母さんはいつもと同じ声音だったけれど、その表情はどこか思い詰めているように思えた。
 胸がぎゅっと締め付けられる。
「……違うよ? 私、そんなふうに思ったこと、一度もないよ」
 私が否定しても、お母さんは苦しそうに目を伏せたままだ。
 ……お母さんがそんなふうに思っていたなんて、ぜんぜん知らなかった。
 苦しんでいたのは、私だけじゃなかった。
 お母さんもずっと、苦しんでいたのだ。私の苦しむ姿を見て、ずっとじぶんを責め続けていた。
 それなのに私は勝手な想像で、お母さんには愛されていないのだと思っていた。
 私は、こんなに愛されていた……。
「……っ私、お母さんにはきらわれてるんだと思ってた」
 お母さんがハッと目を見開く。
「なっ……なに言ってるの、そんなわけないじゃない!」
「だってお母さん、私が元気になってからずっと怒りっぽかったから。……お姉ちゃんのことは自由にさせてるのに、いつも私のやろうとすることは制限するし……私は、それがずっと不満だった。でも、わがまま言ったらお母さんにもっときらわれると思ったから、怖くて……いつも我慢してた」
 後半は耐え切れず、涙をあふれさせながら言った。予想外だったのか、お母さんは一瞬呆然とした。直後、みるみる顔が歪んでいく。
「私……もしかしてずっとあなたのこと、傷付けてた……?」
 お母さんの声は震えている。
「明日香と違って柚香は内気だし、なんだか心配で……私が導いてやらなきゃってずっと……柚香は真面目だから、ちゃんと言ったことができる子だから、お姉ちゃんと同じ医者なら、お互い支え合えるし、資格さえ取れば引く手あまただしって……」
 お母さんの手が、不意に私の身体を包む。ぎゅうっと、私を力強く抱き締める。
「ごめんなさい、柚香……私はただあなたのことが大切で……守りたかっただけなの」
 本当は、分かっていた。
「……お母さん。あのね、私ね、元気になってから今までずっと、言いたいことを我慢してきた。たくさん迷惑かけてきたから、わがままなんて言っちゃいけないんだって思ってた」
「そんなわけないでしょう。言っていいのよ……柚香はどう思ってるの? 教えて、お母さんに」
「私は……」
 今なら、お母さんの気持ちも分かる。だからこそ、私も本音を安心して伝えられる。
「私は、お姉ちゃんみたいに立派な夢はないし、将来なりたいものも分かんない。だから、お母さんが心配する気持ちも分かる。だけど私、勉強のためだけに学校に行ってるんじゃない。友達と遠くに出かけたりお泊まり会したり、そういう学生らしいこともしてみたい。お母さんには心配かけるかもしれないけど、でも、私も私の世界を生きてみたいの」
 思い切って心の中でずっと抱えていた本音をぶつける。お母さんは泣きながら、目をぎゅっと瞑って頷く。
 その顔を見て、肩の力が抜けた。
 ――本当に、違ったんだ。
 お母さんは本当に、私のことが心配だっただけなんだ。
 お母さんの中で私はまだ守ってあげなきゃいけないか弱い子供のままで、目を離したら私が無茶するんじゃないかって怖かったんだ。
 だからいつも怒っていて、門限にも厳しかった。
 意地悪で私を制限したかったわけじゃない。
 お母さんの表情に、あらためて愛情を感じる。
「幼い頃、あなたは元気になったと思ったら突然倒れたりしたから、それがトラウマで……でも、私の行為はあなたを縛ってただけだったのね」
 ごめんなさい、と、お母さんは後悔を滲ませて目を伏せる。
「これからは、じぶんの好きに生きていいのよ。ただし、ちゃんと相談してほしい。心配だから」
「……うん。それでね、お母さん。私、やっぱり青蘭医大に行きたい。本当にやりたいことかって言われたら、よく分からないけど……でも私、だれかの役に立つの、好きだから」
「柚香……それは本当に、本心なの?」
「うん、本心」
「そう……それなら、応援するわ」
「うん、ありがとう、お母さん」
 これまで、ずっと心の中で『なんで』ばかり叫んでいた。
 でも、心の中で叫んでいるだけじゃ、相手には伝わらない。
 たとえ愛し合っていても、家族でも。
 声に出さなきゃ、本当の思いはだれにも届かない。
 向き合うのは勇気がいることだけど、話してよかった。
 だって、お母さんのあんな笑顔は、久しぶりだったから。
「行ってきます」
 私は、いつもより足取り軽く、お母さんが用意してくれたランチボックスを持って家を出た。