目の前に男子たちの背中がある。げらげらと笑い声をあげて、昨日観たテレビの話に花を咲かせている。

私はそれを俯きがちに眺めて、一人ぽつぽつと放課後の廊下を歩く。

すると、真ん中に立っていた一人の男子が、突然後ろを向いた。

瞬間的にその男子と目が合う。両隣に何かを告げ、ととと、と私の元に駆け寄った。

「一緒に帰ろーぜ、シノ」

そう言ってその男子―先日知りあったばかりの「りっくん」はニカッと笑った。

「杉崎くんたちと、帰らなくていいの?」

「いーよ。あいつらとは、いつも一緒だから」

私の不安や気遣いを、全て吹き飛ばすような笑み。心が軽くなった気がして、私は嬉しくなる。

と、私の手が、温かな熱と柔らかな感触に包まれた。見ると、りっくんが私の手を握っていた。

「俺おなか空いたからさー、今からカフェいこーぜ」

「かふぇ…?」

私は首を傾げる。かふぇ。前にテレビで見たことがある。たしか、大人の行くごはん屋さんだ。

「そう!父さんたちとよく行くんだけどさ、めっちゃうまいサンドイッチが食えるんだよ」

「へえ。どんなの?」

「えっとね。中に肉が入ってるやつ。とにかく、めっちゃうまいんだ!」

りっくんは目を輝かせている。そんなにおいしいなら、私も食べてみたい。

「ほら!おごってやるからさ、シノもいこーぜ!」

「あ、ちょっと!」

私の手を引いて、りっくんは走り出した。揺れるランドセルと、廊下に響く足音。

「あはははは!早いよ、りっくん」

私は、弾けたみたいに笑った。



「………」

見慣れた天井。カーテンの隙間から差し込む光に、さっきまで閉じていた目が痛む。

また、昔の夢を見ていた。

りっくんと馬鹿みたいに笑い合っていた、あの頃の。

私の人生で最も輝かしかった、あの日々の。


キーンコーンカーンコーン。

予鈴が鳴り響く。同時に、担任の先生が教室に入ってきた。

「はいはーい!席座ってー!ホームルーム始めるわよ」

女性らしい甘い声音で先生が言うと、騒がしかった教室に落ち着きが舞い降りる。

私は自分の机の上で、「はあ」と溜息を漏らした。

今日も退屈な一日が始まる。


「であるからして、この問題における重力加速度Gは…」

物理の授業。私は欠伸を嚙み殺すのに必死だった。

予習は済んでるから内容は理解《わか》るし、何よりおじいちゃん先生のゆったりとした口調が眠気を誘う。しかも授業と関係のない雑談に話が飛ぶこともしばしばだ。

結局数分間に渡る格闘の末、睡魔に屈した。


昼休憩。

私は一人、屋上でお弁当を食べていた。

今時珍しく、私の通う米神東高校は屋上を開放している。だけどこの地域は風が強いし雨も多いので、わざわざ外で昼食を取る生徒は少ない。

そんなわけで、ここは友達のいない私の昼食専用スペースだ。


じーじーじー。

セミの合唱が鼓膜を揺らす。見上げると、雲一つない青空。

りっくんが亡くなってから、十度目の夏だった。

「暑いわね…」

日陰のベンチの上とはいえ、さすがに涼しさは鳴りを潜めている。

首筋を伝う汗を拭い、自分の長い髪に触れた。

「そろそろ切ろうかな」

もうすぐ腰に届きそうなほど伸びた髪を見て、ひとりごちた。小学生から、一度も切っていない。なんとなく、伸ばし続けている。

そっと、横髪を留める髪飾りを撫でた。特に意味もなく、私はそれを外した。


