歩美には3分間以内にやらなければならないことがあった。
彼女の視線の先にいるのはすぐ隣で文庫本を読んでいる1人の男子高校生。
――私が降りるのは次の駅。それまでに、何とかしなくっちゃ。
焦って堂々巡りをする気持ちとは裏腹に、電車は軽快な音を立ててどんどん進む。
歩美はいつも通り通学のため電車に乗った。
できるだけラッシュを避けて早めに家を出るようにはしているのだが、それでも都心の常としてそれなりの混雑だ。
特にターミナル駅から先は大量の人が乗り降りするので、どうしても人の波にもみくちゃにされてしまう。
今日も歩美はドア近くの手すりにつかまって立っていた。
ターミナル駅で反対側のドアが開き、ざぁっと人の流れが溢れ出たかと思うと、今度は別の人の波が押し寄せて来る。
なだれ込んできた人の群れとドアとの間にぎゅうっと挟まれそうになった時だ。
きっちりと学ランを着込んだがっしりとした身体が人込みと自分の間に割りこんで、歩美が押しつぶされるのを防いでくれた。
しっかりと手すりを握り、座席とドアの間の三角形の空間を守るように立つことで、歩美が人込みに飲み込まれないようにしてくれている。
驚いた歩美が顔をあげると、いかつい顔がふっと緩んで優しい笑みを浮かべた。
――お、お礼言わなくっちゃ。
歩美は口を開こうとしたが、うまく言葉が出てこない。
無理もない。
歩美は小学校からずっとキリスト教系の女子校に通っている。
家族や先生以外の異性とは、ほとんど話をしたことがないのだ。
はくはくと金魚のように口を動かす歩美に、彼は困ったように眉を下げた。
「大丈夫? つぶされなかった?」
「は、はい」
真っ赤になって俯いてしまった歩美は、ちゃんとお礼が言えていなかったことに気付いて内心大慌て。
男子高校生は何事もなかったかのようにポケットから文庫本を取り出すと、栞を挟んだページから読み始めた。
――あ……これ、私も持ってる本だ。1話が短くて1駅で読めるから、通学の時の暇つぶしにちょうどいいのよね。
早くお礼を言わなければと心は逸るのに、思考はうまくまとまらず、関係のないことを考えてしまう。
――この人、見た目はごつごつして怖そうだけど本当は優しい人なのね。
よく見ると、厳つい顔の中でも瞳は優しい。
――そう言えば、さっきの困った顔はちょっと可愛かったかも。……なんて、私ったら何を考えてるのかしら。
どんどん暴走する思考に気付いた歩美はますます赤くなって俯いてしまう。
『まもなく~Y谷~Y谷に到着します~〇〇線、△△線をご利用のお客様はお乗り換えです〜』
車内に響くアナウンスに、歩美はびくっと身をすくめた。
――大変、もう駅に着いちゃう。
電車は徐々に速度を落として、駅のホームに滑り込んだ。
車両が停まるその直前。
「あ、ありがとうございました」
蚊の鳴くように歩美が言うとほぼ同時に、電車のドアが開いた。
人の波に押し流され、男子高校生の姿も見えなくなる。
――ああ、結局ちゃんとお礼言えなかったな。
歩美は自己嫌悪に陥りながら再び電車に乗った。
次の日の朝。
歩美は今日も通学のため電車に乗る。
――昨日の人、また会えるかしら……
彼女の心の声が聞こえたのだろうか?
ドア近くに立った彼女の隣に学ラン姿のがっちりとした男子高校生が立った。
胸の鼓動がとくん、と跳ねあがる。
安心するのに落ち着かない、この不思議な気持ちは何だろう?
