清一郎の”果たし状”に従い、スズは日が傾き始める前に心斎橋のたもとにやって来た。だと言うのに、呼び出した張本人は影も形もない。
心斎橋とは、船場の南に位置する長堀川にかかる橋の一つだ。橋の北側……スズがいる方には昔ながらの商家が軒を連ねているが、橋を渡った南側には、洋風建築もちらほら見える。
今スズが立つ心斎橋もまた、洋風の造りをしている。以前も西洋風ではあったのだが、その出で立ちはまったく違う。
「なんや、変わってしもたなぁ」
スズはこの橋を、この辺りの町並みを知っていた。
清一郎の文を見て、本当は、ほんの少し心が躍った。またこの辺りを見て回れるかもしれないと。
大阪に戻ってからは、お店のことを覚えるか、お客さん方のことを覚えるか、もしくは寿子について回るばかりで、自分の思うように出歩くことができないでいた。まして、祝言の日以降は、姿を見せない清一郎に振り回される日々だ。
ようやく、ここにまた来られたと思ったのだが、スズの心は思ったほどは晴れなかった。
思わずため息を零すと、どこからか、するすると真っ黒な毛並みがスズの足下にすり寄ってきた。
「なんや、あんたも来たんかいな」
祝言以来の馴染みの黒猫だ。スズは黒猫を抱き上げようとしたが、するりと逃げられてしまった。だが立ち去ろうとはせず、スズの側にちょこんと座っている。スズは、その横に腰を下ろした。
「旦さんは、なんでここに来いって言わはったんやろ」
人の波を見つめながら、スズはぽつりと零した。続きを促すように、黒猫が鳴く。
「うち、昔はこの近くに住んでたんやで。この橋、好きやったんや。ここで待ってたら、どんなに迷子になっても、お父ちゃんお母ちゃんは見つけてくれたんよ。待ってる間、鉄橋が空まで伸びてなんや強そうに組まれてるんを見てるんは、楽しかったなぁ」
ふと、スズは目の前の心斎橋の欄干を見る。
そこには鉄で組まれた橋は存在しない。なんでも昨年架け替えられたのだとか。
今、目の前に架かっているのは石造りの2連アーチ橋だ。川面に2連の橋が映ることで眼鏡のような風景が浮かぶ。欄干は四つ葉を象ってあり、その上に、点々とランプのようなものがついている。
どれも、自分がこの近辺に住んでいた頃は、なかったものだ。そして、自分が昔見ていたものは、なくなっていく。
「寂しいなぁ」
ぽつりと呟くと、猫が窺うように鳴いた。
「ごめんな。落ち込んでるんと違うんやで。それより、旦さんはいつ来るんやろなぁ」
そう零した時、スズの近くで足音がした。思わず振り返ると、そこには黒っぽい衣装に身を包んだ人影が立っていた。
だが、それは清一郎ではない。
「お嬢ちゃん、どないしたんや?」
40代半ばほどの男性だ。手には長い長い棒を持っている。職人風に見える出で立ちだった。
「すんまへん、なんやお邪魔になりましたか」
「いやいや、わての仕事はここからで十分やさかい」
そう言うと、手にした棒を上へと伸ばしていく。
スズが思わず棒の先を目で追うと、欄干の上に立つランプのようなものを棒で何やらちょいちょいと触っていた。
すると、ガラス張りのランプの中に、ぽっと灯が灯った。
「わ!」
日が落ち始め賑やかな街にも帳が落ち始めていた頃だった。灯が灯った周囲から、ぼんやりと明るく照らされていく。
「ガス灯や。初めて見るんか?」
男性は棒を手にしたまま、東京に居た頃に聞いたことがあった、ガス灯の点灯夫だったのだ。驚くスズの様子をニコニコ眺めていた。
「去年、この橋と一緒にできたんや。暗くなっても、こうして明るぅ照らしてくれるから、夜道も怖くないやろ」
「暗くても、照らしてくれる……」
「そうや。いうても、遅ぅなる前に家に帰りや。娘さん一人やと危ないで」
点灯夫はそう言うと、また他のガス灯に火を点していった。一つ、また一つと灯が灯り、真っ暗になりかけていた橋が昼間のように明るく照らされていく。
今、スズの足下も、くっきりと照らし出されているのだった。
「……変わるのも、こんなに綺麗なんやったら、悪ぅないんかも」
