——夢を、見ていた。ほんの瞬きの間に終わってしまった、けれど決して忘れることのないだろう夢を。
物語の中では、男女の身分が違えども、そこに愛があれば結ばれていた。でも、現実はそんなに甘くはないようで。言いたい事も、伝えたい事も、何も言えずに、終わってしまう。それが、現実。
唐突に思いついた、とうに諦めたはずの女性としての幸せへの執着を、首を振って紛らわす。そして、神職の方々の手を、静かに受け入れた。
生贄に選ばれた時、何て時代遅れな儀式なんだろうと思った。時代遅れと言う言葉が可愛いくらい、きっとこの村は他の地域より三百年ばかり時空の歪みがあるんだと錯覚してしまうくらいには、時代遅れな常識がある村。
たくさんの人が集う都会からかけ離れた、山の奥の奥のさらに奥にある小さな集落。私が生まれた、未だに男尊女卑があるなど、非常識を常識とする古臭い、町でも群でもない村。学校なんてなく、ここの子どもたちは皆電車で街まで出る。そんなところに生まれたからか、幼い頃から精神はとっくに達観していたと自負している。
小学校六年の終わり、卒業式を終えて家に帰っていた。幼馴染の子は、最後のクラブの後輩たちがお別れを惜しんで話をするから先に帰ってて、と言われたから、一人で山奥の道を歩いていた。そうしたら、いきなり車で連れ去られたんだ。そして告げられた、生贄に成れとの命。当の昔にここの異常性は理解していた、つもりだった。まさか、ここまでとは思わなかった。
両手は祈るように手を組み、両足は跪くように折り、献上品と共に、決して離れぬ様に縛る。
「祓い給え、清め給え」
「贄を、純白な女子を、貴方様に捧げまする」
大幣を頭上で振る音が聞こえる。その音が止んだ後に池へ突き落とされ、贄として選ばれた私の人生は、終わりを告げる。
(……先に、死んじゃうのね。ごめん、白羽)
幼馴染の顔が脳裏によぎった。出てきた涙が、池に交じって消える。
たった十二年。おかしな村に生まれたせいで、まともな思考もできず、まともな人生も歩めぬまま、私は死んだ。
———はずだった。
「…子どもを、しかも女子を真冬に突き落とすまでしなくてもなぁ……」
冷たい池に突き落とされ、寒さよりも痛みがこの身を走ったことを最後に、私の意識は飛んだ。次に目を覚ませば、見知らぬ日本家屋の天井が目に入った。そして私の顔を覗き込む、顔に白い布―確か雑面と言ったはずだ—を付けた男性がいた。その男性は、烏を思わせるほどの見事な濡羽色の長い髪をポニーテールにしている。此方の視線に気付いたようで、顔を此方に向けてきた。
「…お?起きてたのか。どこか痛むところは?」
「……え、と、私は、死んだんじゃないの?後誰」
「まだかな。此処に来た人の子の生死の選択は一瞬で起こることもあれば、1年遅れで起こることもある。君が選択をしていない今、まだ生きていける。まぁ、あの村の連中からすれば、遺体が上がらないから死んだって事になるだろうがな」
私がいた村には、百年に一度その代の十二の子どもを献上品と共に池に沈めて、この地域に人が住むことを神に許してもらうという風習がある。それをしなければ、たちまち山から毒の風が降り注ぎ村は壊滅するという言い伝えがあるのだ。一体何時代を生きているんだ、ちょっと考えれば伝承だって気付くだろうに。因みに生贄になる者は儀式の前夜、村の神社の中に閉じこもり身体を清めることになっている。
「ここはどこ?私がいたあの村じゃ…ないみたいだよね?後誰ですか貴方」
「嗚呼そうだ、ここは幽世。隠り世、常世とも言う。お前の居た場所ではない。かといって黄泉でもないし、天照大御神の居る天上でもない狭間の世界。中途半端なこの場所に、お前は運よく引っかかってるってだけさ」
「……難しくて、よくわかんない」
「ははは、だろうな。まだわからなくていいよ。まだ自分は家族のところに帰る事ができるかもしてないってだけ、分かっといて」
とどのつまり、私はまだ死んでおらず、ここは天と地の狭間であるという事だろう——つまり、儀式は失敗という事か。
「安心しな、お前のとこの産土には俺から断っとくから。俺のとこに来た犬の贄を代わりに送っとくよ」
「……なんで分かったの」
「顔に書いてあった」
この神、意外とノリがいい。
「そういえば、俺の名だったな……そうだな、」
そういうと、彼は庭先に目をやった。彼の目線の先には、見事なほどに白い菊が狂い咲いている。
「…白菊、とでも呼んでくれ。様もさんも付けなくていいからな、そのまま呼び捨てで呼んでくれていいよ」
彼がそう名乗った時、言葉で形容するのが難しいのだが、何かが繋がったような気がした。
「私の名前は、」
「ハイ待った」
「…は?」
「お前がこの世界で名乗る名は、真名ではなく源氏名にしておけ。渾名ってこと。今後どうするのか迷ってるのなら、どんな相手にも真名を教えてはいけない。特になければ適当に目に入った物の名前でも貰ってな」
「名付けなんて……貴方に付けてもらうことはできないの?ネーミングセンスないよ私」
「ねぇみ…なんて?よくわかんないけど、誰かに名付けられてもいけないんだよ。名というのは最も短い呪いになり得る。名付けられた者との間に縁が生じ、誓約したことになるから。簡単にいえば、そいつに隷属しちまう事になる」
また小難しい話を…と思いつつ適当に庭園に目を向ける。そして言われた通り、一番に目に入ったものの名前を貰った。
「…砌だよ」
一番に目に入ったのは、軒下の雨滴を受ける石畳のある所。
「みぎり、水限、いや砌かな。きっと短い付き合いになるだろうが、よろしく、砌」
あの後、男―白菊から様々なことを聞いた。
まず、生贄は一年間、神の御膝元でお勤めをするそうだ。お勤めとは言っても小難しいことはせず、家事や神域である日本家屋の掃除など、所謂巫女のようなことをするのだという。いわゆるバイト。そして一年経てば、白菊の言った通り現世に戻るか幽世に留まるのかを決められるのだと。そして幽世に留まると決めた時、人としての肉体を捨てなければならないそうだ——即ち、もう一度死ぬことになる、と。
白菊の下に来る、と言うか私の村での贄の儀式は百年に一度。そして白菊の下に送られる贄は大抵殺された状態の動物が来ていたのだそうだ。そのため、贄は命の選択なしに一年で消滅してしまう……そう、白菊は九十九年もの間、独りぼっちだったという事だ。
「なんでまだ顔見せてくれないの。見せろ、ルームメイトでしょ」
あのよくわからない出会いから半年の月日が流れた。私は現在、従来の通りこの屋敷の小間使いのような感じで居候させてもらっている。
「るぅむ…?駄目。砌は人の子なので神様の顔を見てはいけません」
「私は顔も本名も知らない不審者と今後一緒に過ごさなきゃいけないと?私は顔割れてるのに」
そしてこの男、あろうことか私に顔を見せようとしてくれない。いや、相手はどんなに友好的であっても神様なのだから仕方がないのだが。
「…それはごめんって。でも、どうしても見せちゃ駄目なんだよ」
「じゃあどうすれば見れるの。流石にルーム…同居人の顔も分からないのは怖いって。何か方法ないの?」
「…嗚呼、人間じゃなくなるって方法なら、あるよ。雑面は人の子から顔を見られなくする為のだから、神同士や一人で居る時は外してるし」
成程、それも踏まえて、家に帰るべきかどうか考えよう。
「スカートみたく風で巻き上がるか転んでめくれればいいのに」
「女子の被衣か何かと勘違いしてらっしゃる?後何すかぁとって」
あ、口に出ちゃってた。しかも横文字苦手なのね。
この国は神の国である、と聞いた事がある。神社仏閣や霊峰だけでなく、身近な小道具、植物など八百万にわたるありとあらゆるものに神が宿っている。そして人間の生業にも忙しいものとそうでないものがあるように、神の仕事にも忙しいものとそうでないものがあって、白菊の仕事は比較的楽なものに部類されるらしい。
私は既に巫女のすべき儀式や振舞い方などはもう覚え、読み書きの基本を教えられた後は、与えられた書物を読めば基礎的な学力は自然と身についた。現世と勝手が違うものの、次第に白菊の報告書類作成の手伝いも、逆に白菊に送られた書類を整理する事もできるようになった。しかし鉛筆やシャーペンやボールペンがないのは痛い。
そんな割と多忙な彼の仕事は炎の管理なんだそうだ。もともと炎の神様には軻遇突智神がいるのだが、蝋燭やキッチン—白菊は厨と言っていた—の炎などのごく一部のものを担当しているという。厨の炎の量を調節したりして、人々の生活を豊かにする。上位格の命令によっては火災旋風を起こす事もあるそうだ。
「昔はかなり大変だったんだぜ?水神や風神と相談して駆け引きして、たまに精霊に助けてもらって、どうにもならん時は軻遇突智神様に申し上げてさ」
それでも、大変だったけど、やりがいもあった、と白菊は言う。
「これは、炎。名誉も栄華も地位も名声も、この身さえも焼き尽くしてしまう恐ろしい光。だからあまり、意味のない事には使うなよ」
「…わかってる」
でも、貴方の炎なんだから、安心で安全でしょうね、何て言ったら、頭を軽くたたかれた。
「嗚呼それと、これあげる」
「え?なに、御守?」
渡されたものは、鈴の付いた小さな根付。紅白の組紐が、叶結びに結ばれている。少し揺らせば、ちりん、と凛々しい音が鳴り響いた。
「従来、鈴は魔除けとして使われるんだ」
「へぇ……じゃあ、お社の鈴なんかも、そうなの?」
「お、鈴尾の事か?それはな、祈る前に鳴らすことで魔を追い払ってから祈るのが役割だ。神前で奉納される神楽や舞の鈴も同じ、な。後もう一個意味があって——」
「ん?なんで固まった?」
「あ~いや、一回見た方が良いな。砌、俺今から一回消えるからさ、俺の名前呼んでくれ」
そう言って、白菊はふわりと一回転してその場から消えた。そして言われた通り、彼の名を呼ぶ。
「白菊?」
ちりん、
「はいよっと」
鈴の音と共に現れた、菊の花弁を纏った白菊がそこに降り立った。
「また、鈴の音は神の訪れの合図なんだよね。だから俺達って、鈴の音にちょっと敏感なわけ」
「成程、だから鈴をもっておけ、と」
「そういう事。魔除けの意味も込めて、なんかあったら鳴らしてね。音で分かるから」
——————————
砌がうちに来てから、早くも一年と少しが経つ。十三になった彼女と初めての儀式で、彼女は幽世に留まることを決めた。
『私が帰るということは死者を生き返らせること。きっとそれは、しちゃいけないことなんでしょ?なら、もう少しここにいたい。ここは、あの村より心地いいから。できれば、大人になるまで』
それが、ここにきて一年目の、初めの儀式で砌が決めたことだった。
もとより、今よりも位を上げたいとは思っていなかったので、砌が傍にいてくれる期間が長引くのなら、これほどうれしいことは無かった。今まで誰かと長期間生活する事はなかったから、心が躍っていたのかもしれない。今まで思っても居なかったことを想ってしまった自分は、どうやら今まで寂しかったらしいと気付かされた。それほどまでに、たった一年で俺は彼女に絆されてしまっていたという事だ。
が、俺はどうやっても彼女の傍には居られないし、彼女もどうやっても俺の傍には居られない。彼女が現世に戻っても幽世に残っても、互いに失うものがある。それが何なのか知った時、人の子の決断の行く末にあるものが何かを知った時。彼女は、俺を嫌うだろうか。
「生贄の子どもえげつねぇんだって、噂になってぞ白菊?もったいぶらず教えろ詳細!」
「危なっ」
某日。俺は神々の集会に参加していた。この場は強力な結界により外部からの侵入が無いからだろう、気を抜いていたら、背後から友神が突進してきた。神々が多く集う場だ、危ない。
「どんくらいの気ィ持ってる?やっぱし最近の人の子の気は落ちちまってたか?と言うかお前に人の子が送られるなんて珍しいな!」
「いや、取り込んだら神格が魄龍かその下と同等になるだろうよ。落ちるどころかむしろ上がってるわ」
魄龍と書いて「はくりゅう」と読むいかつい名前をしたそいつはここら一体の取締役で、いわば村長のような奴だ。その名の通り水を司っている。俺らからすれば格ははるかに上ではあるのだが、何故だか俺はそいつと仲がいい。そして何故だか俺は気に入られている。本来なら魄龍を呼び捨てにした時点でかなりの重罪なのだが、本人直々の御要望で俺だけ呼び捨てにしている。気に入られている理由は定かではない。むしろ俺が聞きたい。
「…魄龍、様?『どの面を下げて我に物申しておる無礼者が』とか言ってきそうなあのお方だろ?マジ?」
「マジ」
実際、低格の俺を友とするくらい魄龍は寛大な心を持っている。ただ、その名前の圧と上位格と言う立場が近寄りがたい雰囲気を作り出してしまっているだけで。
「うっわぁ……でもまだ喰ってないってことは、そういう事?」
「ん、俺は別にその気は無いし、眷属にする気もないね。そもそもあの子は俺に与えられた贄ってわけじゃねぇし」
「へぇ…」
いつから俺達が人の子の村に現れるようになったのかは知らない。魄龍から聞いた限りでは、少なくとも俺が生まれる前…数百年以上も前から神と人間は共存関係にあるらしい。のだが、海の向こうの島々からやってきた別のモノが、俺達と人の子を分けてしまったのだという。この国とは全く異なる考え方と、神仏。それらの影響で、砌含む人の子にとって俺達は関わってはいけないもののうちの一つになってしまったらしい。
しかし、もとより日ノ本の国では、神とは信仰の対象ではなく生活を共にするものだ——だから、俺は砌を喰いたくない。
なんてこと思い出しつつ、砌が毎日手入れをしてくれている庭に目をやる。俺は普段、庭の植物には手を出さなかったから、ここまで綺麗に整うものなのか、と感心していた。
すると、四角い大きな木の板を持った砌が駆け足で近寄ってきた。
「白菊ぅ!」
「砌?どうしたのその板は、」
「覚悟!えぇいっ」
ぶんっ
ぶわっっ
砌が板を持ち上げ、思いきり振り下ろせば割と強い風が巻き起こる。しかし特別な力で押さえつけられているこの雑面、そんなものではびくともしない。
「…お転婆め。なかなか治らないねぇ」
「っはぁ、駄目だったか…それ、手で取れるやつ?扇風機あればいいのに、カルチャーショックだわ」
「んな事したら神罰下るで。そもそも出来ないけども」
「神罰、かぁ……落雷とか?竜巻とか?いいじゃん下しなよ。きっと何でも回避できる」
その自信は一体どこから来るのか。問いただしたい。
「いやそんな物理的なモノじゃなくてさ…最悪失明するよ知らないけど。下した事ないから」
「そっか。なら最後に見た景色が白菊で良かった」
「何言ってんの」
やんちゃ、なかなか治らないなぁ………。
治らなくていい、と思ってしまうのは、どうしてなんだろう。このまま、純粋で無垢な、何も知らないままで。
「…あんた、友達いないでしょ。ノリ悪いし」
たしかに神には友達なんてほとんどいない。神様にも階層があって、同じくらいの偉さでないと、なかなか友達付き合いがしにくいのだ。しかも仕事が忙しくて時間なんてない。が、
「残念かなりいるんだなそれが」
「うっそ」
「ホントでーす。これでも神脈広い方なんだよ。そういう砌は?」
「貴方以外見たくないから作ってない。ご近所づきあいくらいはするけどさ」
「なんだそれ」
そうは言っても、きっと、砌は現世に戻るだろう。その時、例え彼女から俺の全てが消えても、俺が傍に居なくとも、村という、家族という支えがあるのならきっと砌は前を向いて生きていける。それはとても良い事で。それでいてとても寂しい事。
嗚呼、知らなければ、こんな事思わずに居られたのにな。
——————————
「白菊はどうして領域から出られないの?」
ある、何ともない日。ふと気になったことを、白菊に聞いてみた。私は、彼奴がこの領域、ひいては屋敷から出た姿をあまり見たことがない。いや、屋敷からは度々出るのだが、上の領域や下の領域に行くことがない。
「神が無断で行方知らずにでもなられたら、人の子が困るからだろうね。従神か眷属がいれば別だけど」
「それって作れないの?低格と言えど神様なんだからさ」
「従神とか眷属ってのは主神に運命が握られるんだ。主命は絶対、行動の制限、生死の判断さえも可能だ。そして主神が消滅すれば彼らも消滅する。彼らを繋ぐ霊力供給源が消えるからね」
成程、つまりは電気と家電みたいなものか。電気が無ければ家電は動かないし。
「その言い方、まるで作り方は簡単みたいだね。どうやって作るの?」
「生贄の真名を知ること、或いは己より低格の神と魂結びをすること」
「あの時の真名を隠せってそういう……たまむすび?」
「そう、魂結び」
白菊曰く、一般的には死者の魂を現世に留める為の儀式なんだそうだ。「思ひあまり 出でにし魂の あるならむ 夜ふかく見えば 魂結びせよ」と言う、伊勢物語に歌があるほど、良く知られているものらしい。が、それが一部の人間の間で拡大解釈されてしまい、意味が変わって今まで残っているという。それで結ばれる縁は夫婦よりも親子よりも兄弟よりも強固。魂結びと言うものは、白菊たちの居る天上と現世の狭間のこの世界では「隷属する者」と「隷属される者」に誓約を上書きするという儀式へと変わっていってしまったらしい。
「ま、文字通り互いの魂を結ぶってことだな」
成程禁忌って事か……うん、待って?
「貴方、さっき「人の子が困るから」って言ったね?」
「うん?言ったよ?」
「神様なのに、人間なんかの利便に左右されちゃうの?単独行動とかできないわけ?」
白菊は、少しだけ眉を下げて、悲しげに問うた。
「……俺らを形作るのって、何だと思う?」
「えぇ……神様の特別なパワー的な何か?」
「ぱわぁが何かわかんないけど、違うよ」
白菊は、なおも悲しげに言った。忍ぶ様な白菊の声を聞いて、私は一呼吸置いてから話を聞く姿勢に入る。
「俺らを形作るのは……人々の想いだよ」
「…信仰心って事?」
「もあるね。だけど違う。人間の持つ根本的な思い—喜怒哀楽とか、そういうもの。俺達は、そこまで偉いわけじゃないんだよ。人の子がいないと存在できないんだから」
「…単純なんだね」
本当に、単純なんだと思った。と同時に、神と言うのは気が付かないだけで身近にいたんだな、とも思った。人々の想いが形を作る。ならば、人々に思われながら作られた小道具や綴られた言葉なんかも、神様に部類されるのだろう。所謂、付喪神、と言う奴か。
「話はそれだけだけど、一柱しかいない神が移動できないのはそういう理由」
「…へぇ」
「でもどうして?言っとくけどやる気無いからね。砌なら言いかねない」
私はなるべく毅然とした声で答えた。
「デート…逢引か。それができないことに落ち込むべきか、独り占めできることに喜ぶべきか」
「成程そういう話か」
もう、私の中で、答えは決まっていた。
「ごはん、作ってくるね」
「了解、嗚呼そうだ、今夜は先に話したいことがあるから、広間に来てくれる?」
「いいけど、なぁに?って、早」
聞き返そうとすると時すでに遅し。白菊は菊の花弁を纏って消えてしまった。私もまた、此の部屋から割と距離のある広間へ足を運んだ。
自分にとって白菊が、そういう意味で特別な存在だ、とはっきり自覚したのは、桜が二度目の最期を迎えた頃。ふわふわと柔らかい声で名を呼ばれるのが好きで、かつ幼い頃から一番傍にいたから、自然と彼の傍に私がいるのが当たり前になっていた。
私はそれまで、白菊に向ける自分の感情の理由を考えた事はなかった。きっと、彼が命の恩人だから抱いた一時的な感情なのだろう、と思っていた。けれど喰えば上位格に成れるという私を喰わない事、人の子である私をずっとそばに置いていてくれる事、女神が集ういわば見合いのような席にも、私を気遣ってか出席しない事。理由はきっとほかにもあるのだろうけれど、まるで私を一人の女として扱ってくれる彼を前に、白菊は私にとって特別な存在なのだ、と意識せずにはいられなくなってしまった。
私の彼に向ける好意はそんな風に、早いうちから確かな物だった。けれど、その思いを打ち明けるなんてできるはずもなかった。実際の神の年齢を思えば、と言うよりそもそも人間と神様は対等ではない。それ以前に私は恋を語るには幼すぎた。大人の、男の人の姿にしか見えない白菊に恋を打ち明けたとしても、とても釣り合わない。それでも、万屋に出かけて他の神様に会ったり、村にいた頃の異性を思い出したりしたけど、やっぱりこんな想いを向けられたのは白菊だけだった。
(いつか、もっと大人になったら、この想いの行き場が見つかるかもしれない)
一日も早く大人になりたい。
それだけを願って日々を過ごす。
あんな、現代からみても常識はずれな村にいた頃には、絶対に想わなかった事だ。
私は贄に選ばれた時から神域にいて、幽世から離れたことはない。下手に移動すれば他の神に喰われるかもしれなかったからだ。そもそも私が主神である白菊に喰われもせず、現世に帰ることもせず此処に留まっていること自体、異例だと言われてきた。そのため、私が死んだあとあの村がどうなったとか、現世では今何が起こっているとか、そういうのは万屋での式神との井戸端会議で得られた噂とか、或いは白菊に来た書類に目を通すことで把握していた。私にもたらされる外の世界の情報ソースはそれが全てだった。
「ねぇ、椿乃神の御屋形様に想い人ができたんですって」
「碧雲邸にお仕えになってらっしゃる式が、旦那様の御心に留まったとか」
「黎明ノ方、御自身の傍仕えに婿入りさせたって本当?」
自覚した頃から、低格の神様同士であったり式神同士であったりが恋仲になったという話を耳にする事が増え始めた。それを聞く度、ただ羨ましくてたまらなかった。そういう方々の姿は、いかにも麗しい大人の女性で、お似合いだと思いながらも、「白菊もあんな女性を好むのかな」とか、自分がその姿に程遠い事に焦りやもどかしさも感じた。
「ねぇ、砌さんはお好きな方、いらっしゃらないの?」
「え!?…い、一応、いますけど……」
「えっ!どなた?もしかして、白菊様だったり?」
巷では、白菊は女性人気が高いそうで。井戸端会議で得られた情報の中には、低格上位格式神関係なしに白菊に恋愛ゲームみたいなひそかな思いを馳せる方は一定数いるそうだ。しかし、長年の一人暮らしに仕事三昧、友神は上位格の為滅多に会うことができず、又同じ低格の神とも、担当区域が異なる為たまにしか会うことができない。対神関係を滅多に経験したことが無いから、特に恋愛において彼は酷く鈍いのではないか、と噂されている。それただのぼっちか陰キャでは?と思ったのは内緒。
「あ、いや!そんなことは、」
「嘘。白菊様がお好きなんでしょう?あのお方、お優しいものね~」
「自分じゃ釣り合わないかも、何て考えちゃダメよ、砌さん」
「いや、でも、」
「でも、じゃないの。押して押して押しまくりなさい、ね?」
「人間ってそういう事に奥手なんでしょう?応援してるわ!」
私の彼への態度は、やはり他の神に対するものとは違うらしい。でも、どれだけ隠そうにも、どうしても彼の前では鼓動が激しくなり、頬が赤らんでしまう。ので、いっそのこと全て曝け出してしまうことにした。ことあるごとに愛を囁き、いつも以上に傍にいようとした。
それに対して、彼は特別に反応を示さなかった。いや、初めは戸惑っていたらしかったけれども、最初、私はそれを子供扱いされているからだと思っていた。けれどある時、そうではない事に気付いたんだ。
広間に向けて足を運んでいる時、ふと庭に目を向けた。私が、とある決断をした時と同じ三日月が、此方を覗いている。
十四歳になったばかりの事。現世にいれば、中学校に進学していただろう時期。
確かその時、神域内の季節は秋で、庭は紅く彩られていた。だだっ広い屋敷には私と彼しか居らず、さぁっと吹いた秋風が、がらんとした空き部屋を通る。
ふと彼の気配を感じ、その先を見やった。彼は庭に立って、三日月の空を見ていた。その横顔に目を向けた時、私は息を呑んだ。白菊の視線の先には、誰かがいた。
いや、正確にいえば庭には誰もいない。けれど、その視線は明らかに誰かを見ている。どこかで、月を見るとそこに想い人の顔が浮かぶと聞いた事を思い出した。でも彼は、ただ静かに空を睨みつけているだけだった。その瞳の中に、宵闇に浮かぶ月は映っていない。けれど、その瞳にはどこか拭いきれない苦い感情が浮かんでいる。
初めて見る顔だった。それなのに私はその表情が何を意味するか、即座に理解した。胸の奥が、心の臓が誰かに握り潰されたような感じがした。
—誰か、想っている人がいる。
そう錯覚してしまう程、彼の顔は悲痛と慈愛に満ちていた。見たこともない白菊の表情に動けないでいると、彼がゆっくりこちらを振り返った。
「やけに視線感じると思ったら、どうした?」
その声は優しかった。けれど私に向ける視線には、あの感情の色はない。ただ、親兄弟に向けるような親しみの色しかなかった。
私はこの辺りから出ることはできないけれど、白菊は割と自由に移動できる。それに、定例会なんかでは数多くの神々と会合する。それ以外では、彼は殆ど屋敷の外に出ない。いつも私が纏わり付いていたから、という訳でもないようだった。現に、私がこうして巫女の仕事ができるようになった後も、彼は外に出ない。どこかに出かけるときは、いつも上位格の友神の下へ赴くときだけ。女型の式神も、女性の扱いが分からないからとかで置いたことがないらしいし、私が来た後も、女性がらみで問題が起こるのが面倒だとかで置いていない。
だから、白菊に好きな人がいるのだとしたら、その人はこの辺りにいる誰かではないのは、確かだった。
そうなると私の想像できる範囲で出る答えは一つ。
上位格の神。
上位格にどんな神々が集っているのか、私は知らない。それに、本当に想う人がいるのかも、分からない。ただの予想でしかないけれど、彼には上位格に友神がいると聞く。可能性は、十二分にある。
「砌?砌さん?え、ほんとにどうしたの?」
もし、私とは比べものにならない素敵な人だったとしたら、太刀打ちできない。私はお世辞にも女性らしいとは言い難い性格をしている自覚があるし、人と神とでは、絶対に釣り合わない。それにきっと、白菊は私をそういう目で見ていない。
「白、菊」
「やっと応えてくれた。何か用?」
いつも通りだった。いつも通り優しい声色で私を呼んだ。邪険に扱われているわけではない。腹を立てる事も、悲しむ必要もない。だって、いつも通りの問答だ。けれど、こんな風に扱われる事に何故か納得がいかない。
「ずっと固まってたんだよ?外部から術式でもかけられたかと思って視ても、特に問題なかったし」
白菊の言葉に、私は酷く驚いたのを覚えている。私はほんの一瞬だと思っていたけれど、白菊からしたら数分もの間、私は固まっていたそうだ。
「白菊が、いるのが見えたから、さ。如何したのかなって、思って」
ようやっと言葉を絞り出して、出てきた言葉を紡ぎながら隣に立った私は、白菊と同じ方角に目を向けた。やっぱり、誰も居ない。
「誰か、来てたの?」
「…え?」
「だって、ずっと空を睨んでたじゃん」
白菊は、しばらく黙り込んでいた。何度か口を開いて、閉じて、また開いてを繰り返している。
(そんなに、言いたくないのかな。それとも、神様しか知れない重要な事だったのかな)
後者ならいい、と思っていれば、白菊が意を決したように口を開く。
「えっと…ん~、何て言えばいいんだろ…」
「もったいぶらずに教えてよ、詳細。誰かいたんでしょ?夜這い?」
「どこで覚えたのそんな言葉。しかも聞いた事ある会話だよそれ」
沈黙が、一分にも数刻にも感じられる。いつも通りに冗談を言えば、彼はいつも通りに応えてくれた。でも、その“いつも通り”が、酷く辛く思えてしまった事を、昨日の事のように覚えている。
「…客人がね。来てたみたいなんだ」
「みたい?来てたんじゃなくて?」
「そ……多分、禁忌を犯した上位格が、ね」
「え」
禁忌を犯した上位格が、何故白菊の神域に来るのか。何故、白菊はそのことを一瞬、隠そうとしたのか。私が人の子だから理解できないだけなのか、それとも彼が意図的に隠していて、その事実に疑問を抱いているだけなのか。
もう白菊の視線は、私に向けられていなかった。無視されているわけではない。けれど、その上位格の方に意識を向けていて、今の私には興味は持たれていないのがわかる。
どこか身の置き所のない、いたたまれなさがあった。
「俺の好きな人はもう、どこにもいないんだ」
唐突に、そう告げられた。前後の会話との脈が図れなくて、酷く混乱したのを覚えている。好きな人がいたの、とか、それと禁忌を犯した上位格と何の関係があるの、とか、聞きたい事はたくさんあるはずなのに、頭に浮かんだ言葉は全く別のもので。
「砌はさ、俺を好いてくれてるけど。きっと俺は、その想いに応えられない」
「まだ、そのお方が好きなの?」
しまった、と思った。きっと白菊にとっても辛い事だろうに、酷い事を。
ここから先、どう言葉を紡げばいいかわからなくて、私は口を閉じた。それに反するように、彼は口を開いた。
「もう、二度と取り戻せないんだろうね」
目線の先には、三日月が浮かんでいる。吸い込まれそうなほど美しいその空は、私をあざ笑うかのように存在を主張していた。
「俺が、どこかで選択を間違えたみたいだ。だから、あの方はあんなことに、」
