翌朝、お姉ちゃんと顔を合わせるのが気まずかった私は、いつもより少し早く起きて家を出た。
 玄関を出たところで、灰色の空が視界に入る。
 今にも雨が落ちてきそうな空模様だ。
 私は一度立ち止まって、鞄の中に折りたたみ傘が入っているのを確認してから、家を出た。
 昇降口に入ったところで、傘立てにひとつビニール傘が置いてあるのに気付く。
 まだ校舎が開いて間もないはずなのに、私より早く学校に来ている生徒がいるとは思わなかった。
 しかも、傘が置いてあるのは私のクラスの傘立てだ。
 だれだろう、と思いながら教室へ向かう。
 扉に手をかけて、引こうとしたその手を止めた。
 教室にいたのは、クラスメイトの音無(おとなし)優希(ゆうき)くんだった。
 音無くんとは一年のときから同じクラスだ。けれど、あまり会話という会話を交わしたことはない。
 その理由は……。
「清水?」
 扉越しに、呟くような声が聞こえてハッとする。目が合った。
 ……バレてしまった。もう逃げられない。
 私はそろそろと扉を開けた。
「おはよう」
 緊張しつつ挨拶をすると、音無くんが振り返った。
「おはよ。早いな」
 音無くんから挨拶が返ってきてほっとする。
「うん。今日はなんだか、早く目が覚めちゃって。音無くんこそ、いつもこんなに早いの?」
 じぶんの机に鞄を置きながら訊ねる。
「あー、うん。俺、朝型だから、早起きして勉強するほうが集中できるんだ」
「へぇ……そっか」
 羨ましい。私は朝は苦手だ。
「清水も勉強?」
「うん……自習室でやろうかなって思って」
 ――うそ。
 本当は、教室で自習するつもりだった。
 でも、よりによって音無くんがいるなんて。
 さすがにふたりきりは気まずい。
 音無くんだって、いつもひとりで勉強しているなら、私がいると気が散ってしまうかもしれないし。
 鞄から英語の単語帳を取り出すと、私は音を立てないようこっそりと教室を出ていく。
 教室を出る直前、音無くんの視線を感じたけれど、私はそれに気付かないふりをした。
 音無くんと喋ったのは、告白されたあの日以来だった。
 友達としてよろしく。
 あの日、告白を断ったとき、音無くんにはそう言われたけれど。
 ――無理だよ。
 なにを話せばいいのか分からないし、どうしたってあの日のことが過ぎってしまう。
 実際にそんなふうに気を遣わずにいられる男女なんて、この世にいるんだろうか。


 ***


 八時少し前になったところで、私は教室へ戻ろうと自習室を出た。廊下には、既に登校してきた生徒たちの姿がちらほらとある。
 階段を降りて教室がある二階に差し掛かると、ちょうど階段を上がってきた生徒に声をかけられた。
「あれ? 柚香早くない?」
 振り向くと、美里と葉乃が教室へ向かってきていた。
「あ、美里、葉乃! おはよう。今日はちょっと早起きしちゃって」
「へぇー珍し。柚香って朝苦手じゃなかった?」
「うん、苦手」
「だよね」
 ふたりと一緒に教室に入りながら、ちらりと窓際を見る。
 音無くんは、近くの席の男子と談笑していた。
「ゆず、今日何時に来たの?」
 美里に声をかけられ、我に返る。
「えっ? あ、えっと六時半くらい、かな……」
「えー! メッセージくれたら私たちも早く来たのに! ねぇ、葉乃」
 と、美里が葉乃に話を振る。
 葉乃はそれについてはなにも言わず、じっと私を見上げて言った。
「それより、そんな早く来たってことは音無いたでしょ?」
「えっ」
 思わず声を上げる。
 ちらりと、窓際の席を見る。
 黒髪のさらさらとした猫っ毛に、優しげな瞳。
 朝からたくさんのクラスメイトに囲まれる音無くんは、さながら太陽系のようだ。
 ――そういえば、音無くんってモテるんだった。
「音無くんが朝早いこと、葉乃知ってたの?」
「まぁね」
 声をひそめて訊く私に、葉乃は涼しい顔をしたまま答える。
「あらまぁ。じゃあなに、ふたりで話した?」
 美里の『ふたりで』という言葉に、びくりとする。
「いや……」
 理由を知る美里が、にまにましながら私の肩を小突く。
「挨拶だけだよ」
「ほんとかぁ?」
「ほんとだって。もう、あんまり話してると聞こえちゃうからやめてよ。ほら、もうチャイム鳴るし、早く席つこ?」
「はーい」
 ふたりが音無くんとの関係についてしつこい理由は、前に私が音無くんからの告白を断ったことを知っているから。
