淡い虹色に彩られた雲の上に、その国はあった。
――あやかしの国。
まるで天界のように美しく平和なその国で、人々は幸せに暮らしていた。
『人々』とはいっても、見た目は人間にそっくりではあるが、『人』ではない。
そこに住む者たちは皆、『あやかし』であった。
あやかしとは、妖怪や怨霊といった禍々しい邪悪な存在などではない。
人ではなく化け物でもなく神でもない。淡く曖昧な、まるで雲のように変幻自在の存在である。
あやかしの中心部には豪壮な宮殿が鎮座している。
いくつもの大きな殿が集まり宮となっていて、その規模は村や里ほどの広大な敷地を誇る。
その宮中に居住し、あやかし国の頂点に君臨しているのが、あやかし王だ。
あやかしの国を守る強大な力を有した唯一無二の存在である。
あやかし国の周辺では魑魅魍魎の妖魔が飛び回っていて、あやかし国に入るのを防ぐのが王の務めだ。
しかし、あやかし王の力が強すぎて、ここ何百年も外部から侵入してこようとする命知らずな妖魔はいない。
「あやかし王~、ここにおられましたか。探しましたよ」
肩で息をしながら、近付いてきた男がいた。
丸みを帯びた瞳に卵型の小さな顔は整っている。漆黒の艶々とした濡羽色の髪が額にかかり、濃紺色の和服から覗く足は骨のように細く筋張っていた。人間のように見えるが、鴉の力を有する証だ。
小柄な背丈なので、あやかし王と並ぶと少年のように見えるが、歳は五十を超えている。しかしながら、あやかし国の宮中の中では比較的若い方である。
あやかし王と呼ばれた男は、気だるげに振り返った。
漂う気品と威厳は、他を威圧する迫力がある。それに、他のあやかしの住民と違って、見た目は完璧な人間だ。
力の弱い者は、姿が妖魔に近づいてしまうのだ。したがって、霊獣の尻尾のような物がついている者、手に鱗がついている者など容姿は様々だ。
完全なる人間の姿をしているあやかし王は、それだけで強大な力を所持していることが分かる。さらに、顔立ちが精緻な人形に命を宿したかのように整っていた。人を超えた圧倒的な秀麗さは、美が尊ばれるあやかしの国では優位な証だった。
「なんだ、秋菊か。せっかくいいところだったのに」
あやかし王は、雲の上から釣り糸を垂らしながら、秋菊を横目で見やった。
「え、ここって何か釣れるのですか?」
「釣れるわけがなかろうが」
(え、じゃあなんで釣り糸を垂らしているのですか)
あやかし王の返答に、秋菊と呼ばれた男は不思議に思いながらも、釣りを邪魔されて不満げな様子なので、怖くて発することができなかった。
あやかし王は正統な王家の生まれで、生粋の特権階級最上位者だ。
幼い頃から次期王としての教育を積まれたが、たまに仕事を抜け出して姿を消すという悪癖がある。
「大王様がお呼びです。今すぐ戻られた方が宜しいかと」
「まったく、どうせ世継ぎだの妃だのと小言を聞かせられるだけだろう」
あやかし王は立ち上がると、釣り竿を秋菊に預けた。
「ここ最近、大王様の容態が芳しくないですから、早くお世継ぎを見て安心したいのでしょう」
あやかし王が大股で闊歩していくので、秋菊は釣り竿を抱えて必死に後を追う。
「誰か俺の代わりに世継ぎを産んでくれるといいのだが」
耳を疑うような衝撃的な発言がさらりと零される。まるで、今日は肉ではなく、焼き魚が食べたかったと不満を漏らすような軽さだ。
秋菊は驚きながらも平静を努めて言葉を返す。
「なにをおっしゃいますか。あやかし王ほど強大な力を持つ稀有な御方はおりません。この類まれな力を次代に引き継いでいただかなければ、あやかし国の平穏は終わりを迎えてしまいます」
そうなるだろうとあやかし王も分かっていたためか、否定することなく薄い笑みを浮かべて穏やかな口調で返した。
「冗談だよ」
冗談でなければ困るのだが、冗談のようには聞こえなかったので秋菊はうろたえた。
「あやかし王が王位を継承して何年が経つのですか?」
「百年くらいだろうか」
「その間に、お眼鏡にかなう子はいなかったのですか?」
秋菊は上目遣いでおずおずと尋ねた。
「おらぬ。国中の美女を紹介されたが、一人も可愛いとは思えなかった」
あやかし王は真正面を向き、大股で歩きながらはっきりと答えた。
「見た目が好みではなくても、一緒にいるうちに楽しいなと思ったり情が芽生えたりするかもしれませんよ!」
秋菊は無邪気に声を弾ませた。秋菊は少年のように見えるが、その整った顔立ちゆえに、それなりに恋愛を経験していた。尊敬するあやかし王に助言できることが嬉しくて、ついお節介を焼きたくなってしまったのだ。
「そもそも一緒にいたいと思える女性がいない」
あやかし王は秋菊を見ることなく、淡々と答える。
秋菊は、『さすがにそれは……』と思った。
「もしかして、初恋まだですか?」
秋菊の問いに、あやかし王の眉間が寄った。
「口が過ぎるぞ」
睨み付けられた秋菊は、しまったと思って両手で自分の口を塞いだ。
「申し訳ございません!」