「…やめて」
「でも、まだ遅くはないはずだ。だから、」
「やめて」
何が遅くないのか、分からなかった。分かりたくなかった。あの時の私の頭の中は空っぽで、何も考える事ができなかった。だから、あるかもしれない可能性を、考える事ができなかった。
「砌」
「やめて!」
意を決したように、白菊は私を見る。でも、その視線の先にいるのは、私じゃなくて。
申し訳なさそうに、彼は目を細める。眉尻を下げて、酷く苦しそうな顔をする。
(なんで、そんな顔をするの)
「ごめん、諦めてくれ」
目の前にいるのは、誰だろう。私を育て、守ってくれた白菊だ。でも、私はそんな彼を認識することができなかった。私にとってはその言葉はとても辛く、重い物で、認識してしまった瞬間、理解してしまったその瞬間に、密かに彼を思う事すらできなくなる。
動けない私の視線の先で白菊は立ち上がり、屋敷の向こうへと消えて行った。
そして今、私が立つこの廊下こそ、白菊に振られた場所。ここを通る度に、あの時の悲しみが身を締め付ける。
かといって、あんなことでしょげる程私は薄情ではない。未だに白菊の事は好きだし、諦めようなどとは露程も思わない。何なら全部忘れさせて私しか見られないようにしてやるくらいの勢いだ。
「禁忌を犯した神を、いつまで想っているの?」
時折喉の奥までその言葉が出かかって、飲み込む。禁忌を犯すという事は、即ち荒魂神になり上位格の神々の手により消滅させられるか、自然消滅するかの二つに一つ。そして白菊は、それを理解しているはず。だから白菊の気持ちを否定することはせず、自分の事を見てもらえるようにがんばろう。祈るような気持ちで私は日々、彼に接するようになった。
私を見て、という願いに彼は確かに応えてくれた。彼は優しい目で、他の誰でもなく私を見てくれる。けれど、未だにあの愛おしいものを見る視線が向けられる事はない。ただの保護者としての物だった。
(ま、関係ないか。もうちょっと粘って、それでも駄目なら最終手段に出るだけだし)
彼を堕とす計画は既にある。後はそれを実行するだけなんだけども、いかんせん時期が難しい。それに、あの計画は一か八かのもの。もし失敗したのなら、ただじゃすまされない。そして実は、彼の想い人についても、心当たりがあったりする。
(早く、言ってくれればいいのに)
定刻までまだ時間があるから、計画を進める為に自室に戻った。
どうしても開けられたくない引き出しがある。
私の部屋にある、鍵の無い引き出しにあるものを入れた。鍵の無いその引き出しは決して開かない。別に何かが引っかかっているわけでもない。他の引き出しは問題がなく開くのに、そこだけが、どんなに力いっぱい引いても、開かないようにした。開かないように、してもらった。
そういうわけだから、白菊はその中に何が入っているのかを知ることは無いだろう。唯一知る機会があるとするのならば、それは私の計画が失敗に終わった、その時だけだ。
「現世に戻るか幽世に残るか。今回その儀式はこの地域で最も神格の高い神の御殿で行われる」
四半刻後、私は言われた通り広間に来た。上座には、正装である狩衣を身に纏った白菊が、私を見下ろしていた。いつもなら大河ドラマみたいだななんて思えるのに、なんでかそういう感想は抱けなかった。
「…ん?今までみたいにここでじゃないの?」
そう、今までの帰りの儀式はこの広間で「ここに留まる」と言う意を白菊に伝えるだけで済んでいた。なのに……もう、終わりが近いという事か。
「嗚呼、お前ももう十六…裳着の歳だ。だから、今回の儀式が最後の決定打になる」
裳着…現世で言う成人式。あちらでは二十歳なのに、此方では十六。きっと、普通なら高校で青春を謳歌していただろう歳。そんな歳で、私は今後の人生を左右する決断をしなければならないのか。
「ってことは……次の儀式で全部決まっちゃうってこと?もう、次はない?」
「そういう事だ。その上、そこに俺は一緒には行けない。お前の判断に口出ししたり、お前の判断を鈍らせたりさせない為に、俺はここから動いてはいけないんだ」
そういう彼の視線の先には、やはり私じゃない誰かを見ている。でも、私はその誰かの正体がなんとなくわかっていた。
「だから、その日までに未練が残らないようにしなさい。御殿に行けば引き返せないからね。残る未練は呪いに成り得る。呪いと成れば砌が危うくなる」
「なるほど……つまり、未練が果たせる今のうちに、好きなだけ口説け、と」
いつもみたいに、彼に軽口を叩いた。ここで否定されれば、私の予測が間違っていることになる。
「まぁ、そういう事でもあるか。普通逆なんだろうがな……どうした?」
彼は、神妙な面持ちで頷いた。その顔には、明らかに悲哀の色が隠れている。そして予測は、間違っていなかったようだ。
「いや、ちゃんと受け流さないで聞いてくれたの、初めてじゃない?だからちょっと、驚いちゃって……好きだよ、白菊。本当に」
「そう……夢みたいだな」
夢じゃなくて、本当なのにな。
「……神様にも、叶えられないものがあってさ」
「え?」
彼の顔を見る。その瞳には、どこか拭いきれない苦い感情が浮かんでいた。あの日のように。
「俺の心願成就、こればっかりは君次第、なんだよ」
「しんがん……?白菊、それって」
「ほら、おなかすいてきたでしょ?厨行ってきな。夕餉の時間にしよう」
そういうと、白菊は上座から奥の間へ去っていった。彼を止めようとした私の手が空を斬って、そのまま畳の上に落ちた。どうしてか、その手を放してしまえば、二度と逢えなくなる気がした。
今はまだ、その手は届かない。
「このまま君の何もかもを、白菊の名の下に隠してしまえたら、どんなに幸福だろう」
奥の間へ去った後、俺は小さく言葉をこぼした。きっと、砌はあの日の夜に来訪した神の正体を知っている。正確にいえば、俺もあの神を知っているわけではない。多分、可能性があるというだけで。
あの神は、割と重大な禁忌を犯したらしい。割と、と言葉を濁したのは、それを実行したという前例がないからだ。前例がないから、どれほどの重罪かは誰にも、魄龍にもわからない。アレを天上へもっていけば話は変わるのだろうが、それは魄龍が内密として、この幽世で処理すると報告したらしい。でも、兎にも角にも禁忌である事に、変わりはなかった。
あの神は、今後俺と深い関りを持つことになるのだろう。だから、俺の下に来た。挨拶をしに来ただけなのか、はたまたもっと深い意味があるのかまでは、わからないけれど。
始まりは突然だった。
ある、何ともない日。全ての業務を終え、いきなり来た魄龍の使いの式—名は楓と言うらしい—と砌とのんびり茶を飲む。
「あ、そういえば今日燐も来るらしいよ」
「燐様が?」
「りん?白菊、りんって誰」
砌の目から光が消えた。心成しか茶器にヒビが入ったような鈍い音が聞こえた。
「あ、俺の部下な。式神じゃなくて格が一個下のれっきとした神だから」
「女?」
「燐様は男の性に御座います。従神の契りは結んでいないようですが、相棒の様なお方ですね」
「ならいい」
そういうと、砌は視線を茶器に戻し、茶を飲む。楓と目を合わせ、安心したように微笑み合った。そんな風に、まるで隠居老人のような時間を過ごしていた俺は、うなじに刃物の先端で突かれたような痛みを感じた。
「……ん?」
虫にでも刺されたのかと手を伸ばしてみる。のだが、そもそも俺達は人とは違い虫に刺されることがない為、虫刺されではない事は確かだ。砌がよく虫刺されの被害に遭う為、ずいぶんとこの生活に慣れてきたんだなと感じる。
「どうかしたの?」
「いや、虫に刺されたような気が…いやでも、そんな事在りえないし…?」
「特に問題はないようですね」
「そ?ならいいか」
楓に言われ、気のせいかと湯呑の茶を飲み干し、茶菓子に手を伸ばす。
「お茶のおかわりはいる?」
「そうだね…もう一杯貰うかな」
「わたくしがお湯をお持ちいたします。砌様は白菊様とお待ちください」
「いや、式といえども君は客人だ。俺が行こう」
「あ、ありがと白菊。戸棚におはぎの作り置きがあるよ、どう?」
「お、いいねぇ」
此方に一礼する楓と手を振る砌を横目に、俺は厨へ向かった。
朝の内に作ってくれたらしいおはぎは、割と良く食べる茶菓子の一つだ。砌の手料理は全て美味いのだが、甘味は格別。どうやら俺は甘い物が好きらしい。俺に限らず、式や俺の友神に魄龍、人形を保つ神々は、総じて甘いものが好きだったようだ。そのせいで注文が相次ぐのだが、 元々料理が趣味だったらしく、苦ではないという。砌の料理を食べる事は、今の俺にとっての楽しみの一つでもある。
「今日は多いな。椿さんが来るから奮発してくれたのか」
皿に山盛りになっているそれを持ち、広間へ向かう。
広間へ続く廊下を歩く。だだっ広いこの屋敷は基本俺と砌しかおらず、時々部下の燐が来るくらい。しかも屋敷には膨大かつ強固な結界が何重にも張られている。その中で先ほどまで平和な会話をしていたからだろうか。この時俺は、油断してしまっていた。
次の瞬間。禍々しく重い気が身体に纏わりつき、強い力で横から吹き飛ばされた。咄嗟の事に対応できず、そのまま壁にぶつかり、数部屋を貫通する。
「……っぐ、は……!?」
体中の痛みに息が詰まる。視界に星が散り、頭を上げることができない。
(結界は、結界は如何した…?何故、侵入者…?)
「白菊様ッ!!」
「…り、ん…?なにが、起こって、」
ついさっき会話に出した、数少ない部下の一人である燐が駆け寄ってきた。定刻より早い、が、どうやら禍々しい気配を察知し飛んできてくれたらしい。
「敵襲です、結界が、破壊されましたッ」
「敵…?」
思考が纏まらない。何故神域に敵が来るのか、そもそも敵とは何なのか、今、 一体何が起こっているのか。砌は、無事だろうか。
駄目だ、在りえない事態で頭が空っぽに、
「白菊様!」
乾いた音が、瓦礫まみれの廊下に響く。その後、ゆっくり広がるように頬に痛みが走る。どうやら彼に平手打ちされたらしい、と後から気付いた。
「貴方がしっかりしなければ、式神は全て消滅、砌様も殺されてしまうッ‼」
「………っ?!」
殺す、という言葉に、一気に意識が覚醒した。屋敷も庭も何もかも、家主である自分の霊力があってこそ。俺がしっかりしなければ、全て破壊される。
急いで立ち上がり、術式を展開しつつ、慌てて庭に出る。
「なッ…んだよ、これ…」
色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭は、無残に破壊されていた。木々は折られ、地面は抉られ、池にいるはずの鯉は打ち上げられている。
「白菊様、奴らは彼方に、」
「あっちって…広間⁉」
この時間帯、この辺りの者たちは非番で出払っている。しかも低格の奴らは戦闘慣れしておらず、かつ使える術式も弱い。今、戦えるのは俺と燐のみ。
「ックソが…!」
負傷を霊気で治しつつ、廊下を走る。侵入者の数が多いのか、戦闘慣れしているのか、既に屋敷は壊滅状態。穢れも酷く、並みの者なら失神してしまうだろう。穢れは鬼門側に集中しており、恐らく俺より低格の燐に耐えることはできない。
「燐!お前は裏鬼門側を一掃しろ!」
「そんな、おひとりで⁉」
「戦力は散った方が良い、鬼門側は俺がやる!!」
「…御意」
踵を返す燐と別れ、視界の奥に小さく映る侵入者へ狙いを定める。気配を探知し、近くに砌たちがいないことを確認したうえで、術式をぶっ放す。
「展開、構築…斬!」
三日月型の物体が炎を纏い降り注ぐ。辺りに緊迫感が走ったらしく、野鳥が飛び逃げまわった。ごしゃり、という鈍い音と共に刻まれた相手の部位が、血飛沫と共に廊下に散る。間髪入れずに矢が、或いは槍が、こちらを襲う。しかし、此方とて多少は戦闘慣れしている身。すぐさま飛んできた武器を全て弾き、異空間から取り出した太刀を振り回す。その太刀で、次々に襲い掛かかる遠距離武器を、同じように弾く。
遠戦を掻い潜り、敵陣の中に入る。今までここまでの戦闘はしたことが無く、多少の焦りを感じながらも、砌に危害が加わるかもしれない恐怖心と怒りがこの身を突き動かした。
敵の一体一体が太刀の一撃で沈んでいくほど弱い為、こいつ等は本命ではなく、ただの寄せ集めの集団らしい。それは同時にここには敵の本陣ではないことも意味しており、想定以上の集団で襲ってきたことをも、意味する。
「…殺される覚悟は、出来てんだろうなぁ?」
目前の敵が先に動いた。奴の攻撃を受け流し、今にも己の身体に届かんばかりの穂先を力の限り叩き潰した。鉄が擦れ合う嫌な音が響き渡り、直後に鈍い衝撃が襲う。その勢いを殺さないまま体制を引くし、下から上に刀を振るった。此方から見て左側の相手の肉の間を通り抜け、右側から現れた血に濡れた刀身が、陽の光を反射して輝いている。と同時に水浸しになった布が落ちたような音がした。奴の、武器を振り上げた両腕が斬り落とされた音だ。そのまま流れるように刀身を足に向け滑らせる。朱に染まった銀の刀身が肉の中に沈み、先ほどと同様に引き抜く。噴き出した鮮血が俺の白い狩衣を紅く染め上げた。
「なぁ、目的は何だ?」
そのまま崩れ落ちたそれは、何も言わず此方を睨むだけ。
「誰かに指示されたんだろ?そうじゃなきゃ、お前みてぇな雑魚が俺の領域に来れるはずがない」
未だ、何も答えない。
「…お前、式神か?いや、式神にしては気配が、」
瞬間、視界に煙が広がる。奴が煙幕を利用したらしい。即ち、話す気はないという事だ。
「そっか。もういいよ、お前」
今一度、太刀を振り、煙を斬る。自由になった視界にいたのは、驚いた顔をする奴の姿。
「神刀・陽炎。俺の血肉で作った太刀だ、たかが煙如き敵ではない」
たん、と高く飛躍する。敵が此方を見た瞬間、俺は姿を消した。
—ちりん
太陽を背に、敵の首筋のすぐ上に姿を現す。奴の背に足を着き、そのまま蹴り倒す。どしゃりとうつ伏せに倒れたそれの首に向け刀を振り上げる。
「…覚悟」
構えたまま、真っ直ぐに振り下ろす。首の肉を裂き、そのまま地面ごと抉り取った。びしゃびしゃと溢れ出る紅が、地に紅い水溜まりを作った。
「……はぁ」
「白菊っ!」
「御無事ですか!!」
一通り戦闘が終わった後、物陰から砌と椿さんが声をかけてきた。どうやら、咄嗟に椿さんが結界を張って砌を守ってくれていたらしい。
「椿さん、砌ッ!無事だったのか、良かった」
「何が起こってるの、っ⁈」
この場の惨状を見た砌が顔色を変えた。そうだ、達観しているとはいえ、砌はまだ子ども。この現状を見るにはいささか幼すぎる。
「…こっちは俺がどうにかする。椿さん、申し訳ないが砌を連れて逃げてくれ」
「んなっ…なりません白菊様!わたくしも、」
「頼む。砌は人の子、成す術はない」
「…わ、私は大丈夫だから、一緒に、」
「何を言っている!…椿さん、裏鬼門側、離れに燐が居る!」
二人に背を向け、今一度刀を構える。先ほどの戦闘で敵を切り伏せた事を嘲笑うかのように、次々と奴らは姿を現してきていた。俺一人が二人を守りつつ突っ込んだところで、全員が無駄死にに終わるのは明らかであった。いくら俺が神とは言え、恐らく奴らの殿は俺よりも格上だろう。先ほど倒した奴らは、全て“神格を持った式神”だった。式神に神格を与えるなんて、上位格にしか為せない。
その事実に加え、久しぶりの戦闘で疲れたのか、腕は少し重い。しかし動かせない程でもない。霊力を循環してしまえばすぐに回復するだろう。戦う術を持つ己がこの場に残るのは、もはや定めと言っても過言ではない。
「殿は、恐らくあの有象無象共の奥。数の暴力でどうにかする気だろうが、お前らが逃げる時間位は稼げるさ」
「白菊、様?この場において殿を務める事が何を意味するのか、お分かりでないのですか!」
この中で唯一場の状況を理解できるのは俺と椿さんの二人。砌は戦場とは無縁の山奥の田舎で育ってきて、今の今まで平和な俺の神域で育ってきた。その為、未だ何が起きているのか理解できていないらしい。
敵の数は、今目に見えているだけで五十を超える。これに加え殿もいるとなると、骨が折れそうだ。流石の俺でも、今の状況が不利だと言うことは理解できる。三人全員此処に留まったまま生き残るのは、苦しいかもしれない。
「…俺は、戦う術を持たぬ砌と戦えるよう設定されていない椿さんを守りながら戦える程、強くはない」
「ば、馬鹿を言わないでよ!邪魔にはならないから、此処に、」
「—砌様、失礼致します」
椿さんが砌に簡易拘束の術をかけた。身動きが取れず結晶玉の中に封じられた砌は、内側から結晶をドンドンと叩いている。
『ま、待って、分かったから!逃げるから、っせめてこれだけでもっ!』
そういい、砌は自身の手を噛んだ。結晶体の中に血が混じり、血を穢れと判断した結晶が外に放出する。放出された血液は偶然にも割れた盃の破片に落ち、その液体を揺らした。
「…はは、人の子に心配されるなんて、神様失格だな」
彼女の想いを無下にするわけにはいかない。破片を手に持ち、数滴分の血液を飲み干す。途端に身体が暖まり、気分が高揚する。
(これが、砌の気か……低格を上位格にするという話は本当だったんだな)
とはいえ、俺は血液をたったの数滴しか摂取していない。上昇したのは格ではなく、術式の練度と体力に霊力だ。
「……白菊様、お先に離れでお待ちしております——御武運を」
「嗚呼——砌を頼む」
二人の気配が遠くなる。俺が、俺だけが戦場に一人、取り残された。敵に隙を見せないように前を向き続けている為、砌を見送る事ができなかった。それを惜しく思いながら、俺は先程の返り血を拭う。
こいつ等の狙いは一つ。稀で多量の気を持つ砌だろう。どこかで俺が贄を喰わなかったという情報が洩れ、かつ砌の気の話も漏れたのだろう。
「——ここから先は、一歩も通さねぇよ」
刀を構える。術式を構築する。首に向けて構える。
斬って、斬って、斬る。俺がどうなったって構わない。ただ、砌を守れさえすれば、それでいい。
————————————
逃げた先に、黒地に赤い蝶の刺繍が施された着物を着た男性が、白菊が対峙していた奴らに似たナニカと戦っている姿があった。
「燐様」
椿さんが声をかける。どうやら彼こそが、白菊の言っていた部下の燐さんらしい。
「っ⁈椿殿、砌様‼御無事でしたか!」
「燐様、これは一体どういう状況です?結界が崩壊するなど、在りえていいわけが、」
「前代未聞の事は、前例がないだけでいつでも起こりえる事。それに。襲撃を受けたのは白菊邸だけでは御座いませぬ!」
『は?』
燐さんが手を空へ掲げると、一匹の烏が姿を現した。その烏の足には、大き目の文が結ばれている。
椿さんがそれを受け取って、燐さんはそのまま戦闘に戻った。
「んな…っ」
『何が、書かれているんですか…?』
そこに書かれていたのは、襲撃されたのは燐さんの言う通り此処だけじゃないという事。もともと家主の霊力で守られている神域は、家主が許可をした者以外は出入りができないようになっているはずなのに、何故かその機能が動いていないという事。上層部でも同じようなことが起きており、この辺りのまとめ役の方の御屋敷にも来ているらしい。
「…恐らく、上位格に裏切者がいるらしい、ですね」
『え、それって…』
「椿殿!あと少しで片付きます、手を貸して頂けませぬか!」
「はっ。砌様、この結晶は決して壊れません。ので、目を瞑ってお待ち下さい」
そこから、私は言われた通りに目を瞑っていたから、何が起こったのかは分からない。ただ、時々鈍い音がしたり、痛々しい二人の声が聞こえたりして、生きている心地がしなかった。戦争なんて無縁な時代に生きた私にとっては、ただただすべてがショッキングな映像に見えて仕方がなかった。そして、守られてばかりの自分に、何もできない癖に怒りを感じた。
「展開、構築……包囲」
「展開、構築……掃射ッ!!」
最後に、二人が声を合わせて何かをした。恐らくあれが、術式と言うものなのだろう。椿さんが敵の周りに結界を張り、燐さんが結界内に沢山の大きな炎の玉を放つ。勝利は、確実だった。
「終わりました。只今開放致します、砌様」
カシャン
乾いた音がして内臓が浮くような感覚の後、地に足を着けた。三半規管が乱れたんだろう、少しふらふらする。
「…申し訳ない…もっと早く到着していれば」
「燐様の所為では御座いません……御館様に確認を取りますので、砌様を」
私が子どもだからなのか、生死にかかわる戦いを知らないからなのか、それとも人間だからなのか。何を話しているのか、理解できない。そして、さっきの地に濡れた白菊の姿が頭から離れない。
—もしかしたら、今、もう、
「し、んで、」
「るわけがないでしょう」
最悪だ。最悪の結末を考えてしまった。近づいてきた燐さんがすかさず否定してきてくれたおかげで、意識が覚醒してくる。
ここは、離れ。母屋から見て裏鬼門側にあって、私でも滅多に足を運ぶことは無い。状況から察するに、鬼門側を白菊が、裏鬼門側を燐さんが対処していて、鬼門側に敵が集中していたのだろう。燐さんは白菊よりも低格だと聞く。実力差もあるが為の判断なのだろう。
「大丈夫。白菊様はお強い方だ、安心なさい」
「そ、うですよね、大丈夫……」
安心させるかのように頭を撫でてくれる燐さんの手が、微かに震えていた。さっき椿さんが言ったように、前代未聞の事なのだろう。そんな前例がない事態の時に人間である私が直面してしまった所為で、皆に心労をかけてしまった。慰めてくれる手と言葉が、今の私にとっては苦痛でしかなかった。
「そもそも、我々神には消滅か荒魂神に堕ちるかしかありませんから」
「…どう、いう……?」
「簡単です。我々を形作るは人の心。白菊様を想う人が一人でもいれば大丈夫です」
すん、と小さく鼻を鳴らす。わずかに香る炎の匂いと優しいばかりの手付きが、どことなく愛おしい人と同じであるような気がした。
「燐様。御館様から通達が」
「お上は、なんと?」
「…やはり、上位格に裏切りの疑いがある者がいるそうです。御館様によれば、此度の襲撃における殿は……蟲毒によるもの」
蟲毒。その言葉には、聞き覚えがあった。私の村にもあった、最上級のまじないの一つ。多くの虫を使って、一つの強力な呪いを作るものだと記憶している。
「ですが、奴らのそれは蟲毒などよりも強力ではなかったか?」
「えぇ……なので、此度の蟲毒で使用されたのは、虫では御座いません」
「…子ども」
燐さんの呟きに、椿さんは是と答えた。虫を使う蟲毒も恐ろしいというのに、人の子どもを使うなんて、おぞましすぎて考えたくもない。恐怖で潤んだ眼を、着物の袖で乱暴に拭った。
「それで、奴らの目的は、」
「…私、ですか」
「……左様でございます」
低格を上位格にする気を持つ私を、何故上位格に座する方が欲するのだろう。もう上位にいるのだからいいじゃないか。なんで関係のない白菊を巻き込んだんだろう。なんでこんな大事にする必要があったのだろう。上位格ならば、白菊に命ずれば断れないだろうに。
子供であり人の子である私には、やっぱりどうしても理解できなかった。
「暫くとはいえ、戦闘慣れしている白菊様に蟲毒を向かわせたという事は、」
「まるで消耗戦を挑まれているかのようです」
「…白菊様の傍に仕えさせて頂いてから早数百年。あのお方は、長期戦を好まない」
「増援が来るまで、耐えるしかないようですね…」
消耗戦。消耗するとすれば、それは白菊の霊力と体力。私の血で多少は賄えたと思いたいが、人身御供にも似た呪い相手ならばそれでも足りないだろう。何を、消耗させる気なのか。
—考えろ、考えろ、考えろ
それしか出来ないんだから。私には、守ってもらうことしか出来ないんだから。せめて、相手の意向くらいは……
『これは、炎。名誉も栄華も地位も名声も、この身さえも焼き尽くしてしまう恐ろしい光』
「あ…」
「砌様?如何なさいました?」
「分かった、気がします。相手が、何故ここまで大がかりに侵攻してくるのか…」
「なんと!」
狙いは私。あの時贄に選ばれた時点で、恐らく問われているのは生死でなく霊力の宿るこの肉体。この戦闘に巻き込まれて死んだとて、この身さえ無事なら相手はそれで構わないはず。でも、私を家族のように大切に思ってくれている白菊が、それを許さないだろう。私を奪う事を目的とする奴らにとって、白菊は邪魔でしかない。が、戦闘慣れしている彼を退ける事は難しい。ならば、屋敷を破壊したらどうだろう。瓦礫の山をそこら中に作れば、炎を司る白菊は動きが鈍くなる。一つでも瓦礫の山に火が付けば、大火事どころの話ではなくなるからだ。そうすれば、私を守ってくれる白菊は、きっと本領発揮できず肉弾戦に持ち込まれる。
「多分、白菊は肉弾戦でも強くて、その上私の血を摂取してるから、きっと奴らにとって脅威であることに変わりはないと思います。でも、」
「そうですね…このまま白菊様に炎を使わせるより、屋敷を潰していった方が得策ではある」
戦いが常であったわけではないが、人の醜い側面や今回のような事態をよく知る彼らにとって、この戦いを終わらせる為に必要な事は、もう分かっているんだと思う。でも、きっと私に気を使ってくれているから、言わないだけなんだ。
「私が、相手のもとに下れば、終わりますか」
「な、なにを仰います砌様⁉」
「砌様が御身を捧げる必要は御座いません。我々が対処を、」
「じゃあどうするって言うんですかッ!!」
「ッ砌様…」
思えば、己の命を差し出すのは、彼らが生きてきた時代では一つの手段として当たり前だったのだろう。でも、自分が死ぬことが分かっている上で実行する事ができる人間など、そうそういない。学校の歴史の授業でだって、戦いを終わらせるために自らの命を差し出した武将はそんなに多くなかった気がする。
—あんなに生意気な事を言っておきながら、白菊から貰った根付を握るこの手は、こんなにも震えている。
鈴を鳴らす。混沌とした場に、凛とした音が響く。
ちりん、ちりん——……
白菊は姿を現さない。あの人の声も、聞こえない。それでもこれを鳴らすのは、魔を除ける為でもなく、顔も名前も知らない神の来訪を待っているわけでもなくて。優しくて過保護で、なんだかんだいつもそばにいてくれた、一柱の神様の無事を祈る為に。
(白菊……)
私が貴方の枷になるくらいなら、私は——。
「奴らの目的が私ならば、原因の私が消えれば、終わる——」
「その必要はない」
場を鎮めるように、玲瓏たる声が聞こえた。その声の主が現れた瞬間、燐さんと椿さんの二人から、悲鳴にも似た声が響く。何事かと振り返ろうとすれば、頭—正確には脳内—に小さな衝撃が走った。来訪した者の姿を見る事は、叶わなかった。
「済まぬな。遅れてしまった」
最後に見えたのは、一斉に敵へと斬りかかっていく、赤い狩衣を纏った集団の後姿。その奥には、鬱陶しい位に澄んだ青空が広がっていた。
(平家物語の、禿みたい……)
そんな現実逃避を、しながら、やってきた眠気に従う。
——暗転。
————————————
ぼとりと音を立て、首が落ちる。辺りには屍と瓦礫が無数に積み上がり、すでに足の踏み場はない。それでも両足が動くのは、砌の血液のおかげであろうか。
「はぁ、はぁ、はっ……!」
炎を使わずに刀を振るい続けて、一体どれだけの時間が経ったろうか。俺がこの場でむやみに術式を使えば、砌を巻き込みかねない。奴らはそれを知ってか知らずか、少しでも火の元があれば燃える様、材木をそこら中にまき散らしてくれている。
—砌は、無事に逃げ果せただろうか。
こんな局面でも、脳裏に浮かぶのはあの子の笑顔。俺があの日、自分でも酷いと思うほど手荒く振ったのにも関わらず、一途に俺を想ってくれるあの子。
(こんな事になるなら、素直に言っときゃ良かったかな)
まだ足は動く。まだ霊力は底をついていない。思考も正常。肉体は欠損こそ激しいが、そんなもの治してしまえばいい。武器である陽炎もまた同じ。
—さっさと終えて砌の所に戻って、安心させてやらなきゃな。
それだけで十分、戦い続ける理由になる。
「がっ…!」
相手が、隙となった俺の背を斬った。いつの間に背後へ回っていたのだろう。それさえも気付けぬほど、俺は消耗しきってしまっていた。
「っ吹き飛べ……炎壁!!」
炎の壁を作り、熱風で敵を弾く。立ち上がり辺りを見渡せば、既に雲隠れした敵がそこらに散っている。その屍の奥、今いる場所よりも鬼門側から、重く鈍い音を響かせ、己の存在を主張するように殺気を撒き散らす真っ黒な霧を纏った巨体が現れた。
「っぱりか……蟲毒と人身御供を同時に使うなんぞ、悪趣味な…」
その上、格をも与えてしまうなんて、どれだけ欲深いのか。
その巨体は、驚くほど大きな太刀を掲げていた。まるで、熱田の神宮に捧げられた神刀のようだと思った。まぁ熱田の主神様の方が格上すぎて実物は見たことないんだが。
だが、武器の大きさなど関係ない。むしろ獲物は大きければ大きい程、隙が生まれやすい為、有難い。
「…ん…?」
構えを解いた。ただ、真っ直ぐと蟲毒を凝視する。
——無数の子どもの声が、聞こえたその後ろには、ごうごうと燃え盛る炎の音が響いている。地獄の底で叫ぶ怨念の声が、聞こえる。
蟲毒の漆黒の瞳の中に、小さな手が見えた気がした。その手が此方に伸びてきて、その瞳の中に引きずり込まれてしまう気さえする。きっと、蟲毒の使う術式の所為なのだろう。人の子である砌を愛おしく思う俺の弱みに付け込んだ、誘惑の為の。
——本当か?