スズがガス灯にうっとりしていると、足下で黒猫が、答えるように鳴いた。
心斎橋とは、船場の南に位置する長堀川にかかる橋の一つだ。橋の北側……スズがいる方には昔ながらの商家が軒を連ねているが、橋を渡った南側には、洋風建築もちらほら見える。
今スズが立つ心斎橋もまた、洋風の造りをしている。以前も西洋風ではあったのだが、その出で立ちはまったく違う。
「なんや、変わってしもたなぁ」
スズはこの橋を、この辺りの町並みを知っていた。
清一郎の文を見て、本当は、ほんの少し心が躍った。またこの辺りを見て回れるかもしれないと。
大阪に戻ってからは、お店のことを覚えるか、お客さん方のことを覚えるか、もしくは寿子について回るばかりで、自分の思うように出歩くことができないでいた。まして、祝言の日以降は、姿を見せない清一郎に振り回される日々だ。
ようやく、ここにまた来られたと思ったのだが、スズの心は思ったほどは晴れなかった。
思わずため息を零すと、どこからか、するすると真っ黒な毛並みがスズの足下にすり寄ってきた。
「なんや、あんたも来たんかいな」
祝言以来の馴染みの黒猫だ。スズは黒猫を抱き上げようとしたが、するりと逃げられてしまった。だが立ち去ろうとはせず、スズの側にちょこんと座っている。スズは、その横に腰を下ろした。
「旦さんは、なんでここに来いって言わはったんやろ」
人の波を見つめながら、スズはぽつりと零した。続きを促すように、黒猫が鳴く。
「うち、昔はこの近くに住んでたんやで。この橋、好きやったんや。ここで待ってたら、どんなに迷子になっても、お父ちゃんお母ちゃんは見つけてくれたんよ。待ってる間、鉄橋が空まで伸びてなんや強そうに組まれてるんを見てるんは、楽しかったなぁ」
ふと、スズは目の前の心斎橋の欄干を見る。
そこには鉄で組まれた橋は存在しない。なんでも昨年架け替えられたのだとか。
今、目の前に架かっているのは石造りの2連アーチ橋だ。川面に2連の橋が映ることで眼鏡のような風景が浮かぶ。欄干は四つ葉を象ってあり、その上に、点々とランプのようなものがついている。
どれも、自分がこの近辺に住んでいた頃は、なかったものだ。そして、自分が昔見ていたものは、なくなっていく。
「寂しいなぁ」
ぽつりと呟くと、猫が窺うように鳴いた。
「ごめんな。落ち込んでるんと違うんやで。それより、旦さんはいつ来るんやろなぁ」
そう零した時、スズの近くで足音がした。思わず振り返ると、そこには黒っぽい衣装に身を包んだ人影が立っていた。
だが、それは清一郎ではない。
「お嬢ちゃん、どないしたんや?」
40代半ばほどの男性だ。手には長い長い棒を持っている。職人風に見える出で立ちだった。
「すんまへん、なんやお邪魔になりましたか」
「いやいや、わての仕事はここからで十分やさかい」
そう言うと、手にした棒を上へと伸ばしていく。
スズが思わず棒の先を目で追うと、欄干の上に立つランプのようなものを棒で何やらちょいちょいと触っていた。
すると、ガラス張りのランプの中に、ぽっと灯が灯った。
「わ!」
日が落ち始め賑やかな街にも帳が落ち始めていた頃だった。灯が灯った周囲から、ぼんやりと明るく照らされていく。
「ガス灯や。初めて見るんか?」
男性は棒を手にしたまま、東京に居た頃に聞いたことがあった、ガス灯の点灯夫だったのだ。驚くスズの様子をニコニコ眺めていた。
「去年、この橋と一緒にできたんや。暗くなっても、こうして明るぅ照らしてくれるから、夜道も怖くないやろ」
「暗くても、照らしてくれる……」
「そうや。いうても、遅ぅなる前に家に帰りや。娘さん一人やと危ないで」
点灯夫はそう言うと、また他のガス灯に火を点していった。一つ、また一つと灯が灯り、真っ暗になりかけていた橋が昼間のように明るく照らされていく。
今、スズの足下も、くっきりと照らし出されているのだった。
「……変わるのも、こんなに綺麗なんやったら、悪ぅないんかも」
スズがガス灯にうっとりしていると、足下で黒猫が、答えるように鳴いた。