——夢を、見ていた。ほんの瞬きの間に終わってしまった、けれど決して忘れることのないだろう夢を。

 物語の中では、男女の身分が違えども、そこに愛があれば結ばれていた。でも、現実はそんなに甘くはないようで。言いたい事も、伝えたい事も、何も言えずに、終わってしまう。それが、現実。

 唐突に思いついた、とうに諦めたはずの女性としての幸せへの執着を、首を振って紛らわす。そして、神職の方々の手を、静かに受け入れた。
 生贄に選ばれた時、何て時代遅れな儀式なんだろうと思った。時代遅れと言う言葉が可愛いくらい、きっとこの村は他の地域より三百年ばかり時空の歪みがあるんだと錯覚してしまうくらいには、時代遅れな常識がある村。
 たくさんの人が集う都会からかけ離れた、山の奥の奥のさらに奥にある小さな集落。私が生まれた、未だに男尊女卑があるなど、非常識を常識とする古臭い、町でも群でもない村。学校なんてなく、ここの子どもたちは皆電車で街まで出る。そんなところに生まれたからか、幼い頃から精神はとっくに達観していたと自負している。
 小学校六年の終わり、卒業式を終えて家に帰っていた。幼馴染の子は、最後のクラブの後輩たちがお別れを惜しんで話をするから先に帰ってて、と言われたから、一人で山奥の道を歩いていた。そうしたら、いきなり車で連れ去られたんだ。そして告げられた、生贄に成れとの命。当の昔にここの異常性は理解していた、つもりだった。まさか、ここまでとは思わなかった。

 両手は祈るように手を組み、両足は跪くように折り、献上品と共に、決して離れぬ様に縛る。
「祓い給え、清め給え」
「贄を、純白な女子を、貴方様に捧げまする」
 大幣(おおぬさ)を頭上で振る音が聞こえる。その音が止んだ後に池へ突き落とされ、贄として選ばれた私の人生は、終わりを告げる。
(……先に、死んじゃうのね。ごめん、白羽(しらは))
 幼馴染の顔が脳裏によぎった。出てきた涙が、池に交じって消える。
 たった十二年。おかしな村に生まれたせいで、まともな思考もできず、まともな人生も歩めぬまま、私は死んだ。


———はずだった。


「…子どもを、しかも女子を真冬に突き落とすまでしなくてもなぁ……」
 冷たい池に突き落とされ、寒さよりも痛みがこの身を走ったことを最後に、私の意識は飛んだ。次に目を覚ませば、見知らぬ日本家屋の天井が目に入った。そして私の顔を覗き込む、顔に白い布―確か雑面と言ったはずだ—を付けた男性がいた。その男性は、烏を思わせるほどの見事な濡羽色の長い髪をポニーテールにしている。此方の視線に気付いたようで、顔を此方に向けてきた。
「…お?起きてたのか。どこか痛むところは?」
「……え、と、私は、死んだんじゃないの?後誰」
「まだかな。此処に来た人の子の生死の選択は一瞬で起こることもあれば、1年遅れで起こることもある。君が選択をしていない今、まだ生きていける。まぁ、あの村の連中からすれば、遺体が上がらないから死んだって事になるだろうがな」
 私がいた村には、百年に一度その代の十二の子どもを献上品と共に池に沈めて、この地域に人が住むことを神に許してもらうという風習がある。それをしなければ、たちまち山から毒の風が降り注ぎ村は壊滅するという言い伝えがあるのだ。一体何時代を生きているんだ、ちょっと考えれば伝承だって気付くだろうに。因みに生贄になる者は儀式の前夜、村の神社の中に閉じこもり身体を清めることになっている。
「ここはどこ?私がいたあの村じゃ…ないみたいだよね?後誰ですか貴方」
「嗚呼そうだ、ここは幽世(かくりよ)。隠り世、常世(とこよ)とも言う。お前の居た場所(現世)ではない。かといって黄泉でもないし、天照大御神の居る天上でもない狭間の世界。中途半端なこの場所に、お前は運よく引っかかってるってだけさ」
「……難しくて、よくわかんない」
「ははは、だろうな。まだわからなくていいよ。まだ自分は家族のところに帰る事ができるかもしてないってだけ、分かっといて」
 とどのつまり、私はまだ死んでおらず、ここは天と地の狭間であるという事だろう——つまり、儀式は失敗という事か。
「安心しな、お前のとこの産土には俺から断っとくから。俺のとこに来た犬の贄を代わりに送っとくよ」
「……なんで分かったの」
「顔に書いてあった」
 この神、意外とノリがいい。
「そういえば、俺の名だったな……そうだな、」
 そういうと、彼は庭先に目をやった。彼の目線の先には、見事なほどに白い菊が狂い咲いている。
「…白菊、とでも呼んでくれ。様もさんも付けなくていいからな、そのまま呼び捨てで呼んでくれていいよ」
 彼がそう名乗った時、言葉で形容するのが難しいのだが、何かが繋がったような気がした。
「私の名前は、」
「ハイ待った」
「…は?」
「お前がこの世界で名乗る名は、真名ではなく源氏名にしておけ。渾名ってこと。今後どうするのか迷ってるのなら、どんな相手にも真名を教えてはいけない。特になければ適当に目に入った物の名前でも貰ってな」
「名付けなんて……貴方に付けてもらうことはできないの?ネーミングセンスないよ私」
「ねぇみ…なんて?よくわかんないけど、誰かに名付けられてもいけないんだよ。名というのは最も短い呪いになり得る。名付けられた者との間に縁が生じ、誓約したことになるから。簡単にいえば、そいつに隷属しちまう事になる」
 また小難しい話を…と思いつつ適当に庭園に目を向ける。そして言われた通り、一番に目に入ったものの名前を貰った。
「…砌だよ」
 一番に目に入ったのは、軒下の雨滴を受ける石畳のある所。
「みぎり、水限、いや砌かな。きっと短い付き合いになるだろうが、よろしく、砌」

