『…言わない。言ってはいけない』
何度も何度も、自分に言い聞かせてきた。絶対に言ってはいけないと、絶対に守らねばならぬと、心が揺れようと念を押しつつ、蓋をしてきた。
『駄目だ。言うな、言うな』
美しく儚いその言葉は、身を滅ぼしかねない刃。肉、骨、五臓六腑、神経をも切り裂く。そして放った瞬間、この世の全てを散らすだろう。
『俺の勘違いだったんだ。忘れろ、封じろ、言うな』
なお、重ねて言葉を紡ぎ、繋ぐ。意識を手放してしまうその瞬間まで、記憶が飛ぶその瞬間まで、何度も何度も、幾度も幾度も、魂にまで浸透するように、繰り返す。
『…命令に、成りかねない。それだけは、避けなければならない』
瞳を開く。ただただ真っ暗な闇の中、微かな明かりが視界に広がる。襖に手をかけ、中に入る。
舞い散る紅に、戯れる銀糸と揺れる薄桃の羽織が、視界に飛び込んだ。澄んだ空気に、酷く映える、至極美しい光景だった。
『……だから、言ったろ』
例え、どんなに美しく輝く星空を欲したとしても、それは決して手中に収まる事はない。星空を欲し涙する者を、月は静かに満ちては欠け、無慈悲にも時を刻み続ける。
『己の想いに責任も持てねぇのなら、止めちまえばよかったんだ』
ふと見上げた紺の空に浮かぶ月は、期待していた美しい丸を描かずに、ほんの少しだけ欠け、歪な形をしていた。もしこれが、欠けることのない望月だったのなら、月に惑わされたなどという、至極くだらない言い訳ができたというのに。
欠けた月は、此方を嘲笑う様にギラギラと輝いている。その輝きとは裏腹に、少しずつ此方の意識が薄れていく感覚があった。視界が、だんだんと薄暗くなっていく。
『…君は、俺を置いて逝くのに』
無慈悲にも廻る世界。見上げた空に集う星屑。ありふれた光景に違和感を覚えたのは、一体いつからだったか。
天でも無く地でも無く、上と下の狭間の、あやふやな世界。顕現してからずっと、何の疑問もなく過ごしたこの空間が今、どうにも不可解なものに感じて仕方がなかった。
—この空間は、本当に存在するのだろうか?
人の想いで構成されるこの肉体は、この魂は。俺を知る者がいなくなれば消滅するこの器は、常に崩れかかった崖の淵の淵に立っているように、不安定なもの。彼女を想うこの心は、消滅したく無いが為に芽生えた、いわば彼女を利用しようとしたのではないのか。俺が彼女に想いを打ち明ければ、人の子である彼女はそれを断れず、彼女の意志など関係なく半ば強引に恋仲にしてしまうのではないか。優柔不断な俺より、もっともっと彼女に似合う男が、彼女にもっと相応しい相手が、いるのではないか。人の子らしい幸せを、彼女には知って欲しかった。
—何が真実で、何が偽りで、何が。
知らない土地に放り込まれ、方角も分からないのに家に向かって走り続けている。
何度も、何度も。
帰り道さえ分からない、終わりの見えない空間を、ただひたすらに進み続ける。手を引いてくれる者などおらず、たった一人、黒よりも暗い空間を、ひたすら走り続ける。
ちりん、ちりん——………
走って走って走って、鈴の音がして、立ち止まる。聞き覚えのある音だ。聞き覚えしかない音だ。
『…忘れない。絶対に、忘れるものか』
光が見えた。俺自身の身体が光っている。既に、下半身は感覚を失ってしまった。己の手を見れば、そこからは桜の花弁の様な光がふわふわと飛び出して行っていた。
刹那、ぶわりと音が聞こえてきそうな程、淡い光の粒が辺りを埋め尽くす。この粒もまた、俺から出てきたようだった。光の粒が、漆黒の空に吸い込まれていく。それと同時に、足元が崩れてゆっくりと奈落に堕ちていくような、そんな感じがした。
『まだ見ぬ不明瞭な未来を想って嘆くのなら、今生きるこの時を想って欲しい』
そんな、自分勝手とも言える願い事は、上へ上へ登っていく光の束に攫われていった。
きっとそれは、確かに愛だったのだろう。
ちりん——………
水面から徐々に顔を出す様に目を覚ますと、いつもの木目の天井が目に入る。
(あれは、夢…?)
酷く悲しい夢を見た気がする。でも、そんな悲しみの余韻が残るだけで、はっきりとは思い出せない気持ち悪さを感じながら体を起こすと、頬に生暖かいものが伝っていることに気が付いた。
(…なんで俺、泣いてるんだ…?)
——————————
「砌様、砌様ぁ~!ったく、どこに行ったんですかぁ…」
ここは、俺と砌様の神域の一角。そこには見事な庭園が広がっていて、砌様はその手入れを甲斐甲斐しく行っている。
ある日、神々の新年の招集後、いきなり上位格の方が俺の下を訪ねてきた。そして唐突に、「私、今日からここに住むから」と言い出したのだ。わけがわからない。いや、それを受け入れてしまった俺もおかしいのだが。
元を辿れば、砌様は人の子であったという。そのため幾度となく敬意を示す必要はないと言われてきた。しかし、人の子であった時から上質な気を持っていて、どんなに低格な神でも食せば上位格に成れるほどだったらしい。そのような、生まれながらに神に成ることを約束されたようなお方を呼び捨てするなんて出来ない、と言えば、「魄龍様の事は呼び捨てなのに?」と言われてしまった。申し上げないが何も言い返せなかった。
話を戻せば。彼女が仕えた神は彼女を喰おうとは微塵も考えなかったのだと、彼女の主神とも知り合いであったらしい友神から聞いた。そして同時に、想い合う仲であった、とも。しかし、彼女に想われていた神は、己の想いを砌様に打ち明けなかったのだという。
(あのお方に想われていたのに、何故何も言わなかったんだ)
顔も名前も知らない神に嫉妬心を抱くが、堕ちてしまうのは嫌なので抑える。俺にとっての唯一の救いは、彼女の想う神から彼女の記憶全てが消えてしまったという事だけだ。
「って、あんなところに。あそこは確か…菊畑、か」
