その日の夜、お風呂から上がってスマホを見ると、音無くんからメッセージがきていた。
『どうだった?』
おそらく、葉乃とのことを心配して連絡してくれたのだろう。
気にかけてくれていたことが嬉しくて、スマホを見ながら頬が緩む。
『おかげさまで、仲直りできたよ!』
星カフェで食べたガトーショコラの写真と合わせて送ると、すぐに既読がついた。
『うわ、浮気かよ! 俺のとこのガトーショコラ最高とか言ってたくせに!』
冗談交じりの返信が返ってきて、さらに笑う。
『じゃあ次あのファミレスに行くときは、葉乃と美里も誘っていくね』
返信を打って勉強の続きに取り組むけれど、スマホが気になって仕方がない。
通知が来るたびに光る画面を確認しては、音無くんじゃないと分かると落ち込んで、返信が遅いと寂しくなったりして。
『ごめん、お風呂入ってた』
たったそのひとことで、それまでのもやもやが晴れていく。
不思議だ。今までこんな感情になったことはなかった。
あのファミレスで音無くんと偶然会ってから、私の学校生活はまるで変わった。
今までいやいややっていた勉強が、今では少し楽しく感じるようになっていた。
葉乃とも本当の意味で友達になれたし、本音を言うことの大切さも知った。
――音無くんは今、なにしてるのかな。
気付けば、音無くんのことを考えている時間が増えた。
お風呂から上がってしばらく経つのに熱を持ち始める頬に戸惑いながら、私は問題集と向き合った。
***
「恋だね」
「えっ!?」
美里のどこか得意げな笑みに、私は素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、柚香声でかい」
「あっ……ごめん」
土曜日、私は美里と葉乃と例のファミレスで勉強していた。テーブル席に座り、三人で勉強していると音無くんが注文した料理を運んでくる。
アイスティーを飲みながら、美里を見る。美里はどうやら、例の星カフェの店主・春希さんの話をしているらしかった。
美里はこのところ、かなり頻繁に星カフェへ通っている。おかげで顔を覚えられて、最近ではお店に行くとちょっとした会話までするような間柄になったとか。
「それでさ、今度スタジアムで野外シアターイベントがあるんだけど、それに星カフェも出店するんだって! 三人で行かない?」
「いつ?」
「今週の土曜日! 夜の八時から乾多駅前広場でやるんだけど、どう!?」
「私は行けるよ」
週末の夜。
ふだん、部活をやらない私の門限は、夜七時。
八時から映画となると、帰りは早くても十時は過ぎるだろう。行けるものなら行きたいけれど、お母さんに聞いてみないと分からない。
「……ごめん、家に帰ってからあとで返事でも平気?」
「うん、分かった!」
「行けるといいね。 野外シアターとか、私初めて」
「私も! しかも二本立てなんだって!」
「へー」
ふたりともすごく楽しみにしているようだ。私も話に混ざりながら、お母さんになんて言おうかと考えていた。
家に帰り、キッチンで夜ご飯を作っていたお母さんに声をかける。
「お母さん。今週末、美里と葉乃と野外シアターに行きたいんだけど、行ってもいい?」
さっそく打ち明けると、お母さんは私のほうを振り向かないまま、
「べつにいいわよ。でも、門限は守りなさいね」
と、早口で言った。
なんとなく、そう言われるような気はしていた。
しまった、と思う。今日はあまり、お母さんの機嫌は良くないみたいだ。言うタイミングを間違えた。でも、今さらあとには引けない。
「野外だから、映画は八時からなんだって。帰りは十時くらいになっちゃうから、門限には間に合いそうにないんだけど……」
「じゃあダメね」
「お願い、お母さん」
もう一度懇願すると、お母さんは露骨に不機嫌そうな顔をして、大きなため息をついた。
「……あなたねぇ、いい加減にしなさい」
うんざりしたような声だった。
「お姉ちゃんは、そんなわがまま言わなかったわよ」
不機嫌そうに吐き捨てて、時計を見る。
「あぁもう、お父さんも帰ってきちゃうじゃない。ちょっとそこのお皿とって」
「…………はい」
お皿を差し出すと、お母さんはそれを奪うようにとった。お皿を掴んでいた手が痛い。
「分かってるの? あなた、来年受験なんだからね。お姉ちゃんより出来が悪いのに、そんな遊んでてずいぶん余裕なのねぇ」
まるで、私がサボっているとでも言いたいみたい。私だって頑張っているのに、どうして分かってくれないんだろう。
早口で責められて、言い返す気も失せてくる。
「……分かった。断っとく」
「当たり前でしょ。もう、忙しいときに苛立たせないでよ」
苛立ったようなお母さんの横顔に、私は唇を噛む。
私は、そんなに苛立たせるようなことを言っただろうか。ただ美里たちと出かけたいと言っただけなのに。
――受験生って、たった一日遊ぶのも許されないの?