 あの後、男―白菊から様々なことを聞いた。
 まず、生贄は一年間、神の御膝元でお勤めをするそうだ。お勤めとは言っても小難しいことはせず、家事や神域である日本家屋の掃除など、所謂巫女のようなことをするのだという。いわゆるバイト。そして一年経てば、白菊の言った通り現世に戻るか幽世に留まるのかを決められるのだと。そして幽世に留まると決めた時、人としての肉体を捨てなければならないそうだ——即ち、もう一度死ぬことになる、と。
 白菊の下に来る、と言うか私の村での贄の儀式は百年に一度。そして白菊の下に送られる贄は大抵殺された状態の動物が来ていたのだそうだ。そのため、贄は命の選択なしに一年で消滅してしまう……そう、白菊は九十九年もの間、独りぼっちだったという事だ。




「なんでまだ顔見せてくれないの。見せろ、ルームメイトでしょ」
 あのよくわからない出会いから半年の月日が流れた。私は現在、従来の通りこの屋敷の小間使いのような感じで居候させてもらっている。
「るぅむ…?駄目。砌は人の子なので神様の顔を見てはいけません」
「私は顔も本名も知らない不審者と今後一緒に過ごさなきゃいけないと?私は顔割れてるのに」
 そしてこの男、あろうことか私に顔を見せようとしてくれない。いや、相手はどんなに友好的であっても神様なのだから仕方がないのだが。
「…それはごめんって。でも、どうしても見せちゃ駄目なんだよ」
「じゃあどうすれば見れるの。流石にルーム…同居人の顔も分からないのは怖いって。何か方法ないの?」
「…嗚呼、人間じゃなくなるって方法なら、あるよ。雑面は人の子から顔を見られなくする為のだから、神同士や一人で居る時は外してるし」
 成程、それも踏まえて、家に帰るべきかどうか考えよう。
「スカートみたく風で巻き上がるか転んでめくれればいいのに」
「女子の被衣(かづき)か何かと勘違いしてらっしゃる?後何すかぁとって」
 あ、口に出ちゃってた。しかも横文字苦手なのね。


