水と非常食、それに財布、タオル、歯ブラシなどをリュックに詰め、俺たちは家を後にした。

公民館や学校など、市が指定する避難所はいくつかあるが、明里の通う中学校も該当箇所となっていたので、俺たちはそこに向かうことにした。

「うわ、地面がすごいことになってる」

明里が声をあげた。見ると、道路がバックリと両断されていた。地割れだ。

「先の方まで続いているわね」

凪沙の言葉と同時に、割れ目を辿るように視線を這わせた。

地割れは、はるか前方まで伸びていた。地平線の彼方まで割れていて、地球が真っ二つになっているんじゃないかと思えてくる。

遠くから、けたたましいサイレンが響いてくる。消防車の音だから、どこかで火事が発生したに違いない。

「うちが倒れなかったのは奇跡だな」

俺は道路脇のひしゃげた家を見て言った。住人は無事だろうか。

「凪沙さんのおかげだね」

「え?どういうこと、明里ちゃん?」

明里の言葉に、目を丸める凪沙。

「そもそも私たち三人が今一緒に歩いてるのって、ほとんど奇跡じゃない?だって、私とおにいちゃんは、本当なら凪沙さんと出会うはずもなくて、同じ家で暮らすはずもなかったでしょ。だけど、凪沙さんが記憶を失って、海辺で倒れているところを偶然おにいちゃんが発見して、それで今がある。だから、あるはずのなかった『今』という時間を生み出した凪沙さんは、きっと奇跡みたいな人なんだよ」