 ふたりは音無くんが私に気があることを既に知っていたらしく、私が音無くんと距離を取り始めると、すぐに勘づいて関係を追及してきた。
 そのため、なにかあるたびこうやってちょこちょことからかわれる。
『――好きなんだ。清水のこと』
 当時私は音無くんのことをよく知らなかったし、その告白を断ってしまった。
 二年に進級するとき、六クラスあるからさすがにもう同じクラスにはならないだろうと思っていたけれど……。
 ちらりと音無くんを見ると、運悪く目が合ってしまった。
 ハッとして目を逸らす。逸らしてから、しまった、と思った。
 今の態度はちょっと印象が悪かったかもしれない。
 音無くんと目が合うと、私は未だに緊張してしまう。
 音無くんのほうはもう、ぜんぜん私のことは意識していないみたいだけれど。
「そこで音無くんの話をぺらぺらとしないところがゆずだよねぇ」
 美里がのんびりとした声で言った。私は笑って「なにそれ」と返す。
「柚香はいい子だから」
 不意に、葉乃がどこかバカにしたように笑った。
「……え」
 どくっと心臓が大きく跳ねる。背筋に氷を入れられたような心地になった。
 葉乃を見るが、目が合わない。葉乃はじっと、窓の外のどこか一点を見ていた。
 ――なんだろう、この感じ……。
 一瞬で手汗が噴き出す。
 葉乃の今のひとことは美里のひとことと違って、若干、皮肉が混ざっているような気がする。気のせいだろうか。
「もー……からかわないでってば」
 どうにか笑みを浮かべて言い返すと、葉乃は「ごめん」と笑った。
 ――なんだ、ふつうだ。
 いつもと変わらない笑顔に、ほっとする。
 ほどなくして始業のチャイムが鳴り、私は内心ほっとして自席についた。
 すぐに、先生が入ってくる。
「ほら早く席につけー」
 先生の登場に、それまで騒がしかった教室は一気に静かになり、生徒たちはそれぞれ自席へとつく。
 机の中から文庫本を取り出し、文章を目で追うものの、ページは一向に進まない。
『柚香はいい子だから』
 葉乃のあの顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
 私はなにか、葉乃を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
 考えてみるけれど、思い当たる節はなかった。


 ***


「ゆずー。これから星カフェ行かない?」
 放課後、終礼のチャイムが鳴り止むと同時に、美里に声をかけられた。
「星カフェ?」
「昨日で全員面談終わったし、パーッと星カフェでスイーツ食べに!」
「くだらな……」
 葉乃が呟きながら私の席までやってくる。
「柚香、星カフェって知ってる?」
「あぁ、うん。駅近くのお店だよね」
 星カフェ『ミカヅキ』は、最近この街にできた店だ。店主はイケメンと噂の青年で、特に若い女子に人気がある。
「そ。美里、あそこの常連なの。店主のお兄さんがイケメンなんだって」
 案の定、美里はイケメン店主が目当てのようだ。
「あぁ……なるほど」
 いつもながら、こういう提案をするのは美里だ。
 彼女はいつも、行きたい、やりたいということを羨ましいくらい素直に口にする。
「マジ、めっちゃイケメンなんだよ! ゆずも会えば分かるって!」
「ふーん……」
 心ここに在らずの反応をしていると、葉乃が笑った。
「柚香はイケメンとか、興味なさそうだね」
 ぎくりとした。
「……え、いやべつにそんなことはないよ。私も何回か行ったことあるし」
「えっ! 意外! じゃあ春希(はるき)さんに会ったでしょ? どうだった? かっこよかったでしょ!?」
「あー……」
 春希さん、というのが店主の名前らしい。というか、名前まで知っているとは。
 美里は私が星カフェに行ったことがあるというのが意外だったのか、身を乗り出して聞いてくる。
「わ、私は友達の付き添いで行ったから、正直あんまり覚えてないんだよね」
「えーあんなイケメンなのにー?」
 本当は覚えていたが、覚えていると言ってもそれはそれで反感を買いそうだったので、私は笑って濁した。
「あ、でもゆずが春希さんのこと好きになっちゃったら勝ち目ないから、逆によかったかも!」
 ほら、やっぱり。口にしなくて正解だった。
「あーハイハイ」
「ちょっ、興味ないの分かりやすすぎだよ、葉乃!」
「だって興味ないんだから仕方ないじゃん」
「ひどーい!」
 葉乃にあしらわれた美里が私に泣きついてくる。
「ゆず〜! 行かない?」