部屋に戻り、美里と葉乃と三人のメッセージグループに、『ごめん。やっぱり用事入ってたから行けそうにない』と送る。
すぐに既読がついて、
『しゃーない』
『じゃあ別の日に三人でどこか行こうよ。いつなら平気?』
ふたりの優しさに嬉しくなるけれど、それでは星カフェの店主さんのお店に行けなくなってしまう。
『私はいいから、ふたりで行ってきてよ。月曜に感想聞きたいし!』
送信してアプリを閉じる。
ふう、と息を吐くが、いらいらは抜けない。
私はお姉ちゃんとは違う。お姉ちゃんと一緒にしないでよ。
それに、私は勉強のためだけに学校に行っているわけじゃない。
どうしてあのとき、そう言い返せなかったんだろう。
――私っていつもそう。
頭に血が上ると、言葉が出なくなる。なにも言い返せなくなってしまう。
お姉ちゃんにも指摘されたばかりだ。
――変わりたくても、なかなか変われないものだなぁ……。
なんとなく、音無くんの声が聞きたくなってスマホを開くと、メッセージアプリに通知が来ていた。
『今なにしてる?』
音無くんからのメッセージに心が浮き足立つ。
『ちょうど美里たちと勉強会から帰ってきたとこ』
『電話していー?』
『うん』
返信してすぐ、スマホが振動した。
「もっ……もしもし!」
『あ、清水?』
スマホを耳に当てると、音無くんの低い声が聞こえてくる。
「うん……」
『なんか声暗くない? また後藤たちとなんかあったの?』
「ううん。お母さんと喧嘩っていうか……ちょっと揉めて」
『あぁー』
察したように音無くんが相槌を打つ。
「そういえば今週末、乾多で野外シアターやるんだね。音無くん行くの?」
『俺は行かないかな。清水は行くの?』
「美里と葉乃に誘われたから私も行きたかったんだけど、門限過ぎちゃうからダメって親に言われて」
『あぁ、それで喧嘩になったのね』
「うん……音無くんちは門限とかある?」
『うちは放任主義だから、べつに帰り遅くなってもなにも言われないかな』
「いいなぁ。羨ましい」
『そうか? 俺はなんとなく門限って憧れるけどな』
「えっ、なんで?」
ないほうが自由なのだから、ぜったいにいいのに。
『だって、心配されてるって感じしない?』
「心配……」
そうなのだろうか。少し考えて、首を振った。
「違うよ。ぜったい、私が勉強もしないで遊びに行くのが気に食わないだけだよ」
きっとそうだ。お母さんは、私のことなんて愛していない。
『そうかなぁ』
「愚痴っちゃってごめんね。明日も朝早く行く?」
『うん。そのつもり』
「じゃあ、私も行く。今回数学がついていけなくなりそうで怖くて」
『え、マジ? じゃあ今からする?』
「えっ、今から?」
音無くんのくすくすという笑い声が、スマホを通じて聴こえてくる。
『うん。どうせ今暇だし』
「それいい! 同じ問題やっていけば、分からないところ教え合えるもんね!」
『どこが分からない? 清水が気になってるところからやろーぜ』
「じゃあ七十三ページの問三から……」
――なんでだろう。
音無くんと話している時間は、勉強している時間ですら心が踊る。
音無くんと一緒だと勉強すら楽しくて、音無くんに会えると思うと学校に行かなきゃならない平日の朝が待ち遠しくて仕方がない。
「ねぇ、これからもこうやって電話できる?」
電話を切る直前、私は音無くんに訊ねた。訊かずにはいられなかった。
『いいよ。案外捗ったしね。俺も助かる』
「本当? じゃあ、またね」
『うん、また明日』
音無くんとの通話を終えてからも、私の心はしばらく浮き足立っていた。
***
週末を終え、月曜日。
いつものように朝早く教室へ行くと、珍しく音無くんの姿はまだなかった。
どうやら今日は、私のほうが一足早かったようだ。いつもと同じ電車で来たのに。
――今のうちに、飲み物を買ってこようかな。
鞄から財布を取り出し、いちばん近くの自動販売機へ向かう。
北棟と南棟の間の渡り廊下に出ると、ちょうど自動販売機の前にだれかがいた。
音無くんと梓ちゃんだ。咄嗟に私は扉の陰に隠れて様子をうかがう。
「優希ってば笑い過ぎだよ、もー」
梓ちゃんの溌剌とした声が、静かな空間に凛と響く。
「悪かったって!」
楽しそうなふたりに、私はその場所へ向かうのをためらう。
音無くんがこれまで早く学校に来ていたのは、もしかしたら梓ちゃんとこうして話すためだったのかもしれない。
