――あの子の泣き顔は、トラウマだった。
 どうか笑って、と、いつも願った。
 でも、この小さな両手でできることなんて、なにひとつなくて。
 彼女を笑顔にすることひとつ、できない無力なじぶんがもどかしくて、大きらいだった。
 だから、私は決めた。
 医者になる。
 医者になって、あの子の病気を治すんだって、決めた。


 ***


 それから数日が経ち、お姉ちゃんと出かける約束をした日になった。
 行き先を告げられぬまま、私はお姉ちゃんの運転する車に揺られる。
 家を出る前、「どこ行くの?」と訊ねたけれど、返ってきたのは、「内緒」というひとことだけだった。
 ラジオパーソナリティの声を聞きながら、なんとなく車窓の向こうの流れる景色を眺めていると、お姉ちゃんが車を停めた。
 スマホを見ていた顔を上げて、周囲を見る。大きなロケットのオブジェが見えてハッとした。
「ここ……」
「覚えてる?」
 お姉ちゃんが来たのは、昔家族でよく来た子供向け科学施設だった。
「うわぁ、懐かしい」
「ほら降りて。あと十分でプラネタリウム始まっちゃう!」
「えっ! ちょっと待って!」
 館内に入ると、天井から吊るされた星や惑星を模した電球が目に入った。あの頃と変わらない装飾の数々に、一気に懐かしさが込み上げてくる。
 入口の横にある館内受付を横目に、お姉ちゃんが「こっちだよ」と、慣れた様子で正面の階段へ向かう。
 小走りにお姉ちゃんに駆け寄る。
「受付しないの?」
「あぁ、いいの。プラネタリウムだけなら、別料金だから」
「へぇ、そうなんだ」
 ひとりでも来るのだろうか。お姉ちゃんの迷いのない歩き方を見てそう思った。
 階段を昇り切ると、目の前にプラネタリウムの入口が目に入る。
 入口横の券売機でプラネタリウムのチケットを二枚買ったお姉ちゃんが、一枚を私に手渡す。
「ありがとう」
 電車の切符のような形のチケットには、公演時間と金額が書かれていた。
 一回たったの二百五十円。
 思ったよりも安い。アイドルのコンサートや演劇なんかは一万円近くするのに。
 プラネタリウムへ続く入口に立っているのは、初老のご婦人だ。
 お姉ちゃんがチケットを渡すと、ご婦人は笑顔で「いつもありがとうね、明日香ちゃん。行ってらっしゃい」と手を振っている。
 その後に続いて、私もチケットを差し出す。
 すると、ご婦人が私を見て、「あら」と手を止める。
「もしかしてあなた、柚香ちゃん?」
「えっ?」
 チケットを渡してそのまま通り過ぎようとしていると、ご婦人に話しかけられた。
「やっぱり! いやだわぁ、もう、こんなお姉さんになっちゃって!」
「あの……」
 困惑している私のとなりで、お姉ちゃんが代わりに口を開く。
「でしょー? 可愛くなったでしょ!」
 なぜか得意げな口調だ。
「うんうん! ふたりとも美人さんになったねぇ」
 ご婦人はにこにこして、お姉ちゃんと談笑を始める。
 その光景に、ふと思い出した。
 子供の頃、私はよく、バスに乗ってお姉ちゃんとこのプラネタリウムに来ていた。
 そのとき、いつも私たちを座席までちゃんと案内してくれたのが、このご婦人だったような気がする。
 あの頃はまだ若くて、こんなに白髪もなかったし皺もなかった。
 でも、声に聞き覚えがある。笑い方もよく似ている。きっとそうだ。あのひとに違いない。
