永夜の都は、月下大社(げっかたいしゃ)を中心に存在しており、市は大社の鳥居をくぐればすぐ近くにある。境内はそこまで広いわけではないが、本殿と、その両側に、回廊で繋がった建物、敷地の隅に、巫女や祭祀官が暮らす宿舎がある。周りは、その社を守るように竹が植わっている。
 本殿は、手入れがなされているのがよくわかる、美しいものだった。施された金細工が豪奢で、見ているだけで感嘆のため息が漏れる。所々に施された花の模様は、おそらく月下美人だろう。『月の女神』を象徴する花だと、書物で読んだことがある。両側は祈祷をするための建物らしい。本殿ほど豪奢ではないが、同じく金の細工に、扉には螺鈿(らでん)が施されており、先ほどから祈祷をしにきたのであろう人らが出入りしている。
 しかし、そんな豪勢な大社と市のある付近から外れると、そこからは農民たちが暮らす貧相な場所に変わる。と言っても、『永夜の民』である彼らにとっては、居住区間など、どうでもよい。そもそも彼らには、睡眠も食事も必要としないからだ。
 彼らが〝人間らしく振舞う〟のは、すべて、『月の女神』への信仰の一環だからでしかない。
 大社で祀られているのは、無論『月の女神』だ。『永夜の民』がこの地に降り立った際に建立されたというが、呉羽にとってはどうでも良いことだった。だって、素敵なことに変わりはないのだから。
 呉羽は境内の中を散策しながら、その美しく緻密な意匠の建造物に見惚れていた。——そう、呉羽はあんなことがあったばかりだというのに、性懲りもなくまた市の方に来ていた。しかも、月下大社と言う、『有夜の民』だとばれたら一巻の終わりだという場所に。
 だが、あの程度のことはいつものことだったので、呉羽は気に留めていなかった。そんなことよりも、好奇心が勝ったのだ。
「それにしても……この建物はとっても素敵だわ。手入れもしっかりとされていて」
 物事に深く関心を示さないくせに、『月の女神』に関することには、『有夜の民』顔負けの創造力を発揮するのだから、『永夜の民』はわからない。それほど、『月の女神』は、『永夜の民』にとっては大切な存在なのだろう。
 本殿を見上げていると、何か黒いものが旋回しているのが見えた。慈鳥だった。
「慈鳥。もうっ、市まではついてくるなっていつも言ってるのに」
 烏は、『永夜の民』が(いと)う生き物である。彼らにとって、最も不吉な、死を象徴する鳥だからだ。『永夜の民』は、〝死〟を呪いだと考えている。そんな不吉な呪いの象徴を、彼らが嫌うのは道理だった。石を投げられたり、骨を折られることだってある。
 ——慈鳥は、わたしの大切な友達だから。
 傷ついてほしくない。
 呉羽は木陰に座り込み、悠々と飛ぶ慈鳥を眺める。
 ——こっちに来ないといいけど。
 その時、ゴーン……ゴーン……ゴーン……と、鈍い音が三度鳴った。腹の底から震えるようなその音に、呉羽は弾かれたように立ち上がり、あたりを見渡す。時が止まり、色褪せた世界を動かすような——そんな力強い音色だった。
「もしかして……これが書物で読んだ鐘の音……?」
 書物では何度も見かけた、鐘の音。それが、こんなにも壮大で、美しいものだったとは。
「なんて素敵なの……」両手を胸の前で組み、呉羽はその音に聞き惚れる。「次はいつ鳴るのかな。そうだ、神主さんか巫女さんに訊いてみよう」
 呉羽は近くにいた巫女装束の女性に駆け寄る。
「すみません。さっき鐘が鳴りましたけど。次鳴るのは何時ですか?」
 女性はゆっくりと呉羽の方に振り向く。つるりとした肌がきれいな、妙齢の女性だった。そして彼女も、例にもれず、うつろで、冷たい目をしていた。笑えばきっと、百合の花のように美しいだろうに。呉羽は少し、もったいないと思った。
「……次は(とり)の刻(午後五時から午後七時)ですよ。いつも同じ時間に鳴っているでしょう。一日三回、朝と昼と夕方に」
 気だるげにそう答える女性の態度と声色は、その瞳と同じぐらい冷たい。
 ——ちょっとだけ、博士に似てる。
『永夜の民』は、みんなこんなものなのか。あの時の行商人は、まだ気さくな人だったというのに。
「そ、そうでした……わ、わたしったらうっかりしていたなあ……」
 あはは、と笑ってごまかす。相変わらず、呉羽は噓をつく能がない。
「……あなた、もしかして……」
 じろじろと品定めをされるように見られ、ばつが悪くなった呉羽は「し、失礼しました!」と逃げ出した。
「はあ、怖い怖い」呉羽は逃げるように、鳥居を抜ける。あの、商品を物珍しい目で見るような視線を、呉羽はいつまでたっても好きになれそうにない。「まったく、これだから『永夜の民』は怖いわ」
 呉羽は、市をぼんやりと歩いていく。変わり映えしないけれど、興味を惹かれるものはいくらでもある。だが、呉羽ももういい年だ。感情を抑える術ぐらい心得ている。まあ、いま回みたく、それが効かないことがあるが。
「それにしても、やっぱりいつもよりも賑やかなのよね……」
 ——なにか、お祭りでもあるのかな?