もしそうだとしたら、私は邪魔をしていたことになる。
――約束、したのにな。
ずきん、と胸が痛んだ。
結局、私は遠回りをしてべつの自動販売機に向かった。
アイスココアのストローを咥えながら、空を見上げる。どんどん鮮やかになっている空に目を細める。
――せっかく早起きしたのに、朝勉サボっちゃった。
結局私は、始業時間ギリギリになるまで教室に戻らず、構内をふらふらして時間を潰した。
ちょうど昇降口前の廊下を通ったところで、登校してきた美里と葉乃とばったり会った。
「あっ! おはよ! 美里、葉乃」
「おはよう、柚香」
「おはよぉ、ゆず」
笑顔で挨拶をしたものの、ふたりの顔はどこか暗い。ふたりの、というより主に美里の。
なにかあったのだろうか。
「どうしたの、美里」
なにかあった? と声をかけると、美里がパッと顔を上げた。目が合うと、美里はみるみる泣き顔になっていく。
「えっ? ちょっ、どうしたの!?」
慌てる私に、美里が抱きつく。
「ゆず〜っ!!」
「わわっ」
「聞いてよ! 土曜日にね、葉乃とふたりで野外シアター行ったの! そうしたら春希さん、奥さんと一緒にいて……しかも子供までいたんだよ!!」
「……そ、そうだったんだ。この前言ったとき、指輪してたっけ?」
「聞いたら、ふだんは衛生の関係上してなかったんだって……マジショック」
「あぁ……」
「それで、映画の前からこの有様なのよ」
と、淡々とした口調で、葉乃が説明する。
「大変だったね、葉乃」
「まぁ、春希さんの奥さん、すごい美人だったから、美里が落ち込むのも分かるけど」
落ち込んだ様子の美里に、私は葉乃と顔を見合わせて、どうしようかと苦笑を漏らす。
「もう美里ってば、いつまでも落ち込んでないで元気出しなよ」
「だって〜」
子供のようにグズる美里に苦笑しつつも、心の中では美里を羨ましく思った。
ふと、いいことを思いつく。
「ねぇ、よかったら今日、放課後三人でコスメ見に行かない?」
「……コスメ?」
「ちょうど新しいリップほしかったの。美里もイメチェンしたいって言ってたでしょ? 私、美里にはオレンジ系のリップが似合うと思ってたんだよね〜!」
美里の顔に、パッと花が咲く。
「なにそれ、行く! 超楽しそうじゃん!」
よかった。少し明るくなった。
「葉乃も行くでしょ?」
「行く!」
いつもの美里だ。葉乃を見ると、葉乃が口パクで「アリガト」と言う。
機嫌を直した美里と葉乃と他愛ない話をしながら、教室へ入る。
と同時に、始業のチャイムが鳴った。急いで席について、文庫本を机の中から取り出した。
***
放課後になると、私たちはさっそく駅ビルの地下にあるコスメショップに向かった。
「ね、そういえば柚香ってなんの化粧水使ってるの?」
「あっ、私も気になってた! ゆずって肌きれーだしさぁ。私ニキビができやすくて……」
「えー、そんなことないよ。私だって肌荒れするする!」
女の子の日が近くなると、顔にいくつもニキビができる。
ニキビがあるときは、常にだれかに見られているような気がしてしまって、落ち着かない。
「分かる! ニキビ顔とか思われてんだろーなーとか!」
「私たちが思うほど、周りはべつに気にしてないんだろうけどね」
「そうなんだけどさぁ」
ちょっとした悩みだったけれど、話してみるとふたりも似たような悩みを持っているらしい。
「あっ、化粧水ってこのあたりじゃない?」
私たちは話しながら、化粧水のコーナーへ向かう。すぐ正面の棚に、じぶんが使っているものと同じパッケージの化粧水を見つける。
「あ、これこれ。私はこれ使ってるよ」
そう言って、私が使っている化粧水を手に取る。
「良さそう! 私も使ってみようかな」
悩む美里の横で、葉乃は洗顔コーナーを物色していた。
「葉乃はなに見てんの?」
「私は洗顔がほしいんだよね。今使ってるの、洗い上がりがあんまりいい感じしなくて」
「そうなんだ」
「柚香はなに使ってる?」
「私はふだんは化粧しないからこれ。でも、休みの日に化粧したときとかは、お姉ちゃんのクレンジング洗顔借りてる。えっと、これなんだけど……」
「おっ! ゲルか。いいって言うよね」
「私、ゲルはまだ使ったことないな〜」
「あと、角質取りにはスクラブ入りもいいってお姉ちゃん言ってたよ」
「へぇ〜そっか! ありがとう。買ってみる」