「柚香ちゃん、もうすぐ受験なんだってね!」
「あ、はい……」
「明日香ちゃんったらねぇ、いつもここに来るたびに、あなたの話ばかりしてるのよ。柚香ちゃんはじぶんと違って優秀だから、私も弱音なんて吐いていられないって」
「えっ……お姉ちゃんが弱音?」
 聞き間違いかと耳を疑う。
「そんな、まさか」
 だって、お姉ちゃんが弱音を吐くなんて考えられない。お姉ちゃんはそういうタイプではないと思っていた。
「あら。明日香ちゃん、ここに来るたびにいつも私に泣きついてくるのよ。もうすぐ実習が始まっちゃう! どうしよう! って。実習が始まったら、本物の患者さんを前にするんだもんね。そりゃ怖いわよね。臆病になるのも無理ないわ」
「お姉ちゃんが……」
 驚く私の横で、お姉ちゃんが「ちょっと岡本(おかもと)さん! そういうことをバラすのはナシだってば!」と慌て出す。
「ほら、もう始まっちゃうから行くよ、柚香!」
「あっ……うん」
 私はご婦人に軽く頭を下げてから、お姉ちゃんに続く。
「さっきの、気にしなくていいからね。うそだから」
「う、うん……」
 ――うそ。
 そんなわけない。今の話は、きっとお姉ちゃんの本音だ……。
 プラネタリウムの中に入ると、ドーム型の空間が広がっていた。
 上映前だからまだ明るく、プラネタリウム特有の継ぎ接ぎ模様が見えている。
 埃の匂いで満たされた空間。
 硬いリクライニングシートに腰を下ろし、背もたれをゆっくりと倒す。
 ギギギ、と座席が軋む音とともに、ゆっくりの目の前に継ぎ接ぎの空が落ちる。
 昔お姉ちゃんと来ていた頃はまだ身体が小さくて、体重をかけなければ倒れてくれない低反発のシートで空を見上げるのは一苦労だった。
「……ここ、今年いっぱいで取り壊されちゃうんだって」
 継ぎ接ぎの空を見上げながら、お姉ちゃんが言う。
「……私たちが子供の頃からあるもんね。機材も建物もずいぶん老朽化しているし」
「そうね。でも、昔から馴染みのあった場所がなくなっちゃうのは、ちょっと寂しいな」
「……お姉ちゃん、ここ、ひとりで来てたの?」
「うん、たまにね。疲れたときとか、こうやってぼんやり星を見てると、なんか落ち着くの」
 唯一心が安らぐ場所だった。そう、お姉ちゃんは呟いた。
「……そうなんだ」
 なんとなく分かる。
 私も、音無くんと帰ったあの日以来、空を見上げる癖がついた。
 星座とか神話はよく知らないけれど、星の瞬きを見ていると、心が安らぐのだ。
「でも、この場所ももうなくなる。あの頃は無邪気に夢だけを見ていられたけど、そんな時間はもう終わるのよね」
 となりを見ると、お姉ちゃんはまっすぐ天井を見ている。けれどその目は、天井に瞬く星ではないどこかを見ているような気がした。
「あのさ、お姉ちゃん……」
 声をかけようとしたタイミングで、空がふっと暗くなる。
「上映、始まるよ」
 お姉ちゃんの囁きに、小さく「うん」と頷いて、私は空へ視線を戻した。
 ずっと、お姉ちゃんには悩みなんてないんだと思っていた。
 昔から夢があって、友達もたくさんいて、器用で大抵のことはなんでもできる天才肌。
 ――違う。
 お姉ちゃんは、天才なんかじゃない。
 お姉ちゃんだって、努力してたんだ。
 いくら好きなことをやっていたって、悩みがないひとなんて、いるはずがない。