『永夜の民』の都が賑やかになるお祭り、となると、やはり『月の女神』に関する行事なのだろうか。
 ——春ちゃんなら、知ってるかもな。
 いま度会ったら訊いてみようと思いながら、呉羽は市を抜けようとする。その時だった。
 呉羽の周りから、またひそひそと声が聞こえてくる。
「おい、見てみろ。あいつ、この前『有夜の民』のまねごとをしてたやつじゃないか」
「いくら『月の女神』の戒律とはいえ、あれじゃあ『有夜の民』じゃないか。気持ち悪い、不快極まりない」
「あんなやつ、消えちまえばいいのにな。俺たち『永夜の民』の誇りを汚す蛮人だ」
 また聞こえてくる、呉羽を蔑む声。それと同時に、呉羽の身体に、石が投げつけられる。
「あっ! 『有夜の民』もどきだー!」
「さっさと消えろよ! この都から出て行けよ!」
「あんな奴にかまうな。ほっとけ」
 呉羽は、唇を噛んで耐える。何を言われても、言い返さない方がいい。言い返せば、自分が本当に『有夜の民』だとばれかねない。
 ——いつものことだから、落ち着いて。
 呉羽は周りから聞こえる言葉を振り切り、市を抜ける。ここからは、しばらく農村地帯が広がる。春もこのあたりに住んでいるはずだ。
 もし、市での姿を春に見られたら、自分が『有夜の民』だとばれるかもしれない。そうでなくとも、蔑まれ、(しいた)げられている光景など見られたら、いらぬ心配をかけてしまう。そう考えると、春が普段は市の方へ来ない、農村地帯の民でよかったと思う。
 農村地帯は、よく言えば閑静。悪く言えば寂びれた場所だ。ちらほらと、農作業をする人が見られるが、小さな子どもは少ないように見える。
 子ども、それこそ博士のような年で、老いが止まる者は——個人差はあるが——かなり珍しい。老いが止まっていない子どもは、おそらく何人かで固まって遊んでいるのだろう。春が呉羽のもとを訪ねるのと同じである。
 しかし、それもあくまで暇つぶしであり、『有夜の民』が築くような深い友情があるわけではない。老いが止まっていないとはいえ、『永夜の民』に、人とのかかわりを重視する者はいないのだ。
 踏み慣らされた道を歩いていると、子どもたちの声と同時に、烏の鳴き声が聞こえてくる。でも、なんだろう。まるで悲鳴のような、変な鳴き声だった。
「ま、まさか……!」
 全身が粟立って、呉羽は声がした方へと走りだす。足がもつれそうになりながら、何とか走る。農民たちが暮らす家が立ち並ぶ路地に入ると、貧相さがより際立っている。色褪せた竹や土でできた壁の、質素な家々の間の道をくぐり抜け、やっと声がした方へとたどり着く。
「……ああっ!」
 総身(そうみ)が冷える思いがした。
 鳴き声の正体。それは少年たちにいじめられる慈鳥の声だった。三人の少年が、慈鳥の足を、太い木の枝につないだ縄で縛りつけ、必死に逃げようとする慈鳥に石を投げている。そのか細い身体に石が当たるたび、慈鳥はぎゃあっと悲鳴を上げる。
「や、やめてっ!」呉羽はたまらず駆け出し、慈鳥をかばうように両手を広げる。「じ……い、生き物をそんな風にいじめちゃだめっ!」
 少年たちは、慈鳥をかばった呉羽を、きっと睨みつける。蔑むような、軽蔑をはらんだ視線に、呉羽も、ごくりとつばを飲む。
「……おい、そこをどけよ」
「どかない」
 呉羽も負けじと睨み返す。たぶんこの子たちは、みんなまだ老いが止まっていない。瞳に生気があるからだ。
「……」少年たちは、何を思ったのか、むっつりと黙った。
「……たしかに、烏は死の象徴かもしれないよ。でも、だからって、いじめていいってわけじゃあないよ。どうしてされたくないことを、自分以外にはできるの? あなただって、足を縛られて、石を投げられたらいやでしょう? だってまだ、あなたには痛みが、感情が——」
「うるさい! 黙れ!」呉羽が言い切るよりも早く、少年のひとりが、呉羽を突き飛ばした。呉羽はその場にしりもちをついた。