二人分の神域が繋がったこの屋敷はこれでもかと言うほどに広い。ただでさえ一柱分でも平安京程の大きさがあるのに、それが二柱分もあるというのだ。そんな広い空間には俺と砌様、俺の傍仕えである燐の三柱しか住んでいない。つまり、置手紙なしで移動されると、探すのに一苦労どころの話ではないのだ。何なら最近は、域内の移動手段として馬を導入するか本気で悩んでいる。
「あ、白菊」
砌様は、今日も今日とて植物の世話をしていた。
「……領域内と言えど、屋敷から出るのなら書置きか式神に伝えて下さい、とあれほど言ったではありませんか。ここは平安京よりも広いのですから」
「ははは、ごめんて、次は気を付けるよ。っそうだ!ねぇねぇ見て?」
「…次はって何度も聞いてる気がするんですけども。それで?なんです?」
「ふふふ、驚け!ようやっと菊が咲いたの」
「え、本当ですか!?」
ここに咲いていた菊の花は、ずいぶんと前に病に侵され枯れかかってしまっていた。俺の名である「白菊」の由来になった花だから、思い入れがあった花だ。しかし俺にはどうすることもできず、枯れてしまうだろうと半ば諦め気味だったのだが、どうやら砌様のお手入れのおかげで元気になったみたいだ。
「枯れかかった時は焦っちゃったけどね。自然の神秘って凄いよね、綺麗に咲いた」
「…ん?霊気は使わなかったんですか?」
「えぇ、自然の力で咲いた方が美しいし」
俺達は自身の霊力を地に注げばある程度の植物を生やすことができる。枯れかかった神木なんかも、霊力をちょちょいっと注げば瞬く間に復活してくれる。俺が菊にそれをしなかったのは、庭仕事を砌様が進んでやって下さっているので、下手に手を出さないほうがいいと判断したからだ。なのだが、まさか砌様もご自身の霊力を使わずに自然の力のみで復活させたとなると、成程自然とはこれほどまでに偉大なのかと感心してしまう。今度魄龍から栄養剤でもせびって与えようか。
それはそうと、砌様と俺が同一の神域内で生活し始めてから、早数年が経つ。俺自身も、砌様の助手となり共に現世の花々を育てて、いくつもの四季を越えた。春が過ぎ、夏が逃げ、秋を惜しみ、冬が暮れる。この空間が、少しでも四季に溢れるように。彼女は、日に日に多くの現世の花を、寂しい事この上なかった神域に咲かせる。
砌様はこの庭を、「白菊が時間に取り残されないように、一緒に流れを感じられるように作ったんだ」とおっしゃった。だから俺も、些細なことで笑ってくれる、俺の傍にいてくれる砌様のその眼差しを守ろうと誓った。誓わなければならない、と俺の中で何かが訴えかけてくる。
その“何か”が何なのかは、わからない。ただ、ずっと前、思い出せない程の過去に、貴女に何か言い忘れていることが、あった気がする。
俺は、時折現れる上位格の友神の魄龍から貰った茶葉で、八つ時の準備を進めた。茶は、今までで一番と言ってもいい程いい色になった。
ちりん——………
「砌様、お茶が入りましたよ。休憩にしましょう」
「了解、ちょうどいいね。ちょっと待ってて」
「分かりました」
鈴を通して短い会話を交わし、互いの神域の境界から離れる。気配から察するに、砌様は向こうの屋敷の端の方にいらっしゃるようで、こちらに来るのには時間がかかるみたいだ。だから俺は、作業で少々乱れてしまった髪を直そうと、自室に戻る事にした。
八畳ほどの俺の自室には、物が少ない。もともと何かを収集する癖や趣味嗜好なんかは無かったので、あるのは机に棚と蒲団だけだ。そしてその棚には、何故か開かない引き出しがある。俺は物に対し執着をするような性格でもないはずなのだが、その棚の、件の引き出しにのみ、何故か執着心を抱いている。
—そういえば、なんであの引き出しに興味を持ったんだろう。
(だって、そもそも引き出しに何かをしまうなんてこと、無かったじゃないか)
普段は、好きな時に好きな場所で開けられる異次元に物をしまっていた。その方が、楽だからだ。でも友神が、部屋に彩が無さすぎるからと言って寄こしてきたのが、この棚だった。
その棚の内の一つに、どうしても開かない引き出しがあるのだ。寄こしてきた友神が言うには、別に鍵のある棚と言うわけでもないらしい。制作した式神に問うても、別に何かが中で引っかかって抜けないわけでもないらしい。砌様が何か入れたのかもしれないが、基本俺達は神域こそ繋がってはいても屋敷まで共有しているわけではない。その為、砌様が何かを入れた上で開かないように細工したという線は薄いと考えていいだろう。
(そもそも、この引き出しには何が入っているんだろう?)
何度開けようとしても、何故か失敗に終わってしまう。一回も開けた、開けられた事が無いから、何が入っているのかを知らないのだ。この棚の持ち主ならば、何か入っているのならそれを把握しておく必要がある。
引き出しに手を伸ばす。取っ手の冷たい金具に手を触れる。引き出しを、一思いに引く——。
(だぁめ、まだその時じゃないでしょ)
「っ誰だ!」
振り返っても、誰も居ない。聞こえた声は、砌様によく似て、砌様より少し幼い声だった。
(全部忘れて、——。約束だよ)
意味を認識できたのは一度のみ。しかし、脳内で俺の認識できない音で何度も何度も言い聞かされた。まるで、洗脳するかの様に。
「は、ぁ、れ…?」
(—は——の—と、——き—ょ)
(はは、———ぃ——な)
脳裏に映るのは、まだあどけなさの残る、———の姿。
—だれの、すがただ?
知っている。俺は、その姿を知っている。
クラリ、と一瞬めまいがする。
「あれ?白菊、八つ時にするんでしょ?如何したのそんなところで」
「…砌、様?何故ここに…?」
砌様が、俺の自室にやってきた。砌様が俺の屋敷に来るなんて珍しい。
—そういえば、なんでここに来たんだっけか。俺は、
「なんでって、貴方が呼んだのに来ないから、気になって逆に呼びに来たんじゃないの」
「え!?す、すみません、砌様。直ぐに準備しますね」
「うん、ありがと。それと様はいらないってば」
「却下です」
慌てて厨へ向かう。廊下を走りながら思考を巡らせたが、どうしても思い出せなかった。
(…歳か?)