真珠の貝殻の髪飾り。

太陽の光を反射して、淡く光る髪飾りは、とても綺麗だ。

だけど…私はそれを見るたび、泣きそうになる。

「りっくん…」

消え入りそうな声が、青に溶けた。



勝ち気な性格の私は、幼い頃から友達がいなかった。

「ねー、私の消しゴム返してよ」

「やだよーだ。取れるもんなら取ってみろー」

女子の物を取って遊ぶ男子。小学生の頃、毎日のように見ていた光景だ。そして私は、毎日のように男子から物を奪い返していた。

「なにすんだよ東雲」

「どろぼうはダメに決まってるでしょ。なんか文句ある?」

拳をちらつかせると、男子は押し黙る。私は「ふん」と鼻を鳴らして、消しゴムを持ち主の女子に渡した。

「あ…ありがと」

小さくお礼を言うと、その女子は逃げるように去って行った。

私は孤独だった。

男子からは疎まれ、女子からは怖がられていた。

「どうするのが正解なのよ」

私は頭を抱えた。テストの問題はちょっと考えれば正解に辿り着く。だけど人間関係だけは、どれだけ考えても正解がわからなかった。


そんなある日。


「もう…どこいっちゃったの…」

公園でクラスの男子と取っ組み合いの喧嘩になり、その拍子にお気に入りの髪飾りをなくしてしまった。返り討ちにしてやったのに、なんだか負けた気分だ。


カナカナカナカナ。

遠くでひぐらしの鳴き声。辺りはオレンジに染まり、もう家に帰る時間だった。

疲れたし、お腹すいたし、何より心細い。今すぐ走って帰りたかったけど、まだ髪飾りが見つかってない。

「お母さん…お父さん…」

ぽろぽろと、私の目から涙が零《こぼ》れる。どうして、こうなっちゃうんだろう。

悪いことをする男子を懲らしめて、困っている女子を助ける。

いいことをしているはずなのに、なぜか誰もが私から離れていく。

おまけに、お気に入りの髪飾りまでなくされた。まさに踏んだり蹴ったりだ。

悔しくて、悲しくて、私はその場で泣き声を上げ続けた。

すると。

「どうしたの?」

急に声をかけられた。顔を上げると、私と同じくらいの年の男子が立っていた。不思議そうに私を見ている。

「見つからないの」

ぶっきらぼうに言葉を返す。どうせ興味本位で近寄ってきただけだろう。心配とか、同情とか、私はそんな感情を向けてもらえるような人間じゃない。

「何かなくしたの?」

ひどく優しげな声音だった。私はちょっとびっくりして、相槌を打つことしか出来なかった。

「一緒に探してあげるよ。…君の名前は?」

「えっ」と一瞬声が出そうになる。まさか、私に手を差し伸べてくれている?
クラスの誰からも好かれない、一人ぼっちのこの私に?

そう思った途端、胸が温かくなって、気づけば大きく口を開けていた。

「私は東雲。東雲凪沙!」

目の前の子は、ちょっとだけ眉根をよせた。

「しののめなぎさ?なんか、難しい名だな。よし、えっと…」

それから少し、考え込むように空を見上げ…

「俺は律。よろしくな、シノ」

「……」

シ、シノ?

私のことだろうか。東雲だから、シノ? 

なんか変な感じ。だけど学校の人は「東雲」か「東雲さん」で、お母さんたちには「凪沙」と呼ばれているから、あだ名で呼ばれるのは初めてだった。

そういえば、前に本で読んだ。あだ名は、友達同士でしか使わないって。つまりこの律って子は、私を友達と思ってくれている?