秋菊はその場に膝をつき、雲の中に頭を埋めるように謝罪した。
「良い、気にするな」
あやかし王は優しい声色で朗らかに笑った。
あやかし王と秋菊が、高い垣根に囲まれ屋根を構える大門をくぐると、あやかしの衛兵たちが深い礼をし王の帰還を出迎えた。
広大な宮中には目に鮮やかな美しい花木が咲き乱れ、壮麗な殿舎がいくつも軒を連ねている。宮中で働くあやかし達は一様に品の良い笑みを浮かべ、あやかし王を見ると雅な所作で頭を下げた。
あやかし王は威風堂々と大路を進み、真っ直ぐに大王が療養する殿舎へと向かった。
白木の御殿の前に辿り着くと、螺鈿細工の装飾が施された障子戸を開けた。
「失礼いたします」
寝所に入ると、絹張りの衝立と共に、寝台の横に立てられた燭台の灯りに照らされた大王の顔が浮かび上がっていた。寝台に横たわっていた大王の鋭い眼差しが、あやかし王に向けられる。
「ようやく来たか。最近は起き上がるのも難儀で、このままでいいか?」
大王の顔色は優れず、やつれていた。目の下には大きな隈があり、手は血管が浮き出ている。もう長くはないことは明らかだった。
「もちろんです、父上」
大王はほんのり笑みを浮かべた。
「煉魁、もっと近くに寄ってくれ。目も悪くなってしまって、お前の顔が見えない」
今では大王以外、誰も口にすることのない真名で呼ばれたので、あやかし王は少し気恥ずかしくなりながら大王の側に近寄った。
煉魁の母は、煉魁を産んですぐに亡くなった。元々体が弱く病に伏せがちだった母は、命懸けで煉魁を産んだのだという。
母の執念ともいうべき愛を注がれて生を受けた煉魁は、とても丈夫で健やかに育った。
父はその後、誰も側に侍らせなかったので、正統な王位を引き継ぐ者は煉魁のみだった。
煉魁がまだ少年と呼ばれるほど幼かった頃、王であった父も病に冒され、煉魁は幼くして王となった。
退位した父は、大王と呼ばれ、今でも煉魁に唯一苦言を呈する者として信望されている。
「この通り、私はもう長くはない。早く身を固めてくれないと、安心して逝くことができぬ」
やはりその話か、と煉魁は思った。
それ以外呼び出す理由もないのだから当然といえば当然だが。
「どうやら俺には無理なようです。父上が後妻を娶ってくれていればこんな杞憂はなかったでしょう」
煉魁も、張り合うように言い返す。無理なものは無理なのだ。大王が煉魁の母以外愛せなかったと同じように、責務だけで妻を娶ることはできない。
「それを言われると耳が痛いな。お前にも愛する女性ができるといいのだが」
「愛する女性ができたところで、世継ぎが無事に産まれるとは限りませんよ」
「そうだな。お前が産まれたことは奇跡だった」
もしも子どもが授からなかったら、母は今でも生きていただろうかと煉魁は思うことがある。今でも母を愛している父を見ると、自分は産まれてこない方が良かったのではないかと考えてしまうこともある。
けれど、世継ぎを産むことは母の念願だったらしいので、これで良かったのかもしれない。そうはいっても、王位継承を自分の代で止めることになることに関しては、罪悪感が湧かないわけではない。
「こんなことを言ってはいけないのかもしれないが、私は世継ぎよりも煉魁に愛を知ってほしいのだ。愛し愛される喜びを味わってもらいたい。……幸せになってほしいのだよ」
大王の言葉が胸にぐっと刺さる。
「世継ぎよりも難しいことをおっしゃいますね」
子どもなら、愛がなくても作ることはできる。しかし、愛する者はどうやったらできるのかわからない。
(俺は、愛を知らないから誰かを愛することが一生できないかもしれない)
母と過ごした記憶のない煉魁には知りようもないことだ。父からは愛情を受け取ったが、母方からの愛は違うものなのかもしれない。
大王の寝所を出た煉魁は、再び宮中を抜け出して一人になれる場所に向かった。
空に最も近い雲海がお気に入りの場所だった。
そこは下界と天界の通り道なので妖魔が出現することもあり、他のあやかしは滅多に訪れない。
煉魁が、あやかし王になってからは、雲海にすら妖魔が現われることもなくなったのだが、近付いてはいけないというのが古くからの言い伝えなので守っているのだろう。
雲海の上で、ぼうっと釣り糸を垂らすのが昔から好きだった。もちろん何も釣れない。だが、それでいいのだ。無意味なことをする時間が好きなのだから。
何の不足があって、この世を儚むのか。煉魁自身にも説明のできない空虚さがあるのだった。生まれてからずっと、その穴は埋まらない。
雲海を歩いていたその時だった。
何かが、あやかしの国に入り込んできた気配を感じた。
(妖魔か? 命知らずな)
異物は排除しなくてはならない。あやかしの国はどこよりも煌びやかで美しくあらねばならないのだ。
一足飛びで雲海を駆け抜ける。あっという間に異物を感知した場所に着くと、そこには雲海に半分が沈んで横たわっている体が見えた。
一見すると妖魔の類ではない。
(誰だ?)
