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『釣りってやったことある?』
彼女から初めて夜に届いたメッセージはそんな文面だった。
随分と回りくどい言い方だ。そして、とても分かりやすくある。だから僕は納屋に閉まった釣り竿を捨ててないことを思い返し、返信した。
『あるよ』
『やってみたい』
『随分と急だね』
『旨い物は宵に食えってことだよ。魚食べれないけど』
『じゃあ、思い立ったが吉日でよかったじゃん』
『正論ぱーんちっ!』
僕と彼女はメッセージのやり取りでさえ、面白みの無い会話だ。絵の海月がコミカルにパンチをしているスタンプが送られてきて、思わず一人で笑ってしまう。
時計に目を向けると、夜の八時をちょうど回ったところだった。釣具店はもう閉まっているし、明日の朝ではまだ開店していないだろう。
渋々、適当な服に着替えて家を出た。なんてことのない時間のはずなのに、すごく新鮮な気持ちになる。見ている景色は夜明け前と違いが分からない。真っ暗で、時折通過する車のライトだけが、ノスタルジックな雰囲気を壊す。けれど、空気が違った。匂いなのか、鼻から吸い込んだ空気はやけに重たく思える。朝の空気はとても軽い。きっと、誰に言っても伝わらないのだろう。
少し歩き、海岸沿いの釣具店に向かう。やっぱりシャッターは降りていた。横をぐるっと回って裏口の戸を叩く。ややあって、向こう側から足音が聞こえてきた。気怠さが伝わってくる不規則な歩調だ。
建付けの悪い古めかしい扉が鈍い音を立てて開く。目元に大きな隈を刻んだ男性が姿を見せた。
「こんな時間に誰だ……って思ったら、なんだ加嶋じゃねーか」
「お久しぶりです。先生」
「……まあ、入れや」
ぼさぼさの髪を掻きながら背を向ける先生。その指先は黒く滲んでいた。
中学三年の時の担任であり、元教師。確か、二十八歳とか言ってたっけ。僕らが卒業すると共に、一身上の都合ということで教員を辞めた変わり者だ。生徒に理由は告げられなかったけれど、僕は先生がなぜ公務員という安定な立場を自ら降りたのかを知っている。
「どした、さみぃから早くしろ」
「お邪魔します」
後ろ手で扉を閉める。
先生の猫背な後ろ姿には、担任だった時の生真面目な雰囲気は残っていない。でも、僕はこっちの姿の方が似合っていると思ってしまう。
何を聞くでもなく、先生は廊下の突き当りの部屋に入る。後に続いて足を踏み入れると、たばこの臭いが微かに鼻につく。木造の一室には似合わない大きなデスクトップパソコンと、付随する機材が最初に目に入る。デスク横に置かれた紙束、横にずらしたキーボード、代わりに正面に置かれた大きなタブレット板。確か、液タブと言うんだったか。先生はパソコン前の椅子に身体を沈めた。
僕はいつもの如く、大きな本棚の横に置かれた藍色のソファーに腰を降ろす。
「最近、来なかったじゃねえの」
「もう四月で高三になりますからね。色々と忙しいんですよ」
「おいおい、もうそんな経つのか。早ぇなあ。進路は決めたのか?」
真っ先に聞くのが進路な辺り、教師癖がまだ抜けきっていないように思える。もっとも、教え子が目の前にいるのだから、当たり前なのかもしれない。
「東京の大学にしようかと」
「双子揃って?」
「志望校は別々なんで、一人暮らしになりますかね。別に一緒に住んでもいいけど、もう大学生ですし」
先生は何を考えているのか、天井の木目をぼんやりと眺め、煙草に火をつけた。ちょろっと開けた窓から逃げるように消えゆく煙。
「大学か。いいんじゃね? 俺が学生時代で一番楽しかったの大学の時だからな。きっと楽しいはずだぞ」
「そうなんですか?」
「まあ、俺も加嶋と同じようにこの町で育って、田舎に飽き飽きして都会に出た口だからな。一人暮らしは気楽でいいぞ。男友達と徹夜でゲームしたり、彼女が入り浸って半同棲みたいになったり、実家じゃ考えられないことばっかりだったな」
随分と懐かしそうに語るけれど、先生からしたらまだたったの数年前の話のはずだ。六年かそこいらなのでは。と思ったけれど、僕だって六年前といえばまだ小学生。妙に納得した。小学生の頃なんて、確かに懐かしい。遠い昔のように思える。
「想像出来ないんですよね、大学生の自分」
「そりゃ、そうだろ。想像出来たら面白くもなんともねえ」
先生は手元の紙に目を落とし、興味無さそうに言った。
