百貨店を出てから、秀一さんは無言になった。私も特に話しかけることはなく、秀一さんの左斜め後ろをついて歩いた。

 前を歩く秀一さんが裏路地に入った。

 (どこへ向かうのだろう……)

 私は少し不安になったが、黙ってついていくことにした。
 
 大通りを外れると、まだ彼方此方(あちらこちら)に瓦礫が積まれていた。今は焼け野原だが、きっといくつも建物があったのだろう。

 やがて、秀一さんが歩みを止めた。
 
 「焦らすような真似をして悪かったね。お別れの前に、君の前から姿を消した理由を話すよ」

 別れという言葉に、私は少し戸惑った。
 
 「何かご事情があったのであれば、特に詮索するつもりはありません」

 喉から出てきた台詞に、自分でも驚いた。
 あれほど知りたかった真実が、今はどうでもよくなっていた。

 それよりも、もう少しだけ私の知らない世界を体験してみたかった。

 しかし、私の思いは秀一さんには伝わらなかったようだ。

 秀一さんは道から小さなガラスの破片を拾い上げて、「どこから話せばいいかな」と、少し躊躇うように言った。

 「月子ちゃんは竹取物語を知っているかい」 
 
 「ええ」
 
 私は頷いた。日本に住んでいて、かぐや姫を知らない人間の方が珍しいだろう。

 「あの話の最後、月に帰るかぐや姫は帝に不老不死の薬を渡すだろう。しかし帝はかぐや姫のいない世界を生きる選択はせず、調石笠(つきのいわかさ)という使者に薬を燃やすよう命じた……」

 「そうだったと思いますけど……」

 「しかし」と、秀一さんは続けた。

 「実は調石笠は薬を燃やしていなかった。不老不死の欲求に勝てずに、富士山の山頂で薬を飲んだんだ」

 「あの、先ほどから何の話をされているのでしょうか」

 耐えられず私が質問すると、秀一さんは「見てもらった方が早いだろう」と、ガラスの破片を手首に当てた。

 私が叫び声を上げる間もなく、秀一さんの手首は切り裂かれ、真紅の血が指先へと伝っていた。

 「何をしているのですか」

 止血のためにハンケチを持って慌てふためく私に対して、秀一さんは冷静だった。

 「大丈夫だよ。見てごらん」

 「え……」

 私は思わず言葉を失った。

 ほんの数秒前まで確かに流れていた血も、痛々しい傷も、秀一さんの手首から跡形もなく消え去っていたからだ。

 「なんで……」

 私が呆然としていると、秀一さんは寂しそうに笑った。

 「僕の本当の名前は、橘秀一ではなく調石笠。千年前にかぐや姫が残した薬を飲んで、不老不死になった男だ」

 私たちの間を一陣の風が通り抜けて、リボンの端がヒラヒラと旗めく音がした。
 今までの世界と、私が知らない世界が、入れ替わってしまったような気がした。