とても弱っていて、今にも生命力が尽きそうだ。
(これは、なんだ?)
あやかしでもない、妖魔でもない。衣は切り裂かれたかのように破れている箇所がいくつもあり、体も傷だらけだ。
「おい、大丈夫か?」
声を掛けるが返答はない。とりあえず、ひょいと横抱きにして持ち上げてみたら、息が止まるほど驚いた。
こんなに美しいものは見たことがない。小さな顔に白磁の肌。長い睫毛に縁取られた瞳は魅惑的な色気を放ち、真珠の煌めきのような小さな唇に吸い寄せられる。
あやかしでもなければ妖魔でもない、しかしその姿は……。
「人間?」
下界に人間と呼ばれる弱き者がいると聞いたことがある。その姿は、あやかしそっくりらしいのだが、力もなく命も短い。
勢いよく早鐘を鳴らすように鼓動が躍動する。
初めて感じる胸が高鳴るほどの甘い悦び。この感情は一体……。
(愛おしい)
見ているだけで幸せな気持ちになる。触れるだけで体が熱くなる。
この者を守りたいと思った。
「あなたは、誰?」
艶めくような唇から、掠れた声で必死に紡ぎ出された言葉。
煉魁はとろけるような甘い眼差しで、問われたことに答えた。
「俺は、あやかし王だ」
するとその者は、大きく目を開いて、そして気を失った。そこで力を使い果たしてしまったようだ。
抱きかかえながら彼女に霊力を与える。すると、傷だらけだった体は綺麗に治り、頬に赤みが差してきた。
安心したように眠る彼女を抱きかかえながら、大切に、大切に運んでいく。
なぜあんなところに人間が倒れていたのかはわからない。
けれど、とても希少な宝を手に入れた気持ちだった。感じたことのない幸福感に包まれながら宮中へと戻った。
◆
彼女を抱きかかえて宮中に戻ると、侍女や下仕えの者たちが駆け寄ってきた。
「なんですか、ソレは」
「おそらく人間だ」
物珍しそうに彼女を覗き込む侍女たちに目もやらず、賓客を受け入れるための殿舎へ歩を進める。
「人間⁉ そんな汚らわしいもの、雲の上から投げ捨てておけばいいのですよ!」
侍女の一人が、袂で鼻を覆いながら侮蔑の言葉を吐き捨てた。
すると、煉魁の表情が一変し、歩みを止めた。侍女たちを見渡し、殺気のこもった目で睨み付けながら冷酷に告げる。
「この人間を侮辱し傷つけるようなことがあったら、この宮中どころか、あやかしの国にもいられなくなると思え」
煉魁の言葉に、侍女たちは「ひっ」と小さく悲鳴を漏らし、青ざめた。
煉魁は王の威厳はあるが、根は優しく親しみやすい。多少気に障るような失態をしてしまったとしても、ここまで本気で怒るようなことはこれまで一度たりともなかったのだ。
容赦のない物言いに、侍女たちはすっかり落ち込んでしまった。
最上級の賓客を受け入れる殿舎の襖を、手を使わずに念力で開ける。そして柔らかで清潔な褥の上にそっと寝かせ、布団をかけた。
すやすやと気持ち良さそうに眠る人間の頭をなでると、胸の奥がきゅっと締め付けられ、温かな高揚感に包まれた。
(あどけない寝顔が、なんとも可愛い)
この者のためなら、なんでもやってあげたいと思った。そのためには何が必要か。
(そうだ、汚れて破れた服を着ていては寝づらいだろう)
「おい、誰か……」
言いかけて口を噤む。世話をさせるのは、誰でもいいわけではない。信頼できる仕え人でなくてはならない。
煉魁の頭に一人の侍女が思い浮かんだ。
(あいつはちょっと苦手だが、仕方ない)
「おい、扶久を呼べ!」
煉魁が声を張ると、すぐに名前を呼ばれた侍女が現われた。
「お呼びでしょうか、あやかし王」
扶久は、重めの前髪を額に垂らし、後ろ髪を襟足辺りで真っ直ぐに切り揃えている。端正な顔立ちをしているがいつも無表情なので、まるで不気味な日本人形のようだ。着物も飾り気のない黒地のものを好むので、白い前掛けをしていなければ更にうす気味悪かっただろう。
「この者に寝心地の良いものを着せてやれ。最上の客を扱うように、丁寧に致せよ」
「承知致しました。わたくしの命が懸かっておりますゆえ、誠心誠意尽くさせていただきます」
扶久は深々と頭を下げて言った。
「命が懸かっているだと?」
煉魁が不思議そうに問うと、扶久は顔を上げて煉魁の目を見据えた。
「はい。あやかしの国にいられなくなるのでしょう? 宮中の噂となり、皆が震えあがっておりましたよ。あやかしの国にいられなくなるということは、つまり妖魔に喰われるということ。このお仕事にはわたくしの命が懸かっております」
