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 彼女と別れ、すぐに家へと帰って着替えた。
 制服が妙に懐かしく感じる。たかだか十日ぶりなのに、どうしてそう思ったのだろうか。
 人として成長したからとか、きっとそんなんじゃない。喉が締まるような息苦しい緊張の現れなのだろう。
 彼女には明日、一緒に学校へと戻ろうと話しておいた。これは僕が乗り越えなきゃいけない問題だ。変われたことを証明するためにも、独りで立ち向かう必要がある。

 勾配のある坂道に汗が滲む。もうすっかり夏日和だ。
 学校までの道のりって、こんなに長かっただろうか。張り詰めた意識のせいで、余計にそう感じた。
 正門の前で立ち止まる。ちょうど昼休み時だ。こんなにも学校が怖いと思ったのは小学生の時以来だった。でも、このまま大切な人が僕のために犠牲になり続けるのが、自分自身が変わることが出来ないことの方が、何よりも恐ろしい。

 何も考えないでここまで来てしまったからこそ、足が竦む前に進むことが出来た。

 下駄箱で靴を履き替え、一つ深呼吸。口の中がやけに乾いて気持ち悪い。
 すれ違う同級生たちは誰も声をかけてこない。きっと、僕のことを奏弟だと勘違いしているのだろう。瓜二つの顔立ちだから当然のこと。それに、ずっと無断欠席している奴が、ふらっとこんな時間に登校してくるとも思わないだろう。
 気が付かれないのは都合が良かった。きっと僕だとバレれば、寄ってたかって質問攻めにあって当初の目的どころではなくなってしまう。
 そっと教室を覗く。入り乱れるクラスメートの中、いつもの席に奏弟が座っていたのを見て心底安堵した。やっぱり、僕がいなければ芹沢が奏弟を呼び出すこともない。
 だから、彼女の手を取ったわけだし、あの日、灯台に登った。逃げるのが最善策だと思っていたから。
 でも、それじゃ駄目なんだ。彼女の隣を歩くためにも、奏弟に償うためにも、僕は逃げるわけにはいかなかった。

 バレないように教室を素通りし、隣の教室の扉に手をかける。ガララッといつもより大きめな音が立つ。扉を開くのに戸惑いは無かった。少しでも躊躇すれば、動けなくなるのは自分が一番よく知っていたからだ。
 教室内から向けられる視線に背中を嫌な緊張が伝う。
 数ある視線の中、僕は窓際で取り巻きと談笑を交わす大柄な人物に向かって一歩を踏み出す。静けさを帯びていく中で、ひそひそと誰かが僕のことを喋っている気がした。

 その大柄な人物は僕を一瞥すると、そっぽを向いて取り巻きとの会話を続ける。
 僕は真正面まで近づいて、椅子に座るそいつを見下ろす。

「ちょっと、話があるんだけど」

 思ったよりもすんなり声が出た。学校という存在と、彼女がいないことで僕はまた演じている。だから、芹沢にも問題なく話しかけることが出来た。
 話し方と態度からようやく僕だと認識したのか、芹沢が訝し気な面持ちを浮かべる。それどころか、教室中がざわついた。どうやら、僕と彼女の件は少なくとも学年中には広まってしまっているらしい。

「……何だよ?」

 気怠そうに芹沢が言った。
 怖くない。演じれば、それは僕にとって周りから自分の身を守る鎧だ。小学校を卒業してからずっと纏ってきた。
 しかし、この外面のせいでまた僕は奏弟に迷惑をかけてしまっている。大切な人を僕が傷つけてる。しかも、肝心な時に素の自分が出てしまって動けなくなるからたちが悪い。

 結局は、僕は自分がいちばん大切だった。だから、自分のために大事ないのちをかけるつもりで演じてきた。小学校の時も、今も、心の内では大切だと思っている奏弟を見捨て続けてしまっている。僕のために身を挺してくれているというのに。
 僕は弱くて、どうしようもない人間だ。こんな姿のまま彼女と歩み続けていいはずがない。奏弟とも、しっかりと向き合いたい。その結果、いちばん大切な自分が不幸になったってかまわない。今なら心からそう思える。
 自己犠牲なんかじゃない。ただ、今までの清算をつけるだけだ。

 僕は芹沢を教室から連れ出した。二人きりで話がしたいからと伝えると、芹沢は素直に一人でついて来た。

 僕が学校に来ていると広まってしまう前に二人で校舎を出て、体育館の裏手に向かった。昼間だというのに校舎の影に阻まれてやけに薄暗い。なるべく木漏れ日が注ぐ明るい場所を選んで芹沢と向き直る。
 目の前の芹沢が息を呑むのが分かった。やっぱり、彼もある意味では被害者なのだ。

「さっさと話せよ……」

 正面から芹沢と立ち会うと、急に息苦しくなった。
 頭の中で記憶がフラッシュバックする。
 その日、僕はたまたま奏弟が芹沢とその取り巻きと歩いて校舎を出ていくところを見た。嫌な予感は当然のように当たってしまった。その暴力的な光景が、小学校の時の記憶と結びつく。どうしても身体が動かなかった。刻み込まれた恐怖が、僕の鎧を簡単にはがしてしまう。