美里と葉乃は、目を輝かせて商品を選んでいた。
ひととおり買い物を済ませたあと、私たちは駅中にある有名珈琲チェーン店に入った。
「ねね、知ってた? この前SNSで見たんだけど、このフラペチーノのミルクをアーモンドミルクにするとピノのアーモンド味になるらしいよ!」
「えっ! そうなの?」
「私、今日はそれにするんだ!」
「私はカフェモカ」
「葉乃はいつもそれだよね〜。飽きない?」
「私、冒険はしない派。確実に美味しいやつ飲みたいじゃん」
「分かるけど、それじゃつまんないよ〜」
「つまらなくてもいいの。てか、私が保守派になったのはいつも新作選んで失敗してるだれかさんを見てるせいだから」
「それはだれだ?」
「あんただ」
「え、私!?」
「あ、でも味見はしたいから美里と柚香のひとくちずつちょうだいね」
炸裂する葉乃節に、私は思わず笑ってしまった。
「ゆずが笑ってる〜」
「ごめん。ふたりって本当に仲良いいなって思って」
「そりゃあ、親友だからね」
「だね。で、ゆずはなににする?」
「あー……私は……」
――どれにしようかな。
いつもメニューの中から、じぶんの飲みたいものをパッと選ぶ美里と、ブレない葉乃。
私はメニューの上で指先をさまよわせたまま、ひとつに決められずに悩む。
――どうしようかな。
あまり迷ってる時間はない。早く決めなければ、ふたりを待たせてしまう。
「あっ、見てみて! この抹茶のやつも美味しそう!」
「ほんとだー。お、これも美味しそう」
「これは悩むね〜! 私、次はこれ飲もうかな」
――次。
ふたりの何気ない会話に、ハッとした。
――そっか。次があるのか。
今、どれを選んだとしても、それがすべてじゃない。
また、次があるのだ。今回頼んで気に入らなければ、次は違うものを頼めばいい。
そう考えると、ずいぶん気持ちが軽くなる。
「……私、これ飲んでみようかな」
選んだのは、ずっと気になっていたエスプレッソシェイク。
苦いのかもと思って、なかなか手が出なかったけれど思い切って選んでみた。
「あーそれ、私も気になってた!」
「エスプレッソだと苦いのかな?」
「えーシェイクだから甘いんじゃない?」
「飲めば分かるでしょ」
「だね〜」
ドリンクを注文し、三人がけの空いているテーブル席につく。
「うんま〜!」
さっそく届いたドリンクを飲んだ美里が、とろけた声を上げる。それを見ていた葉乃が苦笑した。
「あっという間に機嫌直ったね。朝まで死にそうな顔してたのにさ」
「美里、元気出た?」
「うん! ふたりのおかげで元気出たよ! マジでありがと〜。今日この化粧水使うのも楽しみだし!」
上機嫌におしゃべりを始めた美里に、私も安心してドリンクを飲む。
初めて飲んだエスプレッソシェイクは、ちょっとほろ苦くて、でもその中にほんのりと優しい甘さもある。
頼んでよかった。すごく美味しい。
「でもさ、柚香はお姉さんがいるから、コスメとかそういう知識、詳しく教えてもらえていいよね。私たちひとりっ子だからぜんぜん分かんなくて。今日はすごい助かったよ」
「分かる。私も昔お母さんにお兄ちゃんがほしいって駄々こねてたことあった。まぁ、ふつうに無理だったよね」
「しゃーない。子供はそういうことわかんないから。でも兄妹かぁ。それなら私はお姉ちゃんがいいな〜。友達感覚で恋の相談とかできそうだし!」
盛り上がるふたりに、私はぽつりと漏らす。
「……そんないいものじゃないよ」
言ってから、しまった、と思った。思わず本音が漏れてしまった。
美里と葉乃が顔を見合わせる。
「あっ、ごめん。べつに変な意味で言ったんじゃなくてね。ただ喧嘩とかもするし……」
慌てて誤魔化そうとするけれど、咄嗟にうまい言い訳が出てこなくて、歯切れの悪い言い方になってしまった。
思わず俯いた私に、美里が控えめに「あのさ」と言う。
「……ずっと思ってたんだけどさ、ゆずってお姉さんとあんま仲良くない?」
「え……」
返す言葉に詰まっていると、今度は葉乃が気遣うような口調で言った。
「あんまり話したくなかったら、無理には聞かないけど……よかったら聞くよ」
「うんうん。私たち、いつもゆずに助けられてるし。たまには力になりたいよ」
美里と葉乃のまっすぐな言葉に、心が揺らぐ。
――どうしよう。
本当は話したいけれど、もし本音を打ち明けて、笑われてしまったら。