蟲毒に使われるのは、基本十歳に満たぬ子ども。人身御供に使われるのは、基本純情で純白な少女。十二であったが、あの時の砌と同じ年の頃。
—蟲毒の正体はなんだ?
それは、蟲毒によって犠牲となった少女たち。
—蟲毒とは、なんだ?
それは、対象者を呪う為に作られる、命を蔑ろにする呪具。
—何故、奴らは砌を狙う?
それは、彼女が上質な、上質すぎる気を持っているから。
—奴らの正体は、蟲毒で使用された子らの正体はなんだ?奴は何を望むのか。
それは、砌を奪う事。奴らの主の命に従い、俺を討ち、燐を、椿さんを殺す事。
——本当に?
声が聞こえる。深淵の淵からずるずると這い出でて、地上に助けを求める声だ。まだあどけなさの残る、鈴を転がしたような幼い声。
「…おいで。其方の水は汚く苦い。しかし、此方の水は清く甘い」
刀を振り上げる。刃が肉を裂くいやな音がした。昔から、この音は嫌いだ。
血に濡れた大地を踏みつぶして立つ。空を睨み、邪気に包まれたそれを斬る。低格とは言え、神である己が、地に伏せるわけにはいかない。
「砌は、俺が守る。なんとしてでも、守り抜かねばならない」
蟲毒は佇むだけで、一向に動く気配はない。むしろ、此方を見守っているようにも見える。
「言えないよ、こんな事。あの子の想いがどうであろうと、俺達は釣り合わない。俺はあの子の傍には居られない。それが世の理だ」
瞳を閉じれば。先ほどまでの談笑する姿が目に浮かぶ。数百年生きてきたというのに、今の俺が思い出せるのは砌の笑顔のみ。
「あの子の人生は、あの子のものだ。俺なんかが歪めていいものではない。あの子は、俺が助けたから、俺を命の恩人だと思ってくれているから、好いてくれているだけだ」
柄を力の限り両手で握り締める。獣のように睨み、荒い息を吐き出しながら、胸の内で暴れる本能的な感情に終止符を打つように、一歩を踏み出す。
「恨んでくれていいよ。憎んでくれていいよ。君達には、その権利が—」
「—そこまでだ」
声をした方を振り向けば、雑面の下で鬼のような形相をした、黒に金糸で龍の模様があしらわれた狩衣を着た男が立っていた。
「魄龍…ッ⁉」
「待たせたな……今は、白菊と名乗って居るのだったか」
「どうして、此処に」
「鈴の音が聞こえた故」
「…砌の根付か」
上位格に座する魄龍とは、そもそも話す機会が少しもない。それでも、今回のように度々使者を送ってきては文通する様な仲ではある。が、まさか砌とは縁がないはずなのに、それでも音を察知してくるとは、流石上位格様だ。
「何故止めた、魄龍。あれは、」
「分かっている。あの蟲毒はお前の贄——砌の村の産土によるものなのだろう?」
魄龍の言う通りだった。俺は、あの蟲毒の霊気に心覚えがあった。
あの瘴気にまみれた霊気は、砌を池で拾った時に微かに感じた、それだ。
「今更、砌を返せってか?」
「嗚呼、今我の部下たちが詳しく聞き出している最中だがな。天上に行かれる前に気付けただけ、良しとしよう」
産土神は、その土地の住民が長く長く信仰している為、上位格である事が多い。それは、砌の村を担当である産土神も、例外でない。そして、後から上質な気を持っている事を知った産土は、その立場をより強固にする為に砌の居るこの屋敷に侵攻したという事だ。
「あの蟲毒、砌の村の子たちか……」
「そうだな。砌の気が高い故、同じ村の者なら、と考えたのだろうな」
今は魄龍により拘束されたそれは、素直に動かずに此方の様子を伺っている。
「…これは、我が預かろう。安心しろ、浄化し然るべき処置をとる」
「嗚呼、頼んだよ。なぁ、砌は無事だな?」
「霊力探知をされぬよう先程意識を飛ばしたがな。今は我の屋敷で眠って居る」
「ほぉ」
「なんだその顔は。意識を刈り取っただけで髪の毛一本たりとも触れさせておらぬ」
「お前は?」
「戯け。椿に運ばせた故、我とて触れておらぬわ」
良くも悪くも世は無情で、何をせずとも月は欠け、時は過ぎ、季節は巡る。無惨にも進む物事に、取り残されぬように縋りつく。瞬きの間に移り変わるその事実の、なんと残酷で、美しい事か。
此度の戦いで得られた情報の中に、神職の一族でない砌が何故贄に選ばれたのかがあった。
あの子は、陶器の様な真っ白な肌に雪の様な銀糸の髪を持つ。まるで外ツ国の人のような容姿をする彼女は、俺は美しいと思った。それこそ、俺の名の由来となった白菊の花のようだとも。それは俺だけでなく、燐を含む他の神々もそう思っているという噂を聞いている。
でも、人の子と神とではやはり価値観に違いが生じるらしい。砌は村でそれはそれは酷い扱いを受けていたそうで、口減らしの意味で贄に選ばれたという。
音をたてないよう、静かに扉に手を掛ける。崩壊した屋敷は、あの後魄龍と燐が再建してくれた。いわば新築の為、引き戸は軽やかに動いた。少しずつ大きくなっていく隙間から日差しが差し込んできて、思わず瞼を閉じた。大きく息を吸い、大きく息を吐く。呼吸をする度に体内の空気が新鮮なものに入れ替わり、体が内側から洗われていくのが分かった。
「お目覚めですか。朝餉をお持ち致しましたが」
「燐か…入れ」
まだ早朝だったようで、未だ小鳥の囀りは聞こえず、日差しといえどもまだ少し暗かった。まだ覚醒しきっていない意識に鞭を打つかのように冷え切った空気が頬を撫でる。つい一週間ほど前、蟲毒と戦っていたとは思えぬ程穏やかで、いっそ恐ろしい程心地いい朝だった。
「……砌は、起きてるか?」
「いいえ。やはり、堪えているのかと」
「…そうか」
あの後。魄龍邸に砌を迎えに行った時、未だ彼女の目は覚めていなかった。式達の制止を無視して床に眠る彼女を抱き上げた時、その場に崩れ落ちるかと思ったのを、昨日の様に覚えている。彼女の無事は目に見えて分かって、魄龍の術式で眠っているのは分かっていた。だから、どれだけ声をかけても目を覚まさないのは当たり前の事だったのに、酷く取り乱してしまった。
妙に重かった。物理的に重いわけではなくて、命が重かった。力が抜けていて、腕にじっとりと重みを感じた。何百年も生きる中で、何人もの死人を見てきた。人の子の儚さと脆さは、重々承知しているつもりだった。少し触れただけで崩れてしまう程、人の子は酷く弱いという事も知っている。それでも、あの日、初めて命の重みに圧し潰されそうになった。否、きっと圧し潰されてしまっていた。初めてちゃんと、命と向き合った気がする。氷の様に、言ってしまえば氷よりも冷たいかのように見える白い肌に感じる確かな温もりに、安心すると同時に恐怖した。
—もしあの時、蟲毒の思惑に気付かなかったとしたら。
俺があの時、迷わず炎を使ったならば、きっと己の炎で彼女を焼き殺してしまっていただろう。自分の力なら、こんなか弱い子どもなど一瞬で葬り去る事が可能だ。それを、身をもって知らされた気分だった。
「本当に、生き残れたんだな」
「白菊様はお強いですから。砌様も、椿殿が命を賭して守って下さいましたし」
「そうか、椿さんにも、礼を言いに行かなきゃな」
朝起きて、飯を食べて、仕事をして、休憩をして、散歩をして、寝る。砌もいつものように話しかけてくるし、冗談も言ってくる。以前と同じ、幸せな空間が戻ってきた。
でも、砌はどことなく遠慮がちな気がする。傍から見ればいつも通りな俺達だが、俺はその違いが分かった。でも、それが何だと確定する要素もなく、解決する道さえ見えない。そんな状態で彼女の居る母屋に住めるわけもなく、俺は今離れに住んでいる。砌本人は酷く抵抗して、「せめて私が離れに」と言ってきたが断った。
「白菊様、燐様。砌様がお呼びです」
「砌様が?」
「お手数ですが、母屋まで」
「構わないがなぁ…」
枕もとの雑面を付けながら、少しの不安を感じた。会い辛い、と思いつつも、今会わねばならぬと思った。何故かと問われても、多分答えは出せない。でも、これを逃せば本当に彼女を失うと、何か取り返しの付かない事が、起こるのではないかと。
母屋に赴けば、驚く程に綺麗で驚いた。本当に、語彙力がなくなる程驚いた。
「……塵一つ御座いませんな…」
「嗚呼……」
「御館様の御屋敷より綺麗ですね……」
「嗚呼……」
「白菊様?」
「嗚呼……」
「駄目ですね此れ」
俺が、教えたんだ。この屋敷は俺の神域そのもの。掃除と言うのは神域では基本で、神社でも時間さえあれば掃除をして、社を美しく保つ。一般的な家庭でも年末には大掃除をして、一年の汚れを祓い新年に歳神を迎える儀式とする。それくらいに大切な事だから、決して怠ってはいけない、と。いつもは俺がやっていたのだが、仕事の都合上どうしてもできないことがある。だから半分押し付ける様な形になってしまった。
(なのに、やってくれてるんだ……嫌われたと思ってたのに)
「砌様、燐様と白菊様がおいでです」
「…お願い、します」
椿さんが声をかけて障子を開ければ、下座に座る砌がいた。彼女は静かに手を上座に向け、此方に座る様に促した。
「…どうしたの。砌が俺を呼ぶなんて珍しいね」
「…おはぎ、作っといたから、一緒に食べたいと思って」
砌の出した皿の上には、これでもかと言う程、おはぎが乗っていた。促されるままに、軽く手を合わせて頬張る。上品な甘さと、もっちりとした食感。神々の御心に留まるのも頷ける一品だ。
「美味いな」
「…そう」
「嗚呼、甘味処で売ってんのが可哀想に思うくらいだ」
砌の向かいにいる二人は、此方の様子を伺いつつがっついている。俺だからいいものの、普通なら軽く首が飛ぶくらいには失礼だ。
ふと、外の庭に目をやる。鬱陶しい程に蒼く澄んだ空だった。その空へ意識を集め、目を閉じる。
閉じた瞳に映ったのは、紅に濡れた白銀の糸。その顔は安らかなもので、誰に断るわけもなくたった一人で事切れていた。それが、最期だったらしい。
「白菊?どうしたの、美味しくない?」
「いえ、そのようなことは御座いませんよ。如何なさいました、白菊様?」
やった事に後悔も未練もない。ただ、傍にいてやれない事だけが気掛かりで。そんな俺じゃない俺の心残りの所為で、還り道を閉ざし魂を留め遺してしまった。鮮明で、それでいて混濁した思考の中、思い浮かぶのは疑問だけ。
——どうしてですか。何故、そこまでするんですか。
この子の為に、全てを悟ったあの日から選択してきたのに。自分の心を、全てを捨てても良かった。貴女が生きていてくれるのならば、それで良いと。
自分の想いに蓋をして隠して、ただの保護者であり続けた。心を開かず、最低限の冗談くらいは受け流してやり過ごしてきた。愛を囁かれようと、傍に付き添ってくれようと、全部受け流して、愛着すら湧かぬ様に、「勘違いだったんだ」と思ってもらえるように。
なのに。
——何故、そこまで想ってくれるんですか。
ずっと、全部知った時からずっと、蓋をして、偽って、どうにかして離れてもらおうとしていたのに、どうしても求めてしまう。彼女の心が俺に向くように、祈ってしまう。
——もう、駄目なのか。遅いのか。変えられないのか?
じわじわと赤は広がっていく。その中にいるあの方は少しも動かない。穏やかな顔で、日の光に照らされて気持ちよさそうに眠っている。そよ風に吹かれ、銀糸が揺れる度、同じように紅も揺れる。
——言えないよ。君の想いは受け入れられない。受け入れては、いけないんだ。
それなのにもう、道は分かれたのか。後戻りは、出来ないというのか。俺にできる事は全てやったつもりだ。それなのに、どうして変えられない?
——それが、定められた、覆せない理だからなのか。
駄目だと分かっても、俺が君を想ってしまう様に、
結末を知ってもなお、貴女は俺を想ってしまうのか。
——嗚呼、そんなの
「白、菊?」
「砌」
目を開けて見上げた空は、相も変わらず馬鹿みたいに遠くて、憎らしい程に蒼い。穢れを知らぬ、世の黒く濁った部分を知らぬ、まるで他人事だとでも言う様に。
「明日が、お前の誕生日だな」
「…そうだけど、どうしたの?」
「なら、明日の朝一。魄龍邸に行ってくれ」
冷たく、突き放すように言う。明日に成れば、互いに赤の他人となるのだとでも言う様に。この屋敷、俺の神域から出ていけとでも言う様に。なのに、
「…ん、でも、まだ諦めてないんだからね」
——不幸になるだけで、何の得にも成りはしないというのに。
「人の子よ。現世に戻るか、幽世に留まるか。その心は定まったか」
私の十六の誕生日。昨日、白菊に言われた通り、私はここらを取り締まる神—魄龍と言うらしい—の下へ来ていた。流石は長といったところだ、白菊の神域より広く、美しく、そして空気が澄んでいる。
「…ここまで来てしまったのなら、もう戻れないと聞きました。ここで発した決断が、私の人生を左右し、二度と取り下げられないものとなるとも。そうであれば、話せない理由はありますか?」
「…どういう意味だ」
「意味も何も、何か、隠してらっしゃるでしょう?」
一呼吸置き、魄龍様は口を開いた。その面持ちは、酷く辛そうな、酷く痛そうな顔だった。流石親友と言うべきか、その顔はかつての白菊と似ていた。
「……現世に戻るのならお主から、幽世に留まるのなら白菊から。どちらかの記憶が消える。もしお主があれから何か贈られたのならば、それさえ消えてしまうだろう」
その言葉が、静かにこの身に落ち着いた。心のどこかで、分かっていた結末だった。
「…まぁ、そうでしょうね…そんなに簡単な事じゃないだろうし…」
「お主は、白菊との記憶がそんなにも大切なのか……なれば、白菊と魂結びをするか、眷属に成ればよかろうに。神と人の子では、どうしても釣り合わん」
「…ばぁか。釣り合う釣り合わないじゃないの」
私は、一呼吸おいて言った。此奴にあったら、絶対に言ってやろうと思っていた言葉だ。神様じゃきっと、この気持ちは理解できないだろうから。
「それじゃ、対等じゃなきゃ、彼を愛しきれないじゃない」
主従じゃ、その想いは偽りになってしまうだろうから。対等な立場で、彼と向き合いたいから。
「は、」
魄龍様は、言葉を失った様に口を開いて固まった。その隙を逃さず、すかさず伝える。
「私は、現世を捨てる。幽世に、留まります」
前々から、決めていた事だ。現世より、家族よりも私は、少しでも白菊と過ごせる可能性を取る、と。
「っま、待て、良いのか?人から神に成る場合、大半が末席に成り下がるか、荒魂神となり呪いと化す。人が神にのし上がるとは、そういう事だ。それは白菊よりもはるかに下、決して会う事の叶わぬ存在になるぞ」
知っている。と言うか、そもそも人の子が上位格に収まれるなんて考えてすらいない。けれど、巷では式神と結婚した神がいるくらいだ、どんな位になったって、さほど問題ではない。それに、私を喰えば上位格に成れるというのであれば、そんな私が末席になる可能性の方が、低いだろう。
「それでも、この想いさえあれば、私は彼のもとに行ける。先日だって、守られてはいたけれど、生き延びた。きっと今回も上手くいく。上手く、やって見せる」
「お主…しかし、だからと言って、」
「私、思うの」
「……何?」
「…一度ね、白菊の御屋敷に、禁忌を犯した上位格が来たらしいんです」
「んな…っ」
魄龍様は、何かに気付いたように言葉を詰まらせる。外では、私が死んだときと同じ、雪がさんさんと降っていた。その真っ白なスクリーンみたいな景色の中に、ぼんやりと人影が見えた気がした。
「神成ってことはさ、人間としての私は死ぬんでしょ?この身を繋いだのは白菊だ。白菊がいなければ、今の私はない。その恩を、私が神成して、彼の傍にいて、返したい」
如何か、如何か届いて欲しい。この想いを、彼の友神である、多くの星々の輝きと消失を見つめてきたであろう、この方に。
魄龍は、少し考えるそぶりを見せ、言った。
「お主、気付いて、おったのか」
「…魄龍様も?」
「嗚呼…気付いておるのならば、尚更何故、神成する?結末は、分かって居ろうに」
私自身にとって、此処にいる理由はさほど重要ではなかった。長い夜が明けて、恋が終わるのを待っていた。その待ち時間で、知った。彼の視線の先には誰かがいる。いつからかは分からないけれど。庭先を見る時に。手紙を読む時に。そして、私の中に。私の中に、確かに“彼女”がいる。
「花は散り、夢は覚め、露は落ちる。なぜなら、そういう運命だからです」
「…嗚呼」
「だから、きっと何をしても無駄なんでしょう。分かってます」
「分かっているのなら、何故、」
「抗ってみたいんですよ。ほんの少しでいいから。それでも駄目なら、受け入れるから。少しでいいから、夢を見たいんです」
それは、いつも見ていた夢。または、選ばれなかった方の未来。或いは、数多に分かれた道の先にあった、忘れ去られた可能性。それを捨てるくらいなら、拾い上げて試したい。人とは、そういうものではないだろうか。
「………承知した。成れば、社内で湯汲をせよ」
「…禊、ってこと?」
「嗚呼。お主かそこまで言うのならば、許可しよう。その代わり…」
「分かってる。格の事はどんなものになろうと文句なしよ」
「いや、そうではなく……」
魄龍様はそこで押し黙った。しかし、ここで話しているのも時間の無駄だと考え、私はさっさと言われた湯汲をしに行った。魄龍様の言いかけたこと、少しだけ心当たりがある。けれど、もう決めた事。結末がどうなろうと、全て受け入れる心づもりだ。
言われた場所まで移動する時、また同じ視線を感じた。しかしその先には誰も居ない。誰も居ないけど、誰かがいる。あの時と同じ、そして先の儀式に感じた気配と同じもの。
「阻止しに、来たの?」
無。
「何か、言いに来たの?」
無。
「失敗、しちゃう?」
無。
「…後悔、してる?」
無。
「ねぇ、会えるよね」
さぁっと、小雪が散った。それが、答えだ。
「…行ってきます」
最初で最後の、賭けに出よう。
あの時と同じ、神社の中で湯汲をして身体を清める。その後は神社の中のご神体に向かって正座し、目を瞑って祈りを捧げた。しばらくすると障子の木を叩く音が聞こえてきた。
「もし、ご準備は済まされましたか」
「はい、大丈夫です」
この屋敷に仕える式神が、私を外へ連れ出した。
廊下を歩いている時、あの屋敷と似通った構造を見れば、彼との生活が脳裏に浮かんでは消えた。
愛おしくて、懐かしくて、残酷な、まるで美しい歌集の中にいるような。何より大切で、何より幸せなあの日々。
如何したら、守れる?私はあの手を、あの、暖かく大きな手を、如何したら離さずにいられるだろう。
さんさんと降りしきる雪の中、あの屋敷の姿を思い出す。冬の輝く深い光が、屋敷に居る神様に纏って、きらきらと煌めく氷華の結晶に包まれたその一角が、まるで世界に、全てに見放された不可侵の聖域であるかのように思えてならなかった。事実、そこは神域で、基本は主神である白菊以外の者の侵入は禁止されている。そして、人間である私はきっと、そこに居座る権利などなかったように感じる。なのに、彼のご厚意で住まわせてもらえた。この決断は、これから先も私が彼の傍にあるために、必要不可欠なものなのだろう。
本当なら、高校に通っているはずの年齢だ。私は、高校生になったら上京して、都会の学校に進学する予定だった。いち早くあの狂った村から、狂った村人から離れてしまいたかったからだ。それでも、此処に留まれたのなら、愛しい人といられて、大嫌いなあの村にも帰らなくて済む。どちらに転んだって、自分のエゴから生まれた判断には違いなかった。
「もし、砌様」
ふいに、式神が私に声をかけた。感情の無いAIの様な、真っ直ぐな声だ。
「はい、何でしょうか?」
「その名は、砌と言う御名は、ご自分で?それとも、白菊様が?」
「自分で、付けました。彼、他人に付けてもらうなって言ってたので」
「左様で」
そういい、式神は袖で口元を隠し笑った。しかし、魄龍様が余計な設定をしていないからだろう。その瞳は真っ黒で、感情を読み取ることができない。
「何か、良くない意味でもあったでしょうか」
「いいえ、いいえ」
その方の話によれば、「みぎり」と言う言葉は平安時代頃から存在し、その頃は「水限」と書いたと言う。そしてその意味は、「雨滴の落ちる際」「頃合」そして、「場所」。
「砌様はお優しい方だ。もし白菊様が雨粒のように地へ堕ちて行ってしまわれたのなら、きっと優しく受け止め、そうして陽の光とともに空へ返して下さる」
ほほほ、と笑い、私の頭をぎこちない動きで撫でた。
「どうか、白菊様の帰るべき場所におなりになって下さい。砌様という仲間がいて、砌様の傍という場所があるから、あの方は存在できるのです」
話によれば、白菊の友神である魄龍は上位格の為になかなか会うことができないのだそうで、贄も百年に一度きり。ずっと一人ぼっちだったのを、式神たちも心配していたようだった。
井戸端会議をしていた時も、同じような話を聞いた。やっぱり彼は、みんなから愛される存在なんだ、と再確認する。でも私は、その中の一人で居たくない。私は、私しかできないやり方で、彼を愛したい。
「さぁ、こちらです。左の鳥居をくぐり、楼門をお通り下さい。そこにある池にその御身を投げれば、人の器を捨て、神と成る」
指示通り、左の鳥居をくぐる。すると目の前に、大きな楼門が現れた。京都の神社を思わせるような、豪華な造りをしている。私は、その扉に縋るように両手を伸ばした。そのまま、ぎぎぎと重い扉を押す。そこには、それは大きな池が存在していた。あの村の池なんか、比べ物にならない。
—ずっと、貴方に言いたいことがあるんだ。言えなかったことが、あるんだ。
貴方に出会えた事で、私の世界は変わった。あんなに蒼い空も、華やかな色も、知らなかった感情も。たくさんたくさん、貴方から貰った。だから、私も返したい。
ねぇ、知らないでしょう?