でもまぁ、思い出せない程どうでもいい事だったのだろう、と結論付けた。
「そう、全部忘れて、貴方は、貴方のままでいて」
砌様が引き出しにそう呼びかけたのを、俺は知らない。
——————————
八つ時。俺はあの後すぐさま茶を入れ直し、茶請けと共に砌様に出した。今日の茶請けはおはぎである。
「白菊、お茶淹れるの上手くなったね。前はあんなに下手だったのに」
元来、神は物を食さずとも生きていける。と言うか食べる必要がないのだが、砌様は未だに人間時代の名残が残っているようで、何かにつけて食べ物を欲する。朝、昼、夜、そして八つ時だ。
「魄龍が教えてくれてな…あ、教えてくれましてね」
「あ、ああ、確かに最近よく来るわねあの爺臭い村長。あと敬語は外して」
人の事は言えないが。砌様も砌様で魄龍を爺呼びするなんて肝が据わっている。強ち間違いでもないので否定できないのが辛いのだが。
「却下です。最近花の世話ばかりですけど、上位格の仕事の方は大丈夫なんですか?あまり根を詰めすぎないで下さいね」
「仕事は忙しいうちが華、って言うでしょ?」
「あまり根を詰めすぎないで下さい、ね?」
この人の仕事は人々の縁をつかさどる事。縁結びと縁切りを同時に担っているという。炎の俺なんかより何倍も忙しい癖に、いつも強がるんだ。心配するからやめていただきたい。
「……わかったよ。でも白菊だって、あまり夜中まで書物を読まない事。ほら、クマができてる」
「俺はいいんですよ。爺ですから」
「私は駄目と?」
「はい。貴女は顕現して日が浅いので。十年も経っていないでしょう?」
「駄目ね反論できない」
—そう養分を与えられてしまえば、この感情は植物よりもたやすく、そして早く育ってしまう。
俺は砌様が好きだ。敬愛なんかじゃなく、まごう事なき恋情。だけど、格が違いすぎて叶うわけもない、と自覚している。それでも、あの人の記憶にある想い人に、どうしても嫉妬してしまう。あの神に流れる時間の中に、俺が刻まれるなら。俺がもし、あの人の横に並んで生きる権利を与えられたなら、どんなにいいだろうか、と。
あの女神の手が、俺の贄が神成し記憶が抜け落ちたあの日から、ずっと探していた手だと。俺の時が止まったあの日から、数多の時の流れから俺だけをかぎ分けて手繰り寄せてくれたあの手が、こんなにも、近くにあるのに。どうしても、その手を取る覚悟が、決まらない。
「そういえば、白菊はあの布付けないの?」
八つ時の後、二人で庭に降りた。砌様の咲き誇る花々を見て癒されようと言う魂胆だ。
「布…?嗚呼、雑面ですか。あれは、人の子から素顔を隠す為にあるものなので、必要ありませんよ」
雑面とは、顔を隠す布の仮面の事だ。白いものが主で、一枚の布を紐で頭に結び付ける。無論砌様の雑面もあるのだが、砌様本人が人の子の前—お告げとか大祓を覗く時とか—に出た事がない為、使用したことがないらしい。
「ふぅん。なんで隠さなきゃいけないのかなぁ。めんどくない?」
「俺にもわかりませんね。人間とは違うから見る事が出来ないとか、或いは直視するのが失礼に値したりでもするのかもしれません」
「へぇ~…あ、秋明菊」
「…唐突……菊?これがですか?」
「嗚呼、菊って名乗ってるだけで、アネモネ…牡丹一華の仲間だよ」
牡丹一華……確か、外ツ国の花、だったか。数百年生きる俺でも知らない花を、砌様はよくご存じだ。
「へぇ。砌様は何でも知ってるんですね」
「ん、知るって言うのは面白いからね。昔っから勉強は好きだったんだ」
そう言い、砌様はその場にしゃがみこんだ。どうやら牡丹一華の辺りをいじっているらしい。その花々に触れる手は、まるで春風の様に酷く優しい。
「何かを知ることで自分自身を驚かせることもできるし、その知識を使えば他の人を驚かせることもできるしね」
「…っむ⁉」
そういうと、砌様はいきなり立ち上がり、手中の何かを俺の口の中に放り込んだ。とっさの事に対応できず、大人しく頬張ると、甘酸っぱい風味が口の中に広がる。
「…野苺?」
「正解、野苺~!前から好きでしょ?甘い物。どちらかと言えば和菓子とかの方だろうけど」
「…これ、知識に入るんで…前から?」
砌様は少し顔を歪めて、でもすぐにいつもの笑顔になり、言った。多分、日の光がまぶしかったのだろう。
「あ、気にしないで。あぁっと、貴方は顔に出やすいからさ。おはぎ食べてる時の顔とか嬉しそうだし」
「え、そんなに分かりやすいですかね?」
立場上、他人に感情が伝わりやすいのはちょっとよろしくない。平和すぎるが故に呆けてしまっている可能性が高い。改善しなければ。
「じゃ、じゃあ私は向こうの花畑を見てくるから」
「…?じゃあ、俺はここの水やりしときます」
「ん、お願いね」
砌様と過ごしていて、感じたことがある。それは、砌様は未だ想い人に想いを馳せているのだという事。いつも俺を気にかけてくれてはいるものの、いつも俺を通して違う誰かを見ている気がしてならないのだ。
砌様が神成をしたというのは、友神や知神が言う様にその想い人の傍に居続ける為なのだろう。しかし、神成をしてしまえば、相手からの記憶は抹消される。だからこそ、あの人は想い続けることしか出来ないんだ。そうする以外に、あの人の想いを消化する方法がないんだ。そしてその中に、俺はどうしても入る事が出来ない。俺はどうしても、第三者目線でその切ない関係を眺める事しか出来ない。まるで、一つの絵巻物のように、美しくて、憎らしい事実。
(…気にしすぎかな…異性同士だし元人の子だったわけだし、距離が掴めないのかもしれない)
「…?あんなところに門なんてあったか?」
頭を振って思考を改め、宣言通り色とりどりの花々に水をやっていると、ふと茂みの奥に門が見えた。大きくて、古びた鉄製の門だ。位置的に俺の神域の中にあるのだろうが、あのようなものを設置した記憶はない。
「砌様が作ったのかな…?神格的にはできることだし……」
気にせず水やりを続けようとするも、どうしてもその一角に目が行ってしまう。
「嗚呼駄目だ、集中できない」
一度水の入った桶を置き、門の下へ足を運んだ。
その門は、一部の区域を囲むように設置された柵と共に場に鎮座していた。昔に西洋の陶器に宿っている付喪神に聞いた、西洋の城を囲う柵と特徴が一致しており、日ノ本の国の柵とは全く異なる造りだ。特に結界は張られていないようで、触れても何も起こらないし何も感じない。
「…?錠がかかってる…?」