 この国は神の国である、と聞いた事がある。神社仏閣や霊峰だけでなく、身近な小道具、植物など八百万にわたるありとあらゆるものに神が宿っている。そして人間の生業にも忙しいものとそうでないものがあるように、神の仕事にも忙しいものとそうでないものがあって、白菊の仕事は比較的楽なものに部類されるらしい。
 私は既に巫女のすべき儀式や振舞い方などはもう覚え、読み書きの基本を教えられた後は、与えられた書物を読めば基礎的な学力は自然と身についた。現世と勝手が違うものの、次第に白菊の報告書類作成の手伝いも、逆に白菊に送られた書類を整理する事もできるようになった。しかし鉛筆やシャーペンやボールペンがないのは痛い。
 そんな割と多忙な彼の仕事は炎の管理なんだそうだ。もともと炎の神様には軻遇突智神(かぐつちのかみ)がいるのだが、蝋燭やキッチン—白菊は厨と言っていた—の炎などのごく一部のものを担当しているという。厨の炎の量を調節したりして、人々の生活を豊かにする。上位格の命令によっては火災旋風を起こす事もあるそうだ。
「昔はかなり大変だったんだぜ?水神や風神と相談して駆け引きして、たまに精霊に助けてもらって、どうにもならん時は軻遇突智神様に申し上げてさ」
 それでも、大変だったけど、やりがいもあった、と白菊は言う。
「これは、炎。名誉も栄華も地位も名声も、この身さえも焼き尽くしてしまう恐ろしい光。だからあまり、意味のない事には使うなよ」
「…わかってる」
 でも、貴方の炎なんだから、安心で安全でしょうね、何て言ったら、頭を軽くたたかれた。
「嗚呼それと、これあげる」
「え?なに、御守?」
 渡されたものは、鈴の付いた小さな根付。紅白の組紐が、叶結びに結ばれている。少し揺らせば、ちりん、と凛々しい音が鳴り響いた。
「従来、鈴は魔除けとして使われるんだ」
「へぇ……じゃあ、お社の鈴なんかも、そうなの?」
「お、鈴尾の事か?それはな、祈る前に鳴らすことで魔を追い払ってから祈るのが役割だ。神前で奉納される神楽や舞の鈴も同じ、な。後もう一個意味があって——」
「ん?なんで固まった?」
「あ~いや、一回見た方が良いな。砌、俺今から一回消えるからさ、俺の名前呼んでくれ」
 そう言って、白菊はふわりと一回転してその場から消えた。そして言われた通り、彼の名を呼ぶ。
「白菊?」
 ちりん、
「はいよっと」
 鈴の音と共に現れた、菊の花弁を纏った白菊がそこに降り立った。
「また、鈴の音は神の訪れの合図なんだよね。だから俺達って、鈴の音にちょっと敏感なわけ」
「成程、だから鈴をもっておけ、と」
「そういう事。魔除けの意味も込めて、なんかあったら鳴らしてね。音で分かるから」



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 砌がうちに来てから、早くも一年と少しが経つ。十三になった彼女と初めての儀式で、彼女は幽世に留まることを決めた。
『私が帰るということは死者を生き返らせること。きっとそれは、しちゃいけないことなんでしょ?なら、もう少しここ(幽世)にいたい。ここは、あの村より心地いいから。できれば、大人になるまで』
 それが、ここにきて一年目の、初めの儀式で砌が決めたことだった。
 もとより、今よりも位を上げたいとは思っていなかったので、砌が傍にいてくれる期間が長引くのなら、これほどうれしいことは無かった。今まで誰かと長期間生活する事はなかったから、心が躍っていたのかもしれない。今まで思っても居なかったことを想ってしまった自分は、どうやら今まで寂しかったらしいと気付かされた。それほどまでに、たった一年で俺は彼女に絆されてしまっていたという事だ。
 が、俺はどうやっても彼女の傍には居られないし、彼女もどうやっても俺の傍には居られない。彼女が現世に戻っても幽世に残っても、互いに失うものがある。それが何なのか知った時、人の子の決断の行く末にあるものが何かを知った時。彼女は、俺を嫌うだろうか。
「生贄の子どもえげつねぇんだって、噂になってぞ白菊?もったいぶらず教えろ詳細!」
「危なっ」
 某日。俺は神々の集会に参加していた。この場は強力な結界により外部からの侵入が無いからだろう、気を抜いていたら、背後から友神が突進してきた。神々が多く集う場だ、危ない。
「どんくらいの気ィ持ってる?やっぱし最近の人の子の気は落ちちまってたか?と言うかお前に人の子が送られるなんて珍しいな!」
「いや、取り込んだら神格が魄龍かその下と同等になるだろうよ。落ちるどころかむしろ上がってるわ」
 魄龍と書いて「はくりゅう」と読むいかつい名前をしたそいつはここら一体の取締役で、いわば村長のような奴だ。その名の通り水を司っている。俺らからすれば格ははるかに上ではあるのだが、何故だか俺はそいつと仲がいい。そして何故だか俺は気に入られている。本来なら魄龍を呼び捨てにした時点でかなりの重罪なのだが、本人直々の御要望で俺だけ呼び捨てにしている。気に入られている理由は定かではない。むしろ俺が聞きたい。
「…魄龍、様?『どの面を下げて我に物申しておる無礼者が』とか言ってきそうなあのお方だろ?マジ?」
「マジ」
 実際、低格の俺を友とするくらい魄龍は寛大な心を持っている。ただ、その名前の圧と上位格と言う立場が近寄りがたい雰囲気を作り出してしまっているだけで。
「うっわぁ……でもまだ喰ってないってことは、そういう事?」
「ん、俺は別にその気は無いし、眷属にする気もないね。そもそもあの子は俺に与えられた贄ってわけじゃねぇし」
「へぇ…」
 いつから俺達が人の子の村に現れるようになったのかは知らない。魄龍から聞いた限りでは、少なくとも俺が生まれる前…数百年以上も前から神と人間は共存関係にあるらしい。のだが、海の向こうの島々からやってきた別のモノが、俺達と人の子を分けてしまったのだという。この国とは全く異なる考え方と、神仏。それらの影響で、砌含む人の子にとって俺達は関わってはいけないもののうちの一つになってしまったらしい。
 しかし、もとより日ノ本の国では、神とは信仰の対象ではなく生活を共にするものだ——だから、俺は砌を喰いたくない。




