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「すいません。僕のマジック見てくれませんか?」
会社を早退した私は、その声に立ち止まる。チェーンの飲食店が軒を連ねる国道の歩道を歩いていたら、急に後ろから声をかけられたのだ。
後ろを振り返れば、そこにはランドセルを背負った赤い服の少年が立っていた。
最近の小学生は「すいません」を言えるのか、礼儀正しいな、と私は一人で感心してしまう。いや、この子は特別、慇懃なのかもしれない。そう考えると、彼の礼儀正しさが、彼に普通の小学生とは違う魅力を持たせているようにも感じた。
「マジック? いいけど」
「ありがとうございます! いや、家族とかに見せるのは少し恥ずかしくて」
彼は頭をぽりぽりと掻きながら、照れくさそうに説明した。
私は、彼の喋り方がどうにも気にかかった。というのも、彼は下唇を持ち上げ、不自然さ溢れる喋り方をしていたのだ。そのおかげで、彼の話す言葉はずいぶんと聞き取りにくかった。まるで、口の中で飼っている蛙を外界に出すまいとしているようだった。そんな想像が思い浮かんでしまい、肌が粟立つ。
「じゃあ、いきます」
「なんて?」
「じゃあ、いきます」
彼の話した言葉が聞き取れなくて、聞き返してしまった。
彼は徐に、両方の手のひらで円を描くようにして、何らかの魔物を召喚するような、そんな動きをしてみせた。
「えい!」
彼は快活に掛け声を発する。口の中に指を突っ込んだかと思うと、「ててーん」という安っぽい効果音とともに、涎まみれの500円玉を取り出した。
「すごくないですか? なんと、口の中からお金が!」
「いやーこれはすごい。マジックの本でも読んだのかい?」
こんな粗末なマジックが載っているはずがないじゃないか、と考えながら、悪戯に皮肉を発する。まったく、私も意地悪なおじさんになってしまったものだ。
「え、バレました?」
載ってたんかい。
「将来はマジシャンになった方がいいんじゃないかな。うん、私が保証するよ」
「本当ですか? けど、正直、説得力がないです」
「実はね、こう見えても私は、マジシャンを目指していたんだよ」
これは本当のことだった。私はマジックの本を図書館で借りては、よく一人で練習した。幼いながらも、私はプロのマジシャンになる運命なのだと、信じて疑わなかった。いそいそ練習した後、必ず弟に披露していたあの頃を、懐かしく思う。
「奇遇ですね。僕もそうです」
小学生の口から「奇遇」という単語が出てきたことに驚愕する。口から500円玉よりも、口から「奇遇」の方が、立派な手品に思えてくる。
「じゃあ、見てくれたお礼に、さっきの500円玉を差し上げます」
「いや、要らないよ」
労働とは無縁の小学生からお金を貰うのは、ひどく気が引けた。仮に貰うとしても、せめて乾いた500円玉がよかった。
「いや、ごめんなさい。実はもう、あげちゃいました」
どういうことだ、と私は訝りながら、「あ!」と思わず叫んでしまった。もう既に、彼から500円玉を受け取っているとしたら? それこそ、彼がやろうとしていた本当のマジックなのではないか? いや、そんなこと、あるはずがない。
試しにズボンのポケットを物色してみると、そこに小さな膨らみを感じた。心臓がすばやく高鳴る。
おそるおそるポケットに手を突っ込み、ヌメヌメしたものを取り出す。それは、あの涎まみれの500円玉だった。
「ね、すごいでしょ?」
私は驚きのあまり、言葉を失ってしまった。いつの間に、私のポケットに500円玉を入れたのだろうか。見当もつかなかった。こめかみから汗が流れてくる。暑いからだろうか。
「す、すごすぎる。君、本当にマジシャンになった方がいいよ」
今度は本心から、彼を説得した。
「マジックを見てくれて、ありがとうございました。その500円玉はあげますから」
彼は私の言葉を待たずして、颯爽と歩き去ってしまった。
小学生からお金を奪った形となってしまったので、なんだか罪悪感が芽生えてくる。わけではなかった。
私は、清々しい気持ちで横にあったラーメン屋へと歩を進める。何を食べようか、そんな思考を巡らせる。今頃、涎まみれの500円玉は、彼の財布に入れられているはずだ。