 好きだからこそぶつかる壁だってある。
 医大の勉強はきっとすごく大変だろうし、あの受付のご婦人の言うとおり、数年後には病院実習だってある。
 病院実習では、本物の患者さんを前にする。
 ひとの命がかかわる仕事だ。新人だからといって失敗は許されない。
 家にいるとき、お姉ちゃんはいつだって笑顔だった。辛い顔なんて見たことない。
 ――お姉ちゃんも、私と同じで強がってたのかな……。
 泣きたくなったとき、たとえばこうやって、幼い頃によく来たこのプラネタリウムへ足を運んで、暗がりの中でひっそりと泣いていたのかもしれない。
 でも、プラネタリウムを出たらいつもの笑顔でまた走り出す。
 そんなふうに、じぶんを奮い立たせていたのかもしれない。
 この場所は、お姉ちゃんにとって特別な場所。
 あのご婦人はお姉ちゃんにとって、特別なひと。私にとっての、音無くんのようなひとなのだ。
 でも、その場所ももう今年で取り壊される。なくなる。
 そうしたら、お姉ちゃんはこれからどこで泣けばいいんだろう。
 大きなプレッシャーの中、お姉ちゃんはそれでも夢を叶えるために努力をしている。
 私はお姉ちゃんの一部だけを見て、勝手に羨ましがってただけなんだ。
 ちらちらと瞬く星々は儚い光だけれど、消えそうで消えない。
 消えかけてもまた輝くあの星のように、私もなりたい。

 プラネタリウムの上映が終わり、部屋を出ると、さっきのご婦人が立っていた。
「ご来場ありがとうございました」
「また来るね、岡本さん」
 お姉ちゃんが親しげな笑みを浮かべて挨拶をする。
「ありがとね、明日香ちゃん。柚香ちゃんも、受験頑張ってね!」
 あの頃のように、にこやかに手を振ってくれるご婦人に、私は訊ねる。
「あの……私もまた来てもいいですか?」
「もちろんよ! またふたりでおいで!」
 彼女の笑顔に、私もつられるようして笑った。


 ***


 駐車場近くにあった自動販売機でミルクティーとレモネードを買ってから、私たちは再び車に乗り込んだ。
 お姉ちゃんはまだどこかへ向かっているようだったけれど、行先はやはり教えてくれない。
 密室空間の車の中は、まだ少し気まずい。
「ねぇ、お姉ちゃん。大学って、楽しい?」
 思い切って訊ねると、お姉ちゃんはまっすぐ前を見据えたまま、頷いた。
「楽しいよ。勉強は大変だけど、みんな同じものを目指してるから気が合うひとも多いし」
「……そっか」
「まぁ、それも来年までかな。クリクラが始まっちゃったら、今よりずっと忙しくなるだろうし」
「……そっか」
「私ね、家を出ようと思う」
 家を出る。お姉ちゃんのその言葉にはさすがに驚いた。
「えっ?」
 だって、もうすぐ病院実習が始まるというのに、ひとり暮らしだなんて。今よりずっと大変な生活になる。
「ど、どうして?」
「今家を出なきゃ、出られないと思ったからね。ちょうどいい機会なの」
「……でも」
「それに、柚香も私がいないほうが勉強に集中できるでしょ?」
「…………」
「そんな顔しないの。なにも、一生会えないわけじゃないんだし」
「それはそうだけど……」
「だから柚香も、受験頑張りなさいよ」
「…………」
 どこに行きたいか、なにを勉強したいか、私はまだ分からない。
 美里や葉乃のように就きたい職業があるわけでもないし、取りたい資格があるわけでもない。