「『有夜の民』みたいなことを言いやがって! 俺たちは死なない! 何も失わない! そんな素晴らしい生命なんだよ! そんな俺たち『永夜の民』が、どうして死の呪いを運んでくる烏を虐げちゃいけないんだ! こいつは、『有夜の民』の使いで、〝死〟をもたらす鬼だ! そんなやつ、こうなって当然なんだよ!」
「……」呉羽はその言葉に、ただただ愕然とした。『永夜の民』は、こんなことを考えて生きているのかと。
 ——そんなの、ひどすぎるよ……。
 呉羽は目頭が熱くなるのを感じたが、必死にこらえた。そして、ちらりと慈鳥の方を見る。ぼろぼろになって、木の枝に乗っかっている。
 ——慈鳥……、ごめんなさい。
 大切な友だちのあなたを、傷つけてしまって。
「ふん、わかればいいんだ。さて、とどめを刺すか……」
 そう言って、大きな石を少年が手に取った、その時だった。
 ずるずる……と、背後から何かを引きずるような音が聞こえてきた。麻袋を引きずるような、聞き慣れたものではい。琴線から恐怖を感じるような、おぞましい音。これには、慈鳥にとどめを刺そうとしていた少年たちも動きを止める。いや、固まったが正しいのか。呉羽も、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
 しばらくして——実際はほんの一瞬であったが——ついにその音の正体が現れた。
 物体にしては形がない、影にしてははっきりとしている。どろどろとした汚泥のような(もや)。それは、血走ったふたつの瞳で、こちらを見ている。そもそもあれは生物なのか、それすらはっきりしない。
 呉羽はその靄を見て、呆然と立ち尽くす。激しい動悸とともに、耳鳴りがひどい。
 靄は、呉羽には目もくれず、ひとりの少年——慈鳥にとどめを刺そうとした少年の方へゆっくりと近づいてくる。
「う、うわ、あ……く、来るな! ば、化け物っ!」
 老いが止まっていないとはいえ、表情がほとんどない『永夜の民』とは思えないほど顔を歪ませ、少年はじりじりと後退する。呉羽を含めた誰も、動くことはかなわなかった。次の瞬間、靄は少年との距離を一気に詰め、その顔に触れる。彼の後ろにいた少年ふたりは、悲鳴のような声を上げる。
 靄に触れられた少年は、その瞳から幾筋の涙を流し、触れられたところから一気に黒く染まってゆく。それを見た他ふたりの少年は、片方は逃げ出し、もう一方はその場に座り込み、呆然自失としていた。呉羽がそちらに視線を向ける間に、触れられた少年は人としての形だけを残した靄と化していた。しかし、人型をしていたのもほんの一瞬の間だけ。すぐにその形は崩れ、形容しがたい形へと変化する。
 哀しく、おぞましい光景なのだと思う。けれど呉羽には、そうは見えなかった。靄となった少年の表情。それはまるで、大切な何かを思い出せたような、すがすがしい顔だったからだ。
 呉羽はゆっくりと立ち上がり、ふたつの靄に近づく。そして、それに優しく触れる——といっても、実体を持っていないらしく、まるで霧に手を突っ込んだようではあったが。
 呉羽は、目を見張る。温かかったのだ。靄の悲しそうな姿とは裏腹に、とても温かかった。
「……」なぜか、呉羽の意識が遠のいていく。



 冬だった。しかし、雪は降っていない。
 冬だと思ったのは、供えられた花が、椿だったから。椿は、言わずもがな、冬の花だ。
『ごめんなさい。わたしのせいで、ごめんなさい』
 わけも分からず謝る。口が勝手に動いて、言うことをきいてくれない。そもそも、目の前にあるこれはなんだろう? 大小の石を積み上げた、不思議な置物だった。
『もう、わたしはひとりじゃないから、安心してね』
 その置物に向かって話しかける。
『わたし、もう行かないと、じゃあ、また来るね』
 そうつぶやいて、立ち上がった。
 そして、ゆっくりと歩きだした。



 そこで、呉羽は思考の海から戻された。未だに呉羽の腕は靄の中にいる。
 ——いまのは、何?