「お、おう。いや、そこまででは……。でも、まあ、それくらいの意気込みで対応してくれると有難い」
この扶久という侍女、丁寧なのだが怖れ知らずの言動で、思ったことをはっきりと口にする。仕事ぶりは真面目で口も堅いので信頼できるのだが、とっつきにくい雰囲気を醸し出している。
扶久は部屋の奥から寝間着の浴衣を取り出すと、人間の横に浴衣を広げた。
「お体が汚れていますね。拭いて差し上げた方が宜しいかもしれません」
「そうだな、そうしてくれ」
煉魁が扶久の仕事ぶりを覗き込むように隣で見ていたら、扶久の動きが止まった。
「……女性の着替えを見ているおつもりですか?」
扶久は軽蔑するような眼差しで煉魁を横目で見た。
「違う、違う、そうじゃない! 今すぐ出る!」
「まあ、わたくしは、どちらでもいいのですけどね」
扶久はふっと嘲るようなため息を吐いた。
煉魁は急いで部屋を出ると、襖を閉めた。
体を拭いて着替えるとなると、しばらく時間がかかるだろう。かといって、片時も側を離れたくなかった。
煉魁は襖の横に腰を下ろし、ずっと待っていることにした。
(目覚めたら、名を聞こう)
起き上がった後のことを想像するだけで気分が高揚する。
煉魁は顔を緩ませながら、幸せな時を過ごすのだった。
一方、人間の世話を仰せつかった扶久はというと……。
(あやかし王は、部屋の外で待たれるおつもりなのか。どこかで暇つぶしでもしてくればいいものを)
早くしないといけない重圧を感じ、気が滅入る。
(まあ、いいや。ゆっくり丁寧にやろう。私の命が懸かっているわけだし)
曲桶に入った温かな湯と布を準備し、布を丁寧に絞って、琴禰の手をそっと拭いていく。
(良かった、深く寝ているようだ)
起きる気配がなかったので安心する。この様子だと、全身を拭いて着替えさせても起きないだろう。
とはいえ命が懸かっているので雑にはできない。細心の注意を払ってやらなければ。
(どうしてこんな重役をやるはめになったのか)
扶久が任命されて、さぞかし他の侍女たちは安心しただろう。誰も人間の世話なんて進んでやりたいとは思わない。
(それにしても、あやかし王がご執心になるのもわかるくらい綺麗な子だな)
扶久は人間を初めて見た。噂に聞いていた通り、あやかしにそっくりだ。
でも、あやかしでもこんなに美しい女性は見たことがない。
(でも、着物はまるで切り裂かれたかのように痛んでいる)
何かあったのだろう。何もなければ、そもそもあやかしの国に来ることなんてできない。
(私には、関係のないことだ)
目の前に横たわる美しい人間に同情しそうになって、慌てて思考を変える。
深入りしてはいけない。これは、仕事なのだから。
体を丁寧に拭き、着替えさせ、そして髪の毛も拭いていく。
それが終わったら、目覚めた後のことも考えて必要なものを準備しておいた。
機敏に仕事を終わらせ、部屋の外で待っていた煉魁に声を掛けた。
「それでは、わたくしはこれで」
「うむ、また頼む」
正直な所、遠慮したいと思ったが、何も言わずに立ち去った。とりあえず、仕事は終わった。
扶久と入れ替わりで部屋に入った煉魁は、汚れも落ちてひと際輝くように綺麗になった人間に目を奪われた。
穏やかに眠り続ける人間の側に腰を下ろし、そっと頬をなでる。
(何か大変なことがあったのだろう。かわいそうに。これからは俺が守るからな)
まるで誓いのような決断を自分に課す。
愛おしい寝顔を見つめながら、美しい眉目を下げ、それから何時間も側に居続けたのであった。
――あやかしの国。
まるで天界のように美しく平和なその国で、人々は幸せに暮らしていた。
『人々』とはいっても、見た目は人間にそっくりではあるが、『人』ではない。
そこに住む者たちは皆、『あやかし』であった。
あやかしとは、妖怪や怨霊といった禍々しい邪悪な存在などではない。
人ではなく化け物でもなく神でもない。淡く曖昧な、まるで雲のように変幻自在の存在である。
あやかしの中心部には豪壮な宮殿が鎮座している。
いくつもの大きな殿が集まり宮となっていて、その規模は村や里ほどの広大な敷地を誇る。
その宮中に居住し、あやかし国の頂点に君臨しているのが、あやかし王だ。
あやかしの国を守る強大な力を有した唯一無二の存在である。
あやかし国の周辺では魑魅魍魎の妖魔が飛び回っていて、あやかし国に入るのを防ぐのが王の務めだ。
しかし、あやかし王の力が強すぎて、ここ何百年も外部から侵入してこようとする命知らずな妖魔はいない。