 ――お姉ちゃんは、どうして医者になりたいと思ったんだろう……。
 聞いてみようと決心して顔を上げると、ふと車窓の向こうの街並みに見覚えを感じた。
 走っている道路の先に見えるのは、小さな島。島の真ん中辺りには、シーキャンドルが見える。
「……もしかして、江ノ島(えのしま)向かってる?」
「うん。えのすい行こうと思って」
 えのすいといえば、江ノ島の中にある有名な水族館だ。江ノ島水族館(えのしますいぞくかん)。略してえのすい。
「珍しい。お姉ちゃんって、水族館なんて好きだったっけ?」
「ううん、べつに」
 あっさりとした答えが返ってきて、私はえ? と首を傾げる。
「じゃあ、なんで?」
 わざわざ。近くもないところなのに。
「だって柚香、昔行きたいって言ってたでしょ」
「……そうだっけ?」
 考えてみるけれど、ぜんぜん記憶にない。
「……いやそれ、いつの話?」
 困惑気味に運転席のお姉ちゃんを見ると、お姉ちゃんは笑っていた。
「そっかぁ。覚えてないかぁ。まぁ、そうよね」
「本当に私が言ってた?」
「言ってたよ」
 そうこうしているうちに車が停車する。
「さて、行くよー」
 プラネタリウムと同様に、さっさと歩いていくお姉ちゃんを追いかける。
 チケットを買い、中に入ると藍色の世界が広がっていた。
 光に煌めく魚たちが、群れを成して四角い水槽の中を泳いでいる。
 きらきら輝く銀の鱗は、まるでプラネタリウムで見た銀河のようだ。
 お姉ちゃんは水槽の中を見つめながら、静かな口調で言った。
「柚香はさ、ずっと私を見てたから、私が好きなものをじぶんも好きだって勘違いしてるのよ」
「え?」
「小さい頃の柚香は、ちゃんと好きなものを好きって、じぶんの口ではっきり言ってたよ。楽しそうに」
「……そう、かな……」
 言われて思い返す。
 小さい頃、好きだったもの。
 そんなもの、数え切れないくらいにある。
 動物はもちろん、妖怪とか、幽霊とか、恐竜とか。一般的に、子供が好きなものはすべて通ってきた気がする。
 だけど私は口下手だからそれをうまく伝えることができなくて、いつもお姉ちゃんが代弁してくれていた。
「柚香」
 お姉ちゃんが私を呼ぶ。
「ん……?」
「柚香はもう子供じゃない。じぶんの気持ちはじぶんではっきり言うの。あんたはもう自由なんだから」
「自由……?」
「そう。柚香は自由なの。だから、お母さんやお父さんの言うことなんか聞かなくていい。じぶんのやりたいことをやりたいようにやればいいのよ」
 でも、私にはやりたいことなんて……。
 ――いや、ひとつだけあった。ずっと、なりたくて仕方なかったもの。
 焦がれてやまなかったもの。
「私はずっと、お姉ちゃんになりたかった。お姉ちゃんみたいにみんなに期待されて、愛されたかった……」
 それまで水槽を眺めていたお姉ちゃんが振り返る。そして、私の手をそっと握った。
「……うん」
「だってお母さん、いつもお姉ちゃんはって言うから……私のことは、ぜんぜん見てくれないから……っだから、お姉ちゃんみたいに優秀になれば、見てくれるかもって……」
 ずっと溜め込んでいた感情が、目頭を熱くする。
 お姉ちゃんになれたら、どんなに幸せだろうかと、いつも思っていた。
「……柚香は勘違いしてるよ」
 ――勘違い?