「昨日は大丈夫だった?」
「は、はい。……あの、ありがとうございました」
「良かった。いつもこの車両に乗るの?」
「車両はその日によりけりですけど……でも、いつもこの電車です」
「それじゃ、もし嫌じゃなければこれからも一緒に乗らない? 俺、いつもこの辺に乗ってるから」
「……え?」
「あ、ごめん。いつもあんな風に潰されそうになってたら大変かな?って思って。大きなお世話だよね」
「い、いえ。そんなことは……」
赤くなって俯いてしまった歩美に彼は困ったように眉を下げる。
「ごめん、困らせたよね。忘れてくれる?」
彼の声に混じった少しだけ落胆した声に、歩美は慌てて顔を上げた。
「い、いえ!その……お、お願いできますか!?」
歩美にとっては最大限の勇気を振り絞った……しかし、蚊の鳴くように小さく震える声。自分でも情けなくて、徐々に俯いてしまう。
「え?」
「そ、その……明日も、一緒に……乗ってくれますか?」
初めは俯いたまま……それでも最後は何とか勇気を振り絞って顔を上げた。
彼の顔を見上げる視界がほんの少しだけ滲んでいる。
「もちろん喜んで」
彼は一瞬息を飲むと、次の瞬間ぱっと顔を綻ばせた。
耳の先が少し赤い。
「それじゃ、これからよろしくね」
2人で咲かせた笑顔の花は、しばらくしぼむことはないだろう。
彼女の視線の先にいるのはすぐ隣で文庫本を読んでいる1人の男子高校生。
――私が降りるのは次の駅。それまでに、何とかしなくっちゃ。
焦って堂々巡りをする気持ちとは裏腹に、電車は軽快な音を立ててどんどん進む。
歩美はいつも通り通学のため電車に乗った。
できるだけラッシュを避けて早めに家を出るようにはしているのだが、それでも都心の常としてそれなりの混雑だ。
特にターミナル駅から先は大量の人が乗り降りするので、どうしても人の波にもみくちゃにされてしまう。
今日も歩美はドア近くの手すりにつかまって立っていた。
ターミナル駅で反対側のドアが開き、ざぁっと人の流れが溢れ出たかと思うと、今度は別の人の波が押し寄せて来る。
なだれ込んできた人の群れとドアとの間にぎゅうっと挟まれそうになった時だ。
きっちりと学ランを着込んだがっしりとした身体が人込みと自分の間に割りこんで、歩美が押しつぶされるのを防いでくれた。
しっかりと手すりを握り、座席とドアの間の三角形の空間を守るように立つことで、歩美が人込みに飲み込まれないようにしてくれている。
驚いた歩美が顔をあげると、いかつい顔がふっと緩んで優しい笑みを浮かべた。
――お、お礼言わなくっちゃ。
歩美は口を開こうとしたが、うまく言葉が出てこない。
無理もない。
歩美は小学校からずっとキリスト教系の女子校に通っている。
家族や先生以外の異性とは、ほとんど話をしたことがないのだ。
はくはくと金魚のように口を動かす歩美に、彼は困ったように眉を下げた。
「大丈夫? つぶされなかった?」
「は、はい」
真っ赤になって俯いてしまった歩美は、ちゃんとお礼が言えていなかったことに気付いて内心大慌て。
男子高校生は何事もなかったかのようにポケットから文庫本を取り出すと、栞を挟んだページから読み始めた。
――あ……これ、私も持ってる本だ。1話が短くて1駅で読めるから、通学の時の暇つぶしにちょうどいいのよね。
早くお礼を言わなければと心は逸るのに、思考はうまくまとまらず、関係のないことを考えてしまう。
――この人、見た目はごつごつして怖そうだけど本当は優しい人なのね。
よく見ると、厳つい顔の中でも瞳は優しい。
――そう言えば、さっきの困った顔はちょっと可愛かったかも。……なんて、私ったら何を考えてるのかしら。
どんどん暴走する思考に気付いた歩美はますます赤くなって俯いてしまう。
『まもなく~Y谷~Y谷に到着します~〇〇線、△△線をご利用のお客様はお乗り換えです〜』
車内に響くアナウンスに、歩美はびくっと身をすくめた。
――大変、もう駅に着いちゃう。
電車は徐々に速度を落として、駅のホームに滑り込んだ。
車両が停まるその直前。
「あ、ありがとうございました」
蚊の鳴くように歩美が言うとほぼ同時に、電車のドアが開いた。
人の波に押し流され、男子高校生の姿も見えなくなる。
――ああ、結局ちゃんとお礼言えなかったな。
歩美は自己嫌悪に陥りながら再び電車に乗った。
次の日の朝。
歩美は今日も通学のため電車に乗る。
――昨日の人、また会えるかしら……
彼女の心の声が聞こえたのだろうか?
ドア近くに立った彼女の隣に学ラン姿のがっちりとした男子高校生が立った。
胸の鼓動がとくん、と跳ねあがる。
安心するのに落ち着かない、この不思議な気持ちは何だろう?
「昨日は大丈夫だった?」
「は、はい。……あの、ありがとうございました」
「良かった。いつもこの車両に乗るの?」
「車両はその日によりけりですけど……でも、いつもこの電車です」
「それじゃ、もし嫌じゃなければこれからも一緒に乗らない? 俺、いつもこの辺に乗ってるから」
「……え?」
「あ、ごめん。いつもあんな風に潰されそうになってたら大変かな?って思って。大きなお世話だよね」
「い、いえ。そんなことは……」
赤くなって俯いてしまった歩美に彼は困ったように眉を下げる。
「ごめん、困らせたよね。忘れてくれる?」
彼の声に混じった少しだけ落胆した声に、歩美は慌てて顔を上げた。
「い、いえ!その……お、お願いできますか!?」
歩美にとっては最大限の勇気を振り絞った……しかし、蚊の鳴くように小さく震える声。自分でも情けなくて、徐々に俯いてしまう。
「え?」
「そ、その……明日も、一緒に……乗ってくれますか?」
初めは俯いたまま……それでも最後は何とか勇気を振り絞って顔を上げた。
彼の顔を見上げる視界がほんの少しだけ滲んでいる。
「もちろん喜んで」
彼は一瞬息を飲むと、次の瞬間ぱっと顔を綻ばせた。
耳の先が少し赤い。
「それじゃ、これからよろしくね」
2人で咲かせた笑顔の花は、しばらくしぼむことはないだろう。