昼下がりの進路相談室。
 色褪せたカーテンが窓から吹き込んだ風に揺れている。
「えーっと、柚香(ゆずか)さんは青蘭(せいらん)大の医学部志望でしたね」
 私と、お母さんの向かい側の席に座る担任の先生が、私が提出した進路希望調査表を見ながら問いかける。
「はい」
 先生と目が合い、背筋を伸ばして私は頷く。
「うん。成績も合格圏内だし、この調子でいけば大丈夫そうですね。柚香さんは生活態度もいいですし」
 高校二年生になって初めての三者面談。
 私が通う東京都立(とうきょうとりつ)明穂野(あけほの)学園(がくえん)高等部(こうとうぶ)は、進学率が九割を超える都内有数の進学校だ。
 その明穂野学園に入学して、一年と二ヶ月。
 二年に進級して初めての中間テストと模試が終わり、今日はその結果を元に三者面談が行われている。
 今回私はテストの結果もまずまずで、志望校の合格判定もB。面談は終始穏やかなムードで進んでいた。
 このままなにごともなく終わってくれと願いながら、私はお母さんのとなりでいつもどおりの笑みを浮かべる。
「柚香さんはいつもにこにこしているから、場が華やかになっていいですね。お友達にもよく、お勉強を教えてあげているところも見ますし」
「まぁ、そうですか。それを聞いて安心しました。この子、家ではあまり学校の話をしなくて……友達関係とか今はなかなか難しいって聞くから、ちょっと気になっていたんですよ」
 お母さんはよそ向けの高い声音を華麗に使いこなして、先生と話している。
「いえいえ、柚香さんはとても人気者ですよ。人間関係に関しては、ぜんぜん心配ありませんよ」
「まぁ、そうですか」
 お母さんは、にこにことした顔を私に向ける。
「安心したわ、柚香」
 なにが?
 うんざりする。作り笑顔も甚だしい。どうせ、私のことなんてどうだっていいくせに。
 内心でそう思いながら、私はそれを笑顔の仮面で華麗に交わした。
「そういえば」
 先生が不意に私を見る。
「柚香さんは、将来どの分野のお医者さんになりたいとかは決まってるの?」
 先生が私に話を振った。矛先がこちらに向くと思っていなかった私は、咄嗟の問いかけに言葉を詰まらせる。
「……あ……えっと」
 ――どうしよう。
 大学に進んだ先のことなんて、一ミリも考えていなかった。
 だって、私が受けるのは国立医大だ。そう簡単に入れるような大学ではない。今は入試の勉強でいっぱいいっぱいで、その先のことなんて考える余裕なんてない。
「柚香も、お姉ちゃんと同じで小児科志望かしらね?」
 私が黙り込んだままでいると、お母さんが言った。
「あら、お姉さまも医学生でしたか」
 と、先生が驚いた顔をお母さんへ向ける。
「えぇ。実は上の子が青蘭(せいらん)医大(いだい)に通ってるんです。だから柚香もそこにしたらどうかって私が勧めたんですよ。上の子は面倒見が良くて、幼い頃からよく柚香の面倒を見ていてくれたんです」
 あ、始まった、と思った。
 お母さんはいつも、私と引き合いにお姉ちゃんの話をする。私の話題で気まずくなると、お姉ちゃんの話に切り替えるのだ。
「柚香さんが同じ学校に入ったら、親御さんとしても安心ですものね」
「えぇ、そうなんですよ。ただ……」
 私は黙ったまま膝の上に置いた手を握り込み、お母さんの自慢話が終わるのを待つ。
「上の子は、昔から医師になりたいと言っていたんですが、この子はあまりものを言わないから、大学に受かってもちゃんと続くかどうか心配で……」
 流されやすいといいますかねぇ。と、母さんはわざとらしいくらいに困った顔をする。
 あまりものを言わない?
 ――違う。
 言いたいことなら、いっぱいある。
 私はべつに、医者になんかなりたくない。そもそもなりたいものだってない。
 青蘭医大を目指しているのは、私もお姉ちゃんみたいに医者を目指したいと言えばお母さんの機嫌が良くなるからだ。
 お姉ちゃんみたいに立派になりなさい。
 あなたくらいの頃は、お姉ちゃんはもっと成績よかったわよ。
 お姉ちゃんが受かったんだから、あなたも大丈夫よ。
 お母さんの口癖。
 本当はうんざりしている。
 ――私はお姉ちゃんじゃない。
 私は、お姉ちゃんとは違う。
 私とお姉ちゃんを比べないで。
 私を見て!