「そんなわけない。だって……」
 言い返そうとすると、お姉ちゃんが私の額をおもむろに指で弾いた。
「いたっ」
 思わず声を出して額を押さえる。
「ちゃんと最後まで話を聞きなさい」
「…………」
「お父さんとお母さんは、だれより柚香のことを愛してるよ」
 そんなことない。そう言いかけて、口を噤む。
 お姉ちゃんは再び歩き出しながら、話し始めた。
「小さい頃、柚香は身体が弱くて入退院ばっかりだったでしょ」
「え……うん」
 たしかに私は、幼い頃は病気がちで、あんまり学校に行けていなかった。でもそれが今の話となんの関係があるというのだろう。
「……それが、なに?」
「当時はさ、お父さんもお母さんも、いつも柚香につきっきりで、私はぜんぜん相手にしてもらえなくて。なんでいつも柚香ばっかりって思ってた」
「え、お姉ちゃんが?」
「そうよ。赤ちゃん返りひどかったって、今でもお母さんに言われるんだから」
 そう言って、お姉ちゃんは肩を竦めた。
 私が赤ちゃんの頃、お姉ちゃんは五、六歳。お姉ちゃんだって、まだまだ親の愛情を独り占めしたい歳頃だ。私の病気のことなんて分かりっこない。
 ――でも。
 お姉ちゃんが、私に嫉妬だなんて。
「想像できない……」
「あの頃の私は柚香が羨ましくてたまらなくて、柚香なんかいなければいいのにって思ったこともあった」
 驚いた。
 なんでも持っていると思っていたお姉ちゃんも、私みたいにだれかを羨んだりすることがあるんだ。
 しかも、よりによって私なんかを羨ましがるなんて。
「だから私、子供の頃ずっと柚香のこときらいだった」
 当時のことを思い出す。あまりよく覚えていないけど、たしかにお姉ちゃんは、いつも不貞腐れたような顔をしていた気もする。
「……でもね、柚香の眠る顔を見て気付いたの。柚香はいつも苦しそう。ほとんど笑ったところを見たことがないなって」
「え……そうだった?」
 思い返してみるけれど、当時じぶんがどんな状況だったかなんて、ぜんぜん思い出せない。苦しかった記憶すら、あまりない。
 お姉ちゃんが笑う。
「そうだよ。柚香はいつも辛そうな顔してた。呼吸も苦しそうで、見ててこっちまで苦しくなった。だから思ったの。柚香を苦しめる病気を治したいって。そうしたら、柚香だけじゃなく、お母さんもお父さんもみんな笑顔になるでしょ? そのとき、私は医者になるって決心したんだ」
 初めて聞くお姉ちゃんの告白に、私は呆然とする。
「じゃあ……お姉ちゃんが医者を目指してるのは、私のため……?」
「そうだよ。っていっても柚香はもう元気だし、私が医者になったところで、もう意味はないんだけどさ」
 お姉ちゃんは天井に向かって手を翳し、大きく伸びをする。
「お姉ちゃんが……私のために医者になりたいと思ってるなんて、今までぜんぜん知らなかった。なんで教えてくれなかったの?」
「えーだって恥ずかしいじゃん」と、お姉ちゃんが照れくさそうに笑う。
「……でも、それならお姉ちゃんは、どうして今も医者を目指してるの?」
 私を助けたいというのがお姉ちゃんの夢だったとしたら、それはもう必要ない。私はもう病弱な子供ではないからだ。
 今さら、わざわざ狭き門の医者なんて目指さなくたっていいはずだ。もっと楽な道を選んだってよかったのに。
「たしかに、柚香が元気になって私の夢はなくなった。でも、夢があろうとなかろうと、今までの経験や努力はなかったことにはならないでしょ?」
「それはそうだけど……いやにならないの? 勉強とか、大変でしょ?」
「まぁね。でも、ここまでやってくればさすがに興味も出てきたし」
「…………」
「……それにね、柚香は無事こうやって大人になれたけど、柚香みたいな子は、世界にたくさんいるから。だから、その子たちを救いたい。それから、その家族も。きっと病気って、患者本人だけじゃなくて、家族の心も蝕むものだから。きれいごとかもしれないけど、それでもそういう志を持った医者になりたい」
 医者は病気を治すもの。患者の家族のことなんて、考えたこともなかった。