この身を焦がす、炎なんかよりも熱いものがある事を。
駄目だと分かっていても、諦められない時がある事を。
今までの全てを否定してでも、欲しいものがある事を。
お金なんていらないの。高い位も、綺麗な着物も、美しい宝物だっていらない。学校で友達ができなくたって、いい。全部をなげうってでも欲しいものがある事を、貴方は知らないでしょう?
だから、私が教えてあげる。そして、貴方の本心を暴きだしてやる。それでも駄目なら、諦めるから。
「祓い給い、清め給え。神ながら守り給い、幸い給え」
最期の祈りを捧げる。時代遅れなあの村で、唯一教わったまともな知識。
そうして私は、流れるように池にこの身を投げうった。
(砌、)
水の中で、白菊の声が聞こえた気がした。極寒の水に身を焼かれながら、ただあの人の事だけを考えた。
ある一言を言ってほしい。謝罪よりも、懺悔よりも、その一言を貰えた方が、何倍も嬉しい。
そうすれば私はきっと、私もあと一歩を進む事ができるから。貴方の為に用意したこの言葉を、伝えられるから。
そうしたら私は、世界中の誰よりも幸せだと、幸せだったと、胸を張って叫ぶから。
夢みたいな貴方。あの雪の日、貴方は確かに、私の水限だった。貴方の声と、貴方の心音。そして、瞳に燃える命の灯。頬に感じる指先の脈に、水面に溶けた髪。
雪に溶けたのは、白い菊の花。瞳に映るは、舞い散る紅に、戯れる銀糸と揺れる薄桃の羽織。
(そっか、やっぱり駄目か)
幾多の祈りを受け入れし菊花に、今生の別れを。
——————————
どんなに愛してくれたとしても、最後にはきっとこの手には残らないだろう。想いが残っても彼女はいない。彼女がいても想いは残らない。所詮記念のような関係にしかならないのだから、俺は何もしなかった。いや、何もできなかった、の方が正しいかもしれない。あの子の笑顔を見ると、己の無力さを痛感してしまっていた。
隠してしまおう、とも思った。そうすれば、彼女は俺の神域の中で永遠の時を過ごすことができる。俺と共に永遠に生きる事ができる。真名を知らずとも、神気漬けにしてしまえば可能だった。それでも、隠してしまえば彼女は人でも妖でも神でもない、半端な存在になってしまう。それだけは、どうしても避けたかった。そんな矛盾した想いの所為で、結局最後まで彼女に想いを打ち明けることはできなかった。
人とは、不思議なものだ。長い時を生きてきたが、俺は彼らについてまだまだ知らない事ばかりだ。
人は知れば知るほど奥深い。そうして知れば知るほど、どうしようもないほど愛しく思う。
むろん俺も、彼らの醜い心や憎い心、目を背けたいとさえ思う残酷さ。魄龍ほどではないが、たくさん見てきたつもりだ。時には彼らを守る必要性を見いだせず、いっそ滅ぼした方が良いとさえ思った。でも、そこに隠れる優しさや暖かさを知れば、そんな醜い側面でさえ愛おしく思う。愛くるしいと、想う。
人の暗い部分の原因を知る度、その原因の原因を知る度、全ての原点を知る度、人の子の祈りを聞く度。
彼らの傍にいる度に、愛おしいと思ってきた。
でも、砌は違った。
あれは、叶わぬと分かっていても俺に想いを告げてきた。一度は突き放したが、それでもなお諦めようとしないその姿勢に、並ならぬ感情を抱いた。
俺を、信仰の対象である神として見るのではなく、ただ一つの個体として見るあの子が、酷く尊くて、恋焦がれてきた。
—ずっと、君に言いたいことがあった。言えなかったことが、あったんだ。
叶わないと知りながら、あの子は傍にいてくれた。会いに、来てくれた。
きっと俺は、失敗したんだ。その時、砌を振ったあの時。ここに来訪したナニカを見て、確信した。それなのに、失敗したというのに、何故、こんなにも嬉しいんだろう。あの子が、あの方が俺の為にしてくれたという事実が、悔やむべき事なのに、懺悔すべき事なのに、こんなにも、愛おしい。
(砌、)
「俺、格下はいえど神だからなぁ。戻った後、俺が特別に守護神にでもなってやるよ。俺はいつでも砌の声が届く様に、すぐ傍にいてやるからな」
(君との日々は、)
「未来の安定よりも、私は今、私の想いが通じた方が嬉しいんだけどな。さっさと私を北の方にしなさいよ」
「発言が若いなぁ年寄りには甘ったるくて胸が苦しい」
「貴方スイーツ好きでしょ。なんなら年寄りっつっても元服前後の姿してる癖に」
「翠…?まぁ、これでも数百年は生きてんだよ。だからこんな爺の事なんて諦めてくれないかなぁ。俺よりいい人、絶対いるって」
(確かに、短くはあった。が、)
「……もうすぐご飯できるよ」
「お、秋の味覚たっぷりだな。砌の作った料理は美味しいからね、楽しみだ」
(とても、とても)
背後から、何者かの手が伸びる。その手が、俺の視界を奪った。とっさの事に、対応できなくて、だというのに、頭から彼女の笑顔が離れなかった。忘れられてしまうかもしれないし、忘れてしまうかもしれないのに。
嗚呼、やっぱり、変えられなかったんだな、と、顔に触れた小さな手の暖かさを感じ、そう思った。
(幸せだった)
——暗転
「あ、白菊ゥ!!」
某日。俺は神々の新年の集会に参加していた。この場は外部からの侵入が無いからだろう、気を抜いていたら、背後から友神が突進してきた。既視感しかない。
「っおいお前!新年の挨拶くらい普通にやってくれ、危ねぇだろぉが……」
「良いじゃんか俺らの仲だし。そういや、生贄ちゃんはどーなった?もう裳着迎えたろ?」
「生贄…?嗚呼、神成したらしい。だから、俺はその子の事何も覚えてないぞ、残念ながら」
「へ、」
そう、まさかの神成だと。俺も驚いた。人の子から神に成るなんてことは、かなりの犠牲が必要になるし、神格だって分からないのに。そして生贄が神成した場合、生贄を得ていた神から記憶は抹消される事になっている。理由は明確ではないが、それが世の理なのだからいくら言ってもしょうがない事だ。
「えぇ…なんで危険な方を…わかんないもんだなぁ…」
「よほど現世が辛かったんだろうな。神成してまで帰りたくない様な場所に生まれたなんて、可哀想に」
「それは違うだろ絶対。いや、半分はあってるようなもんだがよ」
そう食い気味で言い張る友神に、なんでだよ、と突っ込んだ。と同時に、生贄が俺にとって割と大切な存在であって、それをこの友神も知っていたという事を感づいた。
「きっと、忘れてしまえるくらい、どうでもいい事だったんだ。それに理通りでもあるし。だから、気にすんなよ」
なのに何故、こんなにも胸が痛むのか。神成したのなら、もう他人だ。気を配る必要なんてないのに。
「忘れてしまったことを、忘れられずにいるのは、きっと何かしら意味があるんじゃないのか?」
そう友神は問う。でも、俺はそれに何も言い返せなかった。
コイツの言う通り、意味はあるのだろう。そうでなければ、こんなにも悲しむ理由が分からない。だけれども、俺から消された記憶が、その意味を不透明なものにさせる。
「……そういや、今回招集された理由、なんだ?新年会にしては慌ただしすぎないか?」
「……あー、何でも数百年不動だった上位格が変動してんだってさ」
「だからか…魄龍がイラついて八つ当たりしてなきゃいいけど…」
上位格ということは、俺は会うこともない相手だろう。縁もゆかりも何もない、珍しい話を新年にした。また集会の内容も、友神の言っていた通り上位格の変動についてだった。何でも、低格が贄を使ったわけではなく、人の子から神成した者が上位格の器だったのだそうだ。その話に、どこか既視感を覚えつつも、俺は自らの屋敷に戻ってきた。何故だかどうしても、俺のところに居た贄と神成した人の子の話だけ、脳裏に焼き付いて離れなかった。
ふと、いつもは滅多に使わない厨が気になって、そこへ足を運ぶ。贄として捧げられた動物の餌を作る時しか来ないそこには、身に覚えのない調理器具やなんやらが置いてあった。しかし俺は物を食べずとも生きていけるしそもそも食べる必要がないため、処分してしまうことに決めた。きっとここに居た贄が使っていたのだろうが、覚えていないしいないのだからいらないだろう。元来綺麗好きな自覚があるから、さっさといつもの殺風景な部屋に戻したかった。今後再び俺の下に人の子が捧げられるなんてまずあり得ないし。
ジジ…ジジジ……
ちりん、ちりん——………
厨を整理していると、いきなり野太く重い音が部屋に響き、鈴の音が聞こえた。——家主の許可なしで部屋が現れた。いや、どちらかといえば、どこかと繋がったようだ。
基本他者の屋敷には干渉することはできないように結界が張ってあるはずだ。と言うかそもそも干渉すること自体が禁じられている。だから、可能性があるのならそれは悪意ある侵入者、荒魂神だろう。低格といえども俺とて神の末席に座す者。いつでも術式を使えるように警戒をすれば、中から俺とは真反対の白銀色の髪に、薄桃の羽織を靡かせた女神がこちらに近づいてきた。あまりの美しさに警戒を忘れていると、その袖の中から現れた手が、俺の瞳を撫でる。その小さな手の温もりに、何故か安堵した。
「……どちら様…?」
「…ふふふ、感動の再会だ!久しぶり~……って、え?」
瞳がだんだんと大きく開かれる。その瞳には、並みならぬ苦い感情と、混乱の色が現れていた。少女とも言える幼い顔の瞳が、どうしてこれほど沈痛な眼差しで自分を見上げているのか、露程も分からなかった。かつて暖かな日差しの下、縁側で語り合った、顔も声も姿も思い出せない生贄に、何故か近しいものを感じた。
「はえ、?」
「白菊、だよね?」
「そ、そうですけども」
現れた女神は、どんどん顔色を悪くしていって、首を絞められたかのようなか細い声で、言った。
「思い出せて、ない?」
——————————
池に身を投げて、気が付いた時には見知らぬ屋敷―ここが私の神域らしい—に居た。想定通り、上位格に成れたらしい。過去の彼とのやり取りから、私の今後のやるべきことは既に決まっている。
かつて現世で、何度か隠されかけたことがある。奴らは寄って集って言うんだ。「お前を喰えば上位格に成れる」と。そうして、神職が奴らを追い払う時、「せめて血の一滴だけでも」と懇願してくる。私が贄に選ばれた理由は、そんな私を鬱陶しく思った村の人たちによる口減らしだった。いや本当に何時代だよ。
「そんなに格が大切なの?神様なら、それだけで十分でしょうに」
人間であり子供であった私には、そのこだわりがどうしても理解できなかった。位がどうであろうと、彼らは神なのだから、それだけで十分だろうに。人間では立場の違いで待遇が変わるものだが、神様にとって位の高低での差は特にないだろうに。
「上位格に成れば、現世に直接関与できるからね」
「直接関与?具体的には?」
「天変地異を起こしたり、死者を蘇らせたたり、或いは時間を操るとか?俺の炎なんか比べものになんねぇだろうな。ま、出来てもやらないってのが暗黙の了解だけどさ」
「…なんで?やっちゃった方がよくない?「俺はこんなに偉いんだぞー!」って」
「人の子には恩恵だとか加護を与えられるから、それだけで十分なんだよ。何て言うか、難しいけどさ。なりより、それを使おうものなら、」
神格が落ちるか、文字通り堕ちるかのどちらかだからだ、と白菊は言う。当たり前だ。この世の理をひっくり返す事さえ可能なのなら、その能力を野放しにするわけにはいかないから。
だからこそこの力を使って、過去に行き彼から私の記憶全てを奪おう。そして、未来でそれを与えればいい。どうせ私が神成をしたことで彼の中から私という存在は消えるんだ。私が奪ったって、いいだろう?上位格が天変地異なんかを起こせるならば、私が彼に記憶を与えることだって、不可能じゃないはずだ。あの時の“彼女”も、そう思ってあの場にいたのだろう。あの場にいたという事は、無事だった、という事だし。
「まさか、不動の上位格に新顔が現れるとはね。しかも元人間。物わかりの良い新神なら良いのだけれど」
己の屋敷に、見知らぬ神が現れた。どうやら、魄龍様から遣わされた私の教育係らしい。これからしばらくは、幽世での振る舞いを、巫女であった時よりも厳しくたたき込まれるのだそうだ。
「…ま、その願いは聞けないけど」
「は?」
ぽかんとした顔の教育係が面白くて、少し笑ってしまう。だって私は、このためだけに神成したんだから。与えられた己の神域と、彼の神域を繋げる。縁を辿ってやればいいんだから簡単な話だ。
まずは記憶を奪うべく、過去に行った。陣を描き、術式を展開する。淡い光に包まれながら、目を閉じる。傍から見れば、普通に睡眠しているかのように見えるだろう。全て奪った後、白菊の屋敷へ向かおう。
過去に行くといえども、飛ばすのは意識だけ。だから彼には私を認識することができない、はずだ。まぁ、一度だけ気付かれてしまう時があるらしいのだが。
目を開いた先には、私が愛した、あの屋敷。
あの日、あの冬の日。私の視線の先には、屋敷の裏に向かう一柱の神が見えた。
「…白、菊」
『…もう贄の時期か。って言うか、今回のは生きてる…?』
そうだよ。生きてるんだよ。貴方に会うために、此処に来たんだ。
白菊は、黒に金糸で菊があしらわれた羽織を着て、屋敷裏にある池―私が落ちた、あの池に向かって行った。私も、彼の後ろに憑いて行く。
ついたそこは、木々に囲まれた静かな場所。屋敷からは少し距離があって、昼間でも暗い。太陽の光が届きにくい場所に位置しているから、水面も薄暗い。そんな場所に、真っ白の着物を着た、白銀の髪の少女が浮かんでいる。
—私だ。
『人の子…?なんで、こんなところに…』
ここからが、始まりだった。終わりへと始まる瞬間だった。
ぷかぷかと浮いているようだった。普通の子どもは親の腕に抱かれて眠るらしいけれど、それはきっとこのような心地なのだろうか。私は生まれた頃から一人で、人とのかかわりも最低限に育てられてきたので、その心地が分からない。でも、ひどく温かくて心地が良かった。
揺られるばかりだった意識が段々と浮かび上がっていく。ゆっくりと水面に顔を出すように、私の意識も覚めて行った。
—闇。
何処を見回しても一面の黒。星も月もなく、燭台の明かりもない。全身が漆黒の帳に覆われていて、上も下も左も右も分からない場所で、自分の身体だけが、水面に浮かぶ笹舟の様にぽっかりと浮かんでいる。
暫くぼーっとして、それから白菊の記憶を奪いに来た事を思い出した。その瞬間、視界がいきなり開けて、大きな屋敷が現れる。
本能が告げる。これは何処でもないあの場所だ。天上と地上と彼岸の狭間。人間が入る事の叶わぬ領域。一柱の神とその贄のみが入ることの許された、菊の狂い咲く迷宮。
そんな中に人影が浮かび上がっているのが分かった。それは薄らとした中で確かな存在感を放ち、身じろぎ一つしないままにそこに立っている。どうして今まで気付かなかったのかと不思議になる程の視線を感じた。
「…あ」
口から音が零れた。その音は風に攫われて消えた、意味のない音だった。言いたい事は山ほどある。しかしそのどれも言葉にならず、結局出たのはただの情けない空気だけだった。
『…———?』
「っ…!」
暖かい、声だった。その声が六つの音を放ち、連なって三つの語になり、一つの意味ある単語に変わった。
ぎゅっと唇を噛む。小走りで触れられる距離だった。でも縋り付く事は、しなかった。これが最期だと分かっていたから、せめて与えられた地位に相応しくあろうとした。
此方を見る彼の瞳には、隠しきれないほどの悲痛が浮かんでいた。まるで「自分の所為だ」とでも言っているかの様な顔だ。
「…私が、望んだの。私が、私の為に」
屋敷の奥に、もう一つの人影が見えた。それに向かって、私は指を指す。彼はそれに従い、後ろを振り返った。
『…やけに視線感じると思ったら、どうした?』
—もう、良いだろう。
もういいだろう。もう帰ろう。
不変など在りえない。永遠など存在しない。ならば私に、人間に出来ることは何なのだろう。それはやはり、愛しい人の傍にいる事であることだと思う。けれどもやはり、神と人の子は根本から相容れない。同じ人の姿を取っていても、流れる時間も考えも生き方も違う。人間は、きっと瞬きの間に死んでいく。人で在るとは、そういうことだ。だからこそ、その事実が覆る可能性があるのならば、と思ったんだ。
『……どちら様…?』
なのに、手中に収まった記憶さえ、消えてしまうなんて、知らなかった。
「お、おはよう砌さん。いい夢、見れたかい……ん?」
「…悪夢でしたね…って、如何しました?」
「…っ何を!!何を、何ていう事を考えているんだ貴女はッ⁉」
彼の神域から帰ってきた私—傍から見れば眠りから目覚めた私—に、教育係は怒号を浴びせた。
「うわうるさっ。寝起きだよこっちは」
「出来てもやらない、そもそも考えるんじゃないよッ!暗黙の了解だって聞いただろ、知ってるだろそんな事ッ!!」
私だって、あの方法で彼の記憶を戻すことができないなんてわかってたら、やらなかったのに。その思いは、胸の中にしまっておいた。
刹那、頭に小さな衝撃が走った。脳内に、魄龍様の声が響く。あの人テレパシーも使えるのね。
「……たった今、魄龍様から思念伝達来たと思うけど、君の神格は落ちた。つまり住む社も君の役割さえも変わった」
「…あれ、その程度で済んだんだ…思ったより軽…」
「…聞こえなかったのだが。今、何て言ったか今一度教えて頂けるか」
「すいません」
この教育係、かなり圧が強い。そんな現実逃避をしても、心には何かぽっかりと穴が開いて、冷たい風が吹いているようだった。
「…時間を遡る、他領域への不法侵入は格落ち確定の禁忌だ。けれど、荒魂にまで堕ちなかったのは、それがこの世全体に与えるうる影響外のものだったからだろうね。勿論、魄龍様のお情けもあるだろうけど」
「あらみたま?」
白菊と出会ったときと同じ、また小難しい話を持ち出してくる。私は生贄に選ばれたと言っても巫女の家系なわけではなかったので、あまり神様の知識に明るくない。
「堕ち神、或いは祟り神の事だよ。人々から信仰されなくなった神とか、怒りに身を任せた神、或いは荒々しい神。まぁ、和魂の反対だね」
「にぎみたま……」
「……やさしいかみさま、って事だよ」
「……すみません…」
「君よく神成しようと思えたよね……そういえばさ、どうして、こんなことしたんだい?」
「嗚呼、それは……」
『…私、砌っていうの。最近上位格に成ったんだ』
『え、あ、え!??上位格のお方が、何故、ここに?』
なんで、こんなに他人行儀なんだろう。長年、一つ屋根の下で過ごしてきたというのに。
『……私、今日からここに住むから』
『はい…ん?』
あんたが思い出すまで。ここに居座ってやる。思い出さなかったとしても、また新しく記憶を作ってやる。だけど、
『神域を繋げた事と、後のは…まぁ、どうにかなるでしょ。ここまで予定通りって事ね』
何か招集があった時でさえ、会えるか会えないかわからないなんて、耐えられない。
『は?』
「…恋に、狂ってしまって。どうしても、手に入れたくって」
「あぁ…なら仕方ないね。ほら、新しいお屋敷に移動するよ、準備して」
「え、当事者の私が言うのもなんだけど、あの大騒動そんな簡単に片づけちゃっていいの?」
「ほんとは駄目なんだけどさ。人の子って恋路の為なら命をも絶つんだろ?何言っても意味ないさ」
それは、ごく少数に限られた話だと思うんだけども。そもそも現代にそんなことする人いないけど。やるとしたら相当なヤンデレだよ。
「……大切にしてもらいなよ。白菊様、思い出して下さるといいね」
そう言って、教育係は微笑んでくれた。私の想いを、認めてくれたみたいだった。
「はい、大切にしますよ」
「あ、する方なんだ…」
ここまで応援してもらったんだ。絶対、思い出させてやるんだから。
必ず、成し遂げて見せる。やってみないと、分からない事だってあるんだから。
『…言わない。言ってはいけない』
何度も何度も、自分に言い聞かせてきた。絶対に言ってはいけないと、絶対に守らねばならぬと、心が揺れようと念を押しつつ、蓋をしてきた。
『駄目だ。言うな、言うな』
美しく儚いその言葉は、身を滅ぼしかねない刃。肉、骨、五臓六腑、神経をも切り裂く。そして放った瞬間、この世の全てを散らすだろう。
『俺の勘違いだったんだ。忘れろ、封じろ、言うな』
なお、重ねて言葉を紡ぎ、繋ぐ。意識を手放してしまうその瞬間まで、記憶が飛ぶその瞬間まで、何度も何度も、幾度も幾度も、魂にまで浸透するように、繰り返す。
『…命令に、成りかねない。それだけは、避けなければならない』
瞳を開く。ただただ真っ暗な闇の中、微かな明かりが視界に広がる。襖に手をかけ、中に入る。
舞い散る紅に、戯れる銀糸と揺れる薄桃の羽織が、視界に飛び込んだ。澄んだ空気に、酷く映える、至極美しい光景だった。
『……だから、言ったろ』
例え、どんなに美しく輝く星空を欲したとしても、それは決して手中に収まる事はない。星空を欲し涙する者を、月は静かに満ちては欠け、無慈悲にも時を刻み続ける。
『己の想いに責任も持てねぇのなら、止めちまえばよかったんだ』
ふと見上げた紺の空に浮かぶ月は、期待していた美しい丸を描かずに、ほんの少しだけ欠け、歪な形をしていた。もしこれが、欠けることのない望月だったのなら、月に惑わされたなどという、至極くだらない言い訳ができたというのに。
欠けた月は、此方を嘲笑う様にギラギラと輝いている。その輝きとは裏腹に、少しずつ此方の意識が薄れていく感覚があった。視界が、だんだんと薄暗くなっていく。
『…君は、俺を置いて逝くのに』
無慈悲にも廻る世界。見上げた空に集う星屑。ありふれた光景に違和感を覚えたのは、一体いつからだったか。
天でも無く地でも無く、上と下の狭間の、あやふやな世界。顕現してからずっと、何の疑問もなく過ごしたこの空間が今、どうにも不可解なものに感じて仕方がなかった。
—この空間は、本当に存在するのだろうか?
人の想いで構成されるこの肉体は、この魂は。俺を知る者がいなくなれば消滅するこの器は、常に崩れかかった崖の淵の淵に立っているように、不安定なもの。彼女を想うこの心は、消滅したく無いが為に芽生えた、いわば彼女を利用しようとしたのではないのか。俺が彼女に想いを打ち明ければ、人の子である彼女はそれを断れず、彼女の意志など関係なく半ば強引に恋仲にしてしまうのではないか。優柔不断な俺より、もっともっと彼女に似合う男が、彼女にもっと相応しい相手が、いるのではないか。人の子らしい幸せを、彼女には知って欲しかった。
—何が真実で、何が偽りで、何が。
知らない土地に放り込まれ、方角も分からないのに家に向かって走り続けている。
何度も、何度も。
帰り道さえ分からない、終わりの見えない空間を、ただひたすらに進み続ける。手を引いてくれる者などおらず、たった一人、黒よりも暗い空間を、ひたすら走り続ける。
ちりん、ちりん——………
走って走って走って、鈴の音がして、立ち止まる。聞き覚えのある音だ。聞き覚えしかない音だ。
『…忘れない。絶対に、忘れるものか』
光が見えた。俺自身の身体が光っている。既に、下半身は感覚を失ってしまった。己の手を見れば、そこからは桜の花弁の様な光がふわふわと飛び出して行っていた。
刹那、ぶわりと音が聞こえてきそうな程、淡い光の粒が辺りを埋め尽くす。この粒もまた、俺から出てきたようだった。光の粒が、漆黒の空に吸い込まれていく。それと同時に、足元が崩れてゆっくりと奈落に堕ちていくような、そんな感じがした。
『まだ見ぬ不明瞭な未来を想って嘆くのなら、今生きるこの時を想って欲しい』
そんな、自分勝手とも言える願い事は、上へ上へ登っていく光の束に攫われていった。
きっとそれは、確かに愛だったのだろう。
ちりん——………
水面から徐々に顔を出す様に目を覚ますと、いつもの木目の天井が目に入る。
(あれは、夢…?)