そのとき、脳裏に音無くんの声が響いた。
『みんなが慕ってるのは、清水が優等生だからじゃない。清水が頑張ってるからだよ』
思い切って本音を打ち明けたとき、音無くんがくれた言葉だ。
――本当にそうなのかな。
考える。
あのときだって、本音を話すのは怖かった。
私はありのままのじぶんに自信がないし、繕うものを失ったらじぶんを守るものがなくなってしまう。
でも、音無くんに思いを打ち明けて心が軽くなったことも事実だった。
戸惑いながらも顔を上げると、ふたりは優しい顔をして私を見つめていた。
『……夢がないって、変じゃないかな……?』
『変なわけない』
夢がないことを勝手に悪いことと思って、勝手に自信を喪失して。
『俺らまだ十七だよ? 人生まだまだこれからだろ。焦ることないよ』
でも、音無くんに教えてもらった。
夢がないことは、意思がないことではない。
ずっとひとりで抱えていた。だれかに話したかった。でも、怖くていつも言葉を飲み込んでいた……。
話してみなければ、受け入れてもらえるかどうかは分からないのに。
現状を変えるには、勇気を振り絞るしかないのに。
ふぅ、と息を吐く。
――……大丈夫。
もし私がふたりに本音を打ち明けたとしても、ふたりはそれを笑ったりするような子じゃない。
手のひらをぎゅっと握る。
「……あのさ……聞いてくれるかな」
思い切って顔を上げると、美里と葉乃はもう一度顔を見合わせて、「もちろん」と、微笑みながら頷いてくれた。
「私ね、ずっと青蘭医大を第一志望って言ってきたけど、本当は医者になりたいわけじゃないんだ。青蘭医大を目指してるのは、お姉ちゃんが行ったからなんとなくで……お姉ちゃんと同じように医者を目指せば、みんなに認められるような気がして……ただの強がりだったの」
私にとってお姉ちゃんは、目の前に立ちはだかる大きな壁のようなものだった。手を伸ばしても届かなくて、どれだけ強く押しても避けられないもの。
お姉ちゃんのことは大好きだけど、となりにいるといつも必ず比べられたから、そばにいるのは息苦しかった。
「………私、今までふたりの前では猫被ってた。本当はぜんぜん優等生なんかじゃないんだ。勉強だって、毎日ついていくのに必死で……こそこそひとりで勉強してた。本当はふたりと勉強会とかしたかったし、悩みも聞いてほしかったけど、私がこんなことで悩んでるって知ったら、呆れて離れていっちゃうんじゃないかって思ったら、怖くて言えなくて……ごめんなさい」
ふたりは口を挟むことなく、私の話にじっと耳を傾けてくれる。
「ゆず……」
美里の声がどことなく震えているような気がして、私は顔を上げる。
美里と葉乃の顔を見て、驚いた。
ふたりは目元をほんのり赤くして、私を見ていた。ふたりの目はしっとりと濡れていて、涙ぐんでいるのが分かる。言葉もなく驚いていると、美里が私に向かって小さく叫んだ。
「バカ! 私たちが親友の悩みをバカにするわけないでしょーが!」
そう言う美里は、少し怒ったような顔をしている。私は美里が言った言葉に、ぽかんとした。
「しん……ゆう?」
私たちは、親友だったのか。
ふたりのことは信頼しているし、友達だと思っている。けれど、ふたりが私のことを親友とまで思ってくれているとは思わなかった。
「私たち……親友なの?」
ぽつりと漏らすと、美里が青ざめる。
「えっ!? 違うの!? もしかして、親友って思ってたのは私だけ!? なにそれ、めっちゃ悲しいんだけど!」
その顔は、本気で衝撃を受けているようだった。
「ご、ごめん! そういうつもりじゃなくて……でも私、ふたりとは昨年友達になったばっかだし……そこまで思ってくれてると思わなかったから、びっくりしちゃって」
となりで葉乃が、ため息をついた。
「まぁ、柚香の気持ちも分かるけどさ。でも、こういえのってたぶん、時間じゃないよ」
「え?」
「友達ってさ、家族とか夫婦とかと違って、血の繋がりも書類上の証明もないし、すごく不安定なものだと思う」
葉乃はドリンクを両手で包み、ひっそりとした声で言う。
葉乃は私と目が合うと、ふっと目を細めて、私に優しく問いかけてきた。
「今日、柚香が美里をショッピングに誘ったのは、落ち込んでた美里を元気づけるためだよね?」
「え? う、うん」
頷くと、葉乃はふっと気を抜いたような笑みを見せる。
