*

 人生で一番聞いた言葉が何かと問われた時、普通の人はきっと答えられないのではないだろうか。名前かもしれないし、一般的な挨拶、もしくは感謝の言葉かもしれない。どれも当たり前すぎて、抜きんでないだろう。
 しかし、僕には明確に答えが存在する。
 ざわつく教室の左二列目の一番後ろの席。僕は賑やかな教室に入るや否や、誰に声をかけるでもなく、そこを目指した。その道すがら、にゅっと視界に飛び込んでくるクラスメート。

「おっす、おっすー! おはようさん、奏汰」

 そう言い切って、そのクラスメートはようやく間違いに気が付く。いつもの如く、明かる気な表情をぎこちなく崩した。
 そして、決まってみんな、こう言うのだ。

「あ、わりぃ。()()()()。おはような、おとうと」

 その言葉に罪悪感や焦りは少しも見えない。よくあることだからだ。

「おはよう」

 一言残して僕は自分の席に座る。それ以上の会話は空気を余計に濁らせるだけだ。クラスメートも慣れているから、特に言葉をつなげようとはしなかった。
 〝間違えた〟。僕が人生で一番多く聞いた言葉だ。もしかしたら、その次が〝おとうと〟かもしれない。きっと、そうに違いない。
 この二つの原因といえば、もちろん僕であり、もう一人の片割れのせいでもある。

 今度こそ、本物が現れた。

「おいっすー! おはよー!」

 特定の誰かに向けるわけでもなく、とりあえずといった具合に入口で大きな声を出す人物。その声にクラスの全員が気を取られ、何人かが手を上げるなり、挨拶を返した。
 僕の一つ前の席が、その人物を中心に人で溢れていく。賑やかになる集団の多くがいわゆる陽キャというやつだ。しかし、ヤンキーとかギャルみたいなそういう人種は、幸いなことにこのクラスには存在しないから、言葉を訂正するのであれば、比較的明るい人たちだ。
 所謂、素行の悪い人たちは隣のクラスに固められている。担任はもちろん厳しい体育教師。学校側の一括で管理してやろうという魂胆が透けて見える。しかし、一般生徒からすればありがたいことこの上ない。

「奏汰、このアプリやったか? おもしれーぞ!」
「おい、奏汰のせいで彼女にフラれたじゃねーか!」
「ねえ奏汰、一緒にショート撮ろ~!」

 奏汰が来るや否や、クラスに大きな輪が出来る。そして、みんなが一斉に待ってたと言わんばかりに奏汰へとすり寄るのだ。
 言ってしまえば、彼、彼女らは空気を読まなくていい二割の存在。そして、一割はどちらにも属さない灰色を選んだ人たち。この二つの集団が空気を読まない側の人間。
 残りの七割は空気を常に読んでいる。積極的にクラスをかき乱したりしないし、不意に大声を出したくなってももちろん出さない。僕はその七割の人間だ。
 友達がいないわけじゃないし、話題によっては二割の存在からも声をかけられる。そのポジションに立てるように振舞っているからだ。
 当たり前だが、このホームルームまでの暇な時間で、昨日読みながら寝落ちしたライトノベルの続きを読みたくなっても、絶対に読まない。僕がライトノベル好きだと判明したら、それは周りの目が変わるのだ。周りが勝手にそっちの方へと僕を格付けする。だから、学校では絶対に読まない。
 でも、仮に二割の存在がライトノベルおもしれえと言って読んでいても、「似合わない~」とか「オタクじゃーん」と軽く流されて、立場が揺らぐことは無い。ライトノベルを読んでいるという印象よりも、他の印象の方が強いからだ。
 だから、僕は他人に変な目で見られたくなくて、精一杯取り繕っている。多分、みんなそうだ。自分のクラスでのポジションを理解し、その枠からはみ出さないように演じている。無意識に。
 多分、これを俗に協調性と呼ぶのだろう。気持ち悪い話だ。でも、これが普通であって、このクラスだけのものじゃない。どこのクラス、学年、学校だとしても同じ話だ。

 いつ、自分のポジションが決まったのだろうか。多分、小学生の時からだ。もしかしたら幼稚園の時から既にそうだったのかもしれない。結局、人は生まれながらにして他人の目ばかりを気にしている。
 そして、それは成長するに連れて強固なものになっていくのだろう。七割もの人間が蝕まれる思春期の病気みたいなもの。そのはけ口として匿名のSNSが流行るのも納得がいく話だ。リアルな視線が無いから、自分をさらけ出しやすい。大声を出しやすいというわけだ。

「なあ、おとうとー」

 呼ばれて顔を上げる。奏汰と何人かがこちらを見ていた。その中で、坊主頭の栗原が前のめりになった。

「奏汰がさあ、いっつも返事遅いから家で通知鳴ったら言ってやってくれよ」

「いらんこと言うなって。お前がつまらない画像送ってくるのが悪いんだろ?」

「いやいや、これのどこがつまらないんだよ。他の奴はみんな面白いって言ったぞ! なっ、おとうと見てくれよコレ!」

 向けられた画面を見ると、栗原が変顔をして裸踊りしている写真だった。どうなんだろう。でも、僕にとって面白いか、そうでないかは重要じゃない。

「うーん、これは面白くないかも」

 笑いながらそう答えた。

「なぁんでだよぉー!」

 栗原は口を尖らせる。その様子に周りがどっと沸き立つ。
 僕にとって大事なのは、今の状況で栗原と奏汰のどちらが上の存在かということだけだ。だから、僕はたとえそれが面白くても、奏汰に同調する必要がある。これが、空気読みだ。