 なんてこと思い出しつつ、砌が毎日手入れをしてくれている庭に目をやる。俺は普段、庭の植物には手を出さなかったから、ここまで綺麗に整うものなのか、と感心していた。
 すると、四角い大きな木の板を持った砌が駆け足で近寄ってきた。
「白菊ぅ!」
「砌?どうしたのその板は、」
「覚悟!えぇいっ」

 ぶんっ
 ぶわっっ

 砌が板を持ち上げ、思いきり振り下ろせば割と強い風が巻き起こる。しかし特別な力で押さえつけられているこの雑面、そんなものではびくともしない。
「…お転婆め。なかなか治らないねぇ」
「っはぁ、駄目だったか…それ、手で取れるやつ?扇風機あればいいのに、カルチャーショックだわ」
「んな事したら神罰下るで。そもそも出来ないけども」
「神罰、かぁ……落雷とか?竜巻とか?いいじゃん下しなよ。きっと何でも回避できる」
 その自信は一体どこから来るのか。問いただしたい。
「いやそんな物理的なモノじゃなくてさ…最悪失明するよ知らないけど。下した事ないから」
「そっか。なら最後に見た景色が白菊で良かった」
「何言ってんの」
 やんちゃ、なかなか治らないなぁ………。
 治らなくていい、と思ってしまうのは、どうしてなんだろう。このまま、純粋で無垢な、何も知らないままで。
「…あんた、友達いないでしょ。ノリ悪いし」
 たしかに神には友達なんてほとんどいない。神様にも階層があって、同じくらいの偉さでないと、なかなか友達付き合いがしにくいのだ。しかも仕事が忙しくて時間なんてない。が、
「残念かなりいるんだなそれが」
「うっそ」
「ホントでーす。これでも神脈広い方なんだよ。そういう砌は?」
「貴方以外見たくないから作ってない。ご近所づきあいくらいはするけどさ」
「なんだそれ」
 そうは言っても、きっと、砌は現世に戻るだろう。その時、例え彼女から俺の全てが消えても、俺が傍に居なくとも、村という、家族という支えがあるのならきっと砌は前を向いて生きていける。それはとても良い事で。それでいてとても寂しい事。
 嗚呼、知らなければ、こんな事思わずに居られたのにな。



——————————



「白菊はどうして領域から出られないの?」
 ある、何ともない日。ふと気になったことを、白菊に聞いてみた。私は、彼奴がこの領域、ひいては屋敷から出た姿をあまり見たことがない。いや、屋敷からは度々出るのだが、上の領域や下の領域に行くことがない。
「神が無断で行方知らずにでもなられたら、人の子が困るからだろうね。従神か眷属がいれば別だけど」
「それって作れないの?低格と言えど神様なんだからさ」
「従神とか眷属ってのは主神に運命が握られるんだ。主命は絶対、行動の制限、生死の判断さえも可能だ。そして主神が消滅すれば彼らも消滅する。彼らを繋ぐ霊力供給源が消えるからね」
 成程、つまりは電気と家電みたいなものか。電気が無ければ家電は動かないし。
「その言い方、まるで作り方は簡単みたいだね。どうやって作るの?」
「生贄の真名を知ること、或いは己より低格の神と魂結びをすること」
「あの時の真名を隠せってそういう……たまむすび?」
「そう、魂結び」
 白菊曰く、一般的には死者の魂を現世に留める為の儀式なんだそうだ。「思ひあまり 出でにし魂の あるならむ 夜ふかく見えば 魂結びせよ」と言う、伊勢物語に歌があるほど、良く知られているものらしい。が、それが一部の人間の間で拡大解釈されてしまい、意味が変わって今まで残っているという。それで結ばれる縁は夫婦よりも親子よりも兄弟よりも強固。魂結びと言うものは、白菊たちの居る天上と現世の狭間のこの世界では「隷属する者」と「隷属される者」に誓約を上書きするという儀式へと変わっていってしまったらしい。
「ま、文字通り互いの魂を結ぶってことだな」
 成程禁忌って事か……うん、待って?
「貴方、さっき「人の子が困るから」って言ったね?」
「うん?言ったよ?」
「神様なのに、人間なんかの利便に左右されちゃうの?単独行動とかできないわけ?」
 白菊は、少しだけ眉を下げて、悲しげに問うた。
「……俺らを形作るのって、何だと思う?」
「えぇ……神様の特別なパワー的な何か?」
「ぱわぁが何かわかんないけど、違うよ」
 白菊は、なおも悲しげに言った。忍ぶ様な白菊の声を聞いて、私は一呼吸置いてから話を聞く姿勢に入る。
「俺らを形作るのは……人々の想いだよ」
「…信仰心って事?」
「もあるね。だけど違う。人間の持つ根本的な思い—喜怒哀楽とか、そういうもの。俺達は、そこまで偉いわけじゃないんだよ。人の子がいないと存在できないんだから」
「…単純なんだね」
 本当に、単純なんだと思った。と同時に、神と言うのは気が付かないだけで身近にいたんだな、とも思った。人々の想いが形を作る。ならば、人々に思われながら作られた小道具や綴られた言葉なんかも、神様に部類されるのだろう。所謂、付喪神、と言う奴か。
「話はそれだけだけど、一柱しかいない神が移動できないのはそういう理由」
「…へぇ」
「でもどうして?言っとくけどやる気無いからね。砌なら言いかねない」
 私はなるべく毅然とした声で答えた。
「デート…逢引か。それができないことに落ち込むべきか、独り占めできることに喜ぶべきか」
「成程そういう話か」
 もう、私の中で、答えは決まっていた。
「ごはん、作ってくるね」
「了解、嗚呼そうだ、今夜は先に話したいことがあるから、広間に来てくれる?」
「いいけど、なぁに?って、早」
 聞き返そうとすると時すでに遅し。白菊は菊の花弁を纏って消えてしまった。私もまた、此の部屋から割と距離のある広間へ足を運んだ。