酷く悲しい夢を見た気がする。でも、そんな悲しみの余韻が残るだけで、はっきりとは思い出せない気持ち悪さを感じながら体を起こすと、頬に生暖かいものが伝っていることに気が付いた。
(…なんで俺、泣いてるんだ…?)
——————————
「砌様、砌様ぁ~!ったく、どこに行ったんですかぁ…」
ここは、俺と砌様の神域の一角。そこには見事な庭園が広がっていて、砌様はその手入れを甲斐甲斐しく行っている。
ある日、神々の新年の招集後、いきなり上位格の方が俺の下を訪ねてきた。そして唐突に、「私、今日からここに住むから」と言い出したのだ。わけがわからない。いや、それを受け入れてしまった俺もおかしいのだが。
元を辿れば、砌様は人の子であったという。そのため幾度となく敬意を示す必要はないと言われてきた。しかし、人の子であった時から上質な気を持っていて、どんなに低格な神でも食せば上位格に成れるほどだったらしい。そのような、生まれながらに神に成ることを約束されたようなお方を呼び捨てするなんて出来ない、と言えば、「魄龍様の事は呼び捨てなのに?」と言われてしまった。申し上げないが何も言い返せなかった。
話を戻せば。彼女が仕えた神は彼女を喰おうとは微塵も考えなかったのだと、彼女の主神とも知り合いであったらしい友神から聞いた。そして同時に、想い合う仲であった、とも。しかし、彼女に想われていた神は、己の想いを砌様に打ち明けなかったのだという。
(あのお方に想われていたのに、何故何も言わなかったんだ)
顔も名前も知らない神に嫉妬心を抱くが、堕ちてしまうのは嫌なので抑える。俺にとっての唯一の救いは、彼女の想う神から彼女の記憶全てが消えてしまったという事だけだ。
「って、あんなところに。あそこは確か…菊畑、か」
二人分の神域が繋がったこの屋敷はこれでもかと言うほどに広い。ただでさえ一柱分でも平安京程の大きさがあるのに、それが二柱分もあるというのだ。そんな広い空間には俺と砌様、俺の傍仕えである燐の三柱しか住んでいない。つまり、置手紙なしで移動されると、探すのに一苦労どころの話ではないのだ。何なら最近は、域内の移動手段として馬を導入するか本気で悩んでいる。
「あ、白菊」
砌様は、今日も今日とて植物の世話をしていた。
「……領域内と言えど、屋敷から出るのなら書置きか式神に伝えて下さい、とあれほど言ったではありませんか。ここは平安京よりも広いのですから」
「ははは、ごめんて、次は気を付けるよ。っそうだ!ねぇねぇ見て?」
「…次はって何度も聞いてる気がするんですけども。それで?なんです?」
「ふふふ、驚け!ようやっと菊が咲いたの」
「え、本当ですか!?」
ここに咲いていた菊の花は、ずいぶんと前に病に侵され枯れかかってしまっていた。俺の名である「白菊」の由来になった花だから、思い入れがあった花だ。しかし俺にはどうすることもできず、枯れてしまうだろうと半ば諦め気味だったのだが、どうやら砌様のお手入れのおかげで元気になったみたいだ。
「枯れかかった時は焦っちゃったけどね。自然の神秘って凄いよね、綺麗に咲いた」
「…ん?霊気は使わなかったんですか?」
「えぇ、自然の力で咲いた方が美しいし」
俺達は自身の霊力を地に注げばある程度の植物を生やすことができる。枯れかかった神木なんかも、霊力をちょちょいっと注げば瞬く間に復活してくれる。俺が菊にそれをしなかったのは、庭仕事を砌様が進んでやって下さっているので、下手に手を出さないほうがいいと判断したからだ。なのだが、まさか砌様もご自身の霊力を使わずに自然の力のみで復活させたとなると、成程自然とはこれほどまでに偉大なのかと感心してしまう。今度魄龍から栄養剤でもせびって与えようか。
それはそうと、砌様と俺が同一の神域内で生活し始めてから、早数年が経つ。俺自身も、砌様の助手となり共に現世の花々を育てて、いくつもの四季を越えた。春が過ぎ、夏が逃げ、秋を惜しみ、冬が暮れる。この空間が、少しでも四季に溢れるように。彼女は、日に日に多くの現世の花を、寂しい事この上なかった神域に咲かせる。
砌様はこの庭を、「白菊が時間に取り残されないように、一緒に流れを感じられるように作ったんだ」とおっしゃった。だから俺も、些細なことで笑ってくれる、俺の傍にいてくれる砌様のその眼差しを守ろうと誓った。誓わなければならない、と俺の中で何かが訴えかけてくる。
その“何か”が何なのかは、わからない。ただ、ずっと前、思い出せない程の過去に、貴女に何か言い忘れていることが、あった気がする。
俺は、時折現れる上位格の友神の魄龍から貰った茶葉で、八つ時の準備を進めた。茶は、今までで一番と言ってもいい程いい色になった。
ちりん——………
「砌様、お茶が入りましたよ。休憩にしましょう」
「了解、ちょうどいいね。ちょっと待ってて」
「分かりました」
鈴を通して短い会話を交わし、互いの神域の境界から離れる。気配から察するに、砌様は向こうの屋敷の端の方にいらっしゃるようで、こちらに来るのには時間がかかるみたいだ。だから俺は、作業で少々乱れてしまった髪を直そうと、自室に戻る事にした。
八畳ほどの俺の自室には、物が少ない。もともと何かを収集する癖や趣味嗜好なんかは無かったので、あるのは机に棚と蒲団だけだ。そしてその棚には、何故か開かない引き出しがある。俺は物に対し執着をするような性格でもないはずなのだが、その棚の、件の引き出しにのみ、何故か執着心を抱いている。
—そういえば、なんであの引き出しに興味を持ったんだろう。
(だって、そもそも引き出しに何かをしまうなんてこと、無かったじゃないか)
普段は、好きな時に好きな場所で開けられる異次元に物をしまっていた。その方が、楽だからだ。でも友神が、部屋に彩が無さすぎるからと言って寄こしてきたのが、この棚だった。
その棚の内の一つに、どうしても開かない引き出しがあるのだ。寄こしてきた友神が言うには、別に鍵のある棚と言うわけでもないらしい。制作した式神に問うても、別に何かが中で引っかかって抜けないわけでもないらしい。砌様が何か入れたのかもしれないが、基本俺達は神域こそ繋がってはいても屋敷まで共有しているわけではない。その為、砌様が何かを入れた上で開かないように細工したという線は薄いと考えていいだろう。
(そもそも、この引き出しには何が入っているんだろう?)
何度開けようとしても、何故か失敗に終わってしまう。一回も開けた、開けられた事が無いから、何が入っているのかを知らないのだ。この棚の持ち主ならば、何か入っているのならそれを把握しておく必要がある。
引き出しに手を伸ばす。取っ手の冷たい金具に手を触れる。引き出しを、一思いに引く——。
(だぁめ、まだその時じゃないでしょ)
「っ誰だ!」
振り返っても、誰も居ない。聞こえた声は、砌様によく似て、砌様より少し幼い声だった。
(全部忘れて、——。約束だよ)
意味を認識できたのは一度のみ。しかし、脳内で俺の認識できない音で何度も何度も言い聞かされた。まるで、洗脳するかの様に。
「は、ぁ、れ…?」
(—は——の—と、——き—ょ)
(はは、———ぃ——な)
脳裏に映るのは、まだあどけなさの残る、———の姿。
—だれの、すがただ?
知っている。俺は、その姿を知っている。
クラリ、と一瞬めまいがする。
「あれ?白菊、八つ時にするんでしょ?如何したのそんなところで」
「…砌、様?何故ここに…?」
砌様が、俺の自室にやってきた。砌様が俺の屋敷に来るなんて珍しい。
—そういえば、なんでここに来たんだっけか。俺は、
「なんでって、貴方が呼んだのに来ないから、気になって逆に呼びに来たんじゃないの」
「え!?す、すみません、砌様。直ぐに準備しますね」
「うん、ありがと。それと様はいらないってば」
「却下です」
慌てて厨へ向かう。廊下を走りながら思考を巡らせたが、どうしても思い出せなかった。
(…歳か?)
でもまぁ、思い出せない程どうでもいい事だったのだろう、と結論付けた。
「そう、全部忘れて、貴方は、貴方のままでいて」
砌様が引き出しにそう呼びかけたのを、俺は知らない。
——————————
八つ時。俺はあの後すぐさま茶を入れ直し、茶請けと共に砌様に出した。今日の茶請けはおはぎである。
「白菊、お茶淹れるの上手くなったね。前はあんなに下手だったのに」
元来、神は物を食さずとも生きていける。と言うか食べる必要がないのだが、砌様は未だに人間時代の名残が残っているようで、何かにつけて食べ物を欲する。朝、昼、夜、そして八つ時だ。
「魄龍が教えてくれてな…あ、教えてくれましてね」
「あ、ああ、確かに最近よく来るわねあの爺臭い村長。あと敬語は外して」
人の事は言えないが。砌様も砌様で魄龍を爺呼びするなんて肝が据わっている。強ち間違いでもないので否定できないのが辛いのだが。
「却下です。最近花の世話ばかりですけど、上位格の仕事の方は大丈夫なんですか?あまり根を詰めすぎないで下さいね」
「仕事は忙しいうちが華、って言うでしょ?」
「あまり根を詰めすぎないで下さい、ね?」
この人の仕事は人々の縁をつかさどる事。縁結びと縁切りを同時に担っているという。炎の俺なんかより何倍も忙しい癖に、いつも強がるんだ。心配するからやめていただきたい。
「……わかったよ。でも白菊だって、あまり夜中まで書物を読まない事。ほら、クマができてる」
「俺はいいんですよ。爺ですから」
「私は駄目と?」
「はい。貴女は顕現して日が浅いので。十年も経っていないでしょう?」
「駄目ね反論できない」
—そう養分を与えられてしまえば、この感情は植物よりもたやすく、そして早く育ってしまう。
俺は砌様が好きだ。敬愛なんかじゃなく、まごう事なき恋情。だけど、格が違いすぎて叶うわけもない、と自覚している。それでも、あの人の記憶にある想い人に、どうしても嫉妬してしまう。あの神に流れる時間の中に、俺が刻まれるなら。俺がもし、あの人の横に並んで生きる権利を与えられたなら、どんなにいいだろうか、と。
あの女神の手が、俺の贄が神成し記憶が抜け落ちたあの日から、ずっと探していた手だと。俺の時が止まったあの日から、数多の時の流れから俺だけをかぎ分けて手繰り寄せてくれたあの手が、こんなにも、近くにあるのに。どうしても、その手を取る覚悟が、決まらない。
「そういえば、白菊はあの布付けないの?」
八つ時の後、二人で庭に降りた。砌様の咲き誇る花々を見て癒されようと言う魂胆だ。
「布…?嗚呼、雑面ですか。あれは、人の子から素顔を隠す為にあるものなので、必要ありませんよ」
雑面とは、顔を隠す布の仮面の事だ。白いものが主で、一枚の布を紐で頭に結び付ける。無論砌様の雑面もあるのだが、砌様本人が人の子の前—お告げとか大祓を覗く時とか—に出た事がない為、使用したことがないらしい。
「ふぅん。なんで隠さなきゃいけないのかなぁ。めんどくない?」
「俺にもわかりませんね。人間とは違うから見る事が出来ないとか、或いは直視するのが失礼に値したりでもするのかもしれません」
「へぇ~…あ、秋明菊」
「…唐突……菊?これがですか?」
「嗚呼、菊って名乗ってるだけで、アネモネ…牡丹一華の仲間だよ」
牡丹一華……確か、外ツ国の花、だったか。数百年生きる俺でも知らない花を、砌様はよくご存じだ。
「へぇ。砌様は何でも知ってるんですね」
「ん、知るって言うのは面白いからね。昔っから勉強は好きだったんだ」
そう言い、砌様はその場にしゃがみこんだ。どうやら牡丹一華の辺りをいじっているらしい。その花々に触れる手は、まるで春風の様に酷く優しい。
「何かを知ることで自分自身を驚かせることもできるし、その知識を使えば他の人を驚かせることもできるしね」
「…っむ⁉」
そういうと、砌様はいきなり立ち上がり、手中の何かを俺の口の中に放り込んだ。とっさの事に対応できず、大人しく頬張ると、甘酸っぱい風味が口の中に広がる。
「…野苺?」
「正解、野苺~!前から好きでしょ?甘い物。どちらかと言えば和菓子とかの方だろうけど」
「…これ、知識に入るんで…前から?」
砌様は少し顔を歪めて、でもすぐにいつもの笑顔になり、言った。多分、日の光がまぶしかったのだろう。
「あ、気にしないで。あぁっと、貴方は顔に出やすいからさ。おはぎ食べてる時の顔とか嬉しそうだし」
「え、そんなに分かりやすいですかね?」
立場上、他人に感情が伝わりやすいのはちょっとよろしくない。平和すぎるが故に呆けてしまっている可能性が高い。改善しなければ。
「じゃ、じゃあ私は向こうの花畑を見てくるから」
「…?じゃあ、俺はここの水やりしときます」
「ん、お願いね」
砌様と過ごしていて、感じたことがある。それは、砌様は未だ想い人に想いを馳せているのだという事。いつも俺を気にかけてくれてはいるものの、いつも俺を通して違う誰かを見ている気がしてならないのだ。
砌様が神成をしたというのは、友神や知神が言う様にその想い人の傍に居続ける為なのだろう。しかし、神成をしてしまえば、相手からの記憶は抹消される。だからこそ、あの人は想い続けることしか出来ないんだ。そうする以外に、あの人の想いを消化する方法がないんだ。そしてその中に、俺はどうしても入る事が出来ない。俺はどうしても、第三者目線でその切ない関係を眺める事しか出来ない。まるで、一つの絵巻物のように、美しくて、憎らしい事実。
(…気にしすぎかな…異性同士だし元人の子だったわけだし、距離が掴めないのかもしれない)
「…?あんなところに門なんてあったか?」
頭を振って思考を改め、宣言通り色とりどりの花々に水をやっていると、ふと茂みの奥に門が見えた。大きくて、古びた鉄製の門だ。位置的に俺の神域の中にあるのだろうが、あのようなものを設置した記憶はない。
「砌様が作ったのかな…?神格的にはできることだし……」
気にせず水やりを続けようとするも、どうしてもその一角に目が行ってしまう。
「嗚呼駄目だ、集中できない」
一度水の入った桶を置き、門の下へ足を運んだ。
その門は、一部の区域を囲むように設置された柵と共に場に鎮座していた。昔に西洋の陶器に宿っている付喪神に聞いた、西洋の城を囲う柵と特徴が一致しており、日ノ本の国の柵とは全く異なる造りだ。特に結界は張られていないようで、触れても何も起こらないし何も感じない。
「…?錠がかかってる…?」
そんな西洋風の門には手のひらほどの大きさの錠が付けられており、それ専用の鍵がないと開かないようだ。仕方がないので柵の間から中を覗くが、木々が植わっているだけで、それ以上は何も見当たらない。柵自体が広い範囲で巡らされている為、木々の奥にもっと何か隠さねばならない何かがあるのかもしれない。
「それにしても、確かこの奥には池しかないよな…?」
そう、この奥には現世と繋がる池があるだけだ。基本的に贄は正門からやってくるが、極々稀に池に浮かんでいる時がある。しかし本当に極々稀なのでほぼ行ったことがない。
「いや、でも砌様がこんなところを囲う必要あるのか…?」
そもそも此処は俺の神域内。お互いに余り過干渉はしないという暗黙の了解がある為、俺の域内に作る必要性が感じられない。これがあの方の域内にあるのなら、話は別ではあるのだが。
この門について、砌様ならきっと何かご存じのはずだ。そう思った俺は、足早にあの方の下へ戻った。
砌様の居る花畑についてすぐ、彼女に問うた。
「砌様」
「お、白菊。もう終わったの?もうちょっと時間かかるから待って、」
「あの俺の域内にある錠の付いた柵は何ですか?奥に何かあるんですか」
これだけは、聞かなければならない。知らなければならない、と本能が叫ぶ。あの囲いの奥に、何かを感じる。思い出さなければならない何かが、あの奥にあるはずだ。なのに、
「…そうだ、あの方角…見つかっちゃったか。無断で作ったのは謝る。でも、あそこはあのままでいいの。入らないでね」
「え、でも、」
「いいんだって。白菊の為なの。貴方の域内だけど、入らないで」
俺の為とは、どういう事なのだろう。俺の域内に、彼女が意図的にあれを設置したのはもう明白。でも、その意味が、「俺の為」と言う意味が、どうしても理解できない。
「ど、どういう意味です!?俺の為って、俺の、何の為に?」
「良いんだって言ってるでしょ」
そう言って、俺に背を向けた。この場から立ち去ろうとしているらしい。
「ま、待って下さい!何を、一体何を隠して、」
「今の貴方には、関係ない」
「っえ」
「…砌の名において、白菊に命ずる。これ以上深掘りしてこないで」
そういうと、砌様は足早にその場を去ってしまった。彼女を止めようとした手が空を斬って、そのまま空気を掴んだ。
どうしてか、その手を放してしまえば、二度と逢えなくなる気がした。
今はまだ、その手は届かない。
「…囲う程大切な場所なんだろうけど、初めてあんなに強く言われたなぁ…っ…」
そう呟いた時に、自然と涙がこぼれた。俺の傍には、誰もいなかった。
俺と良く関わってくれるとはいえ、あの人は俺より立場が上。命令に背くわけにはいかず、従うしかない。ここ数年共に暮らしてきて、立場を利用した命令をされたのは、今日が初めてだった。
「は、はは……絶対、嫌われた……」
これから、如何しよう。同じ領域に住まう身で、あの方に恐れ多くも恋情を抱く身で。砌様に嫌われてしまったのなら、また、こんなだだっ広い空間で、独りでこの想いを抱きながら生きていかねばならないのか。
しかし、その心配は杞憂に終わった。
「毎日此処にいなくても、持ち前の神脈で友神さん達と一緒に居てもいいんだよ?植物は美しいけれど、何も言わないから」
柵の話から数日、あの日の出来事なんてなかったかのように振舞う砌様に、多少の安堵を覚えつつ、また庭に水をやっていた。ほぉすがあれば便利なのに、等と言っているが意味は分からなかった。
「突然どうしました?って言うか俺の神脈なんで知ってるんですか」
「…だいぶ前にさ、教えてくれたじゃん。ここには私しかいないし、つまんなくない?あと敬語禁止」
「却下です。それに、俺は、貴女が…ッ」
言いかけて、慌てて口を閉じる。
(あ、危な…っ)
『俺は、貴女が好きなので。御傍にいれるだけで十分幸せなんですよ』
今、言ってしまったら。この想いを、打ち明けてしまったら。この関係が、終わってしまうのではないか。
拒絶されたらどうしよう、幻滅されたらどうしよう、見限られたらどうしよう、離れられたら、どうしよう。つい先日に、この人の逆鱗に触れかかったばかりだ。不快感を与えてしまった事実があるから、今の俺はこんな想いを打ち明けられる立場には、いないのではないか。
「ん、なんで固まった?大丈夫?」
だけど、砌様なら受け入れてくれる。そんな、何の保証もない確信が、俺の中にあった。
砌様は、与えるのが得意な方だ。むろん、俺たちは神なのだから、求められるままに応じるのは性。でも、砌様は分け隔てない。それは、人の子であったころからそうだったと、魄龍から聞いている。そんな方が、誰かを一心に求めるなんてことが、本当にあったのだろうか。
(それが、特別な殿方だったら、どのように振舞うんだろう)
小さな背中は、いつも凛々しく伸びていた。その背中を、ずっとずっと傍で支えたい。一番傍にいられる権利が欲しい。一番傍で、四季の巡りを眺めたい。きっとあの方は、今の俺と同じ想いで、人の器を捨てる決心をしたのだろう。同じ場所に立とう、と頑張ってきたのだろう。会えないと、共に在れないと分かった上で、ここまで来たのだろう。なんといじらしく、面映ゆい。
「白、菊?白菊さん?え、ほんとにどうしたの?」
もしも、その想いの先が、砌様の仕えた主神が、俺だったら?俺がただ、理通りに忘れてしまっているだけなら?俺とて贄が神成し、記憶を失った身。状況も時期もほぼ同じ。可能性なら、十二分にあるだろう。
一片の可能性を、今——。
「…お慕い、申しております」
考えれば考えるほど、貴女のその優しさのわけが、なんで何のかかわりもないはずの俺を、そこまで気遣ってくれるのかが、どうしても分からない。だからこそ俺が欲しいのは、神としてではなく、人の子としての、貴女の心。
「え?」
「貴女に、欲されたい。そして、貴女を欲したい」
この気持ちを、言えないまま終わるのではなく、きちんと貴女に渡したい。
「…ただ、それを伝えたかっただけです。忘れて下さい」
背を向けて、その場から離れよう。言えただけ、マシじゃないか。
「忘れて、いいと?」
背後から、砌様の声が聞こえた。その声色は、どこか嬉しそうだった。
「私の心、全部あげる。その代わり、貴方の心は私に頂戴」
「…そ、れは、」
「思い出してなくていいよ——やっと、やっと言ってくれた。神前の誓いだ、思い出したら言い逃れできないねっ!」
そういって、砌様は破顔した。玩具を与えられた子供の様に、飛び跳ねながら喜んでいるように見える。
(嗚呼、貴女は何て酷い神なのだろう)
「思い出してなくていい」と言う事は、やっぱり“そう”だったのだろう。砌様は、俺の贄だったのだろう、と、察していた通りだった。
砌様の愛する人と言うのは、白菊であって俺じゃない。そして俺も、あの方じゃない砌様を大切に思っている。
憶測に過ぎない。考えすぎなのかもしれないけれど。砌様を想いながら、砌様を見ていない俺も、傍から見れば酷く最低に見えるのだろう。
だのに貴女は俺に笑いかけるから、優しく話しかけてくれるから、傍にいてくれるから。きっと俺よりも先に全てを察していただろうに、それでも変わらずにいてくれたから。このままでもいい、いや、むしろこのままがいいと思った。ずっとここで、貴女と笑い合いたい。貴女の傍で、四季の巡りを見ていたい、と。何も知らずに、創られた物語でも、偽りだったとしても、構わないから。
「良い天気だねぇ」
想いが、通じたと思っていいのかよくわからないあの日から、しばらくの月日が経った。恋仲になったとて、未だに逢引もせず、これまで通りの関係が続いていた。
お互いに仕事もあまり入らない日が続き、のんびりと茶でも飲んで談笑する。
あと少しで秋に入る晩夏。少しずつ気温が下がっている様で、酷く穏やかな風が頬を撫でる。屋根の隙間から入ってくる日差しが廊下の木目を照らし、反射して目に入ってくる。
暑い日差しは既に柔らかなものに変わり、これからは紅い葉に丸く太った木の実が庭を彩ることになるだろう。そして秋が去っていった後、冬が来て春が来て夏が来て、また秋がやってくる。俺達は神なのだから、季節は途切れることなく廻る。そしてその巡りを、己の想い人と共に見守る事ができる。
「そうですね、とてものどかだ」
「敬語なし」
「却下です」
それを思うだけで、俺の心は酷く暖まる。花弁が降り積もる様に、少しずつ心が満たされていった。
俺は砌様の言葉に頷いた。御傍にいられるだけでも天にも昇る心地であるというのに、このように四季を愛で共に時を過ごす事ができるという事は、何事にも代えがたい極上の幸せである様に思えた。
「こんなにいい天気なら、今からでも土をいじりに行こうかな」
「駄目です。砌様、俺が感づいていないとでも?」
「…おっと」
しかし、いつまでものほほんとしているわけにはいかないのもまた事実。立ち上がろうとした砌様の手を引き、俺の隣に座らせた。
「砌様、最近お疲れでしょう?鈴の音が不安定でしたから。万が一にも何かあったらどうするんです」
「…そっか、音で分かるんだっけ。でも、植物のお世話はしておかなきゃ。あと敬語禁止」
「却下です。それに、体調が優れないのであれば養生しなさいと言っているのです」
「あ、もしかして私から離れるのが嫌で?」
「そういう話ではなくてですね…」
外では小鳥が楽しげに囀っている。でも、その一方でなにか、どんよりとした感覚が俺の中にはあった。
「……なんとなく、不安で堪らないんです」
「不安?」
「はい」
砌様は首を傾げた。と同時に、白銀の髪と黄金色の髪飾りが揺れる。
「何故かはわかりませんが…今、離れてはいけない気がして」
俺はそのまま俯いた。砌様が顕現なされてから、砌様はずっと俺の傍にいてくれている。でも、神成とはいえ上位格の神なのだから、俺の傍に居続けるのは仕事柄にもよくないだろう。
「っ、ははは!」
途端、いきなり砌様が口を大きく開けて笑った。冗談をよく言うとはいえ、常日頃から気品に溢れる彼女の、これほど大口を開けて笑う姿は見たことが無かった。
「み、砌様…?」
「ふふ、ぐふ、は、ごめ、あははっ!」
「わ、笑いすぎでは…?そんなにおかしなことを言いました?」
「ちが、ごめ、何ともまぁ、頑ななものだなって」
笑いすぎにより目尻に浮かんだ涙を袖で拭った。そして反対の手で俺の頬を撫で、うっとりとした顔で微笑んできた。
「……ちっとも変わらないんだねぇ…」
「砌様?なんと仰いました?」
「折れても朽ちてもなお身を貫く一本の柱。枯れてもなお咲き続ける花。ホント変わってないね、白菊」
最近、己の過去について思う事がある。最近と言うよりもともとなのだが、元人間であった砌様が、俺に送られた贄なのではないかと言う話。それが最近、予想の範疇から確信へと変わりつつある。
想いを告げ、通じたあの日から、砌様の言動はより一層その考察を明確なものに誘導していっているように感じる。先程の発言もそうだが、発言の節々で記憶を失う前の俺を知っているのは確実。しかし俺は人の子の前に姿を現したことがない為、砌様が俺の贄で間違いないのだろう。証拠も無しに感じていた事が、証拠が出てきた事で確実なものに変わっている。