そんな西洋風の門には手のひらほどの大きさの錠が付けられており、それ専用の鍵がないと開かないようだ。仕方がないので柵の間から中を覗くが、木々が植わっているだけで、それ以上は何も見当たらない。柵自体が広い範囲で巡らされている為、木々の奥にもっと何か隠さねばならない何かがあるのかもしれない。
「それにしても、確かこの奥には池しかないよな…?」
そう、この奥には現世と繋がる池があるだけだ。基本的に贄は正門からやってくるが、極々稀に池に浮かんでいる時がある。しかし本当に極々稀なのでほぼ行ったことがない。
「いや、でも砌様がこんなところを囲う必要あるのか…?」
そもそも此処は俺の神域内。お互いに余り過干渉はしないという暗黙の了解がある為、俺の域内に作る必要性が感じられない。これがあの方の域内にあるのなら、話は別ではあるのだが。
この門について、砌様ならきっと何かご存じのはずだ。そう思った俺は、足早にあの方の下へ戻った。
砌様の居る花畑についてすぐ、彼女に問うた。
「砌様」
「お、白菊。もう終わったの?もうちょっと時間かかるから待って、」
「あの俺の域内にある錠の付いた柵は何ですか?奥に何かあるんですか」
これだけは、聞かなければならない。知らなければならない、と本能が叫ぶ。あの囲いの奥に、何かを感じる。思い出さなければならない何かが、あの奥にあるはずだ。なのに、
「…そうだ、あの方角…見つかっちゃったか。無断で作ったのは謝る。でも、あそこはあのままでいいの。入らないでね」
「え、でも、」
「いいんだって。白菊の為なの。貴方の域内だけど、入らないで」
俺の為とは、どういう事なのだろう。俺の域内に、彼女が意図的にあれを設置したのはもう明白。でも、その意味が、「俺の為」と言う意味が、どうしても理解できない。
「ど、どういう意味です!?俺の為って、俺の、何の為に?」
「良いんだって言ってるでしょ」
そう言って、俺に背を向けた。この場から立ち去ろうとしているらしい。
「ま、待って下さい!何を、一体何を隠して、」
「今の貴方には、関係ない」
「っえ」
「…砌の名において、白菊に命ずる。これ以上深掘りしてこないで」
そういうと、砌様は足早にその場を去ってしまった。彼女を止めようとした手が空を斬って、そのまま空気を掴んだ。
どうしてか、その手を放してしまえば、二度と逢えなくなる気がした。
今はまだ、その手は届かない。
「…囲う程大切な場所なんだろうけど、初めてあんなに強く言われたなぁ…っ…」
そう呟いた時に、自然と涙がこぼれた。俺の傍には、誰もいなかった。
俺と良く関わってくれるとはいえ、あの人は俺より立場が上。命令に背くわけにはいかず、従うしかない。ここ数年共に暮らしてきて、立場を利用した命令をされたのは、今日が初めてだった。
「は、はは……絶対、嫌われた……」
これから、如何しよう。同じ領域に住まう身で、あの方に恐れ多くも恋情を抱く身で。砌様に嫌われてしまったのなら、また、こんなだだっ広い空間で、独りでこの想いを抱きながら生きていかねばならないのか。
しかし、その心配は杞憂に終わった。
「毎日此処にいなくても、持ち前の神脈で友神さん達と一緒に居てもいいんだよ?植物は美しいけれど、何も言わないから」
柵の話から数日、あの日の出来事なんてなかったかのように振舞う砌様に、多少の安堵を覚えつつ、また庭に水をやっていた。ほぉすがあれば便利なのに、等と言っているが意味は分からなかった。
「突然どうしました?って言うか俺の神脈なんで知ってるんですか」
「…だいぶ前にさ、教えてくれたじゃん。ここには私しかいないし、つまんなくない?あと敬語禁止」
「却下です。それに、俺は、貴女が…ッ」
言いかけて、慌てて口を閉じる。
(あ、危な…っ)
『俺は、貴女が好きなので。御傍にいれるだけで十分幸せなんですよ』
今、言ってしまったら。この想いを、打ち明けてしまったら。この関係が、終わってしまうのではないか。
拒絶されたらどうしよう、幻滅されたらどうしよう、見限られたらどうしよう、離れられたら、どうしよう。つい先日に、この人の逆鱗に触れかかったばかりだ。不快感を与えてしまった事実があるから、今の俺はこんな想いを打ち明けられる立場には、いないのではないか。
「ん、なんで固まった?大丈夫?」
だけど、砌様なら受け入れてくれる。そんな、何の保証もない確信が、俺の中にあった。
砌様は、与えるのが得意な方だ。むろん、俺たちは神なのだから、求められるままに応じるのは性。でも、砌様は分け隔てない。それは、人の子であったころからそうだったと、魄龍から聞いている。そんな方が、誰かを一心に求めるなんてことが、本当にあったのだろうか。
(それが、特別な殿方だったら、どのように振舞うんだろう)
小さな背中は、いつも凛々しく伸びていた。その背中を、ずっとずっと傍で支えたい。一番傍にいられる権利が欲しい。一番傍で、四季の巡りを眺めたい。きっとあの方は、今の俺と同じ想いで、人の器を捨てる決心をしたのだろう。同じ場所に立とう、と頑張ってきたのだろう。会えないと、共に在れないと分かった上で、ここまで来たのだろう。なんといじらしく、面映ゆい。
「白、菊?白菊さん?え、ほんとにどうしたの?」
もしも、その想いの先が、砌様の仕えた主神が、俺だったら?俺がただ、理通りに忘れてしまっているだけなら?俺とて贄が神成し、記憶を失った身。状況も時期もほぼ同じ。可能性なら、十二分にあるだろう。
一片の可能性を、今——。
「…お慕い、申しております」
考えれば考えるほど、貴女のその優しさのわけが、なんで何のかかわりもないはずの俺を、そこまで気遣ってくれるのかが、どうしても分からない。だからこそ俺が欲しいのは、神としてではなく、人の子としての、貴女の心。
「え?」
「貴女に、欲されたい。そして、貴女を欲したい」
この気持ちを、言えないまま終わるのではなく、きちんと貴女に渡したい。
「…ただ、それを伝えたかっただけです。忘れて下さい」
背を向けて、その場から離れよう。言えただけ、マシじゃないか。
「忘れて、いいと?」
背後から、砌様の声が聞こえた。その声色は、どこか嬉しそうだった。
「私の心、全部あげる。その代わり、貴方の心は私に頂戴」
「…そ、れは、」
「思い出してなくていいよ——やっと、やっと言ってくれた。神前の誓いだ、思い出したら言い逃れできないねっ!」