「親友って、そういうことだと思う。ちょっとした言葉とか、行動とかでお互いがちゃんと思い合ってるって分かること」
「おお、葉乃いいこと言う!」
美里が葉乃の肩をつんと小突くと、葉乃はじろりと美里を睨んだ。
「でも私、美里のひとの言動を茶化すところはきらい」
「うっ……ご、ごめん」
顔をひきつらせて謝る美里を見て、葉乃が「冗談だけどね」と笑う。
「冗談かよ」
ツッコミながらも、美里の表情は嬉しそうだ。いつもどおりのふたりの痛快なやりとりに、なんだかほっとしつつ、いいなぁと思う。
「……そっか……」
これまで、私は勉強しているところを見られるのすら不安だった。
もし、私が努力して今の地位にいることが分かってしまったら、みんな私から興味を失くして離れていってしまうんじゃないかと、怖かった。
だけど、考え過ぎだったのだ。
少なくともふたりは、ひとの努力をバカにするような子じゃない。
一年以上友達として接してきた私は、はっきりそう断言できる。
それなのに私は、勝手に自信を失くして、怯えていた。
「……あ、あのさ、私……」
「柚香」
言い淀む私に、葉乃が声を被せてくる。
「私たちはべつに、なんでもかんでも話すのが親友って言いたいわけじゃないよ」
ふたりは優しい眼差しで私を見つめていた。
「そーそ! ゆずは、言いたいときに言いたいことを言えばいいさ。私もそーするし」
「…………」
あらためてじぶんの心に問いかける。
私はべつに、ふたりに本音を言いたくなかったわけではない。
ただ、今の関係が壊れてしまうかもと考えると怖くて勇気が出なかっただけなのだ。
ふたりの考えかたを知った今、恐怖心はあまりなかった。
言うなら、きっと今がいちばんいい。
ふたりには言いたい。私の弱いところも知っていて、辛いとき助けてほしい。そう、心から思う。
「……うち……お姉ちゃんが優秀だから、親からはあなたもお姉ちゃんみたいに立派になりなさいって言われて生きてきたんだ。でも、頑張っても頑張っても、ぜんぜんお姉ちゃんに追いつけなくて……でも、みんなに立派だねとか、偉いねとか言われてきたから、みんなから慕われるじぶんでいるためには、このくらい努力しなきゃいけないんだって……だからずっと、じぶんの意見は呑み込んでた」
思いが込み上げて、視界が滲む。
震える声で本音を漏らすと、そっと頬を挟まれ、顔を上げさせられた。
葉乃が身を乗り出して、私に触れていた。
「大丈夫。柚香は柚香だよ。どんな柚香だって、私たちは友達のまま。だから、私たちの前では無理して笑わないでよ」
「葉乃……っ、あ、ありがと……」
葉乃の言葉で、目に溜まっていた涙が頬をつたい落ちていく。
「そうだよっ! ゆずはゆずなんだから、お姉ちゃんなんか関係ないじゃん! ゆずは、ゆずらしくいればいいんだよっ!」
ふっと全身から力が抜けていくようだった。今までだれにも打ち明けられなかった不満や不安が、葉乃や美里の言葉ひとつできれいに霧散していく。友達の力ってすごい。
「ねぇ、今度三人で夏期講習でも行く?」
「えっ?」
「勉強会とかって気分沈むけど、ふたりと一緒だと楽しそうだし。勉強目的なら、ゆずのお母さんも許してくれるんじゃない?」
「そっか……!」
「ねっ? やろやろ! もうすぐ夏休みだし!」
「昼間のイベントも行こうよ。そういえば、池袋でお化け屋敷が期間限定でやるんだよね! 今度行かない?」
「なにそれ楽しそう!」
話が持ち上がった途端、ふたりははしゃぎながらスケジュールアプリを開いて予定を立て始める。
そんなふたりを見つめ、私は心からふたりに話してよかったと思った。
カフェを出て、駅までの道すがら。
夕暮れの街の喧騒の中、私はふたりに告げる。
「美里、葉乃、今日は話聞いてくれてありがとね」
「また三人でショッピング行こうね!」
「うん! 行く」
ふたりと顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。
知らなかった。
ただ悩みを打ち明けただけなのに、本当のじぶんを受け入れてもらえただけなのに、こんなにも心は軽くなるんだ……。
私は、硬いアスファルトにたしかに足を踏み出した。
学校の最寄り駅につくと、私は反対方向の美里と別れて、葉乃とふたりきりで電車を待っていた。
