――いつも、涼しい顔をしてた。
 感情に平坦で、一歩引いて、周囲を俯瞰(ふかん)する大人のふり。
 だけど本当はただ、じぶんに自信がないだけ。平気なふりをしてるだけ。
 本当はただひとりになりたくなくて、周りにナメられないようにいきがってただけ。
 そうやっていたらいつしか、あの頃大きらいだったはずのいちばんいやなやつに、私自身がなってた。


 ***


 以前から葉乃に感じていた違和感が決定的になったのは、三者面談が終わってすぐの昼休みのことだった。
 四時限目終了のチャイムのあと、私は美里と葉乃とお弁当を食べる前に、一度トイレへ立った。
 三者面談週間だった先週は午前で学校が終わっていたから、お弁当を食べるのは久しぶりな気がする。
 トイレから戻り、バッグからお弁当を取り出してふたりの席へ向かう。
 が、定位置にふたりの姿はなかった。
 どこに行ったのだろう、と周囲を見ていると、ちょうど近くを通りかかった音無くんと目が合った。
「どうしたの?」
 声をかけられる。
「あ……あのさ、美里と葉乃知らない?」
一ノ瀬(いちのせ)は見てないけど、後藤(ごとう)なら、さっき弁当持って教室出ていったけど」
「えっ」
 ――どういうことだろう……。
 今日は外で食べる話になっていたわけでもないのに。
 冷や汗が背筋をつたう。
 ――探しに行く?
 でも、もし避けられているんだとしたら。
 追いかけたらいやな顔をされてしまうかもしれない。それに、もし私のいないところで悪口でも囁かれていたら、それこそショックで立ち直れない。
 ――どうしよう……。
 マイナスな考えばかりが浮かんで、動けなくなる。頭が真っ白になって、涙が出そうになる。
 ぐるぐると考え込んでいると、音無くんが「ねぇ」と声をかけてきた。
 ハッとして顔を上げる。
「俺、天文部の部室でいつも食べてるんだけど、よかったら清水も来る?」
「え……でも、私部員じゃないのにいいの?」
「ほかの奴らも友達ふつうに連れ込んでるし。それぞれ自由に天文部の部室を使ってるって感じだから、たぶん大丈夫だと思う」
「そうなんだ」
 教室でひとりで食べるのは視線を集めそうだし、かといってほかのグループに混ざったら、その子たちにどう思われるか分からなくて怖い。
「じゃあ……お邪魔してもいいかな?」
「じゃあ、行こうぜ」
 私は音無くんの好意に甘えて、天文部の部室でお昼を食べることにした。
 天文部の部室は、講堂のとなりの小さなプレハブ小屋みたいなところだ。
 中に入るが人気はない。
「今日はだれもいないなー」
 音無くんは、部室を見回しながら言った。
「今日は?」
「うん。いつもは割と、だれかしら部員がここで食べてたりする」
 部屋の中は、運動部の部室のような汗臭さはないものの、部室特有の少し埃っぽい匂いがした。
「みんな、いたりいなかったりって感じなんだね」
「そうそう。天文部員自体、名前だけ置いておく幽霊も多いし」
 言いながら、音無くんは中央の長テーブルに座り、惣菜パンを食べ始めた。
 私は少し悩んで、手前にあった小さなひとりがけのソファに座る。
 膝の上で弁当箱を開くが、あまり食欲が湧かない。
「……後藤たちとなんかあった?」
 控えめな声に顔を上げると、音無くんが心配そうに私を見つめていた。
 私は手に持っていた箸を置くと、できるかぎり感情を抑えて言った。
「……私、葉乃にきらわれてるっぽい」
「……喧嘩でもしたの?」
「……喧嘩はしてないけど……なんか避けられてるような気がして。前々から、なんとなく感じてはいたんだけど……」
 この前、美里に星カフェにさそわれたときだってそうだ。
 私が行くと言った途端、葉乃の様子が変わった。
「一ノ瀬も?」
「ううん、美里はふつうに接してくれる。だから余計、美里まで私を置いてお弁当食べに行っちゃったことがショックで……」