「それがどうして、地震で家が倒れなかったことに繋がるの?」

凪沙の問いに、明里は笑顔で答えた。


「奇跡を生み出せるのは、奇跡だけだからだよ」


『………』

俺と凪沙、二人分の沈黙が重なった。

ふと、濃い霧が晴れたような感覚がした。そして次の瞬間、俺の唇は勝手に動いていた。

「実は俺、凪沙の正体に心当たりがあるかもしれないんだ」

『え?』

今度は凪沙と明里の声が重なる。

「ただ、まだその心当たりは不完全なんだ。確信する一歩手前で、立ち止まってる。いや、そもそも確信なんて存在しないかも。だって、これは本当に、奇跡みたいな話だから」

「どういうこと。私の正体が、本当にわかったの?」

「いや。正直、あまりにも常軌を逸していて、自分でも半信半疑なんだ。だけど、そこでしか繋がらないピースではあるっていう…」

自分の考えに自信が持てず、語尾が小さくなってしまう。

「たとえ正解じゃなかったとしても、間宮くんの考えが知りたいわ。教えてもらえないかしら」

「……」

正直、言いたくなかった。だったら最初からこんな話、始めなければよかったのだが、明里の「奇跡」という言葉に、自分では抗えないほど意識が引っ張られてしまったのだ。

だから俺は、せめてもの妥協案を持ち掛けることに決めた。

「ごめん。今はどうしても言えない。俺自身、全く整理がついてないんだ。だから、もう少しだけ待ってくれないか。パズルのピースが、全て揃うまで」

「…そう。急かすようでごめんなさい。ただ、私にもあまり時間がないの。いつまでもこうして、間宮くんや明里ちゃんといるわけにもいかないし…」

「凪沙さん…」

曇った表情の明里に、凪沙は少し笑いかけた。しかしそれは、あきらめの笑みだ。

「私にだってきっと、帰る場所や家族がある。…あると信じたい。だからいつかは、この時間を終わらせなければいけない」

どれだけはしゃいでも。どれだけ騒いでも。いつか、祭りは終わる。

永遠なんてないことくらい、小学生でも知っている。

ならどうするか。

「ねえ、おにいちゃん」

「なんだ明里?」

「パズルを完成させるために、やれることは何?」

俺たちは、前に進むしかない。

「…そうだな」

顎に手を当て、考える。証明材料はすぐに出てきた。

「凪沙の家があったという場所…そこに行って、確かめたいことがある」


*******


目の前に、殺風景な空間が広がる。

茶色い地面の四隅には、雑草が顔を出している。真ん中には、ひっそりと佇む「売地」の看板。

凪沙の家があったはずの場所。そこには、本当に何もなかった。

「矛盾してんな…」

溜息を吐き、スマホを見た。

十四時二十分。凪沙たちと別れてから、三十分ほど経過していた。

そろそろ二人は、中学校に着いた頃だろうか。

心配のあまり、胃がきりきりと痛む。

「本当に無責任だな、俺」

明里を凪沙に任せ、家までの道のりを教えてもらい、ここまで来た。

今は避難より、自身の仮説の証明を急ぎたかった。もしこれが成立すれば、今までの推理が全て覆《くつがえ》る。

俺は空き地の隣に目を向けた。年季の入った平屋で、ちょうど玄関からおばあさんが出てきた。

「あの、すみません」

声をかける。振り向いたおばあさんは、怪訝そうに目を細めた。

「なんだい、あんた」

曲がった背中は、ぱんぱんのリュックを背負っていた。この人もきっと、これから避難を始めるのだろう。

「昔ここに、家が建ってませんでしたか?今はすっかり空き地ですけど…」

おばあさんは、面倒そうに眉根を寄せた。だけど、切羽詰まった俺の顔を見て、観念したふうに息を吐いた。

「ああ、建ってたとも。私が何年この土地に住んでると思ってんだい」

「!…な、なんて人が、住んでいたか分かりますか?」

つい声のトーンが上がる。深淵を覗くまで、あと数歩の距離にいた。



「ええとね…変わった名字の一家だったよ。たしか…東西南北の東に、空に浮かぶ雲で…なんて読むんだっけか」

「東に…雲…」

頭に稲妻が落ちたような衝撃。俺はその漢字の読みを知っていた。

「思い出したよ!そう、東雲《しののめ》さんって一家が住んでたんだ。若い夫婦と、小学生の娘さんがいたっけなあ」


その瞬間。


記憶と事実が、はじめて重なった。


俺の幼馴染の女の子。

変わった名字だったから、俺はその子をシノと呼ぶことにした。

以来ずっと、俺は「シノ」のあだ名で呼び続けた。そして、本当の名前が何だったか今の今まで、まるでノイズが入ったかのように思い出せなかった。

だけど俺は、ようやく記憶の扉を開けることができた。


その子の名は―東雲《しののめ》。


東雲凪沙。




この夏、俺が共に過ごしてきた少女―凪沙は、亡くなったはずの幼馴染だった。

「仲の良さそうな家族だったけどねえ…十年前の地震で娘さんが亡くなってから、どこかに引っ越しちまったんだよ。その後、空き家になった家は建て壊されて…ってあんた、聞いてんのかい?」

おばあさんの声は、もう耳に届いていなかった。

凪沙が…シノだった。

俺の仮説は、証明されてしまった。

ここまで条件が合えば、なんの疑いようも…

「!?」

「ひゃあっ!なんだい、いきなり!」

突然顔を上げた俺に、おばあさんが腰を抜かす。

そうだ。シノは既にこの世にいないはずだ。ならどうして、凪沙が生きているんだ?彼女は死んだはずの人間じゃないのか?

そもそもの論理的矛盾が、頭から抜けていた。まだ証明は終わってない。

「色々教えてくれて、ありがとうございました!おばあさんも、早く避難所に向かってください!」

早口でお礼を述べて、俺は走り出した。遠くで、まだ消防車のサイレンが鳴っている。

「ちょっとあんた!あたしゃ荷物が重くて困ってんだ!お礼は言葉より行動で示さんかい!」

年の割に元気な声で叫ぶおばあさんを残し、俺は中学校に向かう。


今は、凪沙と明里が待っている。




「おにいちゃん、こっちだよー!」

中学校の体育館に入ってすぐ、人混みの中で手を振る明里を見つけた。隣には、少し強張った顔の凪沙もいた。

「ただいま。…って、すごい人だな」

二人に追いついた俺は、軽く辺りを見回して言った。

体育館の床一面に、畳や布団が敷き詰められていて、お年寄りを中心とした多くの人が身を寄せていた。

「足の踏み場というか、布団の敷きどころがないよ」

明里がぼやく。俺たちも含め十数人の人が、スペースを確保できずに立ち往生していた。

「ここにいる大勢が十年前の地震を経験してるからな。避難の重要性を心得ているんだろ」


「すみませーん!みなさんもう少し詰めてくださーい!」

ステージ付近で、色黒の男性が声を張り上げた。

「あっ、富樫《とがし》先生」

明里が呟く。夏休み中だというのに、教師は額に汗を浮かべて対応に追われている。本来の業務でもないのに大変なことだ。ふと、暑苦しさ全開のわが担任の顔が思い浮かんだ。あの人も、今頃必死になって喉を枯らしているだろうか。