 自分にとって白菊が、そういう意味で特別な存在だ、とはっきり自覚したのは、桜が二度目の最期を迎えた頃。ふわふわと柔らかい声で名を呼ばれるのが好きで、かつ幼い頃から一番傍にいたから、自然と彼の傍に私がいるのが当たり前になっていた。
 私はそれまで、白菊に向ける自分の感情の理由を考えた事はなかった。きっと、彼が命の恩人だから抱いた一時的な感情なのだろう、と思っていた。けれど喰えば上位格に成れるという私を喰わない事、人の子である私をずっとそばに置いていてくれる事、女神が集ういわば見合いのような席にも、私を気遣ってか出席しない事。理由はきっとほかにもあるのだろうけれど、まるで私を一人の女として扱ってくれる彼を前に、白菊は私にとって特別な存在なのだ、と意識せずにはいられなくなってしまった。
 私の彼に向ける好意はそんな風に、早いうちから確かな物だった。けれど、その思いを打ち明けるなんてできるはずもなかった。実際の神の年齢を思えば、と言うよりそもそも人間と神様は対等ではない。それ以前に私は恋を語るには幼すぎた。大人の、男の人の姿にしか見えない白菊に恋を打ち明けたとしても、とても釣り合わない。それでも、万屋に出かけて他の神様に会ったり、村にいた頃の異性を思い出したりしたけど、やっぱりこんな想いを向けられたのは白菊だけだった。
(いつか、もっと大人になったら、この想いの行き場が見つかるかもしれない)
 一日も早く大人になりたい。
 それだけを願って日々を過ごす。
 あんな、現代からみても常識はずれな村にいた頃には、絶対に想わなかった事だ。
 私は贄に選ばれた時から神域にいて、幽世から離れたことはない。下手に移動すれば他の神に喰われるかもしれなかったからだ。そもそも私が主神である白菊に喰われもせず、現世に帰ることもせず此処に留まっていること自体、異例だと言われてきた。そのため、私が死んだあとあの村がどうなったとか、現世では今何が起こっているとか、そういうのは万屋での式神との井戸端会議で得られた噂とか、或いは白菊に来た書類に目を通すことで把握していた。私にもたらされる外の世界の情報ソースはそれが全てだった。
「ねぇ、椿乃神の御屋形様に想い人ができたんですって」
「碧雲邸にお仕えになってらっしゃる式が、旦那様の御心に留まったとか」
「黎明ノ方、御自身の傍仕えに婿入りさせたって本当?」
 自覚した頃から、低格の神様同士であったり式神同士であったりが恋仲になったという話を耳にする事が増え始めた。それを聞く度、ただ羨ましくてたまらなかった。そういう方々の姿は、いかにも麗しい大人の女性で、お似合いだと思いながらも、「白菊もあんな女性を好むのかな」とか、自分がその姿に程遠い事に焦りやもどかしさも感じた。
「ねぇ、砌さんはお好きな方、いらっしゃらないの?」
「え!?…い、一応、いますけど……」
「えっ!どなた?もしかして、白菊様だったり?」
 巷では、白菊は女性人気が高いそうで。井戸端会議で得られた情報の中には、低格上位格式神関係なしに白菊に恋愛ゲームみたいなひそかな思いを馳せる方は一定数いるそうだ。しかし、長年の一人暮らしに仕事三昧、友神は上位格の為滅多に会うことができず、又同じ低格の神とも、担当区域が異なる為たまにしか会うことができない。対神関係を滅多に経験したことが無いから、特に恋愛において彼は酷く鈍いのではないか、と噂されている。それただのぼっちか陰キャでは?と思ったのは内緒。
「あ、いや!そんなことは、」
「嘘。白菊様がお好きなんでしょう?あのお方、お優しいものね~」
「自分じゃ釣り合わないかも、何て考えちゃダメよ、砌さん」
「いや、でも、」
「でも、じゃないの。押して押して押しまくりなさい、ね?」
「人間ってそういう事に奥手なんでしょう?応援してるわ!」
 私の彼への態度は、やはり他の神に対するものとは違うらしい。でも、どれだけ隠そうにも、どうしても彼の前では鼓動が激しくなり、頬が赤らんでしまう。ので、いっそのこと全て曝け出してしまうことにした。ことあるごとに愛を囁き、いつも以上に傍にいようとした。
 それに対して、彼は特別に反応を示さなかった。いや、初めは戸惑っていたらしかったけれども、最初、私はそれを子供扱いされているからだと思っていた。けれどある時、そうではない事に気付いたんだ。
 広間に向けて足を運んでいる時、ふと庭に目を向けた。私が、とある決断をした時と同じ三日月が、此方を覗いている。