ホームのベンチに腰掛けて、向かいのホームに立つひとたちを何気なく眺めていると、ふと葉乃が私を呼んだ。
「ねぇ柚香」
「んー、なに?」
「……ありがとね」
「え?」
「私たちに本音話してくれて」
「……私こそ、聞いてくれてありがと。葉乃のおかげで、めちゃくちゃ心が楽になった」
葉乃が目を大きく開いて、私をまじまじと見た。
「ほんと?」
「うん」
「話を聞いてて思ったんだけどさ。柚香って、お姉さんのことも親御さんのことも、きらいじゃないよね?」
「……きらいじゃない。お姉ちゃんのこともお母さんのことも好きだから……だから余計、辛かった。私を見てほしかったんだと思う」
「そっか」
葉乃が黙って私の手を握る。
「大丈夫」
「……うん」
あたたかいぬくもりに、心から話してよかったと思った。
***
家に帰ると、玄関先でばったりお姉ちゃんと出くわした。
「あ……」
お姉ちゃんとは、あの夜以来ずっと喧嘩したままだ。いい加減ちゃんと話さなきゃと思いつつ、すれ違い続けていた。
お姉ちゃんは動揺する私にさらりとした声で「おかえり」と言うと、私の横を通り過ぎて靴を履く。
「うん……ただいま」
靴箱のほうへ身体を寄せて、お姉ちゃんが靴を履いているのを見下ろしていると、ふと視線を感じたらしいお姉ちゃんが顔を上げた。
「柚香、あとで、時間ある?」
「え?」
「来週末とか。ちょっと付き合ってほしいんだけど」
「あ……うん。大丈夫だけど」
「じゃあ、週末ね」
お姉ちゃんはそれだけ言うと、振り返りもせずに家を出ていった。
***
朝、部屋のカーテンを開けると、しとしとと雨が降っていた。
衣替えは済んでいるが、今朝は少し肌寒い。
私はブラウスの上からサマーセーターを着て、家を出た。
雨の街を見ていると、音無くんのことを思い出す。以前、音無くんとの会話の中で、雨の話題が出たからだろうか。
あのときの話は本心だった。
雨はもともと好きだった。でも、あれから雨がもっと好きになった。
傘を鳴らす雨音も、田んぼの水面に広がる波紋も。くすむビルの影も、そのなかでも色彩鮮やかな草花も。
ぜんぶ、音無くんとの思い出にリンクするからだろう。
私は少し早歩きで学校へ向かった。
「おはよう」
校門前に差し掛かったところで、ビニール傘を差した音無くんが向かいから歩いてきた。
「おはよう」
挨拶をすると、音無くんがしみじみと言う。
「やっと会えたわ」
「え?」
「最近清水、俺のこと避けてただろ?」
「あ……ごめん。なんか、邪魔したくなくて」
「邪魔?」
音無くんが眉を寄せる。
「その……梓ちゃんと仲良いみたいだったし……」
「えっ! なにそれ」
「なんか、ふたりがよく一緒にいるとこ見たから」
「まぁ、小林とはそりゃ同じ部活だから、仲はいいけど。でも、朝勉は一緒にやるって約束してたじゃん。ずっと待ってたんだよ」
「そうだけど……私はそうしたかったけど、でも、もしかしたら音無くんにとっては迷惑だったかなって思って」
「あー、また勝手な解釈!」
ハッとする。
「あっ……ごめん」
そうだ。
私はまた勝手に、じぶんの想像で音無くんから離れようとした。音無くんはきっとこう考えていると思い込んで。
「……そうだよね、ごめん」
「いいよ。癖っていうのは、そう簡単に変わらないよな。俺もそうだし」
「……音無くんも変えたいところがあるの?」
「あるよ、たくさん」
「意外……」
「清水は俺のことなんだと思ってんの? てか、じぶんがめちゃくちゃ好き! なんてひといないと思うけどな」
本当、そのとおりだ。
「ごめん」
ぺろりと舌を出して謝ると、音無くんは「もう」と、ぽりぽりと頬をかいていた。
「べつにいいけどさ。俺も、もしかしたらまたなにかして清水にきらわれたのかもって落ち込んでたし」
ハッとした。私はまた、先入観に縛られていた。
「そんなわけないよ!」
「本当?」
「……う、うん。本当」
――むしろ……私は。
途端に音無くんの目をまっすぐに見るのが恥ずかしくなって、私は俯きがちに歩く。
ちらりと隣を見て、覚悟を決める。
「……あのさ。私、ずっと音無くんに言いたいことあったんだ」
「なに?」
音無くんが不思議そうに振り向く。
「あのね、私……音無くんのおかげで葉乃と美里とちゃんと話せた。ずっと、だれにも言えなかったことも言えた。だから、ありがとう」