「なら、一ノ瀬に一回聞いてみれば?」
「でも……美里はたぶん、葉乃の様子に気付いてないし……それに、美里と葉乃は私よりずっと前から友達だから、いざとなったら、私より葉乃との友人関係を優先するかもしれないし……」
 そう思うと、怖くて言い出せない。
「……さっきから清水は『もし』ばっか口にしてるけど、後藤の気持ちは、後藤にしか分かんないんじゃない?」
「え……?」
「後藤にきらわれてるかもしれないっていうのは、あくまで想像だろ? 今分かるのは、清水自身が後藤のことをどう思っているかだけだと思うけど」
「私が……」
 葉乃のことを、どう思っているか。
「清水は後藤のこと、きらいなの?」
 考えてみる。
 私はまっすぐ音無くんを見て、首を横に振る。
 悩んではいるが、葉乃のことは好きだ。もちろん、美里のことも。
「じゃあ、そう本人に伝えてあげたらいいんじゃない?」
「伝える……?」
「伝えて、本人の口から本音を聞けばいいじゃん。俺らが仲良くなったときみたいにさ」
「そっか……!」
 喉に詰まっていたなにかが、すとんと落ちたような気がした。
 美里といて心地いいのは、美里が裏表がなくてまっすぐじぶんの感情を伝えてくれるからだ。
 だから安心して、心を許せる。
 一方で葉乃は大人びていて、なにを考えているのか分からないところがある。
 だから、ちょっとしたことが気になって、過敏になってしまう。
 でもそれは当たり前のことで、葉乃も私に同じような感情を抱いているのかもしれない。
「……私、葉乃とちゃんと話してみる」
「おう」
 音無くんとお弁当を食べ終え、教室に戻ると、美里と葉乃はそれぞれじぶんの席にいた。
 目が合うと、美里が笑顔で私に手を振ってくる。
 いつもどおりの笑顔にほっとしつつ、それならどうして、私になにも言わずにお昼にいなくなってしまったんだろうと疑問がさらに大きくなる。
 そのまま葉乃へ視線を向けると、葉乃のほうは私からパッと目を逸らした。
「がんばれ」
 うしろにいた音無くんが、私にだけ聞こえるように呟きながら、私を追い抜いて席につく。
 話してみなきゃ分からない。じぶんの心に言い聞かせて、私も席についた。

 放課後になると、美里が私の席までやってきた。美里はやはり、いつもと変わらない様子でケロリとしている。
「ねぇ、今日のお昼って、美里はどこか行ってたの?」
 思い切って訊ねてみると、美里はきょとんとした顔をした。
「え? あれ、葉乃から聞いてない? 私、今日は部活の後輩にお昼誘われてるから、ふたりで食べてって葉乃に言っておいたんだけど」
「……あ、そう、なんだ」
 ということは、美里はべつに私を無視していたわけではなかったらしい。
 美里が訝しげに私の顔を覗き込む。
「葉乃と食べなかったの?」
「あ……ううん。そういうわけじゃなくて、詳しく聞いてなかったから、どうしたのかなって気になっただけ」
「そっか!」
「うん……」
 昼休み、葉乃とは話すらしていない。
 けれど、それを言ったらきっと美里が気にしてしまう。
 葉乃の気持ちを聞いていない今はまだ、話すべきではない。
「……ごめんね? 休み時間に急に決まった話だったから、直接言えなくて」
「ううん」
 今の話だと、ふたりで一緒に私を避けたわけではなくて、葉乃が一方的に私を避けたということだ。
 疑念が確信に変わって、気分が沈む。
「さて、帰ろー」
「……うん」
「葉乃ー! 帰るよー!」
 明るい声で、美里が葉乃を呼ぶ。
 葉乃は涼しい顔をして、私の元にやってきた。
 しかし、葉乃は美里のほうを見るばかりで、私と目が合うことはない。
 それどころか、三人で帰っているあいだも、私が話し出すと相槌を返してくれるのは美里だけで、葉乃は黙り込んでしまう。
 美里を中心にして、なんとか場が持っているような状態だった。