「あやかし王~、ここにおられましたか。探しましたよ」
肩で息をしながら、近付いてきた男がいた。
丸みを帯びた瞳に卵型の小さな顔は整っている。漆黒の艶々とした濡羽色の髪が額にかかり、濃紺色の和服から覗く足は骨のように細く筋張っていた。人間のように見えるが、鴉の力を有する証だ。
小柄な背丈なので、あやかし王と並ぶと少年のように見えるが、歳は五十を超えている。しかしながら、あやかし国の宮中の中では比較的若い方である。
あやかし王と呼ばれた男は、気だるげに振り返った。
漂う気品と威厳は、他を威圧する迫力がある。それに、他のあやかしの住民と違って、見た目は完璧な人間だ。
力の弱い者は、姿が妖魔に近づいてしまうのだ。したがって、霊獣の尻尾のような物がついている者、手に鱗がついている者など容姿は様々だ。
完全なる人間の姿をしているあやかし王は、それだけで強大な力を所持していることが分かる。さらに、顔立ちが精緻な人形に命を宿したかのように整っていた。人を超えた圧倒的な秀麗さは、美が尊ばれるあやかしの国では優位な証だった。
「なんだ、秋菊か。せっかくいいところだったのに」
あやかし王は、雲の上から釣り糸を垂らしながら、秋菊を横目で見やった。
「え、ここって何か釣れるのですか?」
「釣れるわけがなかろうが」
(え、じゃあなんで釣り糸を垂らしているのですか)
あやかし王の返答に、秋菊と呼ばれた男は不思議に思いながらも、釣りを邪魔されて不満げな様子なので、怖くて発することができなかった。
あやかし王は正統な王家の生まれで、生粋の特権階級最上位者だ。
幼い頃から次期王としての教育を積まれたが、たまに仕事を抜け出して姿を消すという悪癖がある。
「大王様がお呼びです。今すぐ戻られた方が宜しいかと」
「まったく、どうせ世継ぎだの妃だのと小言を聞かせられるだけだろう」
あやかし王は立ち上がると、釣り竿を秋菊に預けた。
「ここ最近、大王様の容態が芳しくないですから、早くお世継ぎを見て安心したいのでしょう」
あやかし王が大股で闊歩していくので、秋菊は釣り竿を抱えて必死に後を追う。
「誰か俺の代わりに世継ぎを産んでくれるといいのだが」
耳を疑うような衝撃的な発言がさらりと零される。まるで、今日は肉ではなく、焼き魚が食べたかったと不満を漏らすような軽さだ。
秋菊は驚きながらも平静を努めて言葉を返す。
「なにをおっしゃいますか。あやかし王ほど強大な力を持つ稀有な御方はおりません。この類まれな力を次代に引き継いでいただかなければ、あやかし国の平穏は終わりを迎えてしまいます」
そうなるだろうとあやかし王も分かっていたためか、否定することなく薄い笑みを浮かべて穏やかな口調で返した。
「冗談だよ」
冗談でなければ困るのだが、冗談のようには聞こえなかったので秋菊はうろたえた。
「あやかし王が王位を継承して何年が経つのですか?」
「百年くらいだろうか」
「その間に、お眼鏡にかなう子はいなかったのですか?」
秋菊は上目遣いでおずおずと尋ねた。
「おらぬ。国中の美女を紹介されたが、一人も可愛いとは思えなかった」
あやかし王は真正面を向き、大股で歩きながらはっきりと答えた。
「見た目が好みではなくても、一緒にいるうちに楽しいなと思ったり情が芽生えたりするかもしれませんよ!」
秋菊は無邪気に声を弾ませた。秋菊は少年のように見えるが、その整った顔立ちゆえに、それなりに恋愛を経験していた。尊敬するあやかし王に助言できることが嬉しくて、ついお節介を焼きたくなってしまったのだ。
「そもそも一緒にいたいと思える女性がいない」
あやかし王は秋菊を見ることなく、淡々と答える。
秋菊は、『さすがにそれは……』と思った。
「もしかして、初恋まだですか?」
秋菊の問いに、あやかし王の眉間が寄った。
「口が過ぎるぞ」
睨み付けられた秋菊は、しまったと思って両手で自分の口を塞いだ。
「申し訳ございません!」
秋菊はその場に膝をつき、雲の中に頭を埋めるように謝罪した。
「良い、気にするな」
あやかし王は優しい声色で朗らかに笑った。
あやかし王と秋菊が、高い垣根に囲まれ屋根を構える大門をくぐると、あやかしの衛兵たちが深い礼をし王の帰還を出迎えた。
広大な宮中には目に鮮やかな美しい花木が咲き乱れ、壮麗な殿舎がいくつも軒を連ねている。宮中で働くあやかし達は一様に品の良い笑みを浮かべ、あやかし王を見ると雅な所作で頭を下げた。
