そして、出版社との打ち合わせの日である土曜日を迎えた。

 大学に上がってから今日になるまでとても早い時間だった。蒼生と過ごした1年間でさえ早かったのに、体感ではそれ以上に最後の学生の時間は過ぎていった。

 電車で1時間ほど行ったところ、いわゆる都会でビル街と呼ばれるようなところだった。そびえ立つビルに首を痛めながらも、スマホのマップを頼りにたどり着いた。

「有森出版社……ここだ」

 有森出版社と言えば、文庫本や漫画というよりもエッセイ本、写真集などの比較的大きいサイズの本を出版している。

 メインの大きい自動ドアを通り、目の前の受付に座っている女性に話しかけた。

「あの、すみません」

「はい、どうされましたか?」

「今日の11時から羽塚様と会うことになっていまして……」

(こういう場合ってなんて言ったらいいんだろう)

「内田茜様ですか?」

「はい」

「では、ご案内いたします」

「あ、ありがとうございます」

 そのままエレベーターに乗り、液晶には13と表示された。降りると人がいる気配はなく、通路も静かだった。

「こちらになります」

 女性はそう言って、ドアを開けた。

「内田様ですか?お待ちしておりました」

「はい」

「では、失礼いたします」

「ありがとうございました」

「こちらにお座りください」

「失礼します」

 目の前にはおそらく電話をくれたであろう羽塚さんともう1人男性が隣に座っていた。

「改めて羽塚誠と申します。隣はプロカメラマンである蓮見健吾です」

 名刺を差しだされたので、両手で受け取った。

(確か図書館で借りた本にも名前がのっていたはず)

「内田茜です」

「あなたですか、この素晴らしい作品の持ち主は」

 パソコンが開かれ、画面には私が応募した作品が映っていた。

「私も今回のコンテストの審査員を務めていましたから、じっくりと見させていただきました」

「ありがとうございます」

「あなたの写真は少し不思議な心地がしたんです。1枚いちまいの写真を見ていると写っている風景だけではなくて、撮り手の表情も見えてくる」

「撮り手の表情ですか……」

「例えばこのページの海の写真」

 画面に拡大されたのは、蒼生が海を蹴った瞬間の写真だ。

「これには、一生懸命何枚も撮ったというよりもたまたま、正確に言えば、ふと笑ってしまうような表情が見える、といったところでしょうか」

(すごい、まるであの場に居合わせていたかのような)

「そうです。私がカメラを構えたときに思わずシャッターを切ってしまったんです。自分でも無意識でした」

「僕はそういう原石を探し求めていたんですよ。……まぁ、僕の話はこれくらいにして後の説明は羽塚さんに託します」

 パチンと手を叩いて、羽塚さんの方に視線を向けた。

「そうですね。では、この作品の出版化について話し合っていきたいのですが、こちらで出版までの過程を軽くまとめてみましたので、まずはこちらに目をお通しください」

 ホチキスで数枚まとめられたA4の紙を渡された。

「はい」

 1ページ目にはおおよその月と出版までの過程が書かれていた。

(写真集の出版は……来年の4月)

「あの、この出版月のことでご相談があるのですが」

「ぜひ言ってみてください」

「私が今回応募した作品で一番こだわりたかった写真は、もちろん全部ではあるのですが、この中にはないんです」

「どういうことですか?」

 すかさず蓮見さんが真剣なまなざしで私の方を見直した。

「この最後のページに載っている桜の写真ですが」

「この桜の写真ですか?私には神社の赤と桜の淡いピンクの色が美しいと思いますが」

 羽塚さんは顎の髭を触りながら、眉間にしわを寄せてパソコンの画面に目を近づけている。

「確かにそうですよね、私から見ても(せい)の写真を撮ることは難しいですから」

「本当は桜が舞っている瞬間をカメラに収めたかったんです。でも、数年かかっても撮ることができませんでした」

「その写真を使いたいと……」

「出版の時期もあると思いますし、無理も承知でお願いしているのは十分わかっています。そこを何とかお願いできないでしょうか?」

 2人の顔は少し険しそうな表情をしていた。

「この写真ではいけない理由があるということですか?」

「……はい。個人的な話になってしまうのですが、約束を果たしたいんです」

 顔を上げると2人とも何を言っているかわからないというような顔をしていた。

「高校3年生の雪の日に、この神社の桜を一緒に見に行く約束をしました。ですが、この約束が叶う日はもう来ません」

 声が震えているのがわかる。

(ちゃんと話さないと)