 本当は言いたい。
 でも、言わない。
 言ったって、お母さんは私の話なんて聞いてくれないから。
 なら、あなたはなにになりたいの?
 そう訊かれたら、困るから。
 だって私は、それに対する答えを持っていない。だから、黙るしかない。
 海の底に沈む貝のように黙り込んでいると、先生が口を開いた。
「大丈夫ですよ、柚香さんだってちゃんと考えてると思います。ね、柚香さん?」
「……はい」
 同意を求められ、俯いたまま返事だけする。でも、心にはぽっかりと穴が空いたまま。
「それにしても、姉妹揃って国立の医大目指されてるなんて、すごいですねぇ」
 気まずい空気を察したのか、先生が話題を変えた。
「とんでもないです」
 まんざらでもなさそうに笑うお母さんを横目で見て、暗い気持ちになる。
 ――本当に、お姉ちゃんが好きなんだな。
 お母さんにとって私は、お姉ちゃんをより立派に見せるための比較素材のようなものだ。
 私も、お姉ちゃんのように優秀だったら。
 だれからも好かれる天真爛漫な女の子だったら。
 でも、私ではどんなに努力してもお姉ちゃんのようにはなれないから。
 私がそばにいると、よりお姉ちゃんのすごさが際立つ。
 私はただの引き立て役。それ以外に、なんの価値もない。
「じゃあ柚香さんもお姉さんに続けるよう、頑張らないとね!」
「お姉ちゃんだって一発で受かったんだもの。柚香なら大丈夫よね?」
「……はい」
 浮かべた笑顔が引き攣りそうになる。
 ――あぁ、もう。早く終わらないかなぁ。
 ちくちくと痛む胸に気付かないふりをして、私は笑顔で面談をやり過ごした。


 ***


「おかえりー、ゆず」
 面談が終わり、お母さんと別れて教室に戻ると、クラスメイトの美里と葉乃がふたつの机をくっつけて勉強をしていた。机の上には教材だけでなく、お菓子も散らばっている。
「ただいまー。勉強してるの?」
「うん!」
 元気よく頷く美里の向かいで、葉乃が「いや」と言う。
「見かけだけ。ただお菓子食べながら柚香を待ってた」
「だと思った」
 美里が真面目に勉強なんてするはずがない。
「えーそんなことないってば。ちゃんと勉強してるよー?」
「一問も解いてないじゃん」
「うっ……」
 私は笑いながら美里のとなりの席に座り、身体の向きをふたりのほうへ向ける。
「で、面談どうだった?」
「疲れたよー」
 言いながら、私は固まった肩を片手でほぐす。
「おつかれい! ポッキーあるよ。食べる?」
 美里が私の頭を撫でながら、ポッキーを一本差し出してくる。
「ありがとー、食べる」
「面談って、どんな感じのこと訊かれた?」
「あー中間の成績と、志望校のレベル照らし合わせての現状を言われる感じかなぁ」
「うわ、マジか。私面談明日だよー。やだなぁ……成績下がったし、ぜったい怒られるじゃん」
「あれ、美里、中間点数悪かったの?」
「順位結構下がっちゃったんだ。模試判定もBだったし」
 机の上に身体を投げ出しながら、美里が情けない声を上げる。
「しかも私、お母さんに結果見せてないんだよ……」
「うそ!? それはまずいでしょ!」
「だよねぇ。でも怒られるの分かってたら怖くて出せなくない?」
「うん、まぁ気持ちは分かるけど……」
「どうしよ〜!!」
「テストの点数が下がったのは自業自得でしょ。美里、あんた中間テストのとき、勉強サボってアイドルのライブ配信観てたじゃん」
 葉乃がすました顔で言った。
 美里がギクリと肩を揺らす。言い当てられたことが悔しかったのか、視線で私に助けを求めてきた。
「ゆず〜」
「仕方ないなぁ。ついていけなくなりそうなとこ、分かる? 私でよければ教えるよ」
「本当!? 神! じゃあじゃあ、まずはこの問三なんだけど……」
 美里は数学の問題集を広げて、私に向けた。
「放っておきなよ。柚香のほうが難しい大学受けるんだから、ひとの心配してる場合じゃないでしょ」