二度とその想いが、光を見ることのない闇の底に消えてしまってもなお、砌様の根源はそこにあるのだろう。それがどうしようもないほどに滑稽で、愛おしくて仕方がない。でも、それでも一つだけ、もどかしい思いがある。
「砌様…しかし俺は…“貴女の求める白菊”では…」
器は同じでも、贄と過ごした記憶を一掃された俺は、彼女と長い時を過ごした“白菊”とは違う。思い出せればいいのだろうが、理がある限りそれは叶わない。
「確かに、そうかもしれないけどさ。私に想いを告げてくれたのは貴方だし」
砌様はそっと俺を見上げた。此方の顔を覗き見る瞳は酷く優しくて、腕を握る手は華奢なものなのに、他の何よりも頼りがいのあるもののように思えた。
「……そうで、ございますね」
愛を惜しみなく与え、共に歩んでくれる方がいる。どこかで失くした欠片を代わりに埋めてくれる方がいる。ならばもう、それでいいのではないか。過去が思い出せなくとも、戻らなくても。その事実があるのなら、今があるのならば、それで。
「あ、もうこんな時間⁉」
「え、あ、もう昼餉ですか。ですが別に無理して食さなくとも…」
「駄目……あ~どっか食べに行く?レストランとかないのかな」
…また唐突な……
右足に重心を掛けて体を斜めに傾け、姿見の前で立つ。黒を基調にし、裾には金糸で透かしが入っている、俺の一張羅。遠目で見ると菊の大輪が描かれているのが分かる。
「おし、いいな」
魄龍に押し付けられる形で貰った贈り物。もとより服装などにそこまでこだわりがない事、加えて着飾る時がない為、箪笥の肥やしとなっていたが、長年の時を経て腕を通すことに成るとは思わなかった。
「後は…夜桜柄の鉄扇もってっとこう。武器にもなるし」
贄が神成し記憶が飛んでから早数年。誰かと外出する事自体が初めての事なので、俺の心は驚く程弾んでいる。
「白菊様。定刻が近付いて参りました」
「お、ありがとな燐。今行くよ」
変なところは無いかともう一度鏡を見て、そして胸に手を置いた。いつもより少し早い鼓動に、小さく息を吐く。これではまるで乙女だ。実際は数百生きた爺なのだが。
「…なぁ燐」
「…如何なさいました」
「これ、逢引だよな?逢引でいいんだよな?」
贄が神成した際、記憶を消されるのは主神だけであり、従神や式神からは消えない。つまり、燐は記憶があるという事。かといって、過去を聞こうとは思わないが。いかなる理由があろうと、彼女を拒絶した自分が居る事はちょっと受け入れがたい。
「はぁ……そうですね。逢引です」
「よっし。俺ができなかった事を俺がやったんだな。勝った」
「貴方何過去の自分に嫉妬してるんですか」
これは逢引と言っていい。逢引とは恋仲の男女が二人で出かける行為を言い、事実俺と砌様は恐れ多くも恋仲なのだから、これは逢引だ。
「べ、別に嫉妬なんかしてねぇよ。事実を言ったまで。じゃ、留守を頼む」
「…はぁ」
燐が呆れたようにため息をついた。そんな彼を背に、俺と砌様の神域の混じる場所にある正面玄関へ向かって歩く。長い廊下の先には、待ち人が立っていた。
「申し訳ございません、お待たせしてしまって」
「そんなに待ってないわ。で、敬語なし」
「却下です。それに、男ともあろうものが、女性を待たせるわけにはいかないでしょう」
「…律儀だなぁ」
砌様はくつくつと喉を鳴らした。
「…美しい着物ですね」
「そう?白菊の着物も綺麗」
砌様の着物は、薄桃色の着物に銀糸で菊の大輪が描かれているものだった。菊と同じ銀糸の美しい髪は上部のみを団子のように結わい、赫に鶴が宿る蜻蛉玉の簪を刺していた。目元と唇には薄く紅が差されている。
「体調は如何です?悪くなったら仰ってくださいね」
「ん、元気元気。体を動かしたくて仕方ないくらい。後敬語」
「無理はしないで下さいって。後却下」
今一度、彼女の姿を上から下まで眺め、ふと思った事を伝えた。
「俺の為に、着飾って下さったので?」
「…ぇ…?」
此方を見て、真ん丸と開かれた瞳と目が合う。ぽかんとしたその顔が、いつも以上に可愛らしくて思わず笑ってしまう。
「た、多少はね……そりゃ、逢引みたいなものなんだし…」
「ふふ、可愛らしいですよ」
「それだと、いつもの私が可愛くないみたいだねぇ?」
白菊の名を冠した俺にとって、その花がどれほど大切なものかは、俺を知る者は皆知っている事。その花が描かれた着物、しかも銀糸。勘違いしてしまうのも無理はないと思う。
「いつでも貴女は可愛らしいですよ。いつもより気合が入ってらっしゃるから、それがより一層磨かれているだけです」
どうしても緩んでしまう口元に、持ってきた鉄扇を閉じたまま寄せる。口元を隠したとは言え、笑いで鳴る喉の音までは隠れない様だ。
「寝起きで不機嫌な貴女も、花々を愛でる貴女も、厨に立つ貴女も。いつの貴女も愛らしいですよ」
「……」
「はは、真っ赤。林檎みたい」
手を伸ばし、真っ赤な顔を撫でる。当の御本人は何が起こっているのかわかっていないようだ。
「…からかってるね!?」
「本心本心。本当に思ってますよ。さ、行きましょ」
俺は背を向けて歩き出す。勿論、彼女の手を引いて、
「えッちょッ……」
長いようで短い一日が始まった。
「…ん…美味しい~」
「味が染みてていいですね」
定食屋でご飯を食べる。焼き鮭の塩味と味噌特有の塩味が絶妙に合っていて食欲を増進させた。
「ここのご飯屋さん当たりだったね。ごはんが進む」
箸を差し込んだ瞬間に溢れ出る魚汁が此方の食欲を煽り、その溢れ出た汁が味噌と絡み合っていい香りを醸し出す。ふわふわとした魚肉と絡め、白米と共に口に放る。焼き鮭の塩味と白米の甘みがこれまた絡み合い、極上の味へと変化する。
「白菊の鮭はどう?一口ちょーだい」
「ん?嗚呼、はいどうぞ」
一口大に切った鮭を砌様の口に運び、入れた。当の彼女は鮭が口に入った瞬間に閉口したが、瞳を真ん丸と開けて固まっている。
「砌様?」
「…ぉ…そう来るか…お皿に盛ってくれるかと……」
「ん?」
もぐもぐと口を動かしながら何かを呟いているが、聞こえないので気にしない事にした。
「砌様。あ」
「…え、なに?」
「俺は一口あげたんですよ?砌様のも下さい」
頼んだ定食は同じ魚料理なのだが、砌様は鰤の照り焼きを頼まれていた。もとより料理を食べない体だったから、ほぼ全ての料理が初めましてなのだ。
「はいどうぞ」
「あー」
「……あー」
口に運ばれた照り焼きを頬張る。香ばしく焼き上げられた鰤の切り身に、甘めの調味料が絶妙に絡まり、口の中でほどよい甘みと深い味わいを楽しめる。焼き加減もまた絶妙で、外側はキリッと焼きつつ中はしっとりとしており、食感も豊か。照り焼きの調味料の甘さだけでなく、鰤のうま味とも絶妙に調和し、食べ応えがある。ご飯との相性も抜群で、一口食べるとついつい箸が止まらなくなりそうな美味しさだ。
「ん、甘い」
むぐむぐと咀嚼する間、ふと砌様を見れば何故か顔を手で覆い肘を机につけていた。
「ホント…そーゆーとこだよホント……」
「ん?」
「いや、うん…なんでもない」
「はぁ…」
よくわからないが、砌様がいいというのならいいのだろう。
「おいしかったですね~」
「ウン、オイシカッタ」
何故片言なのだろう。俺には良く分からなかった。
「次はどこに向かいます?体調も考慮して、もう帰りましょうか」
「…嫌!元気だってば。どっか行こどっか」
彼女に掴まれた腕を掴み返し、手を繋いで歩く。一瞬驚いてしまったが、すぐに状況を理解し隣に並んだ。この区域には食事処だけでなく、甘味処や雑貨屋や呉服屋に、娯楽施設などもある。
「…っおし、あそこだ」
「ん?どっか面白いとこあるの⁈」
喉を鳴らして、鉄扇で口元を隠す。
「行ってみたい店があるんですけど、どうです?」
砌様はこてんと首を傾げた。途轍もなく愛らしかった。
「ひっ……」
思わずと言った風に口元に手を当てる砌様。必死に声を押さえようとする彼女を横目に、ずんずんと暗闇の中を進む。右も左も東西南北でさえ分からない程の暗い空間には、どう考えても式神なヒトガタが血に似せた色水を頭からかぶり、鈍の刃物をわざと錆びさせてぶん回してくる。勿論、此方の居合に入ることは無い。
俺が連れてきたのは所謂お化け屋敷。実を言うと俺は戦闘経験があるから、ちょっとやそっとじゃ恐怖を感じる事は無い。その為、この店の存在は知っていたが入った事はない。
「きゃっ!?うぅ……」
「大丈夫ですか?」
「無理ぃ……ヒッ」
ギュッと目を瞑ってしがみついてくる彼女に、小声で問うた。しかし、此方に向けられた瞳は「大丈夫なわけないだろ巫山戯んな」と訴えかけてきている。外ツ国の怪談物であれば、悪魔やらなんやらで人間からかけ離れたモノが扱われるが、日本では「にんげんこわい」と思わせる様な演出が多い。幽霊やら呪いやらの根本的な原因は人間でした~と言うのが多い為、特に元人間だった砌様からすれば共感できてしまうのかもしれない。
加えてもう一つ。思い出して頂きたいのが、俺達の住処は日本家屋と言う事。前に外ツ国の者と話した時、生活様式が大きく違う事が話題になった。外ツ国の衣服はふんわりと曲線を描き、日本の衣服は直線を描く。外ツ国の家屋はどちらかと言えば縦に大きく色とりどりで、日本の家屋は横に大きく同系色で統一されている。外ツ国の部屋は一つ一つが大きさやら形やらが違うそうだが、日本の部屋はほぼ同じ。即ち、此処のお化け屋敷の造形は俺達の神域の屋敷とほぼ同じと言う事。何なら俺は砌様より何百も年上の為、屋敷も変気が入っている。正に、このお化け屋敷の様に。
「…ぅぅ…帰れなくなるじゃん…ホラー苦手なのに…」
「ふふ、そこまで苦手だったとは……ふふっ」
「わ、笑わないでよ!?ッヒ!?」
横から酷く美しい十二単を着た半透明の式神が通り抜けていった。
「あの子、六条御息所を基にしてるのかな」
「ろくじょう…?光源氏の話はいいからぁ……」
着ていた羽織で彼女を包み込み、視界を遮る。
「も、外に出ましょうか?一応途中退場はできる仕様みたいですけど」
「ぃ、嫌!こ、此処で出たら負けだからッ…」
「貴女は何と戦ってらっしゃるんです?」
最早恐怖を通り越して悟りの境地に入りつつある彼女に、バレない様に、文字通り目を光らせて見つめる。
(展開、構築、潜……?)
「潜」とは、対象者の意識を探ったり魂を直視したりして、穢れを確認したり、或いは真偽を確認したりする際に使う術式だ。これを使えば、例え上位格だとしても関係なく使える(尚、不敬罪にあたる為それなりの神罰が下る)のだが……
(霞…?何も見えない…?)
今回、此のお化け屋敷を選んだのは、彼女の体調不良の原因を探る為だ。幽霊の演出に砌様が集中して下されば、目が光ってしまうこの術式を使っても気付かれにくいからだ。勿論下心もあったのは否定できないが。
しかし、術式を使っても彼女の中は見えなかった。霞が見えるだけで輪郭さえも認識できない。
(誰かから認識阻害の術でもかけられている…?)
「しらぎくぅ…?あそこ出口だよねぇ…?」
「ッあ、はい、そうですね。出ましょっか」
「出るぅ…」
しかし、見る限りでは彼女に害のある術式ではないらしい。恐らく神成した際に起きうる弊害から彼女を守る為、上位格—例えば魄龍とか—にいい意味で目を付けられて、守護の意味で規制をかけられているのかもしれない。
「絶っっっっっ対行かない二度と行かない」
「ごめんなさいってば。そこまで無理だとは思わなかったんですよ」
さっさと店外に出て、そっぽを向きながら速足に歩く彼女の後ろをついて歩く。かわいい。
「ん~なら、御詫びさせていただけません?」
「やだ。信用ならない」
「大丈夫です。次はただの雑貨屋ですから」
「雑貨屋ぁ?」
「ほら、行きましょう」
彼女の手を引き、人混みの中をかき分けて、目的地まで足を進める。当の砌様は何が起こっているのかわかっていない様だ。
あの店には行ったことがない。そもそも、男一人で行くような場所じゃないけど。
「えここどこ滅茶苦茶ジュエリーショップ」
「失礼する。ささ、砌様、入って入って」
「白菊様に砌様。いらっしゃいませ」
店内から店員の式神が出てくる。未だに状況理解ができていないらしい砌様の背を押し、店内に入った。
「これはどうだろう……いや、こっちか?どうです砌様?似合いそうだ」
「ぇ、ん~?そう、なのかな……?いや、これどういう状況…?」
小さな盆にのせられた櫛や首飾りや耳飾りなどの装身具。彼女を連れてきたのはこの辺りで大き目な宝石商。簪や櫛などだけでなく、宝石の埋め込まれた靴に羽織など、高価かつ希少な装身具が多く売られているこの店は、魄龍に何故か紹介された店だ。
「ん、微妙ですかね?」
「いや、えっと、」
「すまない、これも出してくれ」
「承知致しました」
「ねぇどういう状況なのこれ」
棚の中にある別の装身具を出して貰う。砌様はどのようなものが好みなのだろう。御髪に似合うものや着物に似合うもの、豪華なものから控えめなものまで揃っているが、一つでもお気に召したものがあればいいのだが。
(駄目だ白菊の選ぶもの全部好み……)
「如何なさいました?好みのものありました?」
「えぇと、あっと…」
「あ、これとかどうでしょう?」
俺が手に取ったのは、一つの櫛。手のひらに収まるほどの大きさでありながら、その小さな存在感が心を魅了する。その背景には、きっと繊細な手作りの技術と細やかな造形が隠されているだろう。
まず、その櫛の身に目をやると、美しい菊と水流の彫刻が施された繊細な柄が目を引く。手に触れると、心地よい重みと共に、滑らかで手触りの良い素材が感じられる。そして、櫛の端には桜や雪の結晶の形に切り取られた瑪瑙や翡翠が埋め込まれている。その宝石は、まるで星空に輝く星のように、輝きを放ち、櫛の光沢と調和し、美しい輝きを生み出していた。光が当たるたびに、周囲にきらめく輝きが広がり、まるで魔法にかかったような美しい雰囲気を醸しだす。
「っ!可愛いッ!」
どうやら、お気に召したようだ。幼子の様に目を輝かせて櫛を眺める彼女に、笑みを浮かべる。
「これで良さそうですね。これを頼む。支払いはこれで足りるか?」
「承知致しました…はい、十分で御座います」
「え、ちょ……っ、お金……!」
「お詫びだから良いんです。受け取って下さい、ね?」
砌様はわたわたしながら焦っているが、それを横目に見ながら手早く支払いを済ませる。値段は決して安いとは言えないが、普段金を使わない俺からすればさほど気にならない。
支払い後、再び彼女の手を引き屋敷へ戻る。夕餉の時間が近かったからか人が減り、その分早めに帰宅できた。
「砌様?も、もしかして、お気に召しませんでしたか…?」
彼女は先程の顔とは打って変わって、少々青ざめた顔をして俯いていた。
「た、体調がよろしくないので…?」
「…がう……」
「ん?」
「違くて、今日は、白菊と沢山お出かけ出来てさ、嬉しくて楽しくって、それだけで十二分に幸せで…」
そう言い、砌様は袖で口元を隠した。様子を伺う様に此方の顔を覗いては目を背ける。
「だ、だから、プレゼ、贈り物までされちゃうと…なんか、バチが当たる気が……」
「…ふふ」
「な、なに笑ってるの!?こっちは本気なんだよ!?」
「大丈夫ですよ。例え貴女にバチが当たろうと、俺が全て弾き返すので」
何と言うか、今日…いや、最近の砌様は何かおかしい気がする。先程の使用した「潜」では特に問題がなかったが、やっぱり何かがおかしい。
それが何なのか、それは言葉にするのがとても難しい。強いて言えば少し初心と言うか、甘えてくるようになった気がする。俺としては嬉しいが、いつも気丈な彼女にしては異常ともとれる気がした。もう恋仲だからなのか、それとも、本当に不調なのかはわからない。
「砌様、これを」
「…さっきの櫛、だよね……いいの?」
「えぇ。貴女の為に買ったんです。貰って下さい」
「……期待、していいって事?」
櫛は、九と四と表現でき、それは「苦」と「死」を連想してしまうから贈り物には向かない。しかし、その意味をあえて持ちあげて、「苦しい時も乗り越え、死ぬまで一緒に寄り添う」と言う意味で贈られる場合がある。
—それは、主に男性が女性に結婚を申し込む時。
「…はい、勿論。今すぐに、とは、お互いの仕事柄出来ないでしょうが。現状が落ち着き次第」
「…ッ」
何故か、今言わなければならない気がした。
俺は、彼女の想う“俺”ではない。器や魂と言う意味では同じだが、記憶を失った今、彼女の知る“白菊”ではない事は事実だ。それを知ってなお、俺を想ってくれているのなら、後悔する前に伝えたい。
「貴女の一番傍で、四季の巡りを眺めたい」
「初めて知ったんです。この身を焦がす、炎なんかよりも熱いものがある事を」
「砌様。俺は、貴女と共に生きていきたい。それが可能なら、叶うのならば、」
「そうしたら俺は、この世の中に生きる誰よりも幸せだと、胸を張って叫ぶから」
「……しら、ぎ、」
瞳に涙を溜めて、此方に顔を向けてきた。
「砌様」
誰よりも愛おしい貴女の名を呼ぶ。
「…な、ぁに…?」
「ずっと、貴女に言えなかったことがあったんです。言いたいことが、あるんです」
「ぅ、ん、」
彼女の綴る彼女の物語の片隅に、欲を言えばその中心に、俺がいたなら。彼女の言葉に、彼女の笑顔に、俺は何度も惹かれてきた。それはまるで、心が魔法にでもかかったような感覚。きっとこれは、前の俺も同じだったのだろう。
そして、今、この瞬間、俺はそれを隠すことができない。彼女に対する思いが、もう胸の奥で燃え盛っている。彼女の目を見つめながら、俺は言葉を選び、胸の内から溢れ出る気持ちを伝える準備をした。
「貴女への気持ちを言葉にするのは、簡単ではありません。でも、今、この瞬間に、俺はそれを伝えたくてたまらない。貴女が俺の心の中で特別な存在だってこと、貴女を想う気持ちがどれほど大きいか、伝えたいんです」
彼女は静かに俺の言葉を聞き、その瞳には驚きと共に温かい光が宿っていた。
彼女の手を取る。その手に櫛を握らせて、ちゃんと目を見て、短くも長いその言葉を放つ。
「…愛しております。俺と、正式に夫婦になって下さい」
彼女の大きな瞳から、透明な宝石がぼろぼろと零れた。
「…ッ、よろ、こんでッ…」
その言葉が、まるで心の中に花を咲かせるような感覚を与えた。俺たちの間には、言葉を超えた絆が生まれた。そして、彼女と共に歩む未来が、今、明るく広がっているように感じられた。
ある、晴れた日だった。今日はたまたま、寝坊してしまった為、まだ空の色は暗いとはいえ、いつもよりも多くの小鳥が目覚めている。
「砌様、砌様?あれ、いない?また庭か?」
庭に目をやると、はらはらと小雪が散っていた。
「いや、まだ寝てるのか」
あの日、正式に想いを告げてからまたもや数日が過ぎた。俺も砌様も、特に変わらない関係を保っている。それがどこか砌様らしい。
ふいに、鈴の音が聞こえた。
ちりん、ちりん、ちりん
凛々しく、鈴の音が鳴る。音が響かず速い速度で鳴るこの音は、何かの問題が生じた際の音だ。
従来、鈴は魔除けとして御守や神社の鈴尾に付けられている。神社の鈴尾なんかは、祈る前に鳴らすことで魔を追い払ってから祈るのが役割だ。神前で奉納される神楽や舞の鈴も、その役割を担う。また、鈴の音は神の訪れの合図、とも言われる。意味が多い鈴だけど、だからこそ俺達はその意味を感覚で理解することが出来るのだ。
ちりん、ちりん——………
音が、近い。
「砌様、白菊です。入りますよ?」
砌様のお部屋に、彼女を起こしに参る。心の臓が、いやなくらいに鼓動する。
「お寝坊さんですね。もう朝ですよ?」
鈴の音が、この部屋の中から聞こえる。すぅっと、襖を開ける。
「ほら。小雪こそ振っていますが、今日も今日とていい天気で……砌様?」
そこにあったのは、舞い散る紅に、戯れる銀糸と揺れる薄桃の羽織。澄んだ空気に、酷く映える光景だった。
砌様の口から咲く彼岸花は、彼女の白銀の御髪を紅く染め上げて、まるで彼岸花を咥えた鶴のようなお姿だった。
——————————
「言わぬのか。格の事は」
白菊から結婚の話が出て、それを了承した日。あの後、魄龍が白菊—正確には私—を訪ねてきた。
「言いませんよ。あの人は優しいから、悲しんでしまう。幸いあの人は貴方と友達で、何も言わないでおいてくれてるんでしょ?ただ、あの屋敷で二人で過ごすから。それだけで、」
「ほんに、幸せか?」
魄龍は、眉間にしわを寄せた。この方は、私達が出会ったときから、陰ながら支えてくれていた。私が禁忌を犯した時も、荒魂神に成らぬように配慮してくれていた。神成した後も、白菊に探られるのを防ぐために、認識阻害の術をかけてくれた。
「かつて人の子であったことから変わらぬな、砌よ」
私は人間だったから、欲深すぎたから、いろいろなものを欲してしまった。彼の傍に居る権利、彼と共に生きる権利、彼の隣で笑う権利。
それら全部、本当は駄目だった。人間が神になり上がるなんて、おこがましいにも程がある。それらが代償になって、私の気を食い尽くして、消滅に追いやられてしまいそうになっている。
「嗚呼いやだ、ようやっと貴方を愛せるのに。まだ、愛しきれてないのに」
当たり前か。人間であった私が、神様と幸せになるなんて、都合がいい、都合がよすぎるお話。ああして時代を、時空さえ超えて出会えただけでも、奇跡のような幸運なのに。
「我の、従神に成らんか」
「え、」
「案ずるな、何も命令はしない。ただ、我の神気で顕現を続ければ、処置はできる」
「魄龍様、私は、」
「分かって居るよ。お主が全て理解していて今の今まで過ごしていた事。しかし我はここを取りまとめる者。お主の消滅を、ただ見守ることは歯がゆい」
沢山の花に囲まれて、私の隣で笑う貴方をそっと見つめるのが、一番楽しかった。何も覚えていないのなら、それでいい。もう一度、新しい記憶を作ればいい。漸く傍に居る権利を得たのだから、幸せをかみしめていたかっただけなの。だけど、
「申し訳、ございません」
「…どうしても、受け入れる気はないのか」
「…私は、この手で、私だけの実力で、彼を愛したいんです。私の存在が彼の全てを押さえつけてしまうのなら、私などいないほうがいい」
思っていたよりもずっと、私達は互いに一途であったように感じる。私が彼から記憶を奪って、その所為で彼は苦しみ続けた。
私がいると、彼はきっと砌を思い出すことができない。
大好きだ、と心が叫ぶ。
愛してる、と魂が叫ぶ。
身体を巡る暖かく淡い感情が、糸になって行き場を亡くしてしまった。
ちりん、と根付の鈴が鳴る。帯に挟まったそれは、白菊が私に寄こした魔除けの御守。
あの日から、私の願いはたった一つだけ。この根付を鳴らし続けたのは、魔を除ける為でもなく、顔も名前も知らない神の来訪を待っていたわけでもなく。優しくて過保護で、なんだかんだいつもそばにいてくれた、一柱の神様。
ふと、自室より庭先を見る。光差すその空間は、風が季節を運び地を白く染めた。
白菊に貰った櫛を見る。現世ではあまり見ない、プラスチックではない、つげの櫛。綺麗な宝石が埋め込まれていて、白菊が私の為に選んで、私の為に買ってくれた、プレゼント。雪景色に映える、優しい輝きを放った櫛を、庭に咲く菊の花と見比べる。
「愛があれば、立場なんて関係ない」
「神に成れば、一緒に生きていける」
「愛があれば運命を覆す事ができる」
そんな事、無かった。現実は、そんなに優しくなんてなくって、そんなに甘くできてはいなかった。
愛があっても、駄目なものは駄目なんだ。
「…冷えるぞ。今日は、雪が降るようでな」
「…そうですか」
愛と、静かな欲で満ちた冬の庭。
もう一度、あの頃に戻って、貴方と語らいたい。
ちりん——……
——————————
「親しい間柄の者はいない。また、担当していた区域も、無い」
あの後、朝餉を持ってきた燐が部屋に入ってきた。砌様とその傍に跪いた俺の姿を見て全てを悟ったようで、膳を床へと落とした。彼らしくもなく、酷く動揺していて、顔から血の気が引き、青白くなった。その後、俺よりも先に正気に戻った燐に呼ばれ、駆けつけてきた魄龍はそういった。いたとしても、俺に弔われる方がいいだろう、と。なんで、砌様がこんなことになったのかなんて、聞けなかった。
魄龍は、すぐに砌様と関わりのある者を集め、神葬祭の準備をした。喪主は、魄龍の配慮からか俺が担当した。木製の棺桶の中、白い布団に寝かされた彼女の、色とりどりの花に埋まる姿は酷く美しかった。その顔は、まるで陶器の様に白かった。
「…帰幽奉告は我がやろう。白菊、砌の傍についていてやれ」
魄龍が神前に頭を下げ、奉告を行った。一通りやった後に扉を閉め白紙を下げ封ずる。砌様のお部屋にはしめ縄が張られた。
その後、椿さんを含めた女型の式神たちが、砌様の周りに集う。いつの間にか桃の着物の上から白い小袖を重ねて着せられたあの方は、北向きに寝かされていた。
「…椿さん」
「白菊様、如何されました?」
「それ、重ねないんじゃなかったか?」
「砌様の時代では、生前お気に召された着物の上から着せる様です」
「そっか」
話している中、前面には祭壇を設け、玉串・榊・灯明・洗米・塩・水・御神酒、そして俺が彼女に贈った櫛を供え枕飾りが作られていた。
「白菊」
「どったの、魄龍」
「…枕飾りは終えた。共に祈るぞ」
遺族にあたるらしい俺と、燐や椿さん、何かと気にかけてくれた友神に魄龍で故人を囲み、安らかに眠れるよう祈る。
「まだ、お若いのに…」
「人が神に成るという事は、そういう事ですわ」
「だとしても…こんなのってないわよ……」