あやかし王は威風堂々と大路を進み、真っ直ぐに大王が療養する殿舎へと向かった。
白木の御殿の前に辿り着くと、螺鈿細工の装飾が施された障子戸を開けた。
「失礼いたします」
寝所に入ると、絹張りの衝立と共に、寝台の横に立てられた燭台の灯りに照らされた大王の顔が浮かび上がっていた。寝台に横たわっていた大王の鋭い眼差しが、あやかし王に向けられる。
「ようやく来たか。最近は起き上がるのも難儀で、このままでいいか?」
大王の顔色は優れず、やつれていた。目の下には大きな隈があり、手は血管が浮き出ている。もう長くはないことは明らかだった。
「もちろんです、父上」
大王はほんのり笑みを浮かべた。
「煉魁、もっと近くに寄ってくれ。目も悪くなってしまって、お前の顔が見えない」
今では大王以外、誰も口にすることのない真名で呼ばれたので、あやかし王は少し気恥ずかしくなりながら大王の側に近寄った。
煉魁の母は、煉魁を産んですぐに亡くなった。元々体が弱く病に伏せがちだった母は、命懸けで煉魁を産んだのだという。
母の執念ともいうべき愛を注がれて生を受けた煉魁は、とても丈夫で健やかに育った。
父はその後、誰も側に侍らせなかったので、正統な王位を引き継ぐ者は煉魁のみだった。
煉魁がまだ少年と呼ばれるほど幼かった頃、王であった父も病に冒され、煉魁は幼くして王となった。
退位した父は、大王と呼ばれ、今でも煉魁に唯一苦言を呈する者として信望されている。
「この通り、私はもう長くはない。早く身を固めてくれないと、安心して逝くことができぬ」
やはりその話か、と煉魁は思った。
それ以外呼び出す理由もないのだから当然といえば当然だが。
「どうやら俺には無理なようです。父上が後妻を娶ってくれていればこんな杞憂はなかったでしょう」
煉魁も、張り合うように言い返す。無理なものは無理なのだ。大王が煉魁の母以外愛せなかったと同じように、責務だけで妻を娶ることはできない。
「それを言われると耳が痛いな。お前にも愛する女性ができるといいのだが」
「愛する女性ができたところで、世継ぎが無事に産まれるとは限りませんよ」
「そうだな。お前が産まれたことは奇跡だった」
もしも子どもが授からなかったら、母は今でも生きていただろうかと煉魁は思うことがある。今でも母を愛している父を見ると、自分は産まれてこない方が良かったのではないかと考えてしまうこともある。
けれど、世継ぎを産むことは母の念願だったらしいので、これで良かったのかもしれない。そうはいっても、王位継承を自分の代で止めることになることに関しては、罪悪感が湧かないわけではない。
「こんなことを言ってはいけないのかもしれないが、私は世継ぎよりも煉魁に愛を知ってほしいのだ。愛し愛される喜びを味わってもらいたい。……幸せになってほしいのだよ」
大王の言葉が胸にぐっと刺さる。
「世継ぎよりも難しいことをおっしゃいますね」
子どもなら、愛がなくても作ることはできる。しかし、愛する者はどうやったらできるのかわからない。
(俺は、愛を知らないから誰かを愛することが一生できないかもしれない)
母と過ごした記憶のない煉魁には知りようもないことだ。父からは愛情を受け取ったが、母方からの愛は違うものなのかもしれない。
大王の寝所を出た煉魁は、再び宮中を抜け出して一人になれる場所に向かった。
空に最も近い雲海がお気に入りの場所だった。
そこは下界と天界の通り道なので妖魔が出現することもあり、他のあやかしは滅多に訪れない。
煉魁が、あやかし王になってからは、雲海にすら妖魔が現われることもなくなったのだが、近付いてはいけないというのが古くからの言い伝えなので守っているのだろう。
雲海の上で、ぼうっと釣り糸を垂らすのが昔から好きだった。もちろん何も釣れない。だが、それでいいのだ。無意味なことをする時間が好きなのだから。
何の不足があって、この世を儚むのか。煉魁自身にも説明のできない空虚さがあるのだった。生まれてからずっと、その穴は埋まらない。
雲海を歩いていたその時だった。
何かが、あやかしの国に入り込んできた気配を感じた。
(妖魔か? 命知らずな)
異物は排除しなくてはならない。あやかしの国はどこよりも煌びやかで美しくあらねばならないのだ。
一足飛びで雲海を駆け抜ける。あっという間に異物を感知した場所に着くと、そこには雲海に半分が沈んで横たわっている体が見えた。
一見すると妖魔の類ではない。
(誰だ?)