 葉乃が呆れたような視線を私に送ってくる。
 葉乃の言うとおり、本当は私も勉強はいっぱいいっぱいで、ひとに教えている余裕はない。だけど、美里も困っているようだし、この問題なら私も分かる。
「大丈夫だよ。教えることで私の勉強にもなるし」
 ……それに、美里にとっての私の価値はたぶん、『優しく勉強を教えてくれるいい子』だから。
 そうじゃない私じゃ、友達でいる価値なんてない。だから、美里の望む『私』を演じる。
「さっすがゆず〜! 葉乃と違って優しい!!」
「悪かったね、私は優しくなくて」
 葉乃は頬杖をつき、不貞腐れたような顔のまま問題集に視線を戻した。
 解きかたを教えていると、美里が言った。
「ゆずってほんと、教えるの上手いよね!」
「……そう?」
「うん! 分かりやすい!」
 ふと面談で言われた言葉が蘇る。
『柚香さんは、将来どの分野のお医者さんになりたいとかは決まってるの?』
「……美里の志望校って、陽都(ようと)大だったっけ?」
「うん! 陽都大の法学部!」
「法学部かぁ……」
 陽都大と言えば、都内でも五本の指に入る名門大学だ。
 中間の順位が下がったといえど、二年生の時点で名門国立大学の合格判定にBをもらっている時点で、美里のポテンシャルの高さがうかがえる。
「美里んち、お父さんもお母さんも裁判所勤務だもんね」と、葉乃が言う。
「えっ! そうなの? 裁判官ってこと? すごいね」
 驚いて訊ねると、美里は笑って「違う違う」と手を振った。
「ふたりとも調査官だよ」
「調査官? ……って、なにするひと?」
 私だけでなく、葉乃も首を傾げる。
 法曹界の職業といえば、テレビドラマでよく聞く弁護士や検事くらいしか知らない。調査官という職種は初めて聞く。
「私も詳しくは知らないけど、裁判にかかわる証拠を調べに行ったり? あとは関係者に話を聞きに行ったりしてるみたいだけど」
「……そうなんだ。美里は、なんで調査官になりたいと思ったの? 美里って、前は教師になりたいって言ってなかったっけ?」
 訊ねると、美里は「あーね! そうなんだけど〜」と曖昧に笑う。
「うーん、なんていうか、調査官のこと調べてみたら、教師よりも興味が出てきたっていうか。昨年進路のこと相談してたらね、お母さんに裁判の傍聴を勧められたんだ」
「裁判の傍聴?」
 私は、テレビドラマでよく見る法廷の光景を想像する。
「そ。で、いろんな家庭の裁判を見てるうちになんとなく教師よりいいかもって思い始めた感じかなぁ。うちのお母さん、家庭裁判所の調査官だから、結構虐待家庭の担当をしててさ。調べてみたら子供がらみの信じられない事件がたくさんあるんだ。そういうの知ったらなんか、調査官もいいかもって思って」
「……そうなんだ。でも、ちょっと意外かも」
 一年のとき、美里は教師を目指していた。
 いじめっ子もいじめられっ子もいない楽しい学級を作るんだ! とはりきっていたし、美里には教師以外の選択肢なんてないと思っていたから、この時期になっての進路変更は驚いた。
「そうなんだけどさ、子供に関わる仕事って、べつに教師とか保育士じゃなくても、いろんな仕事があるんだって、親の仕事を詳しく知ったときに気付いたんだよね」
「なるほど……」
「ま、まだなれるか分かんないけどさ。まずは期末と模試対策だよ〜。ヤバい、受験に関係ない科目ほどやる気にならないー!」
 頭を抱えて叫ぶ美里をなだめつつ、私は葉乃へ視線を向ける。
「葉乃もたしか、美里と同じ大学だよね?」
「うん。私も陽都大。警察に入りたいから、犯罪心理学学ぶつもり」
 裁判所職員に、警察官。
「そっか……ふたりともすごいなぁ……」
 ちゃんと地に足つけて、前に進んでいる。
 それに比べて、私は。
 夢を持つふたりと私は、なにが違うんだろう。
 同じ歳で、同じ学校で、同じクラスなのに。