そういって、砌様は破顔した。玩具を与えられた子供の様に、飛び跳ねながら喜んでいるように見える。
(嗚呼、貴女は何て酷い神なのだろう)
「思い出してなくていい」と言う事は、やっぱり“そう”だったのだろう。砌様は、俺の贄だったのだろう、と、察していた通りだった。
砌様の愛する人と言うのは、白菊であって俺じゃない。そして俺も、あの方じゃない砌様を大切に思っている。
憶測に過ぎない。考えすぎなのかもしれないけれど。砌様を想いながら、砌様を見ていない俺も、傍から見れば酷く最低に見えるのだろう。
だのに貴女は俺に笑いかけるから、優しく話しかけてくれるから、傍にいてくれるから。きっと俺よりも先に全てを察していただろうに、それでも変わらずにいてくれたから。このままでもいい、いや、むしろこのままがいいと思った。ずっとここで、貴女と笑い合いたい。貴女の傍で、四季の巡りを見ていたい、と。何も知らずに、創られた物語でも、偽りだったとしても、構わないから。
何度も何度も、自分に言い聞かせてきた。絶対に言ってはいけないと、絶対に守らねばならぬと、心が揺れようと念を押しつつ、蓋をしてきた。
『駄目だ。言うな、言うな』
美しく儚いその言葉は、身を滅ぼしかねない刃。肉、骨、五臓六腑、神経をも切り裂く。そして放った瞬間、この世の全てを散らすだろう。
『俺の勘違いだったんだ。忘れろ、封じろ、言うな』
なお、重ねて言葉を紡ぎ、繋ぐ。意識を手放してしまうその瞬間まで、記憶が飛ぶその瞬間まで、何度も何度も、幾度も幾度も、魂にまで浸透するように、繰り返す。
『…命令に、成りかねない。それだけは、避けなければならない』
瞳を開く。ただただ真っ暗な闇の中、微かな明かりが視界に広がる。襖に手をかけ、中に入る。
舞い散る紅に、戯れる銀糸と揺れる薄桃の羽織が、視界に飛び込んだ。澄んだ空気に、酷く映える、至極美しい光景だった。
『……だから、言ったろ』
例え、どんなに美しく輝く星空を欲したとしても、それは決して手中に収まる事はない。星空を欲し涙する者を、月は静かに満ちては欠け、無慈悲にも時を刻み続ける。
『己の想いに責任も持てねぇのなら、止めちまえばよかったんだ』
ふと見上げた紺の空に浮かぶ月は、期待していた美しい丸を描かずに、ほんの少しだけ欠け、歪な形をしていた。もしこれが、欠けることのない望月だったのなら、月に惑わされたなどという、至極くだらない言い訳ができたというのに。
欠けた月は、此方を嘲笑う様にギラギラと輝いている。その輝きとは裏腹に、少しずつ此方の意識が薄れていく感覚があった。視界が、だんだんと薄暗くなっていく。
『…君は、俺を置いて逝くのに』
無慈悲にも廻る世界。見上げた空に集う星屑。ありふれた光景に違和感を覚えたのは、一体いつからだったか。
天でも無く地でも無く、上と下の狭間の、あやふやな世界。顕現してからずっと、何の疑問もなく過ごしたこの空間が今、どうにも不可解なものに感じて仕方がなかった。
—この空間は、本当に存在するのだろうか?
人の想いで構成されるこの肉体は、この魂は。俺を知る者がいなくなれば消滅するこの器は、常に崩れかかった崖の淵の淵に立っているように、不安定なもの。彼女を想うこの心は、消滅したく無いが為に芽生えた、いわば彼女を利用しようとしたのではないのか。俺が彼女に想いを打ち明ければ、人の子である彼女はそれを断れず、彼女の意志など関係なく半ば強引に恋仲にしてしまうのではないか。優柔不断な俺より、もっともっと彼女に似合う男が、彼女にもっと相応しい相手が、いるのではないか。人の子らしい幸せを、彼女には知って欲しかった。
—何が真実で、何が偽りで、何が。
知らない土地に放り込まれ、方角も分からないのに家に向かって走り続けている。
何度も、何度も。
帰り道さえ分からない、終わりの見えない空間を、ただひたすらに進み続ける。手を引いてくれる者などおらず、たった一人、黒よりも暗い空間を、ひたすら走り続ける。
ちりん、ちりん——………
走って走って走って、鈴の音がして、立ち止まる。聞き覚えのある音だ。聞き覚えしかない音だ。
『…忘れない。絶対に、忘れるものか』
光が見えた。俺自身の身体が光っている。既に、下半身は感覚を失ってしまった。己の手を見れば、そこからは桜の花弁の様な光がふわふわと飛び出して行っていた。
刹那、ぶわりと音が聞こえてきそうな程、淡い光の粒が辺りを埋め尽くす。この粒もまた、俺から出てきたようだった。光の粒が、漆黒の空に吸い込まれていく。それと同時に、足元が崩れてゆっくりと奈落に堕ちていくような、そんな感じがした。
『まだ見ぬ不明瞭な未来を想って嘆くのなら、今生きるこの時を想って欲しい』
そんな、自分勝手とも言える願い事は、上へ上へ登っていく光の束に攫われていった。
きっとそれは、確かに愛だったのだろう。
ちりん——………
水面から徐々に顔を出す様に目を覚ますと、いつもの木目の天井が目に入る。
(あれは、夢…?)
酷く悲しい夢を見た気がする。でも、そんな悲しみの余韻が残るだけで、はっきりとは思い出せない気持ち悪さを感じながら体を起こすと、頬に生暖かいものが伝っていることに気が付いた。
(…なんで俺、泣いてるんだ…?)
——————————
「砌様、砌様ぁ~!ったく、どこに行ったんですかぁ…」
ここは、俺と砌様の神域の一角。そこには見事な庭園が広がっていて、砌様はその手入れを甲斐甲斐しく行っている。
ある日、神々の新年の招集後、いきなり上位格の方が俺の下を訪ねてきた。そして唐突に、「私、今日からここに住むから」と言い出したのだ。わけがわからない。いや、それを受け入れてしまった俺もおかしいのだが。
元を辿れば、砌様は人の子であったという。そのため幾度となく敬意を示す必要はないと言われてきた。しかし、人の子であった時から上質な気を持っていて、どんなに低格な神でも食せば上位格に成れるほどだったらしい。そのような、生まれながらに神に成ることを約束されたようなお方を呼び捨てするなんて出来ない、と言えば、「魄龍様の事は呼び捨てなのに?」と言われてしまった。申し上げないが何も言い返せなかった。
話を戻せば。彼女が仕えた神は彼女を喰おうとは微塵も考えなかったのだと、彼女の主神とも知り合いであったらしい友神から聞いた。そして同時に、想い合う仲であった、とも。しかし、彼女に想われていた神は、己の想いを砌様に打ち明けなかったのだという。