「ここ空いてますので、よかったら座ってください」

柔和な雰囲気の女性が、俺たちに声をかけてくれた。

「ありがとうございます」

お言葉に甘え、床に腰をおろす。毛布を出そうとリュックの中を覗き、俺は溜息を漏らした。

「すまん、毛布を入れ忘れた…」

「あちゃー。まあ仕方ないよ、どうせもうすぐ支給されるだろうし」

明里が慰めるように言った。すると先程の女性が俺たちに近づき、口を開いた。

「今、娘が支給品を取りに行ってるので、戻ってきたらお貸ししますよ。あ、舞夏ー!こっちよー!」

女性が手を振りながら叫んだ名前に、思わずギクリとする。

「そんなに大声出さなくても、ちゃんと聞こえてるわよ…って、間宮くん!?」

小走りで毛布を抱えた杵村さんが、顔を驚愕に染めた。

「あら、舞夏のお友達?」

優しそうな女性―杵村さんのお母さんが、小首を傾げた。

「間宮律です。えっと、杵村さんとはクラスメイトで」

「あー!舞夏が家でよく話してるあの間宮くん?」

『えっ』

俺と、なぜか凪沙の軽い驚きが重なる。

「私は舞夏の母の、杵村美鈴《みすず》です。律くん、うちの娘と仲良くしてくれてありがとう…ってそうだ!舞夏、その毛布を律くんたちに分けてあげて」

「お母さん、ちょっと落ち着きなよ。はい、これ」

杵村さんが、二枚ほど毛布を渡してくれた。俺はありがたく受け取る。

「ありがとう杵村さん。…ていうか、杵村さんも避難してきたんだ」

「うん。隣が火事起こしちゃって、うちに燃え移ったの。それで慌てて逃げてきて」

ここに来る途中で耳にしたサイレンを思い出す。以前訪ねた杵村さんの家が炎に包まれる場面を想像して、胸が苦しくなる。

「舞夏、お母さん外でお父さんの職場に電話してくるから。ここにいてね」

「はーい」

そう言って、ぱたぱたと体育館を出ていく杵村さんのお母さん。

杵村さん、俺、明里、凪沙の四人が横並びで座る。

このメンバーが揃うのは、数日前の明里誘拐事件ぶりだった。

「間宮くん、怪我はもう平気?」

杵村さんが横目で尋ねてくる。怪我、というのはもちろん不良と喧嘩してできたものだろう。

「ああ。昔から怪我の治りだけは早いんだ」

「そうなんだ。明里ちゃんは?あれから何もない?」

「うん。舞夏さん、あの時はありがとう」

丁寧に頭を下げた明里に、俺もならった。

「俺からも礼を言わせてくれ。警察を呼んでくれたり、色々と助けてくれてありがとう。ばたばたしてて言うのが遅れて、悪かった」

「いいって二人とも。お礼をされるようなこと、してないから。あの時のヒーローは、間宮くんと凪沙さんだよ」

顔の前で手を振った杵村さん。そしてその視線が、俺から凪沙に移された。

「久しぶりだね凪沙さん。元気だった?」

「ぼちぼちよ」

答えた凪沙だが、その声には感情が籠ってない。

「あはは…。それにしても、かなり大きい地震だったね。間宮くんの家は無事だった?」

空気を読んだ杵村さんが、再び俺に話しかけた。

「なんとか。ただうちは古いし、余震の可能性も考えて一応逃げてきた」

「そうだね。非常時には、石橋を叩いても渡らないくらいがちょうどいいよ」

それじゃ向こう岸に辿り着けないじゃん…というツッコミは入れない。

「そもそも移動で橋を使うのが馬鹿なのよ。最初からヘリか飛行機で渡りなさい」

突然、凪沙が斜め上のツッコミを挟んだ。

「石橋が崩壊する確率と、飛行機が転落する確率。どっちが高いかな」

「そんなの石橋が崩壊に決まってるじゃない」

「何パーセント?」

「知らないわよ、そんなこと」

「じゃあ飛行機の方が危ないかもね」

「は?杵村さん、あなたは正確な確率がわかるって言うの?」

「わからないから今聞いたんだけど」

「っ…!それはまあ、そうね」