 私とふたりのあいだには、まるで見えない切り取り線でもあるみたい。世界がぱっくり別れている気がしてならない。
「ほら、くよくよしたってテスト結果は変わらないんだから、ポッキー食べて元気出せ」
 葉乃が小袋からポッキーを一本取り出し、美里の口に持っていく。
「うん、ありがと……って、それ私のじゃん!」
「バレたか」
「もう、ゆず〜! 葉乃がいじめるよ〜!」
 葉乃への文句を言いながら抱きついてくる美里を、私は笑いながら抱きとめた。
「よしよし。じゃあ私からももう一本」
「だからそれ私のだってば!」
「じゃあ、たけのこの里にする?」
「だからそれも私の〜!」
 束の間の朗らかな時間に、ほっとする。
 美里と葉乃とは、高校で知り合った。
 いつも明るく無邪気な美里と、冷静で少し大人びた性格の葉乃は一見すると合わないように思えるが、親友同士だ。
 ふたりは同じ私立中学出身の外部受験組で、幼馴染みらしい。
 入学当初、私は同じ中学だった子たちと固まって、お昼を食べたりしていたけれど、選択教科が美里たちと同じになったことがきっかけで仲良くなった。
「にしてもゆずはすごいよねぇ。国立大今から余裕で圏内の成績なんだもん」
 手のひらで退屈そうにペンを回しながら、美里が言う。さっき一問教えてから、問題は一問も進んでいない。
「さすがだよね」
 葉乃も頷いて賛同する。
「そんなことないよ」
 こういうとき、どういう反応がいちばん正しいのか分からず、私はいつも「そんなことないよ」と曖昧に笑ってやり過ごす。
「しかもお姉ちゃんは国立大医学部現役合格でしょ? 遺伝子レベルで私らとは違うよね!」
「だね」
「しかも塾にも行ってないとか、マジで天才」
「…………」
 ふたりと過ごすのはきらいじゃない。でも、こういう話はあまり好きじゃない。
 強く違うと否定しても場が冷めるし、ノリ良く「だよね〜」なんて言ったら、それはそれでマウント取ってるとか、ウザいと思われかねない。
 こういう模範解答がないような話は苦手だ。胃が痛くなる。
「もういいでしょ。それよりほら、勉強しようよ」
 苦笑いで言うと、「またまた〜」と美里が私の肩を小突く。
「羨ましいよ、エリート遺伝子! ちょっとやっただけで学年順位五位以内に入れる遺伝子、私にも分けてよ〜」
 結局私はなにも言えないまま、ただ笑って過ごした。
 ふたりも、先生も家族も、みんな私のことを誤解している。
 私はみんなが思うような優等生ではないし、いい子でもない。
 私は、ふたりのほうがずっと羨ましい。
 美里のようなひたむきさや、葉乃のような芯の強さがあればと何度思ったか分からない。
 私が勉強する理由は、美里や葉乃とはぜんぜん違う。
 ただ、お母さんのご機嫌取りのため。
 勉強さえしていれば、お母さんはうるさく言ってこないから。
 お姉ちゃんが優秀だから、私も優秀でなければならない。そういうプレッシャーの元で育ったから、ただ仕方なく勉強をしているだけ。
 でも本当は、勉強が苦しくてたまらない。
 私にとっての勉強は、終わりの見えない真っ暗なトンネルの中をひたすら進んでいるような感覚に近かった。
「ねぇ、それよりお腹減った! 駅ナカのファミレスあたり、どっか寄っていかない?」
 三者面談である今週は毎日半日授業のため、いつもよりも帰りが早いのだ。
 時計を見ると、時刻は午後一時過ぎ。
 普段なら部活がある美里も今日はサボったらしく、お弁当は持ってきていないらしい。もちろん、帰宅部の私と葉乃はお弁当を持ってきていない。
「あ、じゃあ私マック食べたいな」
 葉乃が言う。
「おっ! いいね、それ採用!」
 美里の提案により、私たちは寄り道をして帰ることになった。


 ***


「なににするー?」
 お店につき、メニューを三人で選ぶ。
「私、このセット」
「私はこっちにしよーかな。ゆずは?」
「私は……うーん……とりあえずポテトでいいかな」