「……やっぱり、お姉ちゃんはすごいね」
 私とはぜんぜん違う。とても敵わない。
「そんなことないよ」
 ぽん、と頭にお姉ちゃんの手が乗った。顔を上げると、お姉ちゃんが優しい微笑みを浮かべて、私を見つめている。
「柚香こそ、なによりえらい」
「……どうして?」
「だって、今ちゃんと生きてるじゃない」
「……?」
 いつもよりちょっと大人っぽい眼差しで、お姉ちゃんは私を見ていた。
「私の夢はね、叶わないほうがいいものだったんだから」
 だって、私の夢は柚香が苦しんでいる前提のものだったから。
 お姉ちゃんはそう言って、目を伏せた。
「……でも、お母さんは私がお姉ちゃんみたいな立派な医者になることを望んでる。その期待に応えなきゃ私は……」
 あぁ、とお姉ちゃんが苦笑する。
「あれは、期待とかそういうんじゃないよ」
「え?」
「お母さんは、柚香が心配でたまらないから口を出すの」
「どういうこと?」
 お姉ちゃんはのんびりとした声で話しながら、次の水槽へと歩く。
「柚香はね、お母さんの中では今もずっと弱くて護ってあげなきゃいけない存在なの。ちゃんとレールを敷いてあげなきゃ気が済まないのよ。柚香、小さい頃はずっと、イルカの調教師になりたーい! とか、探検家になりたい! とか言ってたからね」
 思い返してみるけれど、まったく覚えていない。
「……初耳だけど。ていうか私、イルカの調教師になりたいなんて言ってた?」
「言ってたわよ。イルカが主人公の絵本が大好きで」
「あ、その絵本のことは覚えてる。イルカの兄弟の冒険のお話だったよね」
「そうそう! 懐かしいー」
「……じゃあ、お母さんは、お姉ちゃんみたいになれって言ってるわけじゃないのかな」
「違うよ。お母さんが柚香に願ってるのは、ひとつだけ。元気でいてくれますように、って、それだけよ」
「……お母さんが……?」
 お母さんは、私をちゃんと愛してくれていた?
「私……邪魔とか思われてない? いてもいいのかな?」
「バカなこと言わないの。当たり前でしょ」
「だって……」
 お姉ちゃんと違って、私は優秀じゃないから。愛されていないから。
 存在自体を否定したくなった夜もあった。
 お母さんから直接本心を聞いたわけでもないのに、勝手に決めつけて。
「お姉ちゃん……私、今までお姉ちゃんのこと、実はちょっときらいだったんだ。お姉ちゃんはなんでもできて、みんなに愛されてるから……お姉ちゃんさえいなければ、こんな惨めな気持ちにならずに済んだのにって」
「……うん」
「でも今日、一緒に出かけて思い出した。私……小さい頃からお姉ちゃんのこと大好きだったんだって」
「ちょっとなによ、あらたまって」
「……お姉ちゃん、本当に出ていっちゃうの? 大学、そんなに遠くないじゃん。今までみたいに、家から通えないの?」
 引き止める私に、お姉ちゃんは優しく笑う。
「行くよ。柚香の受験の邪魔にはなりたくないしね」
「お姉ちゃんがいなくなるの、寂しいよ」
「大丈夫だよ。ちょこちょこ帰るし」
「でも……」
「私ね、柚香が青蘭医大に来ること、反対してるわけじゃないよ。ただ、柚香には私を追いかけるんじゃなくて、本当にしたいことをしてほしかっただけ。柚香が本当に医者を目指してるなら、めちゃくちゃ応援するからさ」
「……うん」
 ――夢。
 私はまだ、お姉ちゃんのように道を一本には決められない。けれど、今までよりはずっと、悩むことが怖くなくなっている。
「さて、次どこ行く?」
 お姉ちゃんは、私の腕にじぶんの腕を絡めてくる。
「うーん、じゃあ私、イルカ見に行きたい! イルカ!」
「あんた本当にイルカ好きねぇ……あれ、マップどこやったっけ?」
「もう、バッグの中にあるでしょー」
「あ、あったあった。イルカコーナーは……この先かな?」
「本当? お姉ちゃん地図音痴でしょ。貸して」
「ちょ、なによひと聞きの悪い」
 やいのやいの騒ぎながら、私とお姉ちゃんはイルカがいるコーナーへ向かう。
 その日、私たちは閉館時刻になるまで、存分にえのすいを楽しんだ。