「奏弟に見せたって同じ反応に決まってんだろ。俺ら、双子だぜ?」

「まっ、それもそうか。お前ら、何から何まで同じだからなあ。ややこしいったらありゃしねえよ」

 栗原が諦めたようにスマホをしまう。

「髪型くらい変えてくれよ。そしたら、見分けがつくのに」

「ばーか。俺は奏弟を敬愛してんだよ。だから、真似してるんだっつーの。おら、お前も敬え! おとうとじゃなくて、奏弟さんと呼べ!」

「そんなら同じ髪型は不敬だろー! あっ、いっそのこと染ちまおうぜ。奏汰イケメンだから金髪とかいけるべ!」

「えっ、奏汰が金髪!? うそ、見て見たいかも!」

「ほら女子もこう言ってるし、やるべ!」

 こうなれば、僕の役目はおしまいだ。図々しく会話に残り続けるなんてことは、空気読みの達人はしない。求められた時だけ参加し、話題が変わったならばすぐに何も言わずに退場、その場から目立たないようにフェードアウトするのだ。

「おもっくそ校則違反だっつーの! 栗原がやれよ。そうすれば栗きんとんじゃん!」

「俺は髪ねえんだよ! つか、誰が栗きんとんだごらぁー!」

 始業のチャイムが鳴る。ほぼ同時に教室の引き戸がわざとらしく大きな音を立てて引かれ、担任がプリントを抱えながら顔を見せた。

「おーい、早く座れー。今日は山ほど連絡事項があるんだ。ほら、栗原席に着け」

「なんで俺だけなんだよ、せんせぇー!」

 ちょっとした笑いが巻き起こり、視界を遮っていた集団が散り散りに席へ戻る。
 静かになり始めた教室にもう一度やかましい音が響く。ガラッと勢いよく戸が開けられ、滑り込むように一人の女子生徒が教室に入って来た。

「せーふッ!」

 後ろ窓からの日差しを存分に受け止め、彼女は大きく息を吐いた。ぱっと教室の空気が明るくなったのがよく分かる。男子が奏汰ならば、女子の中心は彼女だ。
 小柄な体格だというのに、この教室における彼女はとても巨大だ。どこにいてもすぐに見つけることが出来る。なぜなら、人が多く固まっているその渦の中心に、決まって彼女がいるからだ。男女問わず目を惹くあどけなさと美貌を兼ね備えた容姿と天真爛漫な性格が、彼女に相応しい立場を設けている。奏汰と彼女だけが二割のさらに一握り、お立ち台の上の存在なのだ。

「アウトに決まってるだろ、秋永」

 担任は彼女へと向いた教室の意識をプリントの束で教卓を叩いて引き戻す。

「はーい!」

 彼女は悪びれもなく返事をすると、僕の後ろを通り過ぎ、そのまま一番左の列のこれまた一番前の席へと着いた。

 名前順で並んだ僕の前の席には奏汰が座っている。きっと、みんなから見た僕の後ろ姿もこんな感じなんだろう。なんせ、背格好も全く一緒なんだから。
 僕と奏汰とまるっきり同じ。果たして本当にそうだろうか。僅か一分差で生まれ、外見的特徴はほとんど一緒。まさに鏡映しのようだ。

 じゃあ、なぜこんなにも差が生まれたのか。七割の僕と、二割の奏汰はどこで分岐したのか。きっと中学からだ。奏汰は明確に変わった。二人だけの空間に、気が付けば奏汰の周りには人が集まって、僕はその群れの一歩外でついて行くようになっていた。僕と奏汰が一緒にいれば、まず声をかけられるのは決まって奏汰だ。そして、流れるようにセットで僕にも意識が向けられる。
 嫌というわけでは無かった。別に今のポジションが気に入ってないわけじゃないし、これが最適解だと分かっているのだから。

 でも、一つだけわだかまりは存在する。こんなことを気にする自分は大嫌いだ。ちっぽけで、どうでもいいことのはずなのに、どうしてももやもやが溜まる。

「聞いてくれよ、おとうと~」

 ほら、まただ。

「奏汰がさ――」

 人は誰しも、不具合を抱えている。僕の場合、それが外見に現れなかっただけまだましなのかもしれない。
 多分、顔は良い方なんだと思う。誰かに直接言われたとか、告白なんて奏汰と間違ってされたことしかない。じゃあ、なんでましだと思うのか。なぜなら奏汰がカッコいいらしいからだ。
 僕の不具合は双子だったということかもしれない。双子が何もかも同じで生まれる? そんなわけない。どちらかに偏るのだ。そして、僕は偏らなかった側だ。
 つまらない嫉妬・劣等感だけが積もっていく。
 全てが奏汰の劣化版。何をとっても奏汰より上に行くことはない。

 どうして、僕は〝おとうと〟なんだ。あだ名なのは分かっている。奏弟という名前にその漢字が入っているのだから。でも、どうしても僕には別の意味に聞こえてしまう。お前は二番煎じだと言われているように捉えてしまう僕はおかしいのだろうか?
 僕は奏汰の兄で、奏汰は僕の弟なのに――。