 悩むのも面倒になって、私は単品のポテトを選ぶ。
「えっ、ポテトだけ? お腹減らない?」
 美里が心配そうな顔で私を見る。
「でも私、いつもポテトだけでおなかいっぱいになっちゃって、バーガーに辿り着けないんだよね。……まぁ足りなかったら、またなんか頼むし」
「そっか。あ、じゃあ私のひとくちあげるよ!」
「えっ、いいよ。そういうつもりじゃなかったし」
「いいのいいの。ゆずにはいつもお世話になってるし! ねっ! 葉乃」
「……そだね」
 ちょっと歯切れの悪い反応だったような気がして、ちらりと葉乃を見る。
 目が合うと、葉乃はにこりと笑いかけてくる。
 気のせいだったようだ。
 注文を済ませて、テーブル席に座る。
「私、奥入っちゃっていい?」
「いいよー」
 先頭を歩いていた私は、空いていたテーブル席の奥側に入る。私のとなりに美里が入り、向かいに葉乃が座った。
 じぶんのトレイにポテトを箱からざっと出すと、美里もじぶんのポテトを私のトレイに同じように混ぜてくる。
「あは。大量だね」
「ヤバいよね、カロリー爆弾! 葉乃も合わせよーよー」
 美里が面白がって言うと、葉乃も私のトレイにポテトをあけた。
「そうだ、ゆず! コレ見てよ〜」
 美里がじぶんのスマホを私に見せてくる。
「なになに?」
 私は身体を寄せて、美里のスマホを覗き込む。
「猫動画!」
「あぁ、メメちゃんだっけ?」
「そう! うちの猫ね、マジで面白いの。お菓子の箱をガサッてするだけで、飛んでくるんだよ〜」
「わっ! ほんとだすごっ!」
「でしょー!」
「なにこれ、超可愛い」
 美里が見せてくれた動画を見て笑っていると、ふと向かい側に座っている葉乃がぽつんとしていることに気がついた。
「あっ、葉乃はメメちゃんのこの動画、もう見た?」
 慌てて話を振ると、静かにポテトを食べていた葉乃が顔を上げる。
「……え、あ、ううん。まだ見てない」
 いつもより少し低い声にひやひやする。
「葉乃も見てよこれー!」
 美里は葉乃の様子には気付いていないのか、いつもの調子でスマホを葉乃に向ける。
 美里が話しかけると、葉乃のどこか強ばっていた表情がふっと緩んだ。
「ほんとだ、可愛い」
「ねーっ!」
 いつも通りの葉乃に安堵して、私は立ち上がる。
「美里、ちょっと出してもらってもいい?」
「はいよー。トイレ?」
「いや、喉乾いたから、ドリンクだけ買ってこようかなって」
「それなら私の飲む? 結構量多くて飲み切れないから」
「えっいいの? じゃあもらおうかな。今度学校でいちごミルク奢るね」
「おっ! やった〜!」
 結局美里がそのまま奥へ入り、私はそのとなりの通路側に座り直して美里のコーラをもらう。
「わーちょっとぬるい」
「あは! 正直!」
「でもありがと」
「あ、これも食べてみ? 美味いよ!」
 美里が、ずいっとハンバーガーを私の前に突き出してくる。
「照り焼きチーズだっけ?」
「そーそー! 私のお気に入り!」
「ありがとー。あ、ほんとだ、美味しい!」
 美里と葉乃と三人でポテトをつまみながら話していると、気が付けば既に外は陽が傾いていた。
「そろそろ帰ろっか」
「だね」
 駅で美里と別れ、葉乃とふたりで電車に乗り込む。
「はぁ〜楽しかったね」
「……ねぇ、柚香ってさ、一年のとき一組の島本(しまもと)さんたちと仲良かったよね」
 座席に座る葉乃の正面で、吊革に体重を預けたまま首を傾げる。
「え? うん、まぁ中学が一緒だったからね」
「今も仲良いの?」
「たまに映画とか誘われたりはするけど、メッセのやりとりとかはそんなしてないかなぁ」
 でも、どうしてそんなことをいきなり訊くんだろう。
 葉乃を見るが、俯いているせいで表情は見えない。
「葉乃、なにかあった?」
「え?」
 葉乃がようやく顔を上げる。
「ううん。柚香って、本当にいい子だなって思って」
「えーなにそれ。茶化さないでよ」
「茶化してないって」