 美里の懇願するような眼差しに、私は困惑気味の声を漏らす。
「うーん……」
 正直、今日こそはがっつり勉強したい。
 ――……でも。
 ここで断ったら、きっとふたりの印象が悪くなってしまう。
 ただでさえ今日は葉乃の機嫌もあんまりよくないみたいだし、学校は勉強も大切だけど、なにより大切なのは友人関係だ。友達を失ったら、それはすなわち学校での居場所を失くすということ。
 ここは、星カフェを優先させたほうが面倒が少なそうだ。
「うん、いいよ」
「ほんと!? やったー! ありがとねっ、ゆず!」
「ううん、楽しみだね」
 心の中の思いを誤魔化すようにして、私は美里に笑顔を向ける。
「楽しみ! ねぇ葉乃! 葉乃も行くよね!?」
「あー私はいいや。ふたりで行ってきて」
 いつも美里に誘われると断ったりしない葉乃が、珍しくノーと言う。
 私は少し驚きつつ、葉乃の様子をうかがう。
「えー葉乃も行こうよ」
 美里が食い下がるが、葉乃は変わらず首を横に振った。
「ごめん。今日はちょっと用事があるから」
 そう言って、葉乃はちらりと私を見た。すぐに逸らされる。
 ――なに、今の。
 その視線に、少なからず意図を感じる。動けなくなる私を葉乃は無視して、美里へだけ視線を向けて言った。
「次は行くから」
 ごめんね、と謝りながら、葉乃は自席に戻って帰り支度を始める。
「ちぇー。なんだあいつー。ね、ゆず。じゃあ今日はふたりで行こ?」
「……あ、うん……」
 ――もしかして、私、避けられてる?
 心臓が再び加速していく。
 ――でも、どうして?
「ゆず?」
 気づかないうちに、私は葉乃になにかをしてしまったのだろうか。
 心当たりがなく、私は困惑する。
「ゆずー行こーよー!」
 美里が、用意を終えて私の元へやってくる。不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
 私は慌てて笑みを作る。
「あ、うん……」
 鞄を肩にかけながら、戸惑いがちに葉乃を見る。葉乃は一度こちらを見たものの、私の視線を避けるようにそそくさと教室を出ていってしまった。
 ――もしかしたら、葉乃は私が誘いを断ることを期待してた?
 葉乃は星カフェに、美里とふたりで行きたかったのかもしれない。
 ふたりは幼なじみだし、小学校から一緒だ。
 ふたりの中に突然新参者の私が入って、気を悪くしている。大いに有り得る可能性だ。
 私は美里に声をかけられたことがきっかけで仲良くなったが、葉乃のほうは、美里が私と仲良くしているから仕方なくそばにいてくれているだけで、もともと私のことは好きじゃなかったのかもしれない。
 もし、そうなら。
 ――今まで葉乃は、我慢して私と接してたのかな……?
 ぐるぐる考え込んでいると、ふと窓際にいた男子と目が合った。
 音無くんだ。
 私たちの話が聞こえていたのかもしれない。
 目が合った瞬間、音無くんは私からパッと視線を逸らした。
 ――今日はみんなに目を逸らされるな……。
 私は重い気分のまま、美里と星カフェに向かった。


 ***


 星カフェは、学校の最寄り駅のすぐそばにある。
 店の周りを淡いブルーの電球が彩ったその店は、放課後ということもあって地元の学生で賑わっていた。
 運良く二人がけの席がひとつ空いていたため、待たずに店内に通される。
「いらっしゃいませ。こちらメニューになります」
 席に着くと、女性の店員さんがメニューとお冷を持ってきてくれた。
 メニューを渡されると、美里はそのメニューで顔を半分隠しながら小声で囁く。
「見てみてゆず! あのカウンターの奥にいるひと! あのひとが春希さんだよ」
 美里の視線を追いかけるように、何気ない仕草でカウンターを見る。
「あぁ……ほんとだ。かっこいいね」
「でしょー! ねね、ゆずは彼、いくつくらいだと思う?」
「うーん、見た感じは大学生くらいかな? ……でも、店長ってことはもっと上なのかな?」
 美里は春希さんを熱い眼差しで見つめながら、
「はぁ〜。彼女いるのかなぁ」
 と呟いていた。
「あっ、それより注文しよ! ゆずはなににする?」
「うーん、そうだなぁ」
 メニューを見ると、甘いドリンクやカロリーの高そうなケーキの名前がずらりと並んでいる。
 その中に、大好きなガトーショコラもあった。
 ――どうしよう。最近ちょっと太ったから節制していたけど、今日くらいは気にせず食べてもいいかな……?