 最寄り駅につき、反対方向の美里と別れると、案の定葉乃はひとことも喋らない。
 会話がないまま、ホームのベンチで電車を待つ。
 さっきまでの騒がしさは息を潜め、重い沈黙が私たちの間に漂う。
 気まずくて逃げ出したくなるけれど、ぐっと堪える。
 今踏み出さなきゃ、葉乃とはずっと気まずいままになってしまう。
 それはいやだ。
 意を決して、私は葉乃のほうへ身体を向けた。
「あのさ、葉乃」
 ホームのベンチに腰掛けて、向かいのホームに立つひとたちを見ていた葉乃が、私の声に視線を動かす。
「今日のお昼、なんで教えてくれなかったの?」
「…………」
 葉乃は気まずそうに私から目を逸らした。
 拒絶するような態度に怖くなるけれど、今ここで引いちゃダメだ。
「美里が部活の子と食べるって、葉乃は聞いてたんだよね? 私、知らなかったから、ふたりに無視されたのかなって思って、ちょっとショックだったんだよ」
 声が震える。
 どうしよう。言ってしまった。
 言った途端に後悔の波が押し寄せてきて、逃げ出したくてたまらなくなる。でも、一度口から出た言葉は、もうなかったことにはできない。
 俯きそうになったとき、ふと音無くんの声が脳裏を過ぎった。
『話してみなきゃ、後藤の気持ちなんて分かんないじゃん』
 音無くんの言葉に背中を押される。
 まだ、葉乃の気持ちを聞いていない。
 どうして私を無視したのか。
 どうしてお昼のこと、教えてくれなかったのか。
 逃げちゃダメだ。ちゃんと話さなきゃ。
 ぐっと唇を噛み、顔を上げて葉乃を見る。
「怒ってるとかじゃないけど、言いたいことがあるなら、言ってほしいの。私、なにかしたかな?」
 葉乃は唇をぎゅっと噛み締めるようにして、押し黙ったままだ。
「……葉乃は、私のこときらい?」
 訊いた瞬間、葉乃が表情を強ばらせた。
「……違ったらごめん。……でも、最近なんとなく避けられてるような気がしてたんだ。昨日も、葉乃は帰っちゃったし……お昼のときも感じたけど……私のこと、ハブろうとしてたよね?」
 すると葉乃は、気まずそうに目を伏せた。
「……ごめん」
 肯定ともとれる謝罪に、心臓がどくんと大きく脈打つ。
 泣きそうになるのを堪えながら、私は葉乃を見る。
「……ごめん……だって、このままじゃ美里を取られちゃうと思ったから」
「え……?」
 葉乃の本音は、私が思ってもいないものだった。
「だって、最近ふたりすごく仲良いから、そのうちふたりにハブられるんじゃないかって怖かったの」
 ――私と美里が葉乃をハブる?
「……そんなことするわけないよ。そんなこと、考えてもなかったよ?」
「でも……私は柚香みたいに頭も性格も良くないし。それに、柚香がよくても美里がハブろうとかいうかもしれないじゃん。最近美里、柚香とばっかり話してて、私といるときより楽しそうだったし」
「そんなことないよ。美里はだれかをえこひいきしたりするような子じゃないって、葉乃がいちばんよく分かってるでしょ」
 思ったことを口にしたつもりだった。
「分かったようなこと言わないでよ!」
 聞いたことのない葉乃の大きな声に、私は息を呑んだ。
「美里と出会って間もないくせに! 私のほうが、美里のことぜんぜん知ってるのに……」
 冷静な葉乃らしくない感情的な物言いに、私は動揺を隠せない。
「どうせ、私のこと下に見てたんでしょ」
「そんなこと……」
 ないよ、と言おうとする私を、葉乃が鋭い口調で遮る。
「私は、柚香みたいに完璧じゃない。勉強だって三人の中でいちばんできないし、運動も苦手だし、顔も性格も良くないから、中学のときから美里以外に友達なんてひとりもいなかった。柚香はいいじゃん……私たち以外にもたくさん友達いるし、男子にも人気があるんだし。お願いだから私の大切なもの奪わないで!」
 葉乃から美里を奪うつもりなんてなかった。私は三人で過ごす時間が好きだったのに。