 よかった。いつもより暗い気がしたけど、ふつうに笑ってくれている。
『まもなく、乾多(かわた)。乾多。お出口は、左側です』
 電車のアナウンスが流れ、葉乃が鞄を肩にかけて立ち上がる。
「じゃあ、行くね」
 ドアの前へ向かう葉乃に、私はいつものように「また明日ね」と手を振る。
 ドアが開くと、葉乃は私から視線をすっと外して、電車を降りた。
 ふっと息を吐き、私は葉乃が座っていた場所に座る。座った途端、肩の力が抜けた。
 向かいの車窓から見える景色は、燃えるような真っ赤な夕焼け。
 チカチカと眩しい。
 ――今日も外キャラ疲れた……。
 美里や葉乃と一緒にいるのは楽しいけれど、どうしても気を遣う。
 いつの間にか勝手に作られたイメージの『私』を演じなきゃいけないから。
 学校は、真空状態だ。
 酸素がない。
 ――……頭痛い。
 私は視界を潰すように、ぎゅっと目を閉じた。
鎌栄(かまさか)ー、鎌栄ー。お出口は、右側です』
 自宅の最寄り駅につき、よろよろと電車を降りる。
 駅の時計を見ると、時刻はまだ午後五時を過ぎたところだった。
 このまま帰ったら、いつもよりずっと早い帰りになる。
 普段なら、今頃はまだ家の近くのファミレスでひとりで勉強している時間だ。けれど、今日はなんとなく勉強する気分にはなれなかった。
 ――今日はもう帰ろう……。
 お母さんに『今から帰るね』とメッセージを送ると、すぐに既読がついた。
 返信が来る。
『気を付けてね』
 可愛いスタンプも送られてきた。
 顔を合わせるとお姉ちゃんの話しかしないくせに、メッセージだとふつうの母親みたい。
 ――私のことなんてどうだっていいくせに……。
 そう思いながら、私はスマホの電源を落として制服のポケットにしまった。

 その日の夜、晩ご飯を済ませた私は、じぶんの部屋で動画を見ていた。
 今日美里に見せてもらった猫の動画がすごく可愛かったから、寝る前に動物の動画を見て癒されようと思ったのだ。
 SNSで検索してみると、たくさんの動画がヒットする。
「こんなにあるんだ……」
 猫とカワウソの動画を見ていたとき、部屋の扉が叩かれた。
 スマホの画面を消し、「はーい」と扉に向かって返事をする。
「私だけど。入ってもいいー?」
 お姉ちゃんの声だった。私は扉のほうを向き、返事をする。
「いいよー」
 声をかけると、すぐに扉が開いてお姉ちゃんが入ってきた。
「……あ、ごめん。もしかして勉強してた?」
 お姉ちゃんがちらりと机を見る。
「……ううん、開いてただけ。なんかやる気にならなくて」
 そう返しながら、私は開いていた問題集を閉じた。
 お姉ちゃんは私のベッドに腰を下ろしながら、そばにあったクマクッションを膝の上に置いて抱き締める。
 お姉ちゃんは帰宅したばかりなのか、外着のままだった。
 黄色の薄いハイネックに、スキニーっぽいジーンズ。
 初めて見る服だ。
 ――……またお母さんに買ってもらったのかな。私は服なんて、しばらく買ってもらってないのに。
「……どうしたの? こんな時間に」
 私は椅子をくるりと回転させた。
「うん……ま、最近どうかなって? 勉強とか学校とか、いろいろ」
「べつに……ふつうに順調だと思うけど」
「そっかそっか……」
 お姉ちゃんは少し目を泳がせた。
 なんだろう。
 言いたいことがあるならはっきり言ってほしい。
「なに?」
 少し強い口調で訊くと、お姉ちゃんはようやく口を開いた。
「いや……お母さんがさ、今日柚香の三者面談だったって言ってたから」
「……そうだけど」
 なにを聞きたいんだろう。お姉ちゃんには、私の進路なんてなんの関係もないはずなのに。
「あのさ、柚香」
 お姉ちゃんは、膝の上のクマクッションをいじりつつ、ちらりと私を見た。
「大学、本当に青蘭医大にするつもり?」
「……うん、今のところはだけど」
「なんで?」
 ――なんで?