「そういうものですか」
「俺だって、教師になったばかりの時は今のこんな自分なんて想像出来ちゃいなかったよ。教え子に言うのもなんだが、教師になったのは言っちゃえば何となくだったからな」
相変わらず、先生は僕の中の教師像というものをことごとく破壊してくれる。
「大人になるって何ですかね」
「おいおい、急に人生相談かよ。俺が担任の時にしてくれよ、そういうの」
「いや、なんというか、恥ずかしいじゃないですか」
先生は短くなった煙草を灰皿に押し付け、窓を閉める。古めかしいエアコンの稼働音が一気に大きくなった。
「分からなくないけどな。俺だって思春期があったわけだし」
「……それで、どうなんですか?」
「大人ねえ……」
先生は考えるように首を傾げた。
「一般的には思慮分別があるとか、心身の成熟ってことなんだろうが、聞きたいのはそういうことじゃねえよな?」
「まあ、はい……」
「じゃあ、俺にも分からん」
あまりにもあっさりと切り捨てられ、あっけらかんとしてしまった。そんな僕を見て、先生が続ける。
「加嶋の言う大半の大人は、自分のことを大人だなんて思っちゃいねえよ。少なくとも、俺はまだ自分のことを大人だなんてこれっぽっちも思わないね」
「どうして、なんですか?」
「気が付いたら、こうなっていただけだ。ベルトコンベアーみたいに流されて大学の四年間が過ぎ、周りを真似して別に熱意もクソも無い教師という職に就いて、まだ学生気分のまま中学生の面倒見て」
先生は少しだけ言い淀んだ。僕をちらっと見て、まあいっかと言うように息を吐く。
「俺も加嶋くらいの時は教師ってどう見ても大人だったんだよ。そりゃ、そうだろ。あんなに来る日も来る日も教養を垂れ流して。どうやっても逆らえないし、こっちが何かすりゃ、聖人君子の如く正論を語って怒って正す。だろ?」
これは頷いてもいいものなんだろうか。
「た、確かに?」
「でもよ、実際に自分がその立場になったら分かるんだよ。結局、ろくでもない人ばかりだってな。俺みたいに人の目気にして、なんとなしになったやつだっていっぱいいるし、飲み会になったら愚痴大会。教師間のいざこざは日常茶飯事。もっと言えば、喧嘩沙汰で逮捕された教師までいやがる。どこが大人なんだよって話だろ?」
これも繕うってことなんだろうか。空気読みの延長。むしろ、学生時代の箱庭生活は社会に出た時の予行演習とでも言うのか。
本棚を目でなぞる。棚一杯に陳列された少女漫画。もう三分の一ほどは読んだだろうか。外では口が裂けても言えないが、読んでみると結構面白い。何なら、少年漫画とか青年漫画より僕は少女漫画の方が好みだ。
脱サラして、実家の釣具店をしながら少女漫画家を目指す人。それが、先生――芦馬恭治というわけだ。
教師の時の風格は薄れ、隈も一層濃くなった。それでもその姿が似合ってしまうのだ。自分を曝け出すって、怖くないのだろうか。もちろん、今の自分が思春期真っただ中で、この気持ちもそれに由来するものだと分かっている。では、この思春期はいつ終わりを迎えるのだろうか。明日か、一年後か、もしかしたら十年経ってもまだ続いているかもしれない。
少し、怖いなと思ってしまった。
一体、僕はどうなりたいのだろう。それすら分からない。迷って、悩んで、立ち止まり続けている。踏み出したと思ったのに、結局その場で足踏みをしているに過ぎない。
だから、逃げるように誰もいない灯台を登った。死にたい、とはやっぱり思っていなかった。でも、僕が死ねば色々と解決するのではないか。その一心があって、傍から見ればそれは希死念慮を抱く人と同じに見えて、だから彼女は「順番待ち」なんて言ったのだろう。
「先生はどうして漫画家になろうと思ったんですか?」
今度は先生と目が合う。
「教師の時、思ったんだよ。あー、このままこの生活が定年まで続くのかってな。想像して、次の日には辞表を出してた。……ただただ、もったいないなあってな」
重たげな瞳が、じんわりと小さな火種を蓄えているように見えた。
遅くなる前に、先生は僕を追い出すように帰した。来た時と何ら変わらない夜道を歩く。やっぱり、ちょっと空気がもたついていた。
帰り際に先生が言った言葉が耳を離れない。
「若い時の苦労は買ってでもせよ。ありゃ、間違いだ。正しくは、若い時の一歩は勇気が無くてもさっさと踏み出せ、だな」
それってつまり、思い立ったが吉日なのではないだろうか。