(あのお方に想われていたのに、何故何も言わなかったんだ)
顔も名前も知らない神に嫉妬心を抱くが、堕ちてしまうのは嫌なので抑える。俺にとっての唯一の救いは、彼女の想う神から彼女の記憶全てが消えてしまったという事だけだ。
「って、あんなところに。あそこは確か…菊畑、か」
二人分の神域が繋がったこの屋敷はこれでもかと言うほどに広い。ただでさえ一柱分でも平安京程の大きさがあるのに、それが二柱分もあるというのだ。そんな広い空間には俺と砌様、俺の傍仕えである燐の三柱しか住んでいない。つまり、置手紙なしで移動されると、探すのに一苦労どころの話ではないのだ。何なら最近は、域内の移動手段として馬を導入するか本気で悩んでいる。
「あ、白菊」
砌様は、今日も今日とて植物の世話をしていた。
「……領域内と言えど、屋敷から出るのなら書置きか式神に伝えて下さい、とあれほど言ったではありませんか。ここは平安京よりも広いのですから」
「ははは、ごめんて、次は気を付けるよ。っそうだ!ねぇねぇ見て?」
「…次はって何度も聞いてる気がするんですけども。それで?なんです?」
「ふふふ、驚け!ようやっと菊が咲いたの」
「え、本当ですか!?」
ここに咲いていた菊の花は、ずいぶんと前に病に侵され枯れかかってしまっていた。俺の名である「白菊」の由来になった花だから、思い入れがあった花だ。しかし俺にはどうすることもできず、枯れてしまうだろうと半ば諦め気味だったのだが、どうやら砌様のお手入れのおかげで元気になったみたいだ。
「枯れかかった時は焦っちゃったけどね。自然の神秘って凄いよね、綺麗に咲いた」
「…ん?霊気は使わなかったんですか?」
「えぇ、自然の力で咲いた方が美しいし」
俺達は自身の霊力を地に注げばある程度の植物を生やすことができる。枯れかかった神木なんかも、霊力をちょちょいっと注げば瞬く間に復活してくれる。俺が菊にそれをしなかったのは、庭仕事を砌様が進んでやって下さっているので、下手に手を出さないほうがいいと判断したからだ。なのだが、まさか砌様もご自身の霊力を使わずに自然の力のみで復活させたとなると、成程自然とはこれほどまでに偉大なのかと感心してしまう。今度魄龍から栄養剤でもせびって与えようか。
それはそうと、砌様と俺が同一の神域内で生活し始めてから、早数年が経つ。俺自身も、砌様の助手となり共に現世の花々を育てて、いくつもの四季を越えた。春が過ぎ、夏が逃げ、秋を惜しみ、冬が暮れる。この空間が、少しでも四季に溢れるように。彼女は、日に日に多くの現世の花を、寂しい事この上なかった神域に咲かせる。
砌様はこの庭を、「白菊が時間に取り残されないように、一緒に流れを感じられるように作ったんだ」とおっしゃった。だから俺も、些細なことで笑ってくれる、俺の傍にいてくれる砌様のその眼差しを守ろうと誓った。誓わなければならない、と俺の中で何かが訴えかけてくる。
その“何か”が何なのかは、わからない。ただ、ずっと前、思い出せない程の過去に、貴女に何か言い忘れていることが、あった気がする。
俺は、時折現れる上位格の友神の魄龍から貰った茶葉で、八つ時の準備を進めた。茶は、今までで一番と言ってもいい程いい色になった。
ちりん——………
「砌様、お茶が入りましたよ。休憩にしましょう」
「了解、ちょうどいいね。ちょっと待ってて」
「分かりました」
鈴を通して短い会話を交わし、互いの神域の境界から離れる。気配から察するに、砌様は向こうの屋敷の端の方にいらっしゃるようで、こちらに来るのには時間がかかるみたいだ。だから俺は、作業で少々乱れてしまった髪を直そうと、自室に戻る事にした。
八畳ほどの俺の自室には、物が少ない。もともと何かを収集する癖や趣味嗜好なんかは無かったので、あるのは机に棚と蒲団だけだ。そしてその棚には、何故か開かない引き出しがある。俺は物に対し執着をするような性格でもないはずなのだが、その棚の、件の引き出しにのみ、何故か執着心を抱いている。
—そういえば、なんであの引き出しに興味を持ったんだろう。
(だって、そもそも引き出しに何かをしまうなんてこと、無かったじゃないか)
普段は、好きな時に好きな場所で開けられる異次元に物をしまっていた。その方が、楽だからだ。でも友神が、部屋に彩が無さすぎるからと言って寄こしてきたのが、この棚だった。
その棚の内の一つに、どうしても開かない引き出しがあるのだ。寄こしてきた友神が言うには、別に鍵のある棚と言うわけでもないらしい。制作した式神に問うても、別に何かが中で引っかかって抜けないわけでもないらしい。砌様が何か入れたのかもしれないが、基本俺達は神域こそ繋がってはいても屋敷まで共有しているわけではない。その為、砌様が何かを入れた上で開かないように細工したという線は薄いと考えていいだろう。
(そもそも、この引き出しには何が入っているんだろう?)
何度開けようとしても、何故か失敗に終わってしまう。一回も開けた、開けられた事が無いから、何が入っているのかを知らないのだ。この棚の持ち主ならば、何か入っているのならそれを把握しておく必要がある。
引き出しに手を伸ばす。取っ手の冷たい金具に手を触れる。引き出しを、一思いに引く——。
(だぁめ、まだその時じゃないでしょ)
「っ誰だ!」
振り返っても、誰も居ない。聞こえた声は、砌様によく似て、砌様より少し幼い声だった。
(全部忘れて、——。約束だよ)
意味を認識できたのは一度のみ。しかし、脳内で俺の認識できない音で何度も何度も言い聞かされた。まるで、洗脳するかの様に。
「は、ぁ、れ…?」
(—は——の—と、——き—ょ)
(はは、———ぃ——な)
脳裏に映るのは、まだあどけなさの残る、———の姿。
—だれの、すがただ?
知っている。俺は、その姿を知っている。
クラリ、と一瞬めまいがする。
「あれ?白菊、八つ時にするんでしょ?如何したのそんなところで」
「…砌、様?何故ここに…?」
砌様が、俺の自室にやってきた。砌様が俺の屋敷に来るなんて珍しい。
—そういえば、なんでここに来たんだっけか。俺は、
「なんでって、貴方が呼んだのに来ないから、気になって逆に呼びに来たんじゃないの」
「え!?す、すみません、砌様。直ぐに準備しますね」
「うん、ありがと。それと様はいらないってば」
「却下です」
慌てて厨へ向かう。廊下を走りながら思考を巡らせたが、どうしても思い出せなかった。
(…歳か?)