 私は思わず眉を寄せた。
「は? なんでって、なにが?」
「柚香、医者になりたいの? そんな話、柚香の口から一回も聞いたことないけど」
 ストレートな言葉とどこか批難するような視線に、私はなにも言えなくなる。
「柚香が青蘭医大を受験したい理由ってさ、お母さんに言われたからなんじゃないの?」
 どきりとする。
「……違うよ」
 否定した声は、弱々しく空間に溶けて消えていく。
「あのさ、こんなこと言いたくないけど、ちゃんとした理由もないのに青蘭来たって、たぶん勉強についていけないよ。高校と違って、周りはみんな受験を突破してきてるとんでもなく頭いい子たちばかりなんだからね」
「……そんなの、言われなくたって分かってるし」
 国立医大に入れば、周りにはお姉ちゃんのような本物の秀才だらけなんだろう。
 だから、私だって勉強してる。
 二年のうちからB判定。まだ一年ある。状況は悪くないはずだ。
 お姉ちゃんがちらりとベッド脇の本棚を見る。
 本棚には、勉強しつくしてぼろぼろになった大量の参考書や教材が詰め込まれている。
 バカにするような眼差し。
 恥ずかしさや悔しさや、ほかにもいろんな感情がとぐろを巻いて、目頭がカッと熱くなる。
「……なにそれ」
 じっとりといやな汗が手のひらに滲んでいく。私は汗ばんだ手をぎゅっと握り締めて俯いた。
「お姉ちゃんはわざわざ、私には青蘭医大は無理だって言いにきたわけ?」
 低い声が出る。苛立ちを露わにした私に向かって、お姉ちゃんは呆れたようなため息を漏らした。その見えないため息は、私の胸を深く抉る。
「そうじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
 私には、そう言っているようにしか聞こえない。
 コツを掴むのが早く、大体のことはそつなくこなせる天才形のお姉ちゃんと違って、私は不器用だ。
 人並み以上の努力をしないと、お姉ちゃんには追いつけない。
 おまけに幼い頃からお姉ちゃんと比べられてきたせいか、人前で努力することも苦手だった。
 美里や葉乃の前では、強がっているだけだ。
 塾に行っていないのは本当だが、実際は放課後、門限まで毎日ファミレスで勉強している。
 できて当たり前。私の家は、そういう家。
 失敗した。
 こんなことなら、帰ってこなければよかった。
 いつものように近所のファミレスで勉強していればよかったんだ。そうすれば、こんな惨めな思いしなくて済んだのに。
 ――勉強サボろうとしたから、バチが当たったのかな……。
 お姉ちゃんはきっと、必死に勉強する私に呆れているんだろう。
 そんなに努力しても、この程度なんだとか思っているんだろう。
「柚香、あんたもうすぐ十七歳でしょ。ちゃんと現実を見なさいよ。いつまでもお母さんに甘えてないで」
 ――甘える?
「べつに……甘えてなんか」
「いい加減、ちゃんと考えなさいよ」
「……考えてるつもりだし」
「つもりじゃダメでしょ」
「…………」
 私は、甘えているのだろうか。
「……うるさいなぁ」
「私は柚香のことを思って言ってんのよ」
 ――柚香のことを思って?
 なにそれ。
 私のなにを思ってるっていうんだろう。
 私のなにが分かってる?
 私の本心に気付いてるなら、やること違うでしょ。わざわざ追い詰めるようなこと言わないでよ。
 なにかが切れるような、プツンという音が聞こえた気がした。
「……意味分かんない。……お姉ちゃん、私のなにを思って言ってるの? 私の気持ちなんてなんも分かってないくせに」
「はぁ?」
「しかもなに。じぶんは受かったからって上から目線? 何様なわけ? そーゆうの、マジでウザくてストレスだからやめて」
 お姉ちゃんの眉間に皺が寄る。
 お姉ちゃんの鋭い眼差しに睨まれ、私も負けじと睨み返した。
 なんで親でもないお姉ちゃんに責められなきゃいけないの?
 夢がないのって、そんなに悪いこと?
 夢を持っていることって、そんなに偉いことなの?