とても弱っていて、今にも生命力が尽きそうだ。
(これは、なんだ?)
あやかしでもない、妖魔でもない。衣は切り裂かれたかのように破れている箇所がいくつもあり、体も傷だらけだ。
「おい、大丈夫か?」
声を掛けるが返答はない。とりあえず、ひょいと横抱きにして持ち上げてみたら、息が止まるほど驚いた。
こんなに美しいものは見たことがない。小さな顔に白磁の肌。長い睫毛に縁取られた瞳は魅惑的な色気を放ち、真珠の煌めきのような小さな唇に吸い寄せられる。
あやかしでもなければ妖魔でもない、しかしその姿は……。
「人間?」
下界に人間と呼ばれる弱き者がいると聞いたことがある。その姿は、あやかしそっくりらしいのだが、力もなく命も短い。
勢いよく早鐘を鳴らすように鼓動が躍動する。
初めて感じる胸が高鳴るほどの甘い悦び。この感情は一体……。
(愛おしい)
見ているだけで幸せな気持ちになる。触れるだけで体が熱くなる。
この者を守りたいと思った。
「あなたは、誰?」
艶めくような唇から、掠れた声で必死に紡ぎ出された言葉。
煉魁はとろけるような甘い眼差しで、問われたことに答えた。
「俺は、あやかし王だ」
するとその者は、大きく目を開いて、そして気を失った。そこで力を使い果たしてしまったようだ。
抱きかかえながら彼女に霊力を与える。すると、傷だらけだった体は綺麗に治り、頬に赤みが差してきた。
安心したように眠る彼女を抱きかかえながら、大切に、大切に運んでいく。
なぜあんなところに人間が倒れていたのかはわからない。
けれど、とても希少な宝を手に入れた気持ちだった。感じたことのない幸福感に包まれながら宮中へと戻った。
◆
彼女を抱きかかえて宮中に戻ると、侍女や下仕えの者たちが駆け寄ってきた。
「なんですか、ソレは」
「おそらく人間だ」
物珍しそうに彼女を覗き込む侍女たちに目もやらず、賓客を受け入れるための殿舎へ歩を進める。
「人間⁉ そんな汚らわしいもの、雲の上から投げ捨てておけばいいのですよ!」
侍女の一人が、袂で鼻を覆いながら侮蔑の言葉を吐き捨てた。
すると、煉魁の表情が一変し、歩みを止めた。侍女たちを見渡し、殺気のこもった目で睨み付けながら冷酷に告げる。
「この人間を侮辱し傷つけるようなことがあったら、この宮中どころか、あやかしの国にもいられなくなると思え」
煉魁の言葉に、侍女たちは「ひっ」と小さく悲鳴を漏らし、青ざめた。
煉魁は王の威厳はあるが、根は優しく親しみやすい。多少気に障るような失態をしてしまったとしても、ここまで本気で怒るようなことはこれまで一度たりともなかったのだ。
容赦のない物言いに、侍女たちはすっかり落ち込んでしまった。
最上級の賓客を受け入れる殿舎の襖を、手を使わずに念力で開ける。そして柔らかで清潔な褥の上にそっと寝かせ、布団をかけた。
すやすやと気持ち良さそうに眠る人間の頭をなでると、胸の奥がきゅっと締め付けられ、温かな高揚感に包まれた。
(あどけない寝顔が、なんとも可愛い)
この者のためなら、なんでもやってあげたいと思った。そのためには何が必要か。
(そうだ、汚れて破れた服を着ていては寝づらいだろう)
「おい、誰か……」
言いかけて口を噤む。世話をさせるのは、誰でもいいわけではない。信頼できる仕え人でなくてはならない。
煉魁の頭に一人の侍女が思い浮かんだ。
(あいつはちょっと苦手だが、仕方ない)
「おい、扶久を呼べ!」
煉魁が声を張ると、すぐに名前を呼ばれた侍女が現われた。
「お呼びでしょうか、あやかし王」
扶久は、重めの前髪を額に垂らし、後ろ髪を襟足辺りで真っ直ぐに切り揃えている。端正な顔立ちをしているがいつも無表情なので、まるで不気味な日本人形のようだ。着物も飾り気のない黒地のものを好むので、白い前掛けをしていなければ更にうす気味悪かっただろう。
「この者に寝心地の良いものを着せてやれ。最上の客を扱うように、丁寧に致せよ」
「承知致しました。わたくしの命が懸かっておりますゆえ、誠心誠意尽くさせていただきます」