でもまぁ、思い出せない程どうでもいい事だったのだろう、と結論付けた。
「そう、全部忘れて、貴方は、貴方のままでいて」
砌様が引き出しにそう呼びかけたのを、俺は知らない。
——————————
八つ時。俺はあの後すぐさま茶を入れ直し、茶請けと共に砌様に出した。今日の茶請けはおはぎである。
「白菊、お茶淹れるの上手くなったね。前はあんなに下手だったのに」
元来、神は物を食さずとも生きていける。と言うか食べる必要がないのだが、砌様は未だに人間時代の名残が残っているようで、何かにつけて食べ物を欲する。朝、昼、夜、そして八つ時だ。
「魄龍が教えてくれてな…あ、教えてくれましてね」
「あ、ああ、確かに最近よく来るわねあの爺臭い村長。あと敬語は外して」
人の事は言えないが。砌様も砌様で魄龍を爺呼びするなんて肝が据わっている。強ち間違いでもないので否定できないのが辛いのだが。
「却下です。最近花の世話ばかりですけど、上位格の仕事の方は大丈夫なんですか?あまり根を詰めすぎないで下さいね」
「仕事は忙しいうちが華、って言うでしょ?」
「あまり根を詰めすぎないで下さい、ね?」
この人の仕事は人々の縁をつかさどる事。縁結びと縁切りを同時に担っているという。炎の俺なんかより何倍も忙しい癖に、いつも強がるんだ。心配するからやめていただきたい。
「……わかったよ。でも白菊だって、あまり夜中まで書物を読まない事。ほら、クマができてる」
「俺はいいんですよ。爺ですから」
「私は駄目と?」
「はい。貴女は顕現して日が浅いので。十年も経っていないでしょう?」
「駄目ね反論できない」
—そう養分を与えられてしまえば、この感情は植物よりもたやすく、そして早く育ってしまう。
俺は砌様が好きだ。敬愛なんかじゃなく、まごう事なき恋情。だけど、格が違いすぎて叶うわけもない、と自覚している。それでも、あの人の記憶にある想い人に、どうしても嫉妬してしまう。あの神に流れる時間の中に、俺が刻まれるなら。俺がもし、あの人の横に並んで生きる権利を与えられたなら、どんなにいいだろうか、と。
あの女神の手が、俺の贄が神成し記憶が抜け落ちたあの日から、ずっと探していた手だと。俺の時が止まったあの日から、数多の時の流れから俺だけをかぎ分けて手繰り寄せてくれたあの手が、こんなにも、近くにあるのに。どうしても、その手を取る覚悟が、決まらない。
「そういえば、白菊はあの布付けないの?」
八つ時の後、二人で庭に降りた。砌様の咲き誇る花々を見て癒されようと言う魂胆だ。
「布…?嗚呼、雑面ですか。あれは、人の子から素顔を隠す為にあるものなので、必要ありませんよ」
雑面とは、顔を隠す布の仮面の事だ。白いものが主で、一枚の布を紐で頭に結び付ける。無論砌様の雑面もあるのだが、砌様本人が人の子の前—お告げとか大祓を覗く時とか—に出た事がない為、使用したことがないらしい。
「ふぅん。なんで隠さなきゃいけないのかなぁ。めんどくない?」
「俺にもわかりませんね。人間とは違うから見る事が出来ないとか、或いは直視するのが失礼に値したりでもするのかもしれません」
「へぇ~…あ、秋明菊」
「…唐突……菊?これがですか?」
「嗚呼、菊って名乗ってるだけで、アネモネ…牡丹一華の仲間だよ」
牡丹一華……確か、外ツ国の花、だったか。数百年生きる俺でも知らない花を、砌様はよくご存じだ。
「へぇ。砌様は何でも知ってるんですね」
「ん、知るって言うのは面白いからね。昔っから勉強は好きだったんだ」
そう言い、砌様はその場にしゃがみこんだ。どうやら牡丹一華の辺りをいじっているらしい。その花々に触れる手は、まるで春風の様に酷く優しい。
「何かを知ることで自分自身を驚かせることもできるし、その知識を使えば他の人を驚かせることもできるしね」
「…っむ⁉」
そういうと、砌様はいきなり立ち上がり、手中の何かを俺の口の中に放り込んだ。とっさの事に対応できず、大人しく頬張ると、甘酸っぱい風味が口の中に広がる。
「…野苺?」
「正解、野苺~!前から好きでしょ?甘い物。どちらかと言えば和菓子とかの方だろうけど」
「…これ、知識に入るんで…前から?」
砌様は少し顔を歪めて、でもすぐにいつもの笑顔になり、言った。多分、日の光がまぶしかったのだろう。
「あ、気にしないで。あぁっと、貴方は顔に出やすいからさ。おはぎ食べてる時の顔とか嬉しそうだし」
「え、そんなに分かりやすいですかね?」
立場上、他人に感情が伝わりやすいのはちょっとよろしくない。平和すぎるが故に呆けてしまっている可能性が高い。改善しなければ。
「じゃ、じゃあ私は向こうの花畑を見てくるから」
「…?じゃあ、俺はここの水やりしときます」
「ん、お願いね」
砌様と過ごしていて、感じたことがある。それは、砌様は未だ想い人に想いを馳せているのだという事。いつも俺を気にかけてくれてはいるものの、いつも俺を通して違う誰かを見ている気がしてならないのだ。
砌様が神成をしたというのは、友神や知神が言う様にその想い人の傍に居続ける為なのだろう。しかし、神成をしてしまえば、相手からの記憶は抹消される。だからこそ、あの人は想い続けることしか出来ないんだ。そうする以外に、あの人の想いを消化する方法がないんだ。そしてその中に、俺はどうしても入る事が出来ない。俺はどうしても、第三者目線でその切ない関係を眺める事しか出来ない。まるで、一つの絵巻物のように、美しくて、憎らしい事実。
(…気にしすぎかな…異性同士だし元人の子だったわけだし、距離が掴めないのかもしれない)
「…?あんなところに門なんてあったか?」
頭を振って思考を改め、宣言通り色とりどりの花々に水をやっていると、ふと茂みの奥に門が見えた。大きくて、古びた鉄製の門だ。位置的に俺の神域の中にあるのだろうが、あのようなものを設置した記憶はない。
「砌様が作ったのかな…?神格的にはできることだし……」
気にせず水やりを続けようとするも、どうしてもその一角に目が行ってしまう。
「嗚呼駄目だ、集中できない」
一度水の入った桶を置き、門の下へ足を運んだ。
その門は、一部の区域を囲むように設置された柵と共に場に鎮座していた。昔に西洋の陶器に宿っている付喪神に聞いた、西洋の城を囲う柵と特徴が一致しており、日ノ本の国の柵とは全く異なる造りだ。特に結界は張られていないようで、触れても何も起こらないし何も感じない。
「…?錠がかかってる…?」
そんな西洋風の門には手のひらほどの大きさの錠が付けられており、それ専用の鍵がないと開かないようだ。仕方がないので柵の間から中を覗くが、木々が植わっているだけで、それ以上は何も見当たらない。柵自体が広い範囲で巡らされている為、木々の奥にもっと何か隠さねばならない何かがあるのかもしれない。
「それにしても、確かこの奥には池しかないよな…?」