「それはどうして?」

「約束したのはこの写真に写っているモデルの男の子なのですが、……2年半前に亡くなりました。その子と最後に約束をしたのが、この神社の桜の写真を見に行くことでした」

「でも桜の写真は撮れているのでは?」

(……確かに蓮見さんの言うとおりだ、この神社の桜を見に行くことは果たしている)

 頭ではこの気持ちを理解できているのに、どうやって言葉に出したらいいかがわからない。

『あそこに咲いている桜は運がいいと舞っている瞬間が見れるんだ、きれいだから茜と一緒に見たいと思って』

 蒼生が言っていた言葉が脳裏をよぎる。

「桜の写真はずっと昔から撮ってきているのですが、桜が舞っている写真は一度も撮れたことがありません。それと、あともう一度チャンスがあるならここで諦めたくないんです。最後の1枚まで全力を尽くしたいです」

「なるほど」

「この写真集の出版が来年の4月が最後のチャンスなので、もしそれでも撮ることができなかっ
たら諦めます」

 蓮見さんは何も言わず下を向いたままだった。

「……僕はあなたが最後まで1枚の写真に懸ける思いを知りたかったんです。試すようなことをしてしまい、すみません。カメラマンなら諦めきれない写真があるのは当然のこと。羽塚さん、出版の日まではこの最後の写真以外のところを進めていくのはどうでしょうか?写真が撮れたら載せる、撮れない場合は現状の写真を使うと」

 「その写真を撮りたいというのは、もうあなたの中では約束があったからというだけではその心を動かしていないと、ほかにもいくつか理由があると私は思っています。1枚の写真に執着する心は時に大切ですからね」

 「ありがとうございます!」

 嬉しさに思わず立ち上がり、深くお辞儀をした。

 その後は今回の出版について細かく説明を受けた。何度か出版社に行くことも決まり、帰る頃には心の中は案外すっきりしていた。

 今まで何か責任をもってやり遂げることもなかったし、自分から挑戦することもなかった。

 でも、このコンテストだけは逃したらいけないと自分の心が言っていた。

 淡々と時間が過ぎていく毎日に変化が欲しくて、ただ撮っているだけではなくて、自分が挑戦した証も一緒に欲しかった。

 もし賞を取れていなかったとしても挑戦した証は自分の中では大きな宝物になると信じていた。

 家に帰ると、お母さんが晩ご飯を作ってくれていた。高校までは家に帰る時間が早かったから晩ご飯はよく作っていたが、大学に上がってからは遅い時間も増えて、1週間に3回ほどお母さんが作ってくれる。

 お母さんと一緒に居る時間が増えて、嬉しかった。

 明日は日曜日で大学もないから、1日家でゆっくりしようと考えた。晩ご飯を食べてお風呂から上がると、お母さんはリビングでもう少し仕事の続きをしなければいけないと言って、リビングでパソコンを開き始めた。

 時計は22時を過ぎたところだったが、早めに自分の部屋に行くことにした。

「お母さん、おやすみ」

「おやすみ」

 自分の部屋の電気をつけ、カーテンを閉めてエアコンをつける。特にやることもなかったから寝てもよかったが、もう少しこの心の余韻に浸っていたかった。

 布団に寝転がってしまうと寝てしまうので、椅子に座り、特にやることもなくただスマホをいじる。

「そういえば……」

 机の引き出しに入れた蒼生の手紙を思い出した。でも、これを読んでしまうと現実を受け入れたようで怖い。

 それと、蒼生と過ごした楽しかった思い出に悲しい記憶を塗るのは嫌で、ずっと読むのを避けて引き出しの奥にしまい、何年も自分の気持ちも一緒に胸の奥にしまっていた。

 でも、蒼生も一生懸命書いてくれたから、といつかは読まなければいけないと思っていた。

「読むなら今しかないよね」

 封筒を開け、中に入っている便箋を取り出した。何枚あるかわからない分厚さで、丁寧な文字で書かれていた。