 十四歳になったばかりの事。現世にいれば、中学校に進学していただろう時期。
 確かその時、神域内の季節は秋で、庭は紅く彩られていた。だだっ広い屋敷には私と彼しか居らず、さぁっと吹いた秋風が、がらんとした空き部屋を通る。
 ふと彼の気配を感じ、その先を見やった。彼は庭に立って、三日月の空を見ていた。その横顔に目を向けた時、私は息を呑んだ。白菊の視線の先には、誰かがいた。
 いや、正確にいえば庭には誰もいない。けれど、その視線は明らかに誰かを見ている。どこかで、月を見るとそこに想い人の顔が浮かぶと聞いた事を思い出した。でも彼は、ただ静かに空を睨みつけているだけだった。その瞳の中に、宵闇に浮かぶ月は映っていない。けれど、その瞳にはどこか拭いきれない苦い感情が浮かんでいる。
 初めて見る顔だった。それなのに私はその表情が何を意味するか、即座に理解した。胸の奥が、心の臓が誰かに握り潰されたような感じがした。

—誰か、想っている人がいる。

 そう錯覚してしまう程、彼の顔は悲痛と慈愛に満ちていた。見たこともない白菊の表情に動けないでいると、彼がゆっくりこちらを振り返った。
「やけに視線感じると思ったら、どうした?」
 その声は優しかった。けれど私に向ける視線には、あの感情の色はない。ただ、親兄弟に向けるような親しみの色しかなかった。
 私はこの辺りから出ることはできないけれど、白菊は割と自由に移動できる。それに、定例会なんかでは数多くの神々と会合する。それ以外では、彼は殆ど屋敷の外に出ない。いつも私が纏わり付いていたから、という訳でもないようだった。現に、私がこうして巫女の仕事ができるようになった後も、彼は外に出ない。どこかに出かけるときは、いつも上位格の友神の下へ赴くときだけ。女型の式神も、女性の扱いが分からないからとかで置いたことがないらしいし、私が来た後も、女性がらみで問題が起こるのが面倒だとかで置いていない。
 だから、白菊に好きな人がいるのだとしたら、その人はこの辺りにいる誰かではないのは、確かだった。
 そうなると私の想像できる範囲で出る答えは一つ。
 上位格の神。
 上位格にどんな神々が集っているのか、私は知らない。それに、本当に想う人がいるのかも、分からない。ただの予想でしかないけれど、彼には上位格に友神がいると聞く。可能性は、十二分にある。
「砌?砌さん?え、ほんとにどうしたの?」
 もし、私とは比べものにならない素敵な人だったとしたら、太刀打ちできない。私はお世辞にも女性らしいとは言い難い性格をしている自覚があるし、人と神とでは、絶対に釣り合わない。それにきっと、白菊は私をそういう目で見ていない。
「白、菊」
「やっと応えてくれた。何か用?」
 いつも通りだった。いつも通り優しい声色で私を呼んだ。邪険に扱われているわけではない。腹を立てる事も、悲しむ必要もない。だって、いつも通りの問答だ。けれど、こんな風に扱われる事に何故か納得がいかない。
「ずっと固まってたんだよ?外部から術式でもかけられたかと思って視ても、特に問題なかったし」
 白菊の言葉に、私は酷く驚いたのを覚えている。私はほんの一瞬だと思っていたけれど、白菊からしたら数分もの間、私は固まっていたそうだ。
「白菊が、いるのが見えたから、さ。如何したのかなって、思って」
 ようやっと言葉を絞り出して、出てきた言葉を紡ぎながら隣に立った私は、白菊と同じ方角に目を向けた。やっぱり、誰も居ない。
「誰か、来てたの?」
「…え?」
「だって、ずっと空を睨んでたじゃん」
 白菊は、しばらく黙り込んでいた。何度か口を開いて、閉じて、また開いてを繰り返している。
(そんなに、言いたくないのかな。それとも、神様しか知れない重要な事だったのかな)
 後者ならいい、と思っていれば、白菊が意を決したように口を開く。
「えっと…ん~、何て言えばいいんだろ…」
「もったいぶらずに教えてよ、詳細。誰かいたんでしょ?夜這い?」
「どこで覚えたのそんな言葉。しかも聞いた事ある会話だよそれ」