そう、この奥には現世と繋がる池があるだけだ。基本的に贄は正門からやってくるが、極々稀に池に浮かんでいる時がある。しかし本当に極々稀なのでほぼ行ったことがない。
「いや、でも砌様がこんなところを囲う必要あるのか…?」
そもそも此処は俺の神域内。お互いに余り過干渉はしないという暗黙の了解がある為、俺の域内に作る必要性が感じられない。これがあの方の域内にあるのなら、話は別ではあるのだが。
この門について、砌様ならきっと何かご存じのはずだ。そう思った俺は、足早にあの方の下へ戻った。
砌様の居る花畑についてすぐ、彼女に問うた。
「砌様」
「お、白菊。もう終わったの?もうちょっと時間かかるから待って、」
「あの俺の域内にある錠の付いた柵は何ですか?奥に何かあるんですか」
これだけは、聞かなければならない。知らなければならない、と本能が叫ぶ。あの囲いの奥に、何かを感じる。思い出さなければならない何かが、あの奥にあるはずだ。なのに、
「…そうだ、あの方角…見つかっちゃったか。無断で作ったのは謝る。でも、あそこはあのままでいいの。入らないでね」
「え、でも、」
「いいんだって。白菊の為なの。貴方の域内だけど、入らないで」
俺の為とは、どういう事なのだろう。俺の域内に、彼女が意図的にあれを設置したのはもう明白。でも、その意味が、「俺の為」と言う意味が、どうしても理解できない。
「ど、どういう意味です!?俺の為って、俺の、何の為に?」
「良いんだって言ってるでしょ」
そう言って、俺に背を向けた。この場から立ち去ろうとしているらしい。
「ま、待って下さい!何を、一体何を隠して、」
「今の貴方には、関係ない」
「っえ」
「…砌の名において、白菊に命ずる。これ以上深掘りしてこないで」
そういうと、砌様は足早にその場を去ってしまった。彼女を止めようとした手が空を斬って、そのまま空気を掴んだ。
どうしてか、その手を放してしまえば、二度と逢えなくなる気がした。
今はまだ、その手は届かない。
「…囲う程大切な場所なんだろうけど、初めてあんなに強く言われたなぁ…っ…」
そう呟いた時に、自然と涙がこぼれた。俺の傍には、誰もいなかった。
俺と良く関わってくれるとはいえ、あの人は俺より立場が上。命令に背くわけにはいかず、従うしかない。ここ数年共に暮らしてきて、立場を利用した命令をされたのは、今日が初めてだった。
「は、はは……絶対、嫌われた……」
これから、如何しよう。同じ領域に住まう身で、あの方に恐れ多くも恋情を抱く身で。砌様に嫌われてしまったのなら、また、こんなだだっ広い空間で、独りでこの想いを抱きながら生きていかねばならないのか。
しかし、その心配は杞憂に終わった。
「毎日此処にいなくても、持ち前の神脈で友神さん達と一緒に居てもいいんだよ?植物は美しいけれど、何も言わないから」
柵の話から数日、あの日の出来事なんてなかったかのように振舞う砌様に、多少の安堵を覚えつつ、また庭に水をやっていた。ほぉすがあれば便利なのに、等と言っているが意味は分からなかった。
「突然どうしました?って言うか俺の神脈なんで知ってるんですか」
「…だいぶ前にさ、教えてくれたじゃん。ここには私しかいないし、つまんなくない?あと敬語禁止」
「却下です。それに、俺は、貴女が…ッ」
言いかけて、慌てて口を閉じる。
(あ、危な…っ)
『俺は、貴女が好きなので。御傍にいれるだけで十分幸せなんですよ』
今、言ってしまったら。この想いを、打ち明けてしまったら。この関係が、終わってしまうのではないか。
拒絶されたらどうしよう、幻滅されたらどうしよう、見限られたらどうしよう、離れられたら、どうしよう。つい先日に、この人の逆鱗に触れかかったばかりだ。不快感を与えてしまった事実があるから、今の俺はこんな想いを打ち明けられる立場には、いないのではないか。
「ん、なんで固まった?大丈夫?」
だけど、砌様なら受け入れてくれる。そんな、何の保証もない確信が、俺の中にあった。
砌様は、与えるのが得意な方だ。むろん、俺たちは神なのだから、求められるままに応じるのは性。でも、砌様は分け隔てない。それは、人の子であったころからそうだったと、魄龍から聞いている。そんな方が、誰かを一心に求めるなんてことが、本当にあったのだろうか。
(それが、特別な殿方だったら、どのように振舞うんだろう)
小さな背中は、いつも凛々しく伸びていた。その背中を、ずっとずっと傍で支えたい。一番傍にいられる権利が欲しい。一番傍で、四季の巡りを眺めたい。きっとあの方は、今の俺と同じ想いで、人の器を捨てる決心をしたのだろう。同じ場所に立とう、と頑張ってきたのだろう。会えないと、共に在れないと分かった上で、ここまで来たのだろう。なんといじらしく、面映ゆい。
「白、菊?白菊さん?え、ほんとにどうしたの?」
もしも、その想いの先が、砌様の仕えた主神が、俺だったら?俺がただ、理通りに忘れてしまっているだけなら?俺とて贄が神成し、記憶を失った身。状況も時期もほぼ同じ。可能性なら、十二分にあるだろう。
一片の可能性を、今——。
「…お慕い、申しております」
考えれば考えるほど、貴女のその優しさのわけが、なんで何のかかわりもないはずの俺を、そこまで気遣ってくれるのかが、どうしても分からない。だからこそ俺が欲しいのは、神としてではなく、人の子としての、貴女の心。
「え?」
「貴女に、欲されたい。そして、貴女を欲したい」
この気持ちを、言えないまま終わるのではなく、きちんと貴女に渡したい。
「…ただ、それを伝えたかっただけです。忘れて下さい」
背を向けて、その場から離れよう。言えただけ、マシじゃないか。
「忘れて、いいと?」
背後から、砌様の声が聞こえた。その声色は、どこか嬉しそうだった。
「私の心、全部あげる。その代わり、貴方の心は私に頂戴」
「…そ、れは、」
「思い出してなくていいよ——やっと、やっと言ってくれた。神前の誓いだ、思い出したら言い逃れできないねっ!」
そういって、砌様は破顔した。玩具を与えられた子供の様に、飛び跳ねながら喜んでいるように見える。
(嗚呼、貴女は何て酷い神なのだろう)
「思い出してなくていい」と言う事は、やっぱり“そう”だったのだろう。砌様は、俺の贄だったのだろう、と、察していた通りだった。
砌様の愛する人と言うのは、白菊であって俺じゃない。そして俺も、あの方じゃない砌様を大切に思っている。
憶測に過ぎない。考えすぎなのかもしれないけれど。砌様を想いながら、砌様を見ていない俺も、傍から見れば酷く最低に見えるのだろう。
だのに貴女は俺に笑いかけるから、優しく話しかけてくれるから、傍にいてくれるから。きっと俺よりも先に全てを察していただろうに、それでも変わらずにいてくれたから。このままでもいい、いや、むしろこのままがいいと思った。ずっとここで、貴女と笑い合いたい。貴女の傍で、四季の巡りを見ていたい、と。何も知らずに、創られた物語でも、偽りだったとしても、構わないから。