 勝手な解釈でハブられそうになっていたと分かり、悔しさで目頭が熱くなる。
「……なにそれ。そんなの、葉乃が勝手に思ってるだけでしょ! 私だって必死なんだよ!」
 思わず叫んでしまった。葉乃が驚いた顔のまま、私を見つめる。
 お腹の下から、押し込めていた感情がふつふつと湧き上がってくるようだった。
「私は、葉乃が思うような完璧な人間じゃないもん!」
 勉強についていくのにも必死だし、いい子でいるのも本心を言ってきらわれるのがただ怖いだけだ。
 強がって人気者のふりをしていたけれど、実際本音を話せる友達なんて、ひとりもいない。
 葉乃と美里みたいななんでも話せるような幼なじみもいない。気を抜ける場所なんて、家にすらない。
「今日のお昼だって、ふたりに仲間はずれにされてすごくショックだった。葉乃だけじゃない。私だって悩んでるんだよ! なんの努力もしてないみたいに言わないで……!」
 葉乃が唇を引き結ぶ。
「ごめん……」
 鼻をすする音がする。
 葉乃が意気消沈したように話し出す。
「本当は、分かってた。私……今日お昼、ひとりで食べながらずっと後悔してたの。でも……今さら、なかったことにはできないから……謝りたかったけど……勇気が出なくて……ごめん……」
 葉乃はそう言って何度も『ごめん』と謝罪を繰り返す。その横顔は本当に後悔しているようで、複雑な気持ちになる。
 やられたことは、謝られたところで消えはしない。
 それでも、葉乃の顔に後悔の色が見えて、私の心は少しづつ落ち着きを取り戻していた。
「……不安だったの。ひとりになるのはいやだったし、美里を取られたくなくて……」
 私を追い出してでも美里といたいという葉乃の本音に、胸がずきずきと痛んだ。
 でも、きっとそれは私が招いた結果だ。
 私は、これまで一度も葉乃に本音を話さなかった。それに、葉乃の違和感には前から気づいていたのに、なにもしなかった。
 葉乃が私に信頼されていないと思うのも、無理もない話かもしれない。
「……ごめん」
「このこと、美里はなにも知らないの?」
 葉乃はこくりと小さく頷く。
「そっか……」
「美里には、私から話すよ。本当に、ごめん」
 葉乃が呟く。
 その声はか弱く震えていた。
 きっと、このことを話したら美里は怒るだろう。
 葉乃と喧嘩になるかもしれない。もしかしたら、今までのような関係ではいられなくなるかもしれない。
 葉乃の肩が小さく震える。
「葉乃、顔を上げて」
 葉乃が、涙を溜めた瞳を私へ向ける。
「いいよ、言わなくて」
「え……?」
「葉乃はただ、じぶんがひとりぼっちになりたくなかっただけなんだよね? 私をひとりぼっちにさせたかったとか、陥れようとか、そういうんじゃないんだよね?」
「当たり前じゃん……」
 葉乃が嗚咽を漏らしながら、頷く。
「ならいいよ。ひとりぼっちになりたくないのなんて、みんな一緒でしょ。そんな当たり前のこと、わざわざ美里に言うほどのことじゃないし。これまで私も本音を隠してたし、葉乃が不安になるのも仕方なかったと思う。私ももっとちゃんと、葉乃に伝えてればよかった。私は葉乃のことが大好きだし、三人でいる時間も大好きなんだって」
 ずっと伝えられずにいた本音を告げると、葉乃は今度こそ声を上げて泣き出した。
「ごめん、柚香……本当にごめん」
 それからいくつかの電車を見送って、葉乃が泣き止むのを待った。
 葉乃が泣き止む頃には、陽が暮れ始めていた。
「……私ね、前の学校でいじめられてたんだ。中学生のとき」
 泣き止んだ葉乃が、ぽつぽつと話し出す。
「私その頃ちょっと太ってて……しかも、性格も暗かったし。たぶんそれがいちばんの理由で、みんなに無視されてた。男子には小学生の頃からずっとからかわれたりしてたし、だから私、学校がだいっきらいだった」
「葉乃と美里って、たしか私立出身だったよね?」