 沈黙が、一分にも数刻にも感じられる。いつも通りに冗談を言えば、彼はいつも通りに応えてくれた。でも、その“いつも通り”が、酷く辛く思えてしまった事を、昨日の事のように覚えている。
「…客人がね。来てたみたいなんだ」
「みたい?来てたんじゃなくて?」
「そ……多分、禁忌を犯した上位格が、ね」
「え」
 禁忌を犯した上位格が、何故白菊の神域に来るのか。何故、白菊はそのことを一瞬、隠そうとしたのか。私が人の子だから理解できないだけなのか、それとも彼が意図的に隠していて、その事実に疑問を抱いているだけなのか。
 もう白菊の視線は、私に向けられていなかった。無視されているわけではない。けれど、その上位格の方に意識を向けていて、今の私には興味は持たれていないのがわかる。
 どこか身の置き所のない、いたたまれなさがあった。
「俺の好きな人はもう、どこにもいないんだ」
 唐突に、そう告げられた。前後の会話との脈が図れなくて、酷く混乱したのを覚えている。好きな人がいたの、とか、それと禁忌を犯した上位格と何の関係があるの、とか、聞きたい事はたくさんあるはずなのに、頭に浮かんだ言葉は全く別のもので。
「砌はさ、俺を好いてくれてるけど。きっと俺は、その想いに応えられない」
「まだ、そのお方が好きなの?」
 しまった、と思った。きっと白菊にとっても辛い事だろうに、酷い事を。
 ここから先、どう言葉を紡げばいいかわからなくて、私は口を閉じた。それに反するように、彼は口を開いた。
「もう、二度と取り戻せないんだろうね」
 目線の先には、三日月が浮かんでいる。吸い込まれそうなほど美しいその空は、私をあざ笑うかのように存在を主張していた。
「俺が、どこかで選択を間違えたみたいだ。だから、あの方はあんなことに、」
「…やめて」
「でも、まだ遅くはないはずだ。だから、」
「やめて」
 何が遅くないのか、分からなかった。分かりたくなかった。あの時の私の頭の中は空っぽで、何も考える事ができなかった。だから、あるかもしれない可能性を、考える事ができなかった。
「砌」
「やめて!」
 意を決したように、白菊は私を見る。でも、その視線の先にいるのは、私じゃなくて。
 申し訳なさそうに、彼は目を細める。眉尻を下げて、酷く苦しそうな顔をする。
(なんで、そんな顔をするの)
「ごめん、諦めてくれ」
 目の前にいるのは、誰だろう。私を育て、守ってくれた白菊だ。でも、私はそんな彼を認識することができなかった。私にとってはその言葉はとても辛く、重い物で、認識してしまった瞬間、理解してしまったその瞬間に、密かに彼を思う事すらできなくなる。
 動けない私の視線の先で白菊は立ち上がり、屋敷の向こうへと消えて行った。


 そして今、私が立つこの廊下こそ、白菊に振られた場所。ここを通る度に、あの時の悲しみが身を締め付ける。
 かといって、あんなことでしょげる程私は薄情ではない。未だに白菊の事は好きだし、諦めようなどとは露程も思わない。何なら全部忘れさせて私しか見られないようにしてやるくらいの勢いだ。
「禁忌を犯した神を、いつまで想っているの?」
 時折喉の奥までその言葉が出かかって、飲み込む。禁忌を犯すという事は、即ち荒魂神になり上位格の神々の手により消滅させられるか、自然消滅するかの二つに一つ。そして白菊は、それを理解しているはず。だから白菊の気持ちを否定することはせず、自分の事を見てもらえるようにがんばろう。祈るような気持ちで私は日々、彼に接するようになった。
 私を見て、という願いに彼は確かに応えてくれた。彼は優しい目で、他の誰でもなく私を見てくれる。けれど、未だにあの愛おしいものを見る視線が向けられる事はない。ただの保護者としての物だった。
(ま、関係ないか。もうちょっと粘って、それでも駄目なら最終手段に出るだけだし)
 彼を堕とす計画は既にある。後はそれを実行するだけなんだけども、いかんせん時期が難しい。それに、あの計画は一か八かのもの。もし失敗したのなら、ただじゃすまされない。そして実は、彼の想い人についても、心当たりがあったりする。
(早く、言ってくれればいいのに)
 定刻までまだ時間があるから、計画を進める為に自室に戻った。