 だから、今も僕は芹沢のことが怖いんじゃない。僕はただ、過去に怯えているんだ。楔のように打ち込まれたそれが、僕から声を奪う。

「いつものうざってぇ態度はどうしたんだよ」

 きっと、芹沢が僕を嫌う理由は同族嫌悪だ。彼もまた、小学校を卒業したその日から演じている。茅野智が転校してくるまで、彼は元々いじめっ子というわけではない。体格が良い元気な性格の至って平凡な小学生だった。
 しかし、芹沢にもまた僕と同じように忘れがたい苦痛の釘が刺さっている。ただ、繕い方が違っただけだ。僕はとにかく人から支持を得られるように。芹沢は人に恐れられるように。もう、誰かの好き勝手にされないように鎧をつくった。

「お、俺は……」

 頭が真っ白になった。情けなく開いた口は小刻みに震え、視界がぐらりと揺らぐ。
 やっぱり、人はそんな簡単に変わることは出来ないのだろうか。

 その時、校外放送用のスピーカーからぶつっというノイズが漏れる。

『あー、あー。これ入ってるの?』

 その声を聞いた時、やっぱり僕は彼女には敵わないなと思った。僕のことは全部彼女にお見通しだ。
 そしてもう一人、僕のことを何でも分かっている人がいる。スピーカーから彼女の声が聞こえると同時に、校舎の影から奏弟が飛び出す。その瞳がまっすぐに僕を捉えていた。

「――奏汰!」

『大丈夫だよ! 君ならやれる! 私がそう言うんだから、絶対に大丈夫!』

 二人は僕にとってのヒーローだ。今までも、これからも。
 僕だって、二人にとってのそんな存在になりたいんだ。

 芹沢を見上げる。目を合わせると、彼はぎりっと歯を鳴らして目をそらす。

「僕は芹沢に言いたいことがある」

 大丈夫。怖くない。いつまでも怯えたままじゃ、僕の言葉は芹沢に届かない。

「な、なんだよ……」

 本当、僕と彼は一緒だ。

 僕はすっと頭を下げた。

「あの時、一緒に茅野と戦ってやれなくてごめん。助けようなんて少しも思わなくて、ごめん」

 見て見ぬふりは加害者と同罪だなんて、あの恐怖を経験した僕たちは口が裂けても言えない。だけど、それでも僕は謝りたかった。

「な、何を言って……」

 茅野の名前を聞いた途端、芹沢が狼狽したように顔を歪める。そこに普段の暴力性はもう見えない。

 一番最初に標的にされた芹沢を見捨てたから、僕たちのクラスは茅野の意のままになった。誰も、口を挟めなくなった。

「芹沢は悪い奴じゃないって、僕たちはみんな知っていたのに。それでも虐められる君に誰も手を差し伸べなかった。もちろん、僕も……。だから、ごめん」

 今の芹沢はとてもじゃないけれど良い奴なんて言えない。だけど、昔の彼を僕は知っている。男子の中心で、人気があって、誰に対しても分け隔てなく接していたあの頃を。
 僕が無意識に演じていたのは芹沢だ。彼が真っ先に茅野に狙われた理由は体格だけじゃない。単純に目立っていて、クラス内の権力が高かったからだ。しかし、茅野を尻込みさせるほどのものじゃなかった。だったら、僕は芹沢以上に誰からも信頼されて、いざという時に仲間になってもらえる存在になればいい。そんな浅ましい思いだった。
 だからこそ、彼は僕のことが気に入らないんだ。昔の自分を見ているみたいで、うっとおしく映った。

「い、今さらそんなこと言ってんじゃねえ! あいつの名前も出すな!」

 僕はずっと芹沢の目を見続けた。彼が僕と向き合わなくても、僕は彼に真っすぐでいるべきだ。

「言いたかったのはそれだけだよ」

 芹沢の横を通り抜ける時、もしかしたら殴られるかもしれないと思った。しかし、彼は何もしてこなかった。

「クソッ……!」

 背後で響いた芹沢の声は、苛立っているというより困惑しているように聞こえた。
 ちゃんと言えた。伝えられた。そう思った瞬間、身体の力が一気に抜けて足下がおぼつかなくなる。ふらつく身体が、誰かに支えられた。

「奏汰……」

 僕のヒーローだった。

 芹沢の姿が見えなくなると、僕はその場に倒れるように膝をついた。心臓はまだうるさいくらい高鳴っている。
 奏弟がしゃがみこんで僕の顔を覗き込む。そして、こう言った。

「ありがとう……」

 思わず笑ってしまった。だって、それは僕が奏弟に言うべき言葉だ。僕が感謝されるなんて、どう考えてもおかしい。
 だから僕も同じ言葉で返そうと思う。

「ありがとう、奏弟。いつも、いつも。色々。たくさん。本当にありがとう」

 伝えたいことが多すぎて、そんな言葉しか出なかった。でも、僕と奏弟は双子なんだ。だから、これくらいでちょうどいい。全部、伝わるはずだ。

『よくやったー! やっぱり、君は強い! ちゃんと変われてるよ、奏汰くん! あっ、名前言っちゃった……』

 スピーカーから彼女の声が流れてくる。
 放送室から見えていたのか。そんなことをぼんやりと思って恥ずかしくなる。
 奏弟を横目で見ると、彼もまた僕を見ていた。
 二人して同時に笑みが零れ落ちる。木漏れ日の中、僕と奏弟はいつまでも笑い合った。