「うん。小学校からエスカレーター式のとこ」
 ふたりの母校は小中高大一貫の学校で、地元でも有名なところだ。
 知ったとき、どうしてわざわざ外部受験なんかしたんだろうと疑問に思ったことを覚えている。
「みんな、私の悪口を言うか、無視。毎日学校に行くのが辛くて、通学中に吐いたこともある。でもね、二年生になったとき、美里と知り合ったんだ。美里だけは違った。美里は、私の容姿とか関係なく、ふつうに話しかけてきてくれたんだ」
 葉乃は過去を懐かしむように遠くを見つめる。
「私がみんなに無視されていてもおかまいなし。周りの視線を気にすることもなく、私のところに来てくれた。……私、美里がいなかったら、今生きていたかも分からない」
 私はいじめにあったことがない。
 幸い、これまでのクラスでいじめを目撃したこともなかった。
 葉乃が抱えていたものの大きさに、私は愕然とする。
 葉乃がいじめにあっていたなんて知らなかった。これまでたくさん話してきたのに、私は葉乃のなにを見ていたんだろう。
「美里と一緒にいるようになってからは、頑張ってダイエットをして、ナメられないようにファッションも勉強した。そうやって少しづつ、クラスに溶け込んでいったんだ」
「でも」と、葉乃が暗い声を出す。
 中学三年生になった葉乃に待っていたのは、残酷な現実だった。
「最後のクラス替えで、美里とクラスが離れちゃって……代わりに同じクラスになったのは、一年のとき私をいじめてきた派手なグループの女子たちだった」
 葉乃の顔が苦しげに歪む。
 葉乃の苦しみが伝染したように、私の胸もきりきりと痛んだ。
「またいじめられるかもって、すごく怖かった。でも、進級してすぐ、いじめっ子のひとりがふつうに話しかけてきたんだ。一年のときのいじめの記憶なんて、ぜんぜん覚えてなかったみたいに」
「な、なにそれ。最低……!」
「だから私も、必死に忘れてるふりして笑った。そうやってその子たちのグループに入ったとき、あ、私、ここにいていいんだって、ほっとしちゃったんだ」
 大っきらいだったはずなのにおかしいよね、と葉乃は投げやりに笑う。
 その声音には、嫌悪の色が混ざっていた。
 もしかしたら葉乃は、そうやって場の空気に合わせてしまうじぶんがきらいなのかもしれない。
「って、なんで柚香が泣くの」
 指摘されて初めて気付く。私は泣いていた。
「だって……ムカつくんだもん。散々いじめてきたくせに、ある日突然ぜんぶなかったことにしようとするとか……私だったら、ぜったい許せない」
 胸の中が、意味が分からないくらいぐちゃぐちゃになる。泣きながら怒る私に、葉乃は困ったように笑った。
「……笑っちゃダメだよ」
「え?」
 こんなの、ぜんぜん、笑いごとじゃない。
 葉乃の顔から笑みが消える。
「今の話、葉乃にとってはぜんぜん笑える話じゃないでしょ。無理して我慢して、心の中と違う顔をするくせがついちゃったら、どんどん本音が分からなくなっちゃうよ」
 みるみる葉乃の顔が歪んでいく。目から、ぽろぽろと涙があふれ出す。やっぱり、泣くのを我慢していたようだ。
「うん」と、葉乃は肩を震わせながら頷いた。
 葉乃にハブられたと分かったとき、じぶん勝手だと思ったし、ショックだった。
 でも、今なら葉乃のしたことが理解できてしまう。葉乃はこれまで、過去の傷をだれにも打ち明けられないままひとり怯えて、葛藤していたのだ。
「その子たちに合わせなきゃいじめられるかもしれないって思うのは、普通のことだよ。たぶん私が葉乃と同じ立場でも、同じことをしちゃうかもしれない」
 私たちは、ひとりになるとなんの力も持たない。
 たったひとりで完璧に形成された空気に抗うのは、容易なことではない。
 まして、葉乃はいじめられる恐怖を一度味わっている。無茶をしてでもいじめを回避しようと思うのは当然のことだ。