 どうしても開けられたくない引き出しがある。
 私の部屋にある、鍵の無い引き出しにあるものを入れた。鍵の無いその引き出しは決して開かない。別に何かが引っかかっているわけでもない。他の引き出しは問題がなく開くのに、そこだけが、どんなに力いっぱい引いても、開かないようにした。開かないように、してもらった。
 そういうわけだから、白菊はその中に何が入っているのかを知ることは無いだろう。唯一知る機会があるとするのならば、それは私の計画が失敗に終わった、その時だけだ。



「現世に戻るか幽世に残るか。今回その儀式はこの地域で最も神格の高い神の御殿で行われる」
 四半刻後、私は言われた通り広間に来た。上座には、正装である狩衣を身に纏った白菊が、私を見下ろしていた。いつもなら大河ドラマみたいだななんて思えるのに、なんでかそういう感想は抱けなかった。
「…ん?今までみたいにここでじゃないの?」
 そう、今までの帰りの儀式はこの広間で「ここに留まる」と言う意を白菊に伝えるだけで済んでいた。なのに……もう、終わりが近いという事か。
「嗚呼、お前ももう十六…裳着(もぎ)の歳だ。だから、今回の儀式が最後の決定打になる」
 裳着…現世で言う成人式。あちらでは二十歳なのに、此方では十六。きっと、普通なら高校で青春を謳歌していただろう歳。そんな歳で、私は今後の人生を左右する決断をしなければならないのか。
「ってことは……次の儀式で全部決まっちゃうってこと?もう、次はない?」
「そういう事だ。その上、そこに俺は一緒には行けない。お前の判断に口出ししたり、お前の判断を鈍らせたりさせない為に、俺はここから動いてはいけないんだ」
 そういう彼の視線の先には、やはり私じゃない誰かを見ている。でも、私はその誰かの正体がなんとなくわかっていた。
「だから、その日までに未練が残らないようにしなさい。御殿に行けば引き返せないからね。残る未練は呪いに成り得る。呪いと成れば砌が危うくなる」
「なるほど……つまり、未練が果たせる今のうちに、好きなだけ口説け、と」
 いつもみたいに、彼に軽口を叩いた。ここで否定されれば、私の予測が間違っていることになる。
「まぁ、そういう事でもあるか。普通逆なんだろうがな……どうした?」
 彼は、神妙な面持ちで頷いた。その顔には、明らかに悲哀の色が隠れている。そして予測は、間違っていなかったようだ。
「いや、ちゃんと受け流さないで聞いてくれたの、初めてじゃない?だからちょっと、驚いちゃって……好きだよ、白菊。本当に」
「そう……夢みたいだな」
 夢じゃなくて、本当なのにな。
「……神様にも、叶えられないものがあってさ」
「え?」
 彼の顔を見る。その瞳には、どこか拭いきれない苦い感情が浮かんでいた。あの日のように。
「俺の心願成就、こればっかりは君次第、なんだよ」
「しんがん……?白菊、それって」
「ほら、おなかすいてきたでしょ?厨行ってきな。夕餉の時間にしよう」
 そういうと、白菊は上座から奥の間へ去っていった。彼を止めようとした私の手が空を斬って、そのまま畳の上に落ちた。どうしてか、その手を放してしまえば、二度と逢えなくなる気がした。
 今はまだ、その手は届かない。




「このまま君の何もかもを、白菊の名の下に隠してしまえたら、どんなに幸福だろう」
 奥の間へ去った後、俺は小さく言葉をこぼした。きっと、砌はあの日の夜に来訪した神の正体を知っている。正確にいえば、俺もあの神を知っているわけではない。多分、可能性があるというだけで。
 あの神は、割と重大な禁忌を犯したらしい。割と、と言葉を濁したのは、それを実行したという前例がないからだ。前例がないから、どれほどの重罪かは誰にも、魄龍にもわからない。アレを天上へもっていけば話は変わるのだろうが、それは魄龍が内密として、この幽世で処理すると報告したらしい。でも、兎にも角にも禁忌である事に、変わりはなかった。
 あの神は、今後俺と深い関りを持つことになるのだろう。だから、俺の下に来た。挨拶をしに来ただけなのか、はたまたもっと深い意味があるのかまでは、わからないけれど。