 最近いろいろあってむしゃくしゃしていたし、甘いものを我慢せず食べたい気分だ。
「私は……」
 これにする、と言おうとしたところで、美里が話しかけてきた。
「あっ、ねぇ、ゆずってムース好き? 私このラズベリーのムース気になってるんだけど、こっちのプリンも気になってるんだよね〜。一緒に頼んで半分こしない?」
「あー……」
 ラズベリーは好きだけど、プリンはちょっと苦手だ。でも、もしここで私が断ってしまったら、葉乃とくればよかったと思われるかもしれない。
 葉乃にきらわれて、しかも美里にまで愛想を尽かされてしまったら、私は今度こそひとりになってしまう。
 頷く以外の選択肢は、私にはなかった。
「……いいよ。じゃあそのふたつにしよ!」
 笑顔で言うと、美里は嬉しそうに笑った。
「ありがと〜! じゃ、頼むね!」
 せっかく誘ってくれたんだし、来たいと言っていた美里に合わせてあげるのがきっと正しい。
 じぶんの心にそう言い聞かせて、私は楽しそうな美里を向かいの席から眺めていた。
 ほどなくしてラズベリーのムースとプリンが届き、美里がはしゃいだ声を出す。
「うわぁ〜美味しそう!」
 ムースをつつき合いながら、美里と他愛のない話をする。
「そういえばさ、美里と葉乃ってどうやって仲良くなったの?」
 話の中で、私は思い切って葉乃のことを美里に訊ねてみた。
「んー? なに急に」
 美里がきょとんとした顔で、私を見る。
「や……なんとなく気になって」
「まぁ、葉乃とは小学校から一緒だったからねぇ。ふつうに仲良くなったよ。きっかけとかはべつにないかなぁ。話してみたら楽しかったから一緒にいる、みたいな? なんつーか、友達ってそんな深く考えるもんじゃなくない?」
「……そっか」
 純粋なその眼差しを見て、あらためて思う。
 美里はいい子だ。
 いつも明るくて、思ったことをはっきりと言える美里は、みんなに好かれている。
 ただ、そういう美里のはっきりとした性格が合わないという子もクラスには数人いる。
 そういう子たちが、影で美里の悪口を言っていたりするところもたまに見かけるけれど、美里はそれすら気にしていない。
 私だったら、彼女たちの視線が気になって学校に行けなくなっているかもしれないけれど、美里はそんなことにはならない。
 ――羨ましい。
 美里は学校が楽しそうで。
 鼻歌交じりにケーキを食べる美里を眺めながら、私は心の隅でそんなことを思った。


 ***


 美里と別れたあと、私はほぼ毎日のように通い詰めている地元のファミレスに入った。時刻は午後四時前。門限は七時だから、あと三時間は勉強できる。
 昨日はサボってしまったから、今日こそはちゃんと勉強しなくては。
 いつもと同じいちばん端の窓際の席に座って、ドリンクバーだけ注文すると、私は鞄から物理の問題集を取り出し、勉強を始める。
 私はいつも、このファミレスで勉強をする。
 基本、学校が終わってから夕飯七時まで。
 家にいるのは窮屈だったし、かといって図書館だと同じ高校のひとがいたりして気が散って集中できない。
 その点、ここなら高校からも適度に離れているから、四季野宮学園の生徒はあまり来ないし都合がいいのだ。
 だから私は、ここで――だれも私を知らないこの場所で勉強する。
 そうすれば、偏見の目で見られることはないから。『かわいそう』と言う目で見られずに済むから。
 勉強を始めて数時間が経っていた。
 動かしていた手を止め、きゅっと目頭を押さえる。
 ――頭痛い。
 疲れた。
 もうやめたい。
 私は、あとどれだけ勉強すればいいんだろう。
 あとどれだけやれば、認められる?
 大学に受かる?