「でも……柚香は私に怒るべきでしょ。私、柚香に最低なことしたんだよ」
「違うよ。先に最低なことをしたのは、その友達だよ。私はその子たちに腹が立つ」
 やっぱり柚香は優しいね、と葉乃は力なく笑う。
「……そのグループね、集まるたびにだれかの悪口を言ってたんだ。あの子感じ悪いよね、とか、あいつウザいからハブろうよ、とか。それで、みんなその言葉に過剰に頷いて。聞いてるだけじゃ保身だと思われるから、それが怖くて私もみんなと一緒になって悪口を言ったりして。中一のとき、私がされていやだったことを別の子にやり返してた」
 葉乃はどこか遠くを見つめて言う。
「そうやってみんなに合わせて笑ってるうちに、どんどんじぶんの性格が悪くなっていってること自覚して、いやになってた」
 気持ちは分かる。
 変わりたいと思いながらも、周囲に流されて、空気に抗えないじぶんがいやだった。
「じぶんのことがきらいできらいで仕方なかった。その子たちと離れたかったけど……でも、同じクラスに美里がいないから、どうしても勇気が持てなくて」
 その言葉で気付いた。葉乃にとっての美里は、私にとっての音無くんと同じなんだ。
「それだけじゃない。私が影でだれかの悪口を言ってるって知ったら、美里にもきらわれちゃうかもしれない。そう思ったら、美里にも相談できなかった」
 呟く葉乃の声は震えていた。
「でも、身動きがとれなくなってる私を助けてくれたのは、やっぱり美里だった」
 中三の夏、美里が突然外部受験をすると言い出した。
「私は教師になりたいから、受験は経験しなきゃダメだと思うんだよね! っていきなり」
 思わず笑う。
「美里らしいね」
「それで、じゃあ私も一緒に受けるってなったんだ。だからね、私が外部受験をしたのは、単に美里と離れるのがいやだったから」
「……そうだったんだ」
 意外だった。
 葉乃は正直、美里以上にじぶんの意思がしっかりしている子だと思っていた。
 外部受験も美里に合わせてではなく、葉乃自身の意思だと思っていた。
「私は、本当は美里がいなきゃぜんぜんダメなの。冷めたふりして強がってたけど、実際はひとりじゃなにもできない」
 葉乃の本音には、自己嫌悪が色濃くあふれ出ていた。葉乃が私へ抱いていた感情の名前を、唐突に理解する。
 劣等感だ。
 私がお姉ちゃんに抱いていた思いと同じ。
 じぶんのことがどうしても好きになれなくて、身近なひとに憧れて、僻んで……。
「美里が柚香とどんどん仲良くなっていくの見て……怖くなったんだ。私だけ置いていかれてるようで……可愛くもなくて性格も悪い私じゃ、勝ち目なんてないから」
 振り絞るような声に、たまらない気持ちになる。
「ずっと、じぶんがだいっきらいだった……柚香みたいに、優しくてなんでもできる子だったら、って、いつも思ってた」
「……私は、葉乃が思うような人間じゃないよ」
「そんなことない。柚香はすごいよ」
「……それなら私だって、ずっと葉乃が羨ましかった」
「え……」
「いつも冷静で、意思がはっきりしてて」
「……そんなことないのに」
「あるよ!」
「ないって!」
 お互い顔を見合わせて、ぷっと吹き出す。
「なんだか、似たもの同士じゃん私たち」
「だね」
 強いと思っていた葉乃だって、本当は心の中で葛藤していた。
 私と同じように。
 ……みんな、同じなんだ。
「葉乃……話してくれてありがとう」
 葉乃のなかで私がどういうイメージなのかなんて、葉乃にしか分からない。
 同じく、私も葉乃を知っている気になっていただけだった。
『意外』なことばかりだった。
 今、葉乃の本音を聞いて、新しい葉乃を知れたことがなにより嬉しい。
「柚香、今までいやな態度とって本当にごめん」
「私もごめん。美里にも葉乃にもいい顔ばかりして、本音を隠してた。これからは、気を付けるから」
 きらわれるのがいやで、だれにでもいい顔ばかりしていた。