背後からは、人の子であった頃からの知り合いだという式神たちのすすり泣く声が聞こえた。その声に交じり、燐や椿さんもボロボロと涙を零し、泣いている。
「…っ…」
「ふぅッ…」
「……」
どうしてか、俺は泣けなかった。心のどこかで、この結末を受け入れてしまっている気がした。
それからしばらくの沈黙が続き、納棺の儀へ移る。棺に蓋をし、白い布で覆った後、全員で拝礼した。そして、棺を祭壇の前に安置する。蓋をするその最後に見えた彼女の顔は、やっぱり安らかで柔らかな顔をしていた。
「皆様、手水を」
清い水で手を洗い、祭壇の前に座る。俺の後に続く様に一例をし、魄龍が祭詞を唱えた。
「掛巻くも恐き天理王命の宇豆の御前を遥かに拜み奉りて恐み恐みも白さく、今宵、砌の御霊を……」
淡々とした魄龍の声が、沈黙に響く。未だ、この状況を理解できない。
あの時、俺はいつもより少し遅くに目が覚めた。部屋に伺った時には既に遅かったようで、糸が切れた操り人形化の様に事切れていた。彼女の痩せ細った手を握り、自らの額に押し当てた事を覚えている。そっと傍に屈み、頬に指を滑らせる。穏やかに眠る彼女の顔は、声をかけても体を揺すっても瞳を開く気配はなかった。
(砌様は、こんなに痩せてしまっていただろうか)
何も、知らなかった。彼女の事を、彼女の傍にいたのに、何も知らなかった。
開け放たれた斎場の庭の方を見て、はらはらと散り落ちる雪を眺める。良く晴れた日なのに、酷く寒い。砌様が俺の屋敷に来た時も、このような天気だった。暖かいのに寒い、矛盾した日。よく砌様は「私もしかしたら雪の神なのかもしれない」と冗談のように言っていた事を思い出す。
「……御祭の式美わしく仕え奉らしめ給えと、恐み込みも白す」
その後、部屋中の蝋燭の灯を消し、棺を仮霊舎へ収め、再び明かりを灯し、玉串奉奠を行う。
魄龍から玉串を右手で根元を持ち左手を下から添えて受け取り、祭壇の前まで進み一礼をする。玉串を右に回し、根を祭壇に向ける。そしてそのまま捧げ、一歩下がって二礼二拍手一礼する。俺に続き、参列者も同じように玉串を捧げた。
—ああ、これで、終わってしまうのか。
あの方と共に生活を過ごす度、共に食卓を囲う度。嬉しくも悲しい様な、矛盾した思いがあった。想いが通じて、恋仲になって、いずれは正式に夫婦になる予定であった女性との、今生の別れ。悲しくないはずが、ない。だというのに、一滴たりとも涙が零れないのは、何故なのだろう。あの燐でさえ、決壊した川の様に泣いているというのに、どうしても泣けない。
燐が泣き崩れる。その傍にいた椿さんが隣に移動し、彼の背をさすった。
身を寄せ合い、言葉もなくただ涙を流している式神がいる。着物の布を握りしめ俯く者がいる。魄龍でさえ、その雄々しい瞳から大粒の涙を流していた。
—俺はそれを、ただぼんやりと眺めていた。
子どもは、立派に巫女としての務めを果たし、眠りについた。
ぽっかりと、胸に風穴が空いてしまったようだった。なのに、涙は少しも出てこない。もう一度話がしたい。もう一度笑顔が見たい。もう一度、貴女に逢いたい。なのに、少しも涙は出てこない。
「…良く、やった…数十年だ。我らにとっては一瞬の事だが。人の子にとっては、とても長い時間であったろうな」
数十年なんて、半永久的に生きる俺達にとってはほんの一瞬の時間だ。でも、あの方と共に過ごす時間は輝かしいもので、短いけれど幸福な日々だった。
「…白菊。お前が、その手で葬ってやれ。あれも、その方が嬉しかろう」
言われるがまま、愛する人の眠る棺に、炎を放った。それは、炎。名誉も栄華も地位も名声も、この身さえも焼き尽くしてしまう恐ろしい光が、その棺を包み込んだ。
「…今日が、お主の眠る日なのだな」
炎が止んで、残った灰の中には真っ白で小ぶりな骨だけが、残っていた。
あの彼岸花は、あの人の命の色だった。雪がさんさんと降っていた日、ほんの少し起こしに行くのが遅かった。ただそれだけなのに、最期を看取ることは、出来なかった。白い布団の上で紅い花弁に包まれ、冷たく事切れたあの方は、酷く穏やかな顔で、薄く開かれた白い御手の中には、櫛と白菊の花が一輪、咲いていた。冬の輝く深い光が、静かに眠る人の子の魂を持った女神を囲んで、きらきらと煌めく氷の結晶に包まれたその一角が、まるで美しい物語の絵巻物のように思えてならなかった。
(そういえば、俺は砌様の事、少しも知らなかった)
なぜ、神なのに消滅ではなく死と言う概念があったのだろう。なぜ、肉体が残ったままだったのだろう。何故、火葬しても骨が残ったのだろう。砌様は、俺の事を何もかも知り尽くしていたのに、俺は、あのお方の事を少しも知らない。
外に目をやれば、未だに雪がしんしんと降っている。
あの人の御髪と同じ、銀の大地。久方ぶりに一人で見た、銀世界の神域。そこに季節外れに咲き乱れる、菊。あの人が入る骨壺にほんの少し遺った神気で、まだその命を燃やしている。
——あの門の奥にも、神気は遺っているのだろうか。
ふと、開かずの引き出しを思い出した。
(だぁめ、そこは開いちゃ)
いつも、この引き出しを開けようとすると、砌様の声が聞こえた気がする。
ぼんやりと、覚えている。叶うはずのないものを願ったあの不安。かつての俺はそれを無視し、顔も名前も声も覚えていない贄の後姿を、ただ眺めていた。その贄は、確か、俺と対照的な子だった。砌様のような、銀の髪の。
そして、全ての伏線が繋がった。
——この戸を開けられなかったのは、砌様が術をかけていたからだ。
「もう、言い飽きたでしょう。疲れたでしょう?大丈夫です、大丈夫ですから。もう、ゆっくりお休みになって下さい」
思い出を語れなくても、全て思い出した後、その痛みに苦しんだとしても。今まで積み上げてきたこの想いが、偽りであったとしても。
俺は今、ここに居る。確かに今、ここで生きている。
全部思い出したら、何から語ろう。物語は記録だ。他者によって書かれた人生禄で、本人の知りえない記録。人々の想いが織りなす、誰も知らない、それでも確かに存在した人の物語。何が、人を動かすのかを、俺は知っていたはずだ。
「あのまま貴女の何もかもを、白菊の名の下に隠してしまえたら、どんなに幸福だっただろうか」
この台詞も、かつて口にした気がする。でもそれはまるで一夜の夢のようで、そしてどんなに願っても祈っても、その夢を再び見る事は叶わないだろう。あの人と笑い合ったあの日々は、もう戻らない。この引き出しを開けてしまえば、俺は砌様に恋した俺ではなくなってしまう。
—それでも、いつかまた、目が覚めた夢の先で、貴女を想えたら、と思う。
しゃんと背を伸ばして。神様らしく前を向こう。その決意を胸に、引き出しを開けた。驚くことに、さっきまで開かなかった引き出しは、いとも簡単に開いてしまった。
中には、鍵と手紙が入っていた。
その文を読んだ瞬間、俺は反射的に骨壺を抱き、あの開かずの門に向かって走った。
はぁ、はぁ、はぁ
はっ、はっ、はっ
件の門についた。相も変わらず大きくて、相も変わらず広い。
錠に鍵を差し込み、開ける。重いそれをひと思いに開くと、そこには池があった。その池を見て、まるで「嗚呼池か」と認識したように、自分の事を、少しずつ思い出してきた。
記憶と涙がとめどなく溢れてきた。俺が好きだと笑った君が、ずっと愛おしかったことを、なんで忘れていたんだろう。
「み、ぎり、さま」
もっと笑った顔が見たい。沢山の書物を与えて、裳着の歳まで育てて、人間のように。
白菊の咲き誇る庭先で、凛々しく立っている。その姿の、その薄桃の、何と美しい事か。あれから記憶が消えようとも、その美しい薄桃を、どうしても完全に忘れることができなかった。だから、あの女神を素直に受け入れられたんだ。
季節は、巡る。神の感情は、人の子よりも驚くほど鈍いようで、なかなか気付けなかった。気付いても、気の所為だと蓋をしてしまっていた。人の子は、良くこのような焦がれる想いを抱えられる。炎なんか、比べ物にならないほど、熱くて苦しい。
もう一度、足に力を込めて、池の傍まで走る。
はじめはただの同情で。それが自然と自分の為になったのは、いつからだったろうか。
彼女を見殺しにした村の者を、憎むことも嘆くこともせず、人の子の暗闇を受け入れ許してしまう程に純粋な君は、俺など比べ物にならぬほど、あまりにも綺麗だった。
段々と近づく池を見て、ふと彼女との生活が脳裏に浮かんでは消える。
愛おしくて、懐かしくて、残酷な、まるで美しい歌集の中にいるような。
如何したら、守れた?俺はあの手を、あの、暖かく華奢な手を、如何したら離さずにいられただろう。
あの静かな神域の中で、俺は確かに、君に叶わぬ恋をしたんだ。
(忘れてしまうだろうが、伝えておく。あれは、お前の贄は神成した。今日中に、記憶は消えるぞ)
そうだ、あの時、あの子が魄龍の屋敷へ行った後、思念伝達で知らされたんだ。それさえも、俺は忘れてしまったのか。
本当は、少しでよかった。少し、彼女と過ごせる時間が欲しかった。裳着の歳になったのなら、彼女を現世に返して、上から見守るつもりだった。だのに彼女は、別れの挨拶さえ言わせてくれないまま、突然その姿を消した——二度も。
人の子の時間はあまりにも短くて、早い。永遠に一緒に過ごす事なんて出来ないと、分かっていた。人の子にあっても神にあの世などないと、分かっていた。だからこそせめて、あの子の為に、人の子としての幸せより俺を選んでくれた、あの子の為に泣きたかった。
嗚呼、あの日、君が泣きそうだったのは、そういう理由だったのか。
池に、ついた。もう後数歩で水面に触れてしまう。
(白菊!)
水面に、触れた。酷く冷たくて、その中は酷く暗い。それでも、太陽を反射してきらきらしていて、中には鯉が泳いでいて、その上に空が反射している。これを彼女は、二度も潜った。
(私は白菊の事、好きだよ)
「…あ、ぅあッ、あ゛ぁ“あ あ ぁ !!!」
想ってはいけない。願ってはいけない。神と人の子では、どうしても釣り合わない。
「ッぎ、り……砌ぃ…ッ」
それでも、君は、俺を想ってくれた。全てを、犠牲にして。
【貴方が覚えていなかったとしても、叶わぬ願いだと分かっていても、ずっとそばに居たかった。
ここは貴方の為の、貴方の為に整えた庭園。貴方の域に優しい四季があって、些細な驚きに笑ってくれて、いつもそばにいてくれた貴方の眼差しを守ろうって、思ったの。
運命は、偶然よりも必然である。私達もこれに尽きるみたい。出会いも、この結末も。だからさ、凛としたその背中を、しゃんと伸ばしてほしいんです。私との全てが白菊を白菊じゃなくさせちゃうんだったらさ、いっそ、忘れてくれて、構わないから】
「…あは、は。砌、どんな顔して、忘れて、なんて言ってんだよ」
いつの間に、こんなものを書いていたんだろう。本当は、忘れて欲しくなんてないんだろう。それくらい理解している。それでも、俺の為に言ってくれたんだろう。目を閉じれば、その姿が鮮明に思い浮かぶのに。君はもう、どこにもいない。
あれほどまでに欲した記憶が、君が消えなければ蘇らないなんて。分かってたはずなのに、理解はしていなかった。
「なぁんで、俺が、この俺が忘れちゃうかなぁ…ッ…」
——————————
人とは、つくづく不思議なものだと思う。一度信じた事は最後まで信じぬき、新年を貫き通す。最期がどんな結末となろうと、運命が分かっていようと真っ直ぐに生きる。負けると分かっていながら、炎の中太刀を振り回した男がいた。己よりも城下の人々の為、己が命を投げ出した男がいた。夫の名誉の為、命を絶った女がいた。長い時を生きてきた中で、どうしてもその理由が理解できなかった。まだまだ、彼らについては知らない事ばかりだ。十を知れば、同時に百を知る事にも成り得る。知れば知るほど奥深く、知れば知るほど疑問は募るばかり。
そして、知れば知るほどに、愛おしく思う。知れば知るほど、人が好きになる。
無論、醜い悪行だって見てきた。親兄弟を、自分の欲を実現させるために殺した者。女子供を殺した者。態度が気に食わないと僧を斬った者。刀の試し切りで数十人を斬った者。何なら、頭蓋骨で盃を作った狂人もいる。なんで、こんな奴らを生かしておく必要があるのか、消してしまえばいいとさえ思ってきた。
でも、その行動理念は何だろう。誰かは、今の家族よりも未来の家族を思い。誰かは、先人の思いを受け継いで、誰かは、他者の手に渡る前に純粋のまま終わらせる。多少の歪みはあれど、その行為には優しさと温もりがあった。それを知れば、どうしても嫌えなかった。理解はできないけれど、気持ちは分かる。だからこそ、今も変わらず彼らを愛おしく思ってきた。
それでも、やっぱり彼らを完全に理解することは難しい。けれど、「こういうものなのだ」と言い切ってしまうのではなく、「どういうものなのか」と自身に問い続けている。これからも、きっと続ける。きっと正解なんてなくて、疑問が消える事はない。でも、きっとその事実こそが正しい事なのだと思う。
自分が今、ここに居るのは、自分を信じてくれる者がいて、支えてくれる人がいるから。いつまでも、俺を愛してくれた子がいるから。いた、から。
あの子との記憶も、あの子自身も、どちらも大切で、何事にも代えがたいもの。だから、もしもあの子が全て忘れて、他の誰かのもとに行ったとしても、彼女が幸せであるのであれば、俺はそれでよかった。
だから、あの子が自信を犠牲にする必要はなかった。あの子が泣く必要など、露程もなかった。
愛する人にそんな顔をされては、如何すればいいか分からなくなってしまう。
『————』
嗚呼、まだ、そんな事を言ってくれるのか。まだ、そんな事を想ってくれるのか。
『——、————』
俺も、だ。
俺も、確かに幸せだった。まだ、そう言ってくれる事が、酷く嬉しい。
もう、きっと遅い。今伝えたところで、彼女には届かない。それでも、言わずにはいられない。言わなければならない。
「いつまでも、愛しているよ、砌」
『…———!—————!?』
うん、俺もそう思う。
今更だけど、今なら、言えるんだよ。あの時じゃ、言えなかったんだよ。立場が、悪かった。言い訳だけど、それが規則だったんだよ。
でも、今なら、遅いけれど、今からならいくらでも言える。
「…愛してる。もう、離れないよ」
『わたしも。もう、離れないでね』
春を告げる暖かい風が、頬を撫でた。
「眠い…少し、寝ようかな…」
「白菊、白菊や。どこに居るのだ」
ふわふわとした春がやってきた。この庭園は広い。白菊は、どうやら置手紙も置かずに庭に出ていたらしい。魄龍様が、困ったように小走りで白菊を探している——そうだ、今日は祈年祭があるから、招集の日だったんだね。なら、早く行かなきゃ駄目じゃない。
「嗚呼、ようやっと見つけたぞこの寝坊助。この域は広いのだから勝手に外に出ては行かぬとあれほど。せめて置手紙をだな」
魄龍様、まるでお母さんのようだ。しかし、白菊はその声には応えず、じっと動かないまま、塚にもたれていた。
「……嗚呼、寝ておるのか」
寝てるって、祈年祭、間に合わなくなるよ?
「——砌よ、未だそこに居るのか」
(仕方ないじゃない。この塚、気に入ったし。さすが白菊、良い感性してる)
私達が出会ったあの池の傍に、小さな石と大きな石を組み合わせて作られたこのストーンサークルの様な石塚は、白菊がその暖かく大きな手で作ってくれた、私のお墓。両脇に立派な石灯籠が建っていて、隣には池がある。池の傍なんだから、二月にはちょっと寒くないかな?
「…全く、白菊から聞いていた通りだ」
魄龍様は着物の袖に両の腕をしまい、塚に目線を合わせるようにしゃがみこんだ。そして消えかかった石灯籠の燭台の炎を、霊力を注いで再び灯した。
「こんな時期に白菊を呼ぶなど……お転婆、結局治らなかったのだな」
(別に呼んでないよ?白菊が勝手に来たの、私だってこんな季節にまで外に居て欲しくないし)
塚にやっていた目を、塚から見れば左、魄龍様から見れば右に寄りかかった白菊に移し、その後塚の傍に目をやった魄龍様は、そこにあるものを見て困ったように眉を下げ、少し口角を上げた。
「……もう少し、寝かせておくか」
塚の傍には、大きな碑が立っている。そこには、長々とこう刻まれていた。
【これは、炎。名誉も栄華も地位も名声も、この身さえも焼き尽くしてしまう恐ろしい光。それに包まれて、貴女はけむりになる。そうすれば天高く舞い、いろいろな場所に散るだろう。大地の全てと一体となった貴女は、人々のすぐ傍で全てを受け止め、この世の行く末を見る】
白菊の霊力で生きる菊の花園が、風に揺られて靡いていた。
「高天原に神留り坐す、皇親神漏岐、神漏美の命以ちて、八百萬神等を、神集へに集え賜ひ、神議りに議り賜ひて…」
俺が祝詞を唱え、町の人々が一斉に跪いた。かくいう俺も、唱えつつ同じように頭を下げる。
今日は、大祓の日。であると同時に、この町に御座す神様に、この地域に人が住むことを神に許してもらう日だ。
「…祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す」
祝詞を唱え終え、禰宜や権禰宜と共に宮司代理である俺は御神前から退いた。
俺の一族は、代々この神社の宮司である。幼い頃に、まだ父が現役であった時に、いわれを教えてもらった。
この町—と言っても村—には昔から、百年に一度生贄を神に捧げる儀式がある。この町には産土神の他に炎を司るという神—白菊様と言うらしい—が宿られた。その後に、産土神の地位にその白菊様が正式に着任なされた。その日に、白菊様が父の夢枕に立ち、
「もう、生贄はいらない。ただ、最後に犠牲となった彼女を忘れなければ、未来永劫、加護を与えよう」
と仰ったらしい。
俺は、その最後の生贄と言うのが何を指すのかが分からなかった。でも、父は俺に衝撃の言葉を発したんだ。
「白羽お前、和泉さん家の美輝ちゃんの事、覚えてるか?」
「みきり?覚えてるけど?」
みきりこと美輝は、俺の幼馴染だ。珍しい、日本人離れした白髪をしていて、村人からも実の両親からも嫌われていたのを、よく覚えている。俺も少し気味悪がっていたが、俺が年上の子にいじめられていたのを庇ってくれた事を期に、友達になった。よく何でもかんでも見切り発車で物事を進める性格の為、美輝と見切り発車をかけて「みきり」と呼んでいた。
でも、その美輝は十二歳の時に行方不明になってしまった。その時俺は小学校のクラブ活動で美輝に先に帰って貰ったその日に、下校中にいなくなったという。
「その、美輝ちゃんが、最後の生贄だったらしい」
「…は?」
「いや、俺も知らなかったんだ。新しく着任なされた白菊様から、「砌」と名乗る女の子が生贄に捧げられ、あちらで亡くなった、と」
「みぎり…?」
みきりとほぼ同じ音に、酷く動揺する。
「お前、美輝ちゃんの事、みきりって呼んでたよな?」
「呼ん、でた」
「父さんもそう思ってさ、村長に問いただしたんだよ。そしたら、ビンゴ。美輝ちゃんを誘拐して池に突き落として殺したの、あいつらだ」
「は、んで、」
父曰く、あの日はちょうど生贄の儀の時期と被っていたらしい。いつもなら生贄と言えど動物やら農作物やらを使うのだが、今回は違う。ただ容姿が他より異なるだけの美輝を消すために、この時期を利用したのだと、村長は言ったらしい。
「俺も、信じられんかったよ。でも、村長だけじゃない。あの議員共もみんな、そう言ってた」
「クッソが…!」
「…父さん、警察行くわ。もう、耐えられん」
そう言って、父さんは家を出た。その次の日には村長の家に警察が来て、しばらくしてやつらがテレビに出て、村のヒエラルキーが大きく変わった。
「白羽ぁ?どこいくの?」
玄関で靴を履いてたら、キッチンから母さんが声をかけてきた。
「みきりの墓参り行ってくる」
「そ!ならおはぎあるから持ってき。美輝ちゃん好きやったろ」
「おーけー」
おはぎの入ったタッパーを抱えて歩く。みきりは昔っから和菓子が好きで、ポテチとかよりも和菓子ばっかり食べていた。何なら遠足にも和菓子だった。その中でもイチオシがおはぎで、優しい甘さが好きだと言っていた。
十数分程歩いて、神社の下へやってきた。俺達の一家が神職として就く、三年ほど前にできた神社だ。この神社は不思議な形状をしていて、まさかの御神体が池なのだ。その池の傍に、みきりの墓はある。墓はこちらで建てた物だが、どうやらそれも神様のお告げによるものらしい。
『父さん、御神体が池ってどういう事?』
『なんでも、白菊様が恋をしてしまった巫女が、想いが通じないまま亡くなたんだと』
『…巫女ぉ?』
『で、その巫女が、この池と深い関りがあるんだと……多分、十中八九、美輝ちゃんの事だろうな』
この社を建てた日に、父さんはそう言った。その事実に、神様に嫉妬したのを覚えている。
俺は、みきりが好きだった。いつもそばにいてくれて、いじめから守ってくれて、いつも真っ直ぐで。そんな彼女が好きだった。行方不明になってから十五年経った今でも、その想いは変わらなかった。だから、女性から告白されても全て切って、みきりだけを想って生きる事を決意した。
この十五年で、多くの出来事があった。大地震が起きて各地で火災が起きたり、交通事故が多発したり、何なら放火魔とかもいた。でも、この村だけが全ての被害から回避されてきた。それも全部、白菊様のおかげなのだろう。認めたくはないけど。
本殿について、扉を開け階段を下ると、池が見えた。そしてそのすぐそばに、墓が建っている。
「みきり、今日も来たぞ」
そう言って、墓の前におはぎを置く。そのまま、今日あった出来事を話す。
「…そういやさ、お前、白菊様のどこを好きになったんだよ」
何度目かもわからない質問を投げる。答えは返ってこない。
「駄目だって、叶わねぇってわかんねぇ?ちょっと考えれば分かんのに、冷静になれよなー」
何度目かもわからない、持論を展開する。反論は返ってこない。
「見切り発車の美輝。神様の御膝元でも美輝節を出したのかよ…メンタル鋼とかのレベルじゃねえって」
何度目かもわからない、煽りを言う。煽り返しはされない。
「……は~。ぜってぇ俺の方がみきりの事知ってるし、過ごした時間もなげぇし。ぜってぇ俺の方が好きなのになぁ」
よっこらしょと立ち上がり、池を覗き込む。鏡みたいなその池は、頭上の空を反射して、池の中の俺が俺を睨んできた。今日は、奇しくも十五年前、みきりが失踪した日。
「おいカミサマよぉ!みきりはな、どうっしようもねぇ奴でさぁ!アンタはな、みきりに、美輝に幻想抱きすぎなッ!?」
どうしてか、水面に波紋が広がった。今日の天気予報は快晴のはずだったんだけど、雨でも降ってきたのかな。
「初めて優しくしてくれた女を清廉な淑女だと思うのも分かるけどさぁ!?でもな!あいつは筋金入りの悪戯好きだし、授業態度わりぃし和菓子しか食わねぇ偏食だし、何なら村中の神社に落とし穴掘るような罰当たりなんだよッ!」
波紋が二つ、交互に現れては消えてを繰り返す。局地的な雨だ。さっきから、俺がちょうど覗き込んでる場所にしか降ってない。
「夏にセミの幼虫刈り取りまくって、全部学校のクラスに隠して一気にふ化させたり!しかも当の本人はその日仮病でずる休みするし!?お前それ、あいつの事なんも知らねぇくせに、」
は、と息を吐く。上がる心拍数に、呼吸が荒い。
「なんも、知らねぇのに、んで、好きになったよ……」
波紋が続々と浮かんでは消える。水面に映る俺の顔が歪んでいるのは、きっとこの波紋のせいだ。
「好きになったならさぁ…責任もって最後まで愛し抜けよ…できねぇなら、好きになるんじゃねぇよ……」
ごしごしと涙をぬぐって、その場を立ち上がる。服に付いた汚れを手で払って、みきりの墓に向き直した。
「…俺、お前を幸せにできる奴なら、認めたんだけどなぁ」
また明日、と声をかけ、その場を離れた。
ちりん
もと来た参道を歩く。来た時よりも足取りは重く、ゆっくりと歩いている時、鈴の音が聞こえた気がした。ふとお社に目をやれば、本殿の周りの玉砂利—昔は、水限と呼んだらしい—に白い菊が一輪、咲いていた。
(あんなところ、さっきまで菊咲いてたかな)
憎き恋敵の名と同じその花に嫌悪感を抱いていれば、はっと気が付いた。その菊は、ちょうど御神体である池に繋がる、ついさっき潜ったばかりの門の前で咲いている。
「白菊、様…?」
ふと、このお社の神様の御名を口にする——きっと、会いに来たのだろう。神様は、気まぐれの自由神だから。神の訪れ、いや、鈴と共に降りたのだから、神の音連れと言ったところだろうか。
「そこまで好きなら、なんで言わなかった?なんで、余計な希望を持たせたんだよ?」
神に対する口の利き方ではないが、どうしても聞かずにはいられなかった。
「…いんだろ、そこ。みきりを殺したお前を、俺が分からねぇわけないだろ」
ゆら、と菊が揺れる。風は、吹いていなかった。
ぶわぁっと桜が舞い散る。やっぱり、風は吹いていない。視界いっぱいに桜吹雪が映る。あまりの美しさに、声が出ない。
「…っは……」
『…すまない』
吹雪の中、凛とした男の声が聞こえた——多分、白菊様の声だ。
「人、一人殺しておいて、すまないってぇ?どの口が、どの口が言ってんだよッ!?」
『……』
「何とか言えよカミサマよぉ!?そこにいんだろ、分かってんだよッッ」
視界が歪む。ほっぺたに生暖かい液体が伝う。相手が神だとしても、畏怖の念は抱かなかった。
「どーせ、どうせさっきの俺の怒号も聞いてたんだろ!?なぁ、美輝を殺した時の事、教えてもらいたいくらいだわ!」
『…すまない』