扶久は深々と頭を下げて言った。
「命が懸かっているだと?」
煉魁が不思議そうに問うと、扶久は顔を上げて煉魁の目を見据えた。
「はい。あやかしの国にいられなくなるのでしょう? 宮中の噂となり、皆が震えあがっておりましたよ。あやかしの国にいられなくなるということは、つまり妖魔に喰われるということ。このお仕事にはわたくしの命が懸かっております」
「お、おう。いや、そこまででは……。でも、まあ、それくらいの意気込みで対応してくれると有難い」
この扶久という侍女、丁寧なのだが怖れ知らずの言動で、思ったことをはっきりと口にする。仕事ぶりは真面目で口も堅いので信頼できるのだが、とっつきにくい雰囲気を醸し出している。
扶久は部屋の奥から寝間着の浴衣を取り出すと、人間の横に浴衣を広げた。
「お体が汚れていますね。拭いて差し上げた方が宜しいかもしれません」
「そうだな、そうしてくれ」
煉魁が扶久の仕事ぶりを覗き込むように隣で見ていたら、扶久の動きが止まった。
「……女性の着替えを見ているおつもりですか?」
扶久は軽蔑するような眼差しで煉魁を横目で見た。
「違う、違う、そうじゃない! 今すぐ出る!」
「まあ、わたくしは、どちらでもいいのですけどね」
扶久はふっと嘲るようなため息を吐いた。
煉魁は急いで部屋を出ると、襖を閉めた。
体を拭いて着替えるとなると、しばらく時間がかかるだろう。かといって、片時も側を離れたくなかった。
煉魁は襖の横に腰を下ろし、ずっと待っていることにした。
(目覚めたら、名を聞こう)
起き上がった後のことを想像するだけで気分が高揚する。
煉魁は顔を緩ませながら、幸せな時を過ごすのだった。
一方、人間の世話を仰せつかった扶久はというと……。
(あやかし王は、部屋の外で待たれるおつもりなのか。どこかで暇つぶしでもしてくればいいものを)
早くしないといけない重圧を感じ、気が滅入る。
(まあ、いいや。ゆっくり丁寧にやろう。私の命が懸かっているわけだし)
曲桶に入った温かな湯と布を準備し、布を丁寧に絞って、琴禰の手をそっと拭いていく。
(良かった、深く寝ているようだ)
起きる気配がなかったので安心する。この様子だと、全身を拭いて着替えさせても起きないだろう。
とはいえ命が懸かっているので雑にはできない。細心の注意を払ってやらなければ。
(どうしてこんな重役をやるはめになったのか)
扶久が任命されて、さぞかし他の侍女たちは安心しただろう。誰も人間の世話なんて進んでやりたいとは思わない。
(それにしても、あやかし王がご執心になるのもわかるくらい綺麗な子だな)
扶久は人間を初めて見た。噂に聞いていた通り、あやかしにそっくりだ。
でも、あやかしでもこんなに美しい女性は見たことがない。
(でも、着物はまるで切り裂かれたかのように痛んでいる)
何かあったのだろう。何もなければ、そもそもあやかしの国に来ることなんてできない。
(私には、関係のないことだ)
目の前に横たわる美しい人間に同情しそうになって、慌てて思考を変える。
深入りしてはいけない。これは、仕事なのだから。
体を丁寧に拭き、着替えさせ、そして髪の毛も拭いていく。
それが終わったら、目覚めた後のことも考えて必要なものを準備しておいた。
機敏に仕事を終わらせ、部屋の外で待っていた煉魁に声を掛けた。
「それでは、わたくしはこれで」
「うむ、また頼む」
正直な所、遠慮したいと思ったが、何も言わずに立ち去った。とりあえず、仕事は終わった。
扶久と入れ替わりで部屋に入った煉魁は、汚れも落ちてひと際輝くように綺麗になった人間に目を奪われた。
穏やかに眠り続ける人間の側に腰を下ろし、そっと頬をなでる。
(何か大変なことがあったのだろう。かわいそうに。これからは俺が守るからな)
まるで誓いのような決断を自分に課す。
愛おしい寝顔を見つめながら、美しい眉目を下げ、それから何時間も側に居続けたのであった。