「……柚香っていつもそう。言い合いになっても感情的に喚くだけ。言いたいことがあるならもっと具体的になにが不満なのか、はっきり言ってみなさいよ」
 ――仕方ないじゃない。
 怒ってるときに頭なんて回らないよ。
 感情が先に立つに決まってるじゃん。
「……言わない」
「なんで?」
 言いたいことなんて、いっぱいある。
 みんながお姉ちゃんみたいに夢を持てるわけじゃないし、面談のときだって、お母さんはずっとお姉ちゃんの自慢話ばっかりだった。
 私の面談なのに。私はこんなに頑張っているのに。
 ……だけどそれは、結局じぶんが平凡な人間であると言っているようなもの。
 わざわざ口にしたって、虚しくなるだけだ。
 だから言わない。
「お姉ちゃんになんか、言いたくないから」
「……あっそ」
 物心ついた頃から、お姉ちゃんには『医者になる』というはっきりとした意思があった。
 終着駅が決まっているお姉ちゃんは、目的地に着くまでただ電車に乗っていればいいだけ。
 そんなひとに、私の気持ちなんて分からない。迷子の私の気持ちなんか。
 黙り込んだままの私に、お姉ちゃんがまたため息をつく。
 私は涙がこぼれ落ちないように、ぐっと手を握った。
「ま、べつに私の人生じゃないし、どうでもいいけど。ただ、大学は高校なんかよりもずっと自由なんだからね。入ってから思ったのと違ったとか、お母さんに言われたからとか、そういう下らない文句を言うのはやめなよ」
 突き放すような言いかたに腹が立ち、私はとうとう声を荒らげる。
「分かってるよそんなこと! だから、そういうのがウザいって言ってんじゃん!」
「あぁ、そう! だったらもう勝手にすれば!」
 お姉ちゃんはクマクッションを投げ出し、立ち上がった。その拍子にクッションが床に落ちる。
「ちょっと! クッション落ちたんだけど!」
 私を無視して、扉へずんずんと歩いていく。
 バタン、とけたたましい音を残して、お姉ちゃんが部屋を出ていく。
 耳鳴りがするくらいの静寂が戻る。
 途端に虚しさが荒波のように押し寄せてきて、私は下唇を噛み締めた。
 みるみる、目に透明な涙の膜ができる。
「……なによ」
 くだらない?
 文句を言うな?
 そんなこと、いちいち言われなくても分かってる。
 私は無造作に落ちたクッションを取り上げ、ベッドに投げる。
 ベッドの上で弾んだクッションが、再び床に落ちた。
「あぁ、もう!」
 そもそもこれまで、一度も文句なんて言っていない。それなのに、なんでわざわざ言われなきゃならないんだろう。
 クッションを拾うため、軽く屈むと涙が頬をすべり落ちた。
 両手でごしごしと目元を拭うけれど、涙は引くどころか溢れてくる。クッションに、小さな染みがぽつぽつと広がる。
「私だって……」
 お姉ちゃんみたいに夢があったら。
 そう、何度思ったか分からない。
 お姉ちゃんと違って、私にはなにもないから。
 お母さんに言われるままに勉強して、なにが悪いの?
 だからこそ分かる。国立有名大学の医学部に現役合格したお姉ちゃんは、天才だ。
 ――柚香もお姉ちゃんみたいに立派にならないとね。
 お母さんの口癖。
 ――柚香ちゃんは、立派なお姉ちゃんがいていいわねぇ。
 いつも、だれからもそう言われてきた。
 ――柚香ちゃんもきっと、お姉ちゃんみたいに優秀なんでしょうね。
 いつだって、私はおまけ。
 お姉ちゃんはすごい、と言われることがあっても、柚香ちゃんはすごい、と言われることは決してない。
 どれだけ努力しても、お姉ちゃんには追いつけない。
「バカみたい……」
 どうしていつもこうなんだろう。
 いつも感情を抑圧しているせいか、お姉ちゃんの前では抑えられなくなる。
 じぶんがいやになる。
 お姉ちゃんの言いたいことは分かる。
 私はお姉ちゃんみたいにはっきりと医者になりたいと思ってるわけじゃない。志もないのに同じ医大を目指すなんて、お姉ちゃんには目障りに映って仕方がないのだろう。
 ――でも、だからって。
 分かっていることをわざわざ言わないでよ。
 そんな目で見ないでよ。
 これでも、私なりに頑張っているんだよ。
 お姉ちゃんを前にすると、私はどんどんいやな人間になる。
 やっぱり、家で勉強なんてするんじゃなかった。