「謝って済む話じゃねぇだろ。それで済むのか、カミサマってのはずいぶんとお優しいお人が多いんだなぁ!?」
桜吹雪が止む。歪んだ視界に映るのは、黒い着物を着た、顔を隠した男。
表情は見えないけれど、布越しの感情は、酷く苦しいものであると感じた。
『……懺悔には、成らないだろう』
「なんの、事だよ……あんた、なんつー顔して、」
『懺悔には、成らないが、この村は、貴殿の事は、末代まで守り抜く』
「今更、何を言って、」
『愛していたんだ。今も、その想いは変わらない』
食い気味に、相手は言葉を放つ。その声は、酷く震えてか細かった。神の御声とは思えぬほど、弱々しい。
『駄目だと、理解していた。でも、彼女の笑顔を見る度、想いは募るばかりだった』
「……」
『恨んでくれていい。呪ってくれていい。貴殿には、その権利がある』
「…そういう問題じゃ、ねぇだろ。そういう問題じゃ、ねぇんだよ」
そういうと、神は酷く動揺したようだった。空気が明らかに変わって、相手の方が少し震えている。
「……もう、いいよ。いやよくねぇけど、神様が泣く程愛されてたんなら、みきりも本望ってもんじゃね?」
『みきり、とは』
「アンタが言う砌の事。許すって言う言い方もどうかとは思うけどさ、一個だけ、誓って欲しい事がある。約束じゃねぇ、誓いだ」
『…受け入れよう』
俺は、一呼吸おいて言った。コイツに会ったら、絶対に言ってやろうと思っていた言葉だ。神様じゃきっと、この気持ちは理解できないだろうから。
「今後、他の女と付き合うな。一生みきり…砌の事だけを想って生きろ。それを誓うなら、俺も引くよ」
『…それだけで、良いのか』
「神様からすりゃ、それだけなんだろうけどさ。命かけて愛した人が、人生賭けて愛し返してくれる。それだけで、きっとアイツは報われる」
『そう、か』
「……帰れよ。アンタも、白菊様も忙しいだろ」
また、桜吹雪が起こる。今度は、白い菊の花弁が混じっていた。
ちりん、ちりん——………
『……ありがとう』
鈴の音が聞こえて、気が付いたら目前には誰も居なかった。突っ立ったまま、池に向かって、遥拝をする。潤んだ涙を乱雑に拭って、帰路に就く。
あの池は、証だ。時代遅れな生贄に選ばれてしまったみきりと、白菊様がこの世(現世)から忘れ去られた後も残る、証。神と人の、決して叶うはずもない恋に、きっと幾度となく苦しめられただろう。
しかし彼らは幸福だったと、俺は思う。それは永遠に真実で、彼らを知る人がいなくなっても、彼らの四季は永遠に巡り続けるのだろう。人間の、俺たちの知りえないところで。
何も知らない俺が言えるのは、それだけだ。
俺は今日も、白菊様と美輝の、砌様の為に、菊の狂い咲くこのお社で、祈りを捧げる。
「十五年越しに、失恋、か」
一人呟いた声は、きっと誰にも届かなかった。
「なら、明日の朝一。魄龍邸に行ってくれ」
冷たく、突き放すように言われた。明日に成れば、互いに赤の他人となれるのだとでも言う様に。この屋敷、俺の神域から出ていけとでも言う様に。
「…うん、分かった」
やっぱり、駄目だ。私じゃ、駄目だ。
「人の子よ。現世に戻るか、幽世に留まるか。その心は定まったか」
私の十六の誕生日。昨日、白菊に言われた通り、私はここらを取り締まる神—魄龍と言うらしい—の下へ来ていた。流石は長といったところだ、白菊の神域より広く、美しく、そして空気が澄んでいる。ここに長くいれば、彼を忘れられるだろうか。
「……沢山、悩みました。ここに来て四年間、はっきりとした答えが出た事はありませんでした」
「…ほう」
「でも、先の戦いで、思い知ったんです。私は——彼の隣には、いられない」
一呼吸置き、魄龍様は口を開いた。その面持ちは、酷く辛そうな、酷く痛そうな顔だった。流石親友と言うべきか、その顔はかつての白菊と似ていた。まるで、申し訳ないとでも言う様に。
(貴方が、そんな顔する必要はないのに)
「…では、如何する」
一呼吸おいて、私が決めた決断を述べる。
愛があれば立場なんて関係ないとか、愛があれば運命を覆す事ができるとか。そんな事は、無いんだと思う。現実は、そんなに優しくなんてなくって、そんなに甘くできてはいないんだって、前の戦いで、ようやく気が付いた。
「私、帰ります。帰らせて、下さい」
愛があっても、駄目なものは駄目なんだ。人と神は、私と白菊は、きっと、否、絶対に釣り合わない。
「…そうか。それが、最後の決断と言う事で、よろしいか」
「…は、い。大丈夫、です」
視界が歪んで、畳が濡れて、肩が震えて、声が震えて、頭が真っ白になる。
—多分、記憶は消される。全部、忘れてしまう。
それは、嫌だ。忘れたくない、絶対に、忘れたくない。けど、世界はそんなに甘くない。私が何と言っても、理が変わる事は、無い。
「…帰るのならば、お主から、此処で過ごした全ての記憶が消される。それでも、構わぬか」
「……ッはい。分かって、ますから」
知っている。と言うか、そもそも神との生活の記憶がそのままある状態で現世に帰るなんて、危険でしかない。巷では、式神と結婚した神がいる。でも、人と結婚した神の話は、一度だって聞いた事がない。前例がないのだから、叶う可能性の方が、低いだろう。
「この想いがあればいいなんて、考えてた時期もあった。でも、愛してたって、どうしたって駄目なんだ。先日だって、守られてなきゃ、きっと死んでた。ここで残ったって、上手くいく保証なんて、ない、でしょう?」
「…お主、あれの事は、知っているか?」
「禁忌、犯した上位格、ですか」
魄龍様は、何かに気付いたように言葉を詰まらせる。外では、私が死んだときと同じ、雪がさんさんと降っていた。その真っ白なスクリーンみたいな景色の中に、ぼんやりと人影が見えた気がした。
「そ、うか」
「あれは、パラレルワールド…平行世界の私、だと思ってます。どうやったかは、分からないけれど」
「…過去の、どこかの時点で分岐した、可能性の世界、か。こんな半端な世だ、不可思議な事が起こっても不思議ではないな」
私にとって、此処にいる理由は、彼と共にいる為の手段の一つだというだけで、そこまで重要ではなかった。
長い夜が明けて、恋が終わるのを、冷めてしまうのを待っていた。その待ち時間で、知った。彼の視線の先には誰かがいる。いつからかは分からないけれど。庭先を見る時に。手紙を読む時に。そして、私の中に。私の中に、確かにいる。
「ここに留まってしまえば、人としての私は死んでしまう。この身を繋いだのは白菊だから、そんな簡単に、消したくない。忘れても、生きて、生きて生きて、生き抜きたい。それがきっと、恩返しになる」
「…花は散り、夢は覚め、露は落ちる。なぜなら、そういう運命だからだ」
「…はい」
「……酷な事ではあるが、受け入れるしかあるまい。時代が、環境が悪かった。お主は何も悪くない」
パラレルワールドの私は、きっとここで神に成る事を決めたのだろう。でも、きっとそれでも、いずれは崩れ去ってしまうのだと思う。それを知った上で、神に成って、どういうわけか私に会いにやってきた。
私には、その運命を受け入れる覚悟がない。同じ“私”だとは思えない、この決意の差。それは、いつも見ていた夢で、私が捨てた可能性。それを、ただ“あの人”が拾い上げただけ。ただ、それだけなんだ。
「…場所を移動しよう。決断が揺るがぬうちに、戻った方が良い」
「……はい、わかりました」
魄龍様のすぐ後ろについて、二人で移動する。どこかは分からないけれど、帰る為の儀式の場所まで移動する時、また同じ視線を感じた。しかしその先には誰も居ない。誰も居ないけど、誰かがいる。あの時と同じ、そして先の儀式に感じた気配と同じもの。それは、魄龍様も気が付いたらしい。
「話しても構わぬが…」
「……少しだけ」
魄龍様の言いかけたこと、少しだけ分かる気がする。けれど、もう決めた事。結末がどうなろうと、全て受け入れる心づもりだ。
「…阻止しに、来たの?」
無。
「何か、言いに来たの?」
無。
「分かってるでしょ。釣り合わないんだよ。釣り、合えないんだよ」
無。
「……ねぇ、覚えてる?あいつの事。幼馴染の男の子」
少しだけ、空気が震えた。
「…会えるか、分かんないけど。乗り換えるとか、そういう意味じゃないけど。私を支えてくれる人は、現世にもいるの。再会できなかったとしても、きっと出会えるから」
さぁっと、小雪が散った。それが、答えだ。
「私は、貴女を止める権利なんてない。貴女は私で、私は貴女だから、気持ちも分かるから……さようなら、お幸せに」
「……行くぞ、砌」
「現世に帰る為には、幽世の器を消さねばならん」
「つまり、ここで自殺しろ、と?」
「…選べ。自刃か、毒か、吊るか——俺に、飛ばされるか」
式神が、お盆に短刀と液体の入った盃と帯を乗せて持ってきた。その中には、椿さんも居た。そして、魄龍様はご自身の腰に下がった太刀の柄を撫でる。つまり、そういう事だ。
「…服毒を、勧める。苦しみは一瞬、眠る様に逝ける」
「…斬首は、魄龍様のお手を穢してしまうから、嫌です。吊るのは…私、水泳やってたので、呼吸が続いてしまうから、駄目」
そういうと、状況を察したのか帯を持った式が下がる。残りは、椿さんともう一人。
「……苦しいのは、嫌です」
「ならば、毒を」
「でも、安らかに終わるのも、嫌」
魄龍様は、混乱したように黙り込んだ。
きっと、神様にこの想いは理解できないだろう。だって、私だって理解できてない。
「長年、白菊と過ごしたあの日々を、静かに忘れるなんて、嫌です」
「何故。何故、わざわざ苦しむ方を、」
「だってっ!私だって忘れたくないっ!!」
再び、涙がとめどなく溢れる。でも、それを拭う気力が湧かなかった。
脳裏に浮かぶのは、愛おしくて、懐かしい、アニメの中みたいにありえない日常。何より大切で、何より幸せだったあの日々。
私はあの手を、あの、暖かく大きな手を、どうしたって守る事は、出来ない。
「忘れたくないから、これは私が身の程もわきまえずに行動したバチが当たっただけだから、楽になるのは、お門違いだって、思う」
「お主がそこまで気を遣うことは無い。お主とてまだ子供、過ちくらいいくらでも、」
「私が、そうしたいんです。自分で自分を許せないから、そうするんです。だから——短刀、下さい、椿さん」
「ッ…承知、致しました」
毒皿を持った式神が下がり、恐る恐るという感じで椿さんが前に出た。捧げられた短刀を手に取り、抜刀する。刃文が、素人でもわかるほど美しい。私の自刃に使うのが、勿体無い逸品だ。
「…分かった。砌、最期に何か、言い遺したい事は?」
「…夜もすがら 契しことを忘れずに 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき、と」
『私が死んだなら、貴方はあの夜の約束を覚えておいてくれるでしょうか。もし覚えておいてくれるのなら、貴方はどんな顔をして泣くのでしょう。その涙の色が見たいものです』
一条天皇の妻である定子が、二十四歳で亡くなる直前に遺した歌。定子が亡くなった後に発見され、一条天皇は生涯彼女を引きずったという。
「奴は、忘れんよ。それこそ、消滅するその瞬間まで引きずる。白菊とは、そういう男だ」
「分かってますよ。だからこそ、です。忘れて他の方と幸せになって欲しいとも思いますけど、やっぱり忘れて欲しくないから」
私は今、十六歳。同じ歳だったあの幼馴染は、きっともう村を出て高校に進学している事だろう。私も、高校生になったら上京して、都会の学校に進学すると約束していた。いち早くあの狂った村から、狂った村人から離れてしまいたかったからだ。それでも、此処に留まれたのなら、愛しい人といられて、大嫌いなあの村にも帰らなくて済むと、一瞬でも思ってしまった。どちらに転んだって、自分のエゴから生まれた判断には違いなかった。
『ごめんみきりっ!卒業したのに、部員のやつらがあいさつしたいって。悪いけど先に帰って。帰ったら、中学の予習、一緒にやろ!』
でも、ここで此処に留まると決意してしまえば、あの子との約束を破ってしまう事になる。もしかしたら、もうその約束を忘れてしまっているかもしれないけれど、白菊と恋人に成れないから代わりに、と言うわけでは決してないけれど。
「何故、白菊に好意を抱いた?結果は、分かって居ろうに」
「似てたんですよ。幼馴染と」
「…幼馴染?」
「はい。あの集落で、唯一の味方だった……多分私、彼に片思いしてたのかもしれない。だから、彼とそっくりな白菊を重ね、恋をしてしまった……クズですよね、私」
「…お主とてまだ子供。そのような事くらいよくある事さ……現世に帰ったなら、お主の人生の安定を保証する。何もできず、見ている事しかできない愚かな爺の償いだと、受け入れてくれ」
「……ありがとう、ございます」
魄龍様は、呆然と涙を流す椿さんを連れ、部屋を出た。
その場に正座して、目を閉じる。
(帰ったら、どうなるんだろ。記憶、消されるって言ってたし)
そもそも、同じ時代の同じ場所に戻れるかもわからない。何も知らない、自分の事も分からない様な場所で、生きて行けるだろうか。
(こんな思いするくらいなら、あの時、あいつに無理言ってクラブ終わるまで待ってたら良かったかなぁ)
後悔したって、もう遅い。あの時の私は幼くて、冷静な判断ができなかった。言い訳にしか、ならないけれど。間違いに気付くのはいつだって、全部失敗して、全部失って、たった一人で世界に取り残されたと気付いた時。全部終わった時に、後悔が、罪悪感が湧き水の様にとめどなく溢れる。
「……バイバイ、優しくて厳しい、矛盾した理想の世界」
喉に小さく冷たさが伝う。天高く手を掲げ、鉄に映る己を見る。思い切り手を引き寄せる。首に灼熱の如き熱が伝う。世界が揺れる。視界に、揺れる銀糸と散る紅が映る。世界が九十度曲がる。少しずつ視界が黒く染まる。意識がもうろうとする。空気が暖かい。空気が冷たい。体中が熱い。体中が寒い。
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私—和泉美輝は、真っ白な病室から外を眺めていた。特にこれと言った理由はない。
「…暇」
スマホはある。が、ほとんど触ったことが無いから使えない。SNSなんてもってのほかわからない。本も読んだ。しかしそれも一時の慰みにしかならなかった。退屈すぎて死にそうだ。
目が覚めてから、二ヶ月と少し。なんと私は、四年間もの間行方不明で、三ヶ月前に山道で、血塗れになった状態で見つかったらしい。しかし、私に外傷は一つもなく、でもその血は確かに私のDNAと一致したらしい。よく理解できないので忘れる事にした。
『…み、き?美輝、美輝ぃ!!分かるか、俺が、分かるかッ!?』
二ヶ月前に目が覚めて、一番に視界に入ったのは、四年前よりも大人になった幼馴染—菊池白羽—の姿だった。
『し、ら……』
『喋んな!ああと、ええと、ナースコールッ!』
ビックリするほど取り乱して、ナースコールを押しまくる幼馴染の姿に、酷く混乱したのを覚えている。
(あれ、白羽だよね?なんであんなに成長して…?それに、ここは…?)
暫くして、息を切らした看護師と医師が到着し、よくわからない検査を受け、その日は終わった。記憶よりも随分と老いた白羽のお父さんが、号泣する白羽の背を撫で、彼のお母さんが私の手を取り「良かった、良かった」と泣いていた。やっぱり理解できなかった。
その時に、白羽のお父さんから聞いた話だと、私は小学校の卒業式の下校中、村の老人たちに拉致されてそのまま生贄と称し池に突き落とされたそうだ。いや、そこまでなら覚えてる。問題はそこから先の一切の記憶がないという事。なんとなく、こう、イメージとしてなら分かるのだが、それを言語化できるまで鮮明なわけではない。まぁつまり覚えていない。
だけど、失踪前の記憶や、一般教養こそないものの年齢層の振る舞いはなぜか覚えていた。医者曰く、失踪中に何らかのショッキングな出来事があり、無意識下で自分の身を守るためにその四年間の記憶を抹消したのではないかと言われた。
「まぁ、あまり珍しい事でもないよ。消してしまいたいほどに辛い記憶だったのかもね」
「…そ、ですか」
「どうしたの?」
「先生…私、えぇっと、」
その時、病室に乾いた音が響いた。誰か来たみたいだ。
「みきり、今日も見舞いに…あ、診察中…」
「菊池君か。いいや、今日の問診はもう終わったよ」
「そーですか。ほれみきり、おはぎ」
「わぁ!おばさんのおはぎだぁ!」
でも、記憶を無くしてもあまり不安はなかった。そもそも何を失ったのか自体分からないのだから、不安も何もないだろう。それに私は、無に対して悲しみや喪失感なんかを抱けるほどのロマンチストでもない。目を覚ましてそれなりに動けるようになった今は、白羽と白羽の両親が傍でずっと支え続けてくれたからあるもの。記憶なんかよりそっちの方が大切だ。
「…そーいやさ、みきりってあの村の最期、聞いた?」
「ん、聞いた聞いた。みんな逮捕されたんだってね。ありがと、白羽」
「はは、俺は何もしてないよ。むしろ親父の功績な」
あの村は、私が見つかった後に白羽のお父さんが不審に思い、全てのいざこざを調べに調べつくして情報が十分に集まった上で警察に通報してくれたらしい。その時にほとんど顔も声も何なら名前さえ憶えていない両親と、その村の上層部の爺たちも仲良く檻にぶち込まれた、と。
「で?なんでまたいきなり」
「母さんと親父がさ、みきりを養子に迎えたいって。俺も、みきりと一緒にいたいし」
「…え?」
「だから、一緒に暮らそう?流石にさ、高校生で親いねぇのはやべぇし。一緒に暮らせば、俺がお前を守れる」
唐突に話されて、頭がまだ追い付いていない。四年間も会っていなかったから、初めの内は白羽との距離感がつかめなかった。それもここ数日で直ぐに取り戻し、今では四年前の時と同じように関わっている。のに、あいつ、そんな事言わないようなやつなのに。この四年間で、なんでこんなに変わったんだろう。
「別に、うち広いし。親父がさ、「もっと早く動くべきだった」って言って聞かねぇの」
「迷惑になるでしょ。退院したら施設に入るで良くない?」
「学校行く金は?四年もいなかったんだからさ、特別処置とか必要でしょ」
「……お願い、できますか」
「はい、お願いされます」
大きな口を開けて笑いながら、おはぎが入っているのであろう箱を開ける白羽。なんだが、この会話もどこか懐かしい気がしてならなかった。
「…それにさ、俺、お前の事好きなんだよね」
「…ん?」
もちもちとおはぎを頬張る口の動きが止まる。思考が追い付かなくて、目の前にいる白羽を見つめた。
「ガキの頃からさ、片思い。中学入ったら告ろうとか思ってたんだけど、あんなことになっちまったし」
「えぇっと?なんかの、罰ゲーム?」
キョトンとした顔をこちらにむけて、その後にふふっと笑った。
「ううん、本音。冗談抜きで、この四年間告られたこともあるけど、全部フッた。一生みきりだけ想って生きようって決めてたからさ」
「お、うん…?」
「返事、別に今じゃなくていいさ。ま、菊池家の養子になるんだし、これって実質同棲?」
大口を開けて笑う白羽に、まだまだ思考は追い付く気配がない。
(白羽が、私を好き…?)
多分、嬉しい、んだと思う。だけど、どこか心の中にわだかまりがあるような気がしてならなかった。
その違和感を拭うべく、白羽におはぎのおかわりを要求する。ん、と皿を突き出せば、はいはい、と言っておはぎをよそってくれた。
「はい、おはぎ」
「ん」
パクリと一口。小豆と砂糖の優しい甘さの後に、もち米のもちもちとした食感が来る。
『美味いな。甘味処で売ってんのが可哀想に思うくらいだ』
「ッ!?」
振り返っても、誰も居ない。聞こえた声は、白羽によく似て、白羽より少し大人びた、——の声だった。
—誰の?
「みきりッ!?どうした、気分悪くなったか!?ああ、俺が変な事言ったから、」
「ま、待って、大丈夫だから。ちょっと変なとこに入っちゃっただけだから」
「そ、そうか?なら、良いんだけど」
今、声が聞こえた気がした。音を認識できたのは一度のみ。しかし、脳内で、認識できない音で何度も何度も聞こえてきた。まるで、日常を思い出す様に。
「は、ぁ、れ…?」
(—は——の—と、——き—ょ)
(はは、———ぃ——な)
脳裏に映るのは、いつも優しい雰囲気の、———の姿。
—だれの、すがた?
知っている。私は、その姿を知っている。
クラリ、と一瞬めまいがする。頭に、優しい刺激が走る。思い出すな、とでも言う様に。
「みきり?美輝ッッ!!」
白羽が、叫んでいる。私に、叫んでいる。私の名前を、呼んでいる。
『———』
なのに、脳裏に浮かぶのは、私じゃない私の名前を呼ぶ、私の知らない、けれどどこか懐かしい、それなのに、顔も姿も何もかも思い出せない、辛うじて男性だと分かる誰かだった。
————————————
お、久しぶりだな。村から出て何年経った?今じゃ、ごぉるでんうぃーく?とか言うのじゃなきゃ帰ってこないだろ?御母堂が心配してるぞ?せめて文くらいは出してやれよ。
で?最近の調子はどう?こっちでも仕事熱心だったからね。あまり無理はしないように。まさか、「仕事は忙しいうちが華」とか言い出してはいないだろうね?
ん、そっか。いつの時代も、人の子っつーのは大変だなぁ。いっつもお上の顔色伺わなくちゃいけないなんてねぇ。かくいう俺も、最近じゃ人の子は火をあまり使わねぇから、そろそろ魄龍みたく隠居生活に入るかもしれないんだよなぁ。仕事は大変だけど、いざなくなると寂しいもんだよ。
そういえば、近場の甘味処の女将がな、お前のおはぎを再現して売ってたんだよ。これが美味いのなんの。ま、お前のには叶わないがな。しょっちゅう友神と一緒にいってるよ。燐も連れて、皆で駄弁りながら食べるの、良いぞ?
嗚呼、そういえば何の報告しに来たんだ?驚いたぜ?ご丁寧に神楽舞やら雅楽披露してくれて、祝詞まであげてくれてさ。大人数、しかも大勢って。一体全体何事だよ。
「この度、私、菊池白羽と、」
「私、和泉美輝が結婚しますことを、氏神様にお伝えしたく、馳せ参じました」
………え、あー結婚?おめでとさん。良かったなぁ、やっと幸せになれるのか。
いやぁ、あんなお転婆な悪戯娘が男の北の方になるのか。想像しずれぇなぁ。なんか、似合わないっつか、違和感?
「…なんか滅茶苦茶失礼な事言われた気がする」
「こら、美輝ちゃんッ!神様の御前でしょ!」
「お義母さん…だってぇ」
ははは、ごめんて。短い間だったけど、昔っから傍にいたからな。急に結婚って言われたって、想像できないのも仕方なくないか?仲の良い男子がいるってのは魄龍から聞いてたが、まっさか想い人だったとは!いやぁ、目出度い目出度い。娘を見送る父親さながらの気分だよ。
で?挙式はどこで?近年じゃ、基督のとこで挙げんのが一般的なんだっけ?俺も見に行けるかな~。
「つきましては、婚姻の儀を貴方様—白菊様の御膝元で挙行する事を、お許し頂きたく」
お!俺んとこでやんのか。そりゃそうだよな、お相手さんの父君、俺んとこの神主やってくれてるもんな。お祝い、盛大にっと。菊じゃあ、縁起悪いからな。確か外ツ国では、祝いの場で送る花は……これ、だったかな。
ぶわぁぁ
「きゃあ!?こ、これって…」
「白い、バラ…?」
当日は俺も参列しようか。友神と魄龍と椿さんに燐も連れて、日ノ本の国一幸せな夫婦となる様に加護も与えてやろう。ははっ、格下とは言え、俺とて神の末席に座す者だ。未来永劫、苦労もなく絶望もなく、最期の眠りまで笑顔の絶えない夫婦、否、家族に成れるように。
「ねぇ、白羽?神様ってお祝いに降りてくれないのかなぁ。御神体取り出したら来てくれる?」
「流石にそれは見切り発車すぎるって。それに罰当たりだろ」
……好いた女の前だ。多少の我儘くらい、聞いてやるのが筋ってもんだよな。
ちりん、ちりん——………
「ッ今度は何!?」
「鈴の音…まさか」
「お、親父?んで、頭下げて、」
「白羽、美輝ちゃん。お前たちも頭を下げなさい。白菊様が降臨なされ、」
『その必要はない』
「へ、?」
あの頃と変わらない顔で、此方を凝視する砌——美輝、だったかな。彼女に向けて、微笑む。と言っても、布があるから伝わらないだろうが。っつーか、仮にも神の前で真名を連呼するってどうなのよ……この辺りじゃ悪用する奴はいないけどさ。
『面を上げよ…嗚呼、まさか君が婚姻するとはな。心より祝福しよう』
「あ、貴方、一体…」
『俺の名は、白菊。ここで主神をしている』
「え、」
心拍数が乱れているのが感じられる。無論、俺の。一度、深呼吸をしよう。そして、なるべく直ぐに下がろう。
『時間がないのでな。手短に』
嘘だ。時間なんぞ吐いて捨てる程ある。でも、ここで長居してしまえば、抑えが効かなくなる気がした。
『———結婚おめでとう、砌。どうか、幸せに』
「…砌?ちょ、ちょっと待っ、」
ちりん——………
一言二言、言葉を交わして直ぐに帰った。あのまま、あの場にいれば、力ずくでも奪い返してしまうと思ったからだ。
「奪い返す、か。砌は、誰のものでもないのにな」
嗚呼いや、もうあの男のものになったのか。
「砌、—————」
その言葉は、心の奥底にしまっておく。出会ったその時から、こうなる事は決まっていたのだから。それに、俺が望んだ結末でも、あるのだから。
「俺、格下はいえど神だからなぁ。俺が特別に守護神にでもなってやろうか。俺はいつでも、お前の、お前たちの声が届く様に、すぐ傍にいてやるからな」
畳に零した液の正体には、気付かないふりをした。