ともだち。

どれだけ頑張っても手に入らなかったものが、ようやく私の元にも舞い込んだ。

嬉しい。

私は、そのまま宙に浮かんでしまいそうだった。ご飯がおいしいとか、テストで良い点が獲れたとか、今まで感じたことのある「嬉しい」とは、全く違う「嬉しい」だった。

「よろしく、りっくん!」

私は友達の証として、「律くん」ではなく、「りっくん」と呼ぶことにした。

「おう!そんじゃ、探すか!」

りっくんは笑って、どん、と胸を叩いた。さっきまでの涙が嘘みたいに、私の顔には満開の笑顔が咲いていた。



翌日の昼休憩。

同じ学校で別のクラスだったりっくんに、私は呼び出された。

場所は校庭にある大きな木の下。

さわさわと揺れる木の葉と、その上に広がる青空を見上げていると。

「シノー!」

元気な男子の声が、私を呼んだ。

「りっくん!」

テンションが上がって、私は叫んだ。駆けて来たりっくんと、両手でハイタッチを交わす。

「急に呼び出して、どうしたの?」

私が尋ねると、りっくんは半ズボンのポケットに手を突っ込んだ。もぞもぞと何かを取り出して、手の平をぱっと広げた。

「これって…」

私は、開かれた手の上にある物を見て、目を丸くした。

「髪飾り。昨日見つけてやれなかったからさ、代わりにやるよ」

それは、私が失くした物とそっくりの、真珠の貝殻の髪飾りだった。まさか私のために新しく買ってくれたのだろうか。ちらりと顔を見る。りっくんの頬は、微かに赤くなっていた。

「えっと…」

私は、嬉しさと同時に申し訳なさを感じた。りっくんは、わざわざ一緒になって探してくれた。それに、私と友達になってくれた。髪飾りが見つからなくたって、それだけで私は十分だった。

「こんな高そうな物、もらえないよ。…どうして、私なんかのために」

「か、勘違いすんなって。別にシノのためじゃねーって。ただの俺の自己満《じこまん》だから」

「ええ…」

目を泳がせるりっくん。どうしよう。断るのも申し訳ない気がしてきた。

「これ、俺の全財産はたいて買ったんだぜ。シノが貰ってくれなきゃ、マジで泣いちまうよ」

お…重い。それに、明らかに自分が満足するにしては度が過ぎている。

「わかったわ。…ありがとう」

結局受け取った。髪飾りが私の手に渡った時、「よし!」と小さくガッツポーズしたりっくんの顔が、なぜか頭に強く残った。

淡く光る、髪飾り。

私は、溢れそうになる嬉しさを、全て言葉に乗せることにした。

「りっくんに貰った髪飾り、大切にするね。私、何があっても、この髪飾りを着け続ける。中学生になっても、高校生になっても、大人になっても。ずっとずっと、着け続けるから」

私の言葉に、りっくんはきょとんとした。だけどすぐに、見る者に幸福を与えるような、世界に希望をふりまくような。

そんな笑顔で、「そっか」とだけ呟いた。


それからの日々は、本当に楽しかった。

昼休憩になると、決まってりっくんは私の教室に来てくれた。そして私の手を引き、日の光に照らされた校庭へ駆けていく。

放課後も、りっくんと二人で帰った。小さな駄菓子屋や、私とりっくんが出会った公園に寄り道して遊んだり、川に入って冷たい水をかけあったり。

相変わらずりっくん以外の友達はできなかったけれど、私にはりっくんさえいてくれればそれで良かった。

そうして時間を過ごしていくうち、私の中でりっくんは、「はじめて出来た友達」から「たった一人の大切な人」に変わり始めた。

季節は巡り、小学校に入って二度目の夏が来た。

私とりっくんが出会って、ちょうど一年。

あの日もよく晴れていて、私たちは学校からの帰り道を無邪気に走っていた。途中、石に躓いて転んでしまった私に、りっくんは優しい気遣いをかけてくれた。

「手を繋いで歩くか、シノ!」

りっくんは私の手を強く握った。恥ずかしさと嬉しさで早まる心臓の鼓動を抑えて、私はりっくんと並んで歩き出そうとした。

その時―

ぐらぐらぐらっ!

突然、大地が轟いた。

「うわっ」「きゃっ」

激しい揺れは一瞬で平衡感覚を奪い去る。私とりっくんは、その場にうつ伏せで倒れ込んだ。

「シノ…!」

揺れの間、りっくんは私の手を決して離さなかった。

木々がざわめき、電線が大きく振り回された。

やがて揺れが収まると、本能に危険を訴えるようなサイレンが、辺り一帯に鳴り響いた。そこでようやく、地震が発生したのだと気付く。

「津波が来るかもしれないぞ!」
「高台に逃げろ!」

恐怖に顔を染めた人たちが、一様に走っていく姿が見えた。

私たちも逃げなきゃ駄目だ。

私とりっくんは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。

「りっくん」
「シノ」

今すぐここから逃げよう。

そう口にしようとした時。

繋がれていた手が、するりと解《ほど》かれた。

「シノ。悪いけど、先に逃げてくれ」

「え……」

私は一瞬、凍りついたように固まってしまう。

「妹と母さんが風邪引いててさ。二人とも熱があるんだ。心配だから、家に二人を迎えに行く」

きっぱりと言い放つりっくん。その言葉には、有無を言わせない強い意思が感じられた。

「で、でも…!今戻るのは、さすがに危ないよ!」

「大丈夫だ。絶対、生きて帰ってくるから。シノの方こそ、急いで逃げたほうがいいよ」

りっくんが私の後ろに視線を飛ばす。振り向くと、大勢の人が走っていた。悲鳴や戸惑う声も聞こえてくる。

「りっくん…無事に、帰ってきてよ?」

「おう!約束な!」

りっくんが立てた小指を差し出す。私も同じようにして、二人で指切りげんまんをした。

「じゃ!また後で!」

家がある方向に駆け出したりっくん。一人残された私は、徐々に小さくなっていく背中を、ただ眺めることしか出来なかった。そして、ほんのさっきまで繋がれていた私の手にはうっすらと、りっくんの体温の温かみが残っていた。




そして私の手には今、一枚の紙が広げられていた。

「今みんなに配った進路調査表の回答を基《もと》に、今度の保護者懇談やりますからねー。まだ進路が決まってない人は、これを機にちゃんと考えてくださいねー」

教壇に立つ担任の先生が言った。それを皮切りに、教室に話し声が広がる。

「お前どこ受けんの?」
「岡大行きたいんだけどさ、今の成績じゃヤバいんだよね」
「え!香織ちゃん医学部狙ってんの!?」
「そろそろ予備校通わなきゃなー」

みんなの弾んだ声が耳に入る。

高二の夏。進学校である東高では、本格的に受験を意識する生徒が出てくる時期だ。ただ現時点では、不安や焦りの色はあまり見られない。卒業後の進路に、期待や夢を膨らませている生徒が大多数だ。


「はーい。じゃあホームルーム終わりますねー。今日も一日お疲れ様でしたー」

受験トークに花を咲かせる生徒たちに苦笑を漏らし、先生は教室を出ていった。

「よっしゃー。帰りマック寄ってかね?」
「悪い塾あるわー」
「マジか、今日外練かよ」

友達と肩を並べ、塾や部活に向かう同級生。一度溜息を吐いた私も、スクールバッグを担いで足早に教室を後にした。



「はあ…」

寂れた公園のベンチで、一人息を吐く。私とりっくんが初めて出会ったこの公園には、今や遊具という遊具がまるでない。昔あったブランコやすべり台は、老朽化を理由に全て撤去された。おかげで遊びに来る子どもたちも減り、もはやただの空き地同然だ。


時間と共に、人も物も変わっていく。

だけど私だけは、あの時から何も変わっていない。

まるで世界という名の時計から弾き出されたみたいに。

あの日から、私の時間は、ずっと止まったままだ。


「指切り…したのに」

ひとりごちる。

「無事に帰って来る」というりっくんとの約束は、果たされなかった。

私がそれを知ったのは、震災から一ヶ月が経過してからだった。

避難所生活を終え、ようやく自宅に戻った私は、父のパソコンで、あることを検索した。

それは、米神市のホームページ。私はそこで公表されている、震災による犠牲者名簿を確認した。

そして私の目に飛び込んだのは、「間宮律」という、一人の小学生の名前だった。

一片の疑いようもない。それは間違いなく、唯一の友達であり、塞ぎこんでいた私に希望をくれた人…りっくんだった。

どれだけ待っても、避難所にりっくんが来ることはなかった。それどころか、りっくんのお母さんや妹らしき人の姿も、どこにもなかった。

それでも私は、心のどこかで信じ続けていた。きっとりっくんは無事だ。きっと別の避難所にいて、震災の混乱で仕方なく、今は私のもとに駆けつけることが出来ないだけだ。


…そんな私の期待は、跡形もなく葬られた。



スクールバッグから、今日配られた進路調査表を取り出す。

「進路、どうしようかな」

私は、夢や目標と呼べるものを見つけられずにいた。

勉強だけはきちんとやると決めていて、成績もそれなりの順位を維持しているが、そこに情熱や展望は一切ない。

勉強は、過去に囚われたままの自分に課した、唯一の義務だった。


「これから先、私はどうすればいいの」


ベンチにもたれかかって、空を仰ぐ。

夏の夕暮れは、いつも私に思い出させる。

最初で最後の友達に、出会った日のことを。

絶望の淵に立つ私を救ってくれた、弾けるような笑顔を。

そしてあの笑顔は、もう二度と見れないことも。

…私は孤独だ。



「おかえり凪沙ちゃん」

隣の家のおばあさんに声を掛けられる。腰は曲がっているが、はきはきとした口調から健康さが伝わってくる。

「…ただいま」

俯き顔で言って、すぐに玄関に入る。

私はあのおばあさんが苦手だ。昔からずっと隣に住んでいるあの人は、当然幼い頃の私も知っている。

だから、小学生のころから何も成長していない私を見て、「いつか何か言われるのでは」と気が気じゃない。


リビングに入る。

ダイニングテーブルには、ラップが掛けられた夕食。横に添えられた紙には、「お仕事行ってきます。レンジでチンして食べてね」という母の文字。


私は夕食に手をつけず、二階にあがった。今は食欲がない。


制服のまま、自室のベッドに転がる。電気の点いていない部屋は薄暗く、じっとりと暑苦しい。

「………」

無言で天井を見つめる。しだいに、視界が霞んできた。重みを増した瞼が、ゆっくりと下がってくる。


『みんなが今勉強してるのはな、正確には古典物理学というんだ』

脳裏に、今朝受けた物理の授業風景が浮かぶ。おじいちゃん先生の雑談シーンだ。

『さらにもう一つ、ミクロな世界を扱う量子力学という分野がある。これは非常に難しくて、正直わしもよく分からん。ただ、興味深い研究があってな…』

私は瞼を閉じて、記憶が見せる映像をゆったりと眺めた。


『世界は可能性の数だけ存在する、という説がある。SF映画でよく観る、並行世界みたいなものだな。例えば、朝食にパンを食べるか、白米を食べるか、みたいな些細なものも含めて、人間は日々選択を繰りかえしている』

眠気眼《ねむけまなこ》で耳に入っただけの雑談に、なぜか今更惹きつけられる。

『仮にパンを食べる選択をすれば、その瞬間にわしらの世界は「朝食にパンを食べた世界」として確定する。だがこの時、「白米を食べた世界」は消失しない。朝食に白米を食べたもう一つの世界として分岐する。つまり「あったかもしれないこと」は全て、別の世界線として無限に存在する。これがいわゆる多世界解釈だが…』


…別の世界線。

…可能性によって分岐する世界。

いや、あくまで一つの解釈に過ぎない。並行世界の存在証明など誰にも出来ない。

だけど。

もし、本当に、私が今生きる世界以外に、他にも世界が存在したら。


そう、たとえば。


りっくんが、死なずに済んだ世界。可能性としては十分あり得たはずだ。


もしもあの時、家に戻ると言ったりっくんを止めていれば。私が、強引にでもりっくんを避難所に連れて行っていれば。

何十回、何百回とした後悔。だけどそれは、何一つ意味を成さない。

…意味を成さない、はずだった。


「あなたのいない世界じゃ、いつまで経っても、前に進めないの」

暗い部屋に、嗚咽混じりの声が響く。

そっと、りっくんがくれた髪飾りに触れる。ひんやりとした感覚が指に広がる。

「会いたいよ…りっくん…私を…おいていかないで」

味気ない日々。音もなく過ぎていく時間。私を置いて進む世界。


…こんな世界。


気付けば私の手は、胸の前できつく組まれていた。それは祈りだった。誰に向けたものかは、わからない。ただ、全身の細胞を奮い立たせて。焦げ尽きるほどに命を燃やして。


「この世界に希望が持てないのだとしたら…私は…」


ただ、祈った。