 そして、視線を靄にあるふたつの目に向ける。
「あなたは……誰?」
 呉羽の声掛けに、靄はぐにゃりと歪む。何かを伝えたいのだろうか。
「……ごめんなさい、よくわからないの」
 呉羽がそう言うと、靄はゆっくりと呉羽から離れていく。そして、家々の隙間を、鼠よりも素早くすり抜けていった。
 ——行ってしまった……。
 結局、あれはなんだったのか。呉羽は靄が去っていった方を、凝視する。
「……お、おい! 何なんだよ、お前!」呆気に取られ、座り込んでいた少年が、呉羽に向かって叫ぶ。「ああ! どれもこれも、あの烏のせいだ! 早く、早くとどめを……」
 靄となった少年が落とした石を拾い上げた。その時だった。
「やめた方がいいですよ。死の汚れがうつりますから」
 背後から、声が聞こえてきた。ねっとりとして、いやに耳に残る声音だった。
 呉羽も、少年も、声がした方に視線を向けた。
 年は二十をいくつか過ぎたころ——実際に生きた年数は定かではないが——で、すらりとした男だった。燃えるように赤い髪は、縄のように編まれ、後ろでたらされている。その青い瞳は、案の定うつろで、生気がない。だが、どこか純粋そうな雰囲気を醸し出す、森閑(しんかん)とした森を連想させる青年だった。
「ふむ、『ツキモノ』の気配がしたのですが、気のせいだったのでしょうか?」
 男は、形の良い顎に人差し指を添えてつぶやく。
 ——『ツキモノ』?
 呉羽が男を見上げる中、彼は話を続ける。
「それに、死を運ぶ不吉な鳥なんて……ばっちいじゃないですか。触らない方が、『永夜の民』の誇りを守れると思いますけどねえ……ああ、まだ不完全な状態のあなたには、理解できないですよね。すみませんでした」
 まくしたてるように言う男に、少年は苦虫を嚙み潰したような顔をする。「う、うるさいんだよ! 大体お前は何なんだ! 珍妙な衣装を着て、その上烏をかばうなんて……!」
「おや? 私は別に、庇ったつもりはありませんよ? ただ、『永夜の民』として、汚れるからやめた方がいいと伝えただけです」
 彼はどこまでも飄々(ひょうひょう)とした声音をしている。だからだろうか、非常に安心感をおぼえる。
「な、何なんだよ! 気味が悪い!」
 そう吐き捨てて、少年たちは走り去った。
「……」呉羽はしばらくぽかんとしていたが、はっとして、慈鳥に駆け寄る。「慈鳥! ……よかった、骨は折れてないのね。ごめんなさい、わたし、守れなくて……!」
 呉羽が心配そうに言葉をまくしたてる中、慈鳥は先ほど受けた傷など気にしないように、飛び去って行った。
「もうっ、どんだけ薄情な烏なのよ……というか、飛べるなら元気じゃない」
 不満をこぼす呉羽を見て、男は「怖がらないのですね、烏を」とつぶやいた。「それに、慈鳥とは……その烏の名前ですか? 珍しいですね、生き物に名前をつけるだなんて」
「えっ……、だ、だって」呉羽は焦る。春もそうだったが、『永夜の民』は、悠久の時を生きられるゆえ、人とのつながりをほとんど持たない。持つとしても、それは老いが止まっていない『永夜の民』同士の、退屈しのぎだ。それゆえ、何かに名前をつけることはない。たとえ我が子であっても。それなのに、鳥に、しかも烏にまで名づけているとなると、怪しまれて当然だ。
「そ、そうですよね! な、名前を付けるなんておかしいですよね、あはは……」
 やはり、呉羽は嘘や誤魔化しが苦手だ。
「ふむ……、まあ、私は気にしませんけどね」そう言って男は呉羽に近づいてくる。「それよりも、私はあなたの瞳が気になります」
「ひ、瞳……?」
 呉羽はごくりとつばを飲む。
「はい」男は、鼻息がかかるほど、顔をぐっと呉羽に近づける。呉羽は胸が苦しくなって、小袖の襟を強く握りしめる。「近くで見ると、本当に綺麗ですねえ‥‥‥左右不揃いの、薄花色と薄桃色の瞳」
 男は、やんわりと呉羽の頬に手を添え、その顔を覗き込む。
「このまま、全て私のものにしてしまいたいです」
「……っ、馬鹿っ!」呉羽は顔を真っ赤にして、その場にしゃがみ込む。男は、そんな呉羽に、「すみませんでした」と言った。ただ、まったく反省していなさそうだった。