「だれか教えてよ……」
 ひとりごちる。
 もうやめたいけれど、家に帰るわけにはいかない。
 いつもより早く帰ったら、お母さんにまた、あなたはお姉ちゃんと違ってと小言を言われかねない。
 けれど、将来の夢も目標もない私にとって、勉強は苦痛以外のなにものでもない。
 でも、私はお姉ちゃんのような天才じゃないから、努力しなければならない。
 お姉ちゃんは優秀なのに、妹は残念ね。
 そう言われないように。
 馬鹿なままでは、私に価値はないから。
 お母さんの言う通りにしないと、呆れられてしまうから。
「こちら、どうぞ」
 レモンサイダーで喉を潤し、再び問題集に目を通していると、目の前にお皿が置かれた。
 え、と顔を上げる。
 お皿にあったのは、今日食べ損ねたガトーショコラだった。雪のようなぽてっとした生クリームつきだ。
 美味しそうだけど、これは私が頼んだものではない。
 皿をすっとテーブルの脇、店員さんの前に置く。
「あの……これ、違います。私、ケーキなんて頼んでません」
 言いながら、ガトーショコラを持ってきた店員さんを見上げて、思わず「えっ」と声を上げる。
「お、音無くん……!?」
「はは。気づくの遅いよ」
 ガトーショコラを運んできてくれたのは、クラスメイトの音無くんだった。
 こんなところで会うなんて思いもしていなかった私は、驚いて瞳を瞬かせる。
「え、な、なんで……」
 困惑する私に、音無くんは苦笑混じりに言った。
「俺、ここでバイトしてるんだ」
 呆然とする私に、音無くんは続ける。
「なんなら俺、何回か清水に接客してたんだよ」
「えっ! う、うそ!?」
 衝撃的な事実に、私は目を丸くした。
「清水、いつもすごく集中して勉強してたからな」
 頬の辺りがじわじわと熱くなってくる。
 これまでずっと音無くんに勉強しているところを見られていたと思うと、恥ずかしくて逃げ出したくなる。
「あ……あの、私がここで勉強してたこと、みんなには黙っててくれない?」
「え? ……あ、うん、まぁいいけど」
 音無くんは不思議そうな顔をしながらも、こくんと頷いた。
 その目を見て、ふと告白されたときのことを思い出した。
『好きなんだ』
 まっすぐに私を見て、音無くんは言った。
 私はその告白が、不思議でならなかった。
 音無くんは人気者だ。頭もいいし、運動もできる。その上朗らかな性格をしているから、いろんなひとに囲まれている。
 そんなひとが、なんで私なんかを好きになってくれたんだろうと思った。
 挨拶を交わす以外、ほとんど話したことがないから、音無くんは私のことなんてなにも知らないはずだ。知っているとすれば、優等生の仮面を被った私だけ。
 もし音無くんが本当の私を知ったら、どう思うだろう。
 ……きっと、離れていくんだろう。
 そんなひとだと思わなかった、とか言われるかもしれない。
『ごめんなさい』
 音無くんのことは、それが怖くて断ったのだ。
 今は受験に集中したいからなんて、もっともらしい理由をつけて。
 私は本音を隠し、音無くんにうそをついた。
 あのときの音無くんの傷ついた顔は、今もときどき思い出す。
「……あのさ」
 俯いていると、音無くんが控えめに声をかけてきた。
「俺、あと三十分くらいでバイト終わるんだけど、終わったら少し話できる?」
「え?」
「それまでにこれ食べちゃって! サービスだから」
 音無くんはそう言って、私の返事も聞かずに厨房へ戻っていってしまった。
 ――三十分。
 時計を見る。
 時刻は午後六時。あと三十分なら、門限には間に合う。
 ひとり取り残された私は、テーブルにぽつんと置かれたガトーショコラを見る。
 音無くんはサービスと言ったけれど、本当にもらっちゃっていいのだろうか。
 迷いつつケーキを見ていたら、思い出したようにお腹が鳴った。
 そういえば、ファミレスに入ってかれこれ三時間以上経つけれど、ドリンクバーだけで食べ物はなにも注文していなかった。
 ケーキをそろそろと引き寄せ、フォークを手に取る。
 フォークを刺すと、ずっしりとした生地の感触が手に伝わる。
 甘さ控えめのチョコレートと生クリーム。
「……美味しい」
 ちらりと厨房のほうを見るけれど、音無くんの姿はない。
 ふと、疑問が浮かぶ。
 音無くんは、いつからここでバイトしていたんだろう。私がこのファミレスに通い始めたのは、一年の夏前くらいだった気がする。
 もしかしたら、その頃からずっとすれ違っていたのだろうか。
 気づかないところで見られていたかもしれないと思うと、やっぱり恥ずかしさが込み上げてくる。
 私は、頬の熱を誤魔化すようにガトーショコラを口いっぱいに頬張った。