「……そっか。それは、よかったな」
「うん」
話しながら、肩を並べて昇降口に入っていく。
今まで学校は、勉強するための場所だと思っていた。
でも今は、音無くんに会える学校が、美里や葉乃と笑い合える学校が純粋に楽しみに感じている。
***
「そういえば、梓が音無に告ったって噂になってたけど、あれガチかな?」
「えっ、そうなの?」
昼休み、三人でお弁当を食べていると、葉乃がちらりと言った。
「さぁ……」
たぶん、葉乃は私が音無くんと仲がいいことを知っているから、わざと言ってくれているのだろう。葉乃のちょっとした優しさに気づけるようになったことが嬉しい。
「本当かどうかは知らないけどね」
音無くんがモテることは知っていた。
それから、梓ちゃんが音無くんに好意を抱いているということも。
ふたりでいるところはよく見かけたし、梓ちゃんが音無くんに教科書を借りに来ることも多々あったから。
――音無くんはなんて返事したんだろう……。
もし、梓ちゃんと付き合い出したのだとしたら、もう今までのように電話したり、会うことはできなくなるのだろうか。
それは少し寂しい。せっかくやっと仲良くなれてきたのに。
「……ゆず?」
黙り込む私を、美里が控えめに呼ぶ。
顔を上げると、心配そうな顔をしたふたりが私を見ていた。
「あ、なに?」
「あのさ、ずっと気になってたんだけど、ゆずって音無と付き合ってるの?」
「えっ!?」
思わず大きな声が出る。
「つつ、付き合ってないよ!」
否定すると、葉乃はふぅんと小さく呟き、いちごミルクを飲む。
「でも、好きだよね?」
「え……」
どきりとする。
「最近よく、音無と話してるとこ見るし」
「…………それは、そうなんだけど」
隠していたわけではないけれど、なんとなくじぶんの気持ちがまだよく分からなくて、言い出せずにいたのだ。
「その……そもそもなんだけど。好きってどんな感じ?」
「えーそりゃあ、ふとしたときに会いたいなーとか、今なにしてるのかなーとか、気付いたら考えちゃってるって感じよ」
――気付いたら考えてる……?
「どう。気付いたら考えてる?」
葉乃に訊かれ、考える。
「考えてる……かも」
神妙に頷くと、葉乃はしみじみと頷いた。
「そっか。じゃあ好きだね」
「でも、付き合いたいかって言われると、ちょっと違うかも」
「えーなんで? どーゆうこと?」
美里が興味津々に訊いてくる。
「今のままでも私は満足してるというか、もし告白して断られたら今までのようには会えなくなっちゃう。そんなのいやだし、それにこれから受験だし……だれの手も煩わせたくないなって」
「あーまぁね。言いたいことは分かるけど」
葉乃が頷く。
「でもさ、柚香の中で特別なのは間違いないんだね」
「……うん。それはそう」
音無くんがいなければ、私は今頃もひとりで悩んだままだっただろう。
「じゃあ、音無が他の子と付き合っちゃってもいいって思える?」
「それは……」
いやだ、と思う。
でも、それを口にする権利は私にはない。私は、音無くんにとってなんでもないから。
「いやなら、やっぱり思いは伝えたほうがいいんじゃない? 伝えないまま後悔するよりは、言って後悔したほうが、次に進めそう」
「それはあるね。私は結局、不完全燃焼だったから余計、告白には憧れる」
――告白、かぁ。
怖いけれど、踏み出さなければなにも変わらないということを、私はもう知っている。
音無くんの気持ちは、素直に知りたいと思う。
もし、告白をして音無くんも同じ気持ちだったら、どうなるのだろう。
――付き合うってこと?
でも、付き合ったらどうするんだろう。
――デートとか?
ふたりで出かけるのは楽しそう。
でも、それは恋人じゃなくても勇気さえ持って誘えばできてしまう気がする。
それにもし、付き合ってやっぱりダメになってしまったら。そっちのほうが私は怖い。だって、もしそうなってしまったらきっと、今までのような友達関係には戻れなくなってしまう。
それはいやだ。
そんなリスクを負うのなら、今のままでもいいと思ってしまうのは臆病なのだろうか。
――恋って、難しいな……。
もうすぐ期末テストが始まる。そして、期末テストが終わったら夏休みに入る。
毎年楽しみにしていたはずの夏休みが、今年はなぜか、そんなに嬉しくない。
卵焼きを頬張りながら、私は味気のない空を見上げた。