「……もう一度、顔を見せてください」
 そう言われ、呉羽はためらいながらも、ゆっくりと振り返る。顔が思ったよりも近い場所にあって、思わず「わあっ!」と悲鳴を上げ、倒れこんでしまった。胸が、これまでにないぐらいに早鐘を打っている。
「……あなた、容姿もとても美しいですねえ。私、美しいものは好きですよ」
「……」表情は、『永夜の民』だから、像のように動かない。なのに、そのねっとりとした声音のせいで、背筋を、冷たい指でなぞられているような感覚になる。
 ——なんだろう、この感じ……。
「ね、ねえ、あなたにも、やっぱり名前はないの?」
 ばつが悪くなって、ついそんなことを訊いた。
「……セキ」
「えっ?」
 呉羽は思わず聞き返す。
「一応、私にはセキという名前があります。色の〝赤〟と書いて、セキと読みます。まあ、これは名前と言うより、役職名のようなものですが……」
「そう」呉羽は肩を落とす。せっかく、名前がある『永夜の民』に会えたと思ったのに。「じゃあ、やっぱり、本当の名前はないのね」
「そう……ですね。あったかもしれませんが、忘れました。なにせ私も長生きですから」
 ——セキは、何歳なんだろう。
 きっと、本人もはっきりとは覚えてないのだろうけれど。
「えっと……わたしは、呉羽。呉床(くれどこ)の呉に、羽で呉羽」
「おや、あなたにも名前があるんですね。烏にも名前を付けていたところと言い、あなたは変わった人だ」
 セキの言葉に、呉羽はむっとする。「あなただって変だよ。そんなへんてこな衣装を着ているもの」
 へんてこ? とセキは首をかしげるが、すぐに呉羽の言葉の意味を理解して、「ああ、たしかにそうですね」とつぶやいた。そして、「くふふ‥‥‥」と、独特の笑い方をする。
「これはね、最近の帝都での軍人の服ですよ」
「……?」
 ——ていと? ぐんじん?
 聞いたことがない言葉に、呉羽は困惑する。そもそも、どんな字を書くのだろうか。
「帝都は、ここから東にある、この国を統治する帝がいる都です。軍人は、国を守る人の事ですよ」
検非違使(けびいし)ってこと?」
 検非違使は、都の治安を守る組織の事だ。
「まあ、それに近いでしょうね。そして私は、その軍人の一部隊の一番偉い人でもあります」
「ええっ! それはすごいわ! つまり、検非違使の別当(べっとう)ってことでしょう!?」
 別当は、検非違使の長官だ。
「まあ、厳密にいえば違いますがね」
 セキの声色に、いよいよ呆れが見え始めた。——なんでだろう。
「あれ? でもあなたは『永夜の民』よね? なのになんで帝都? ってところにいるの?」
 呉羽の中では、『永夜の民』は『有夜の民』を忌み嫌っているのに、なんでわざわざ『有夜の民』しかいないであろう帝都で暮らすのだろうか。
「ええ、私は『永夜の民』です。ですが、帝都で、『永夜の民』——厳密にいえば、『月の民』しかできない仕事を担っているのです」
「『月の民』しかできない仕事……?」
 セキは立ち上がると、淡々とこう言った。
「ツキモノを、祓うんですよ。それが私たちの仕事です」
 セキが、先ほどつぶやいていたのを、呉羽は思い返した。
「それって、さっき言ってたやつ、だよね?」
 ツキモノ。その言葉に、呉羽はなんとなく、おにぎりに添えられたたくあんを思い出した。
 そんな呉羽を見たセキは、
「‥‥‥あなたが何を想像しているのか、大方予想がつきますが、漬物ではなくツキモノですよ。月の遺物と言えばよいでしょうか」
 と、いくらかの呆れを(はら)ませた声色で言った。
「月の、遺物?」
 呉羽は反復する。あの靄——ツキモノは、もともとは月の物だったのか。なら、あの少年がツキモノになったのはなんだったのだろうか。
「まあ、その辺は追々話します。私があなたに話したいことは他にありますから」
「話したいこと‥‥‥?」
 ——なんだろう。
 思案していると、セキはにっこりと笑って、呉羽に手を差し出した。そして、一言こう言った。
「‥‥‥ねえ、私と一緒に都を出ましょう」