 今回のことだって、音無くんに背中を押してもらえなければ、諦めて葉乃からも美里からも逃げていただろう。心にもやもやを抱え込んだまま。
「……あのさ、葉乃。私は葉乃のことが好きだよ。美里のことも」
「柚香……」
「だから、これからも仲良くしてほしい。……ダメかな」
 葉乃は一度戸惑いがちに視線を揺らして、頷いた。
「私も……柚香のことは好き。でも私……柚香にひどいことしたのに……いいのかな」
 本当に申し訳なさそうにする葉乃に、私は内心ほっとする。
 ハブろうとするくらいだ。葉乃にとって、私はいらない存在だとばかり思っていた。でも、そんなことはなかったようだ。
「じゃあ、星カフェのガトーショコラ一回奢って。それで許す」
 冗談のつもりで言うと、葉乃は少し考えて、スマホを見た。
「……じゃあ、今から行く? 星カフェ」
「えっ! 今から!?」
 驚く私に、葉乃が笑う。
「だってなんか……早く仲直りしたくて」
「行く〜!」
 嬉しくて、思わず抱きつく。
 その後、電車に乗らずに駅を出て、ふたりで星カフェに向かった。
 あれは冗談だからいいよと断ったけれど、葉乃は本当にガトーショコラを奢ってくれた。
「柚香がガトーショコラが好きなんて知らなかった。いつも頼んでなかったよね?」
「あー……うん。まぁダイエットしてたしね」
「えっ、柚香ダイエットなんてしてたの!?」
「うん。最近太っちゃって」
「なにそれ。言ってくれたらマックじゃなくてべつのとこにしたのに」
「いいのいいの。言わなかったのは私だし、それにさ、ふたりと喋るのが目的だったから」

 今日二度目の帰り道、夕陽を眺めながら、葉乃がしみじみとした声を出す。
「……今日、柚香の本音が聞けてよかった。私、今までよりさらに柚香のこと大好きになったよ」
 そう言って、葉乃が私を見る。
 いつもすました顔の葉乃がくしゃっとした顔で笑う。なんとも言えない気持ちになった。
「私も。なんか、安心した」
「ついでに、美里のことも見直した」
「ついでって……美里かわいそー」
 思わず苦笑する。葉乃の口調は、いつも通りだ。
「いーの。今までさんざん迷惑かけられてきたから。正直、美里のそういうところ、いい加減にしてよって思ったときもあったんだ。でも、本当はただ、素直に行動できる美里が羨ましかっただけなんだろうね」
「あー分かる。私も美里の素直さは羨ましい。でも私、葉乃の冷静なところもちょっと辛辣な物言いも好きだよ」
「なにそれ。褒めてる?」
「褒めてるよ!」
 私だけじゃない。
 みんな、じぶんにはないものを持つだれかを羨んだり、憧れたりする。
 当たり前のことだ。だから、そんなことにいちいち恥ずかしがることなんて、本当はないのかもしれない。
「美里、あれでいてなかなか見る目あるわね」
 上から目線の言い方に、思わずぷはっと吹き出して笑う。
「それはなに目線なの?」
「上から目線!」
「もー、やめてよー」
 声を上げて笑い合う。久しぶりに、ふたりで泣くほど笑い合ったような気がする。
「……話さなきゃ、伝わらないんだよね」
「だね」
 泣いたせいで、お互い鼻声だ。
「ねぇ葉乃。私、葉乃と美里と友達になれてよかった」
 すぐとなりにあった葉乃の手をぎゅっと握ると、
「私も」
 と、葉乃も同じ強さで握り返してくれる。
 あたたかなぬくもりが伝わってきて、心がくすぐったくなった。
 不思議だ。さっきまであんなに心細かったのに。
 本音を伝えるのは怖いし、勇気がいる。
 けれど、言わなきゃ伝わらない。
 じぶんを変えるには、勇気を出して動くしかない。他人を待ってるだけじゃ、現実は変わらないんだ。
 電車のアナウンスとともに、線路の向こうから、滑るように電車がやってくる。
「やっときた」
「行こっか」
「うん」
 私たちは手を繋いだまま、電車に乗り込んだ。