なんだこの小学生の口喧嘩は。その上凪沙は押され気味だし。

「ああもう。間宮くん、ちょっと来てもらえるかしら」

凪沙が不機嫌そうに立ち上がった。一瞬迷ったが、凄まじい剣幕に押され、渋々腰をあげる。

「すぐ戻ってくるからな」

ぽかんとした明里と苦笑を漏らす杵村さんを残し、ずんずん歩く凪沙の背を追った。

無言のまま進む凪沙。さらさらと揺れる長い髪を見つめながら、俺も無言でついていった。

体育館を出てすぐ横にある教室の扉を、凪沙が無遠慮にこじ開けた。

ガラガラッという音が、西日に照らされた廊下に大きく響いた。

「間宮くん」

俺に背を向けたままの凪沙。うっすらと明るい教室に佇むその後ろ姿に、不覚にも目を奪われそうになる。

「私の正体について、何か進展はあった?」

どくん、と俺の心臓が跳ねた。

「……あったよ」

そう。進展は確実にあった。

たった一つの矛盾を除けば、この目の前の少女の正体は、ほぼ間違いのないものになった。

「まだ教えてもらえないのかしら。…私は一体、誰なのか」

ごくり。

俺が唾を飲み込む音が、やけに響いた。汗ばむ手を握り、ゆっくりと口を開く。

「『りっくん』って呼び名に…聞き覚えはあるか」

ぴく、と凪沙の肩が小さく跳ねる。

「…どこかで、耳にしたことがあるような気がするわ」

「…そうか」

昔の俺のあだ名は、凪沙の記憶の奥底でまだ息をしていた。

「凪沙が大切にしてる髪飾り、幼馴染の男の子から貰ったって言ってたよな」

「ええ、そう記憶しているわ」

「もしもその男の子が…りっくん、いや、間宮律だって言ったらどうする?」

「!?」

今まで背を向けていた凪沙が、顔に驚愕を滲ませてこちらを振り向いた。

「もしも俺たちが過去に出会っていたら、どうする」

「ちょっと待って。意味がわからないわ。私と間宮くんが昔知り合いで、この髪飾りは間宮くんがくれたもの…?」

凪沙が、淡く光る髪飾りを手でおさえた。

「正直、自分でもまだ信じられない。俺と凪沙が幼馴染だったなんて。しかも…」

「どこをどう辿って、そんな結論に辿り着いたのか。説明を求めるわ」

真剣極まる凪沙の瞳が向けられる。はやる凪沙を落ち着かせるように、俺は開いた手を前に突き出した。

「もちろん説明はする。だけどその前に…この仮説には、まだ《《致命的な矛盾》》があるんだ」

「致命的な矛盾…?一体何かしら」

俺はゆっくりと唾を飲み下し、緊張に震える唇を動かした。


「もしも俺と凪沙が幼馴染ならば…凪沙は十年前に、死んでいるはずなんだ」

「え…」

口を半開きにして、呆然と立ち尽くす凪沙。その姿は、俺の胸に痛みを与えた。

「私が死んでいるって…しかも、十年前に…?」

「そう。十年前、鳥取を襲ったあの大地震で」

「!!」

大きく目を見開いた凪沙が、突然膝をついた。震える腕を体にまわし、なにか大切なことを思い出したような、尋常じゃない衝撃が伝わってくる。

「そうよ…私は…ずっと…」

「凪沙?」

ただならぬ空気に、凪沙の側に駆け寄る。

「今までずっと…あなたを…」

長いまつ毛に縁どられた大きな瞳。

そこから透明な涙が、溢れた。

「りっくん…」

そして、糸が切れるように。

凪沙の首がガクッと落ちた。

「凪沙!」

卒倒した凪沙の体を抱きかかえる。服ごしに、凪沙の体温が皮膚を通して伝わってくる。明らかに通常の体温ではなかった。

「おい!しっかりしろ!」

前髪をかきわけ、汗ばむ額に手を当てる。

驚くほどの高熱だ。意識を失ってなお、苦しそうに呼吸を繰り返している。

「これはマズイな…誰か!誰か来てくれ!」

開いた扉の先、体育館に向かって叫び声をあげた。するとすぐ近くで、か細い声がする。息も絶え絶えに、凪沙がうわ言を繰り返していた